第39話

  10円ゲーム喫茶・ダッシュは大当りをした。それを元に風林会館の斜め前に二号店、区役所通りのバッティングセンターの近くに三号店を出した。

三軒の売上がいいときには、月末には新車のレクサスがキャッシュで二台買えるくらいの金が僕の手元にくる。住んでいたマンションも初台に引っ越しをした。

エントランスには重厚な応接セットがあり、正面の壁には富士山から太陽が顔を出す、立派な日本画が大きく飾られている。

そこで、テレビで見かけるグラビアアイドルが、誰かと待ち合わせをしているのを何度か見かけたことがある。真昼間に、人気お笑い芸人とエレベーターで一緒になることもある。

明け方まで飲んだ日、千鳥足でタクシーから降りてマンションに向かうと、ゴルフなのか?愛人宅から出てくる親分待ちの、お迎えの若い衆が四、五人が道に並べた黒塗りの車の前で、整然と並んでいることもある。

車の中からリモコンでシャッターを開けられる駐車場には、ベントレー、ポルシェ、メルセデスと高級車が並ぶ。

そこに、運転の下手な免許を取って間もない僕は事故ってもいいように、と初心者マークを貼り付けた中古で買った、日産・シーマを並べた。

家具はカーテンからベットまで伊勢丹で揃え、家電は『さくらや』でまとめ買いをした。さくらやのシルバーのポイントカードの中のポイントが一気に増えた。

広々とした浴室と浴槽が気にいってこの部屋に決めたのだ。

ビールと缶コーヒーしか入っていないのに、550Lの冷蔵庫を買った。

キッチンカウンターの背後の壁一面には、皿一枚入っていない木目が綺麗な大きな食器棚。寝室には、キングサイズのウォーターベット。

リビングには、どっかりと置かれた黒皮の大型ソファに大型テレビ。

エアコンは天井に埋め込まれ、角部屋の2LDKはすべて窓に覆われている。

ここで桃子と一緒に暮らすつもりでいた。彼女をびっくりさせるために、この豪華なマンションに引っ越したことは内緒にしていた。

料理をするのが好きな彼女の食材がいくらでも入れられるようにと、バカでかい冷蔵庫を置き、食器を集めるのが大好きな彼女と二人であちこちで買い集め、この大きな食器棚をいっぱいにするつもりでいた。

桃子がいつも見せてくれる「喜びの舞い」という、ペロっと舌を出して、両手を広げて身体をクルクル回転させる、見るたびに笑ってしまう不思議な踊りを思い浮かべ、無意識に顔がニヤけてしまう。

この部屋で、結婚を前提にした同棲を始めようと彼女に伝えるつもりでいた。

二ヶ月くらい桃子と会っていない。電話で声は聞くのだが、顔は見ていない。彼女は新宿のキャバクラから六本木のクラブに移っていた。新宿のキャバクラより良い条件で六本木に誘われたみたいだ。

僕も夜な夜な、毎日のように歌舞伎町で飲んでいた。周りからゴルフに誘われることも多くなり、二人で会う時間も無くなっていた。



 新宿にはいろいろな顔がある。

東口からは歌舞伎町へ流れていくのだが、南口になると夜は人通りが少なく街も暗い。高島屋ができてからは明るく活気のあるおしゃれな街並みになったのだが、当時は場外馬券場とポルノ映画館。ヤクザ映画専門のような映画館。

営業しているかどうかわからないような怪しげな風俗店が目に付くくらいで猥雑な雰囲気しかなかった。

西口になるとガラッと雰囲気が変わる。

高層ビルが建ち並びエグゼグティブなビジネスマンが胸を張って街を闊歩している。高層ビルの足元には電気街が広がり、東口や南口とは吹き抜ける風の質さえ違うのではないかと思うほど街の顔が違う。

