第40話

  2004年、東京都の歌舞伎町浄化作戦が始まった。街中に無数の監視カメラが設置された。違法風俗店、不法滞在外国人の検挙が厳しく行われるようになった。

グレーゾーンで生活していた連中はさらに地下に潜る者、この街から離れる者、業種変更してなんとか生き延びようとする者とで街の景色が一変した。

僕はこの頃、ひっそりと雑居ビルの一室でアングラのカジノバーを経営していた。もうアングラ稼業はやらせないという決意を感じさせる石原東京都知事の歌舞伎町浄化作戦だ。

歌舞伎町が大きく変わろうとしていた時だ。

カジノバーの売上を取りに、人もまばらな昼間の区役所通りを歩いているときだった。通りの反対側から僕の名前を呼ぶ声が聞こえる。

詠美里ママだ。ママが手を振っていた。

「久しぶりだねー 哲也」

「ママ、久しぶり!なにやってるの?」

僕は車が一台も走っていない昼間の区役所通りを横切り、ママのいる方へ駆け寄った。

「今、宝石の卸とね、すぐそこで雀荘やってるのよ。クラブは閉めたよ。ワガママな女を使うのは疲れるよ。客も戻せないくせに文句ばっかりでさ。雀卓は文句言わずに働いてくれるからね」

ベースボールキャップを目深に被り、スエットにスニーカーの彼女が笑った。 

「ああ、そうそう。与後が自殺したのって哲也、知ってる?お金貸してくれって与後から連絡来なかった?」

――与後社長が自殺した?

「六十過ぎて畑違いなことはしないほうがいいよ、あんな連中に関わるなって、何度も言ってやったんだけどねぇ」

ママは寂しそうな顔でバックからラークマイルドを取り出した。僕に出資した十円ゲームの稼ぎに気を良くしてか、歌舞伎町は簡単に金が儲かる街だと思ったみたいなのだ。歌舞伎町には金になる話がゴロゴロあると思ったのだろう。ママの知らない歌舞伎町の住人たちとも社長は付き合うようになっていった。

要は詐欺にあったのだという。道路の標識や白線、高速道路のスピード表示や事故の情報を出す電光掲示板など道路全般に関わる話だったらしい。その取り巻きの関係者を社長がママの店に連れてきたときのことだ。

この街の住人の人間観察力は伊達ではない。ママは胡散臭い連中だと瞬時に思ったという。バブルも弾けて社長の本業である土建業もうまくいかなくなっていた。国からの仕事だ、失敗するハズがないと大乗り気に社長はなっていたという。

多分、最初は乗り気だったのだろう。しかし、あの性格だ。途中からおかしいな?と思っていても断りきれずダラダラと付き合ってしまったのだろう。逆に出資した金額が大きければ大きいほど、その話から降りられなくなってしまう。出資した金を取り戻したくて、また追加の出資をしてしまう。

その金を取り戻したくて、言われるがままに金を出してしまう。

よくある話だ。海千山千の詐欺師集団からすれば社長は美味しくてしょうがない獲物だったはずだ。土建屋のことしか知らない気のいいオヤジだからだ。挙句の果てには、競走馬を買わされるはめになり北海道まで頻繁に行っていたらしい。

最後は杉並の四億の家は取られ、会社も倒産し多額の借金が残ったという。奥さんとは、七十歳超えてからの離婚。その奥さんも借金やトラブルで心労がたたって入院、その後亡くなったのだという。

ママの店に十円ハゲがいっぱいできた与後社長が金の無心にくるようになった。痩せこけた顔で「二万貸してくれないか?三万だけでも貸して欲しい」と来るようになったという。断ろうものなら、「お前にいくら金を使ったと思ってるんだ!」と店の中でママを怒鳴り上げることもあったみたいだ。それで、社長のことを「与後」と呼び捨てにしているんだ、とママは笑った。

しばらくして社長のことをよく知る客から社長が自殺したという話を聞いたのだという。

「――人生ってわからないもんですね」

僕は、目を細めてショートホープを吸いながら笑う与後社長を思い浮かべた。

THE土建屋というイカツイ風貌には似つかわしくない、気の小さな優柔不断な社長の姿を思い返した。

青森から上京して死に物狂いで頑張って働いて、杉並に豪邸を建てた。

酒が入るといつも、「男に生まれたからには一度は家を建てろよ」と笑う与後社長の笑顔に胸が熱くなる。

――最期の最期に自殺か

「人生なんてさ、哲也。最後の最後までわかんないんだよ。今の自分が立っている位置のツジツマは過去を振り返れば合うんだけどさ。一秒先は真っ白なんだよ。未来はなにも決まってないんだよ。わたしだって、そこの靖国通りを渡るところで、これから事故にあうかもしれないしね。そんなこと言いだしたら、ここから動けなくなっちゃうかあ」

