踊れ踊れ、世界の中で
間川 レイ
第1話
「世界は舞台、誰もが役を演じなければならぬ」
なんて、シェイクスピアは言ったけれど。
ならば私はいったいどんな役を踊ればいいのだろう。そんなことをアルコールに浸されたぼんやりとした頭で考える。
目の前には今まさに空になりつつあるショットグラス。アロマキャンドルのゆらゆら揺れるバーカウンターの向かい側からは、マスターの心なしか気遣わしげな目線。飲み過ぎじゃないのか、みたいな。
確かに今日は飲みすぎたかもしれない。そんなことをアルコールの混じった吐息を吐きながら考える。何せ、何杯のショットを空けたのかすら覚えていないのだから。今日はこの辺りが頃合いか。そんなことを考えながら、
「マスター、おあいそ」
と声をかける。どことなくホッとした様子のマスターが銀盆に乗せて持って来た伝票にいささか高いなと目をむいてみせる。まあ、それだけ飲んだということなのだろう。そう言い聞かせながらも伝票と引き換えに連れていかれる数枚の諭吉をじっと見送ってしまうあたり、我ながら未練がましい。
「どうぞ」
そう言って差し出されるコートをお礼を言って袖を通し、
「またのお越しをお待ちしております」
の声に背中を押されるようにして外に出る。外はアルコールで熱った身体ですらかじかみそうなぐらい寒かった。思わず身震いを一つ。懐からピンク色のラメの入った煙草のパッケージを取り出すも、指先が凍えて上手くつまめない。
何度か試行錯誤してようやくつまめた煙草に、形見分けでもらったジッポのライターで火をつけ、燻らす。脳を蕩かす紫煙の香りが、寒さに強張った身体をほぐしてくれる。
それにしても、と。煙草をぷかぷかふかしながら考える。どうしてこんなことに、と。こんなはずじゃなかった。脳裏によぎるのはそんな言葉。こんなはずじゃなかったのだ。
本当ならある程度の単位も納め終わって、他の子たちと同じように就職活動に勤しみ、そこそこの企業に入り、ゆくゆくは家庭を持って、奥さんとして、お母さんとして満ち足りた生活を送るはずだったのに。それがどうしてこうなった、なんて。考えても栓なきことを考えてしまう。
全てが狂い出したのは、私が大学に行かなくなるようになってから。前日の深酒が原因で昼間過ぎまで寝ていて、昼過ぎに起きたら少しだけアルバイト。アルバイトが終わり次第アルバイトで稼いだお金を担いで飲みに出る。そんな毎日。
それでも近頃はアルバイトに出かけることすら億劫で、そのアルバイトですらサボりがち。首になるのもそう遠い未来の話ではないだろう。それでもお酒は飲みたいから、私はついには仕送りにまで手をつけた。これで教材でも買いなさいと言って渡されたお金たち。たくさんのアルコールと少々のおつまみに化け、大量の内臓脂肪となって定着した。
昔は違った。昔はもっと真面目に生きていた。真面目に学生をしていた。きちんと全ての授業に出席していたし、席はいつだって最前列。授業の前後には必ず先生に質問して、予習復習だってしっかりとこなしていた。勿論小テスト、定期試験だって手を抜かない。徹夜こそしなかったものの、夜遅くまで大量のノートと専門書と格闘を繰り広げた。
だって、私には夢があったから。他人に言えば些細な夢と笑われるかもしれない。それでもその夢は私の子供の頃からの夢で、どうしても叶えたいものであったから。それは私の目標だった。生きる目的と言っても過言ではない。だからこそ私は頑張った。一生懸命努力したのだ。
だけどいつからだろう。その夢を叶えるハードルが非常に高いということに気づいてしまったのは。今のままではどれだけ頑張っても、夢を叶えられそうにないということに気づいてしまったのは。
それでも私は頑張った。泣きながら教材に向き合った。髪がストレスで抜けるようになっても頑張ったのだ。それこそなにを言っているかわからない授業に出るのが嫌で、朝トイレでゲロゲロ吐こうとも。だけど私の実力は全然上がらなかった。立ち塞がる壁は依然として分厚いまま。
そんな折だった。私がアルコールと出会ったのは。最初は気晴らしのつもりだった。お酒を飲むことで少しでもこの気持ちが晴れないか、なんて。でもお酒は、あまりにも美味しかった。美味しすぎた。
それにお酒は、飲めば幸せになれた。ポカポカとしてきて、愉快になって、世界がとても美しいもののように思えた。それに酔いが進むと明かりが虹色に滲み出す。青、赤、黄、緑。万華鏡の様に世界は回り出す。その時世界はため息が出そうなぐらい美しくて。とても素晴らしいものの様に思えた。生きている価値のあるものの様に、錯覚することができた。
それに、その時に聞く推しの曲の圧巻なこと。音の一粒一粒がはっきりとクリアに聞こえ、心に染み入ってきた。シャウトが、ビートが心を揺らす。大音量で聴く透き通る推しの歌声は、またライブとも違っていて。推しがすぐ傍にいる様に感じられた。音楽を聴いて初めて泣いたのも、アルコールが入っている時のことだった。
だからこそ私は、お酒に夢中になった。毎晩毎晩お酒を飲んだ。それこそ、足腰が立たなくなるぐらいにまで。
救急隊員のお世話になったのも一度や二度ではない。お酒と向き合っている時は幸せだったけれど、酔いが覚めると現実と向き合わなければならない時間となった。このどうしようもない、救いようのない現実に。
それが嫌で、私は常にお酒を飲むようになった。お酒を飲んでいる間だけは、嫌なことも辛いことも忘れられていたから。幸せでいられたから。だから私はお酒を飲んだ。溺れるように。すがるように、お酒を飲んだ。お酒に飲まれた。
その成れの果てが今の私。そこまで考え、ははっと私は小さく乾いた笑みをあげる。何者でもない私。何者にもなれなかった私。そこまで考え、今日の煙草はやけに染みるなと目を擦る。でも擦っても擦っても、夜空に輝くネオンは滲んだままで。
私はネオンに滲む夜空を見上げる。雲ばかりが広がっていて、月明かりさえ見えない。これがきっと、私の終着駅。何者にもなれぬまま、1人寂しく死んでいく。誰にも看取られることもなく。そう考えるだけで心に冷たいものが広がっていく。さながら、氷水をバケツで流し込まれている様に。だが、これが私の選んだ道なのだ。
それは他人からしてみれば喜劇だろう。身に合わぬ大それた夢を見て、1人で勝手に挫折して1人寂しく朽ちていく。それはさながらピエロだ。だが私にとっては。
そこまで考え首を振る。考えても仕方のないことだと。踊りに踊って、たどり着いた道の果てがここなのだから。きっと私は変われない。変わる余地がない。だから私はこれからもお酒を飲むだろう。飲みに飲んで、踊り続ける。やがて踊れなくなるその日が来るまで、なんて。だから殊更に声を明るく作っていうのだ。
「さて、二軒目はどこに行こうかな」
そして私は歩み出す。
後に、踏み潰された吸い殻だけを残して。
踊れ踊れ、世界の中で 間川 レイ @tsuyomasu0418
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