今夜、西口にある韓国料理・焼肉の『明月館』で桃子と待ち合わせをした。十二月に入り街はクリスマス一色だ。

キラキラと眩く点滅を繰り返すイルミネーション。店先に並ぶポップなクリスマスツリー達が通りを盛り上げている。

焼肉と言えば、僕と桃子の中では明月館だった。

老舗の凛とした佇まい。初めてここへ来たときに出てくる料理のあまりの美味しさに僕と桃子は舌を巻いた。

体重のことばかり気にして肉をあまり口にしなかった彼女が(喜びの舞い)を僕に見せて、旨い旨いとハシャギながらバクバク食べたのを覚えている。

僕が小菅(東京拘置所)から出てきた時に、出所祝いだと彼女に奢ってもらった焼肉もこの店だ。

僕は先に店に入り案内された席でビールを飲みながら彼女を待った。

数分遅れで桃子がドアを開けた。

ツヤのある長い髪を肩まで切った桃子が笑う。黒のフードのついたコートを腕に抱え、淡いピンクのざっくりとしたセーター。白のスキニーのデニム、ビィトンの巾着バックを持った桃子が手を振りながら、僕が座るテーブルへやって来た。

「久しぶりだね!そのフィッチェのセーター見たことないよ。買ったの?」

席につくなり僕の着ているセーターをどこで買ったのか?値段はいくらなのか?

彼女は、いつだって僕の些細な変化を見逃すことはない。逆に僕は、彼女の変化にいつだって気づくことはなかった。髪色を変えたことや、アクセサリー、そして人生観でさえも。

僕はナイショだと笑って答えた。

「十二月の風の匂いってさ、毎年ふと小菅のこと思い出しちゃうんだよね。メッチャ泣いたもんなぁ。一生忘れられないのかなぁ」

桃子はオシボリで手を拭きながら笑った。

ウエイトレスが注文を取りに来た。僕は、肉は適当にオキマリのユッケとカクテキとレバ刺し、それとビールを注文した。

「私はウーロン茶お願いします」

「あれ?ビールじゃなくていいの?」

僕はビールを飲みながら彼女に尋ねた。

「いいよ、後からで。ねぇねぇ、覚えてる?この店で二回、私が奢ってあげてんじゃん、哲ちゃんに。小菅から出てきた時と、その前の一回のこと」

「覚えてるよ。桃子の誕生日プレゼント!ロレックス質屋ぶち込み企画のときだよね」

彼女がまだ新宿のキャバクラで働いているときの話だ。

彼女にドハマリしていた九人の客がいた。「誕生日のプレゼントは何が欲しい?」と客に聞かれた彼女は同じモデルのロレックスを九人から買って貰ったのだ。

絶対、この色のこのモデルが欲しいと、しっかり念を押して。

ひとつは本当に自分で使うのだが、残りの同じモデルのロレックス八個は箱をあけただけの状態で質屋に持っていったのだ。

その八個で四百万円になった。質屋を出るなり彼女は「今日は大漁だあぁ!」と路上で(喜びの舞い)をして見せたのだ。舌をペロっと出して、クルクル身体を回転させスキップしながら、この店で僕に焼肉を奢ってくれたのだ。

この質屋ぶち込み企画は、人気のあるホステスがよく使う手だ。

店に客が来ればプレゼントされた腕時計を嬉しそうに見せて、「ありがとう!これがホントに欲しかったの!」と九人の客の腕に絡ませるのだ。

客は自分しかこの腕時計をプレゼントしていないと思っている。

彼女の大喜びの笑顔に客は「うん、うん」と満足そうな顔をするのだ。

誕生日に贈られた花も、さすがにスタンド式の花は店に置いていくのだが、胡蝶蘭だけは持って帰ろうと、二人で二回に分けて三十個近い胡蝶蘭をタクシーに載せて「花が倒れないように、ゆっくり走ってくださいね」と運転手にお願いして、新宿から吉祥寺までゆっくりしたスピードで、真夜中の井の頭通りを二往復して帰ったこともある。

誕生日の時期になると彼女の部屋は花屋か?というぐらい胡蝶蘭で埋めつくされていた。

ナイトタイムス(夜遊び情報新聞)や、週刊誌で彼女の紹介の記事が出るたびに「好きな男性有名人は?」という質問に必ず「金子信雄」と彼女は答え、その記事を見ながら二人で大笑いしていた。