今にも雨が降りそうな曇空、入梅の六月。

昼間のガランとした区役所通り。

僕は形容のしがたい、鈍く濁った低い空を見上げた。

ママがポツリ、ポツリと話し始めた。モツ鍋やステーキハウスを手広くやっていた社長がいたという。狂牛病問題が発生して、会社は倒産。持ち家を売却しても多額の借金が残ったという。本当の一文無しになった。

しかし、奥さんと二人、寝る間も惜しんで始めた十人も入ればいっぱいになるような立呑屋が大ヒット! 

その奥さんは、以前ママの店で働いていた女の子なのだという。

今じゃ三店舗の立呑屋を経営して見事に復活しているという。

本当に自殺まで考えた、どん底から人生をひっくり返した人なんてザラにいると話しながらママはタバコに火をつけた。

会社が倒産していろいろな事情から自分が代表になれず、No.2の人間を代表に置き大逆転した人も知っていると彼女は笑った。

落ちても這い上がってくる連中には、年齢や時代背景、環境なんてのは関係ないよ、ヤル奴はヤルんだよ、いつの時代も!と与後社長が自殺を選んだことへの怒りをぶつけるかのように、彼女は語気を強めた。

「哲也、タフに生きようぜ!逞しく生きぬいてやろうぜ!また機会があれば一緒に仕事がしたいね」とママはニコッと笑いながら僕の胸を叩いた。



 バブル崩壊後、経済界、銀行業界も揺れに揺れた。合併、統合、再編と連日ニュースで取り上げられていた。

桃子が言っていた「天下の富士銀行」の看板も下ろされたのだ。

泣きながら「鉄板の人生」だと言った彼女の言葉はずっと僕の胸の奥底にある。

人生なんて本当にわからないものだ。

今までにも、さんざん擦り切れるくらい言い回されたフレーズなのだが、この言葉が僕の身体の中の中心にある。



 僕は今、髪を切ってもらっている。

「背中、起こしますね」

マスターがゆっくり背もたれを起こした。

古ぼけたラジオからAM放送が流れている。

「コロナ、コロナ、今年は大変な年やで。オリンピックは延期になるし、治療薬もまだないんやろ?去年の今頃、2020年の今年がこんな年になるなんて誰が予想できた?人生なんてわからんもんやで。ホンマ、人生なんて何が起こるかわからんよ。

後輩の芸人も仕事はなくなるわ、家のローンは払われへんわで大変や。

不倫とか薬物で仕事が無くなるのはしょうがないわ。自業自得やんか。

けどなぁ、なんも悪いこともしてないのになぁ。一生懸命、長い間下積みを辛抱して頑張ってきてやで、やっと売れてやっと仕事が入るようになってきた矢先や。これはないでぇ、かわいそうやわ。

けどな、人生なんてわからんもんや、なにが起きてもおかしくないって言うたやろ?それやったら逆にな、大逆転するような奇跡が起きても全然おかしないって話やで」

関西の人気お笑い芸人がまくし立てるように話している。それに合わせて女性アシスタントも「うん、うん」と頷いている。

お笑い芸人は話を続ける。

「しかしなぁ、朝のワイドショーなんかでな、コロナ感染で大変なときやからみなさん、前を向いて頑張りましょうって言うやんか。

前ってどっち? 右も左も、前の後ろもコロナやで」

未来は白紙だ。今を乗り切れば、ギブアップしなければ逆転ホームランを打つ打席がいつの日か巡って来るかもしれない。

ギブアップすれば、そこでゲーム終了となる。

青臭い言い方だが、負けを認めさえなければゲームは続行されていく。

自分の可能性を信じてやろう。未来に向けて、しぶとく往生際の悪い勝負を挑んでやろう。

まだまだ諦めるな、気持ちだ。強い気持ちだ。

そんなことを僕は自分に言い聞かせていた。



 マスターは腰をかがめて僕の頭を丁寧に見ながら最終チェックをしている。

ハサミを持ち替えてチョキチョキと気になるところを調整している。いつもの三面鏡を広げて後頭部の刈込み具合を見せ「いかがですか?」と僕に尋ねる。

そして、

「――瀬野さん、前って気持ちですよね、キモチ」

正面にある大きな鏡の中で、マスターが静かに笑った。




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2020年、春に届いた1980年代~の歌舞伎町からの便り 凌 伍壱 @norahi

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