「楽しかったなぁ。この先、哲也と一緒にいた時が一番楽しかったことになるのかなぁ。——あのね、今日さぁ…… ――私、哲也に別れ話をしに来たんだよ。

それで、ベタなんだけど髪も切ったしね。この話がちゃんとできたら大好きな生ビール、頼もうかなってね」

そう言うと、桃子はキレ長の大きな瞳で意を決したように僕を力強くじっと見つめた。テーブルの上には次々と注文した料理が運ばれてくる。

僕は飲んでいたビールを静かにテーブルに置いた。

「――別れる?俺たちが?なんで?」

僕はプロポーズをするつもりで今日、この店へやって来たのだ。

話が全然見えずにうろたえている僕がいた。

「私さぁ、来年三十になるんだよ。哲は二十九になるでしょ。前にも話したことあるけどさ。三十才迄には結婚して三十一才くらいには子供が欲しいの」

彼女は上タン塩と上ハラミを網にのせ、僕の言葉を待っているように見えた。

「水商売が私の天職だから新宿に店を出してくれたら一生私のヒモにしてあげるって前に話してたじゃん。まぁ、ヒモにはならないけどさ。今の俺なら桃子の夢だったお店を歌舞伎町に出してあげられるよ」

僕は、少し慌てて早口になっている。

「ううん、夢が変わったの。もう三十近いオバサンだし若い子もドンドン入ってくるしさ。専業主婦になりたいの」

「なら、俺と結婚して専業主婦になればいいじゃん。子供も産んでさ」

「哲さぁ、ヤバい仕事しかしてないじゃん。またいつか捕まるよ」

「いいんだよ、パクられても。たいしたことないから」

「――もうさ、なんかね。笑えないんだよね、そういうのって。

ヤクザとかガサ入れとかポン中の話もさ。普通の暮らしの中で結婚したいの。普通の暮らしの中で子供を産みたいの。哲が一番嫌いな普通の生活がしたいの」

彼女は僕と父親が十代の頃、ことごとくぶつかったということを知っている。

その普通の生活がしたいのだという。

「哲はね、砂のお城を歌舞伎町で一生懸命作っているだけなんだよ」

「――砂のお城?」

「そう、砂のお城。雨が降れば溶けてなくなり、風が吹けば跡形もなく消えていく。そんなお城。その日暮らしの人間がたまたま今、お金をもっているだけなんだよ」

桃子の瞬きをしない覚悟を決めた大きな瞳はまっすぐ僕をみつめ、力強さを増していく。

「それなら、こんな飲食店でもスーパーでも日銭のその日暮らしみたいなもんじゃん」

僕も彼女の目をじっとみつめて、ゆっくりタバコに火を着けた。

「ううん、全然違うよ。飲食店でもスーパーでも毎日の積み重ねがあるでしょ?

その積み重ねが信用にかわり、未来に続いていくんじゃん。その積み重ねがないでしょ、哲のしている仕事には。

哲の今日までの人生の年表を書いたら、十七才から空白だよ。履歴書を書くことがあったら空白の欄ができるんだよ。その空白の中で哲は今、生きているんだよ」

――僕も以前に感じたことのある空白の時間。

桃子は若かったからその空白の時間の中で二人は楽しくやれたんだと僕に話した。

「――今ね、結婚を前提に付き合って欲しいって言ってくれてるお客さんがいるの。その人は三十四才なんだけどさ。富士銀行のエリートなんだよ」

僕たちは話に夢中で、網の上で真っ黒に焦げて墨になっている肉があることに気がつかなかった。その真っ黒になった肉を僕は取り皿に移し、焦げた網も変えてもらった。そして、ビールの注文をした。

「その客のこと、好きなの?」

息を飲んで、彼女の顔をマジマジと見つめた。

なにやら僕の心臓の音が、やけにうるさい。

「嫌いな客なら絶対無理なんだけどさ。好きでも嫌いでもないんだよね。でも、付き合っていけば好きになれるかなって思ってさ。優しくていい人なんだよ、すごく」

なぜか、好きでも嫌いでもないという桃子の返事を聞いてホッとしている僕がいる。

「でもさぁ、それって、富士銀行と結婚するようなもんなんじゃない?」

「天下の富士銀行だよ。鉄板(間違いないこと。確実なこと)じゃん。しかもエリートなんだよ」

彼女は夜の仕事でさまざま男達を見てきたはずである。夜の世界ほど人の浮き沈みが、はっきり見える世界はない。

彼女の働いてきた店は料金の安い店じゃない。今、現在が勝ち組みのノッテいる男たちが集う店だ。いくら常連の客でも仕事がくすぶってくれば店に姿を現さなくなる。金がきつくなっているんだなと、誰彼となく噂をされ、やがて忘れ去られていく。

人生の潮の満ち引きを一番近くで桃子は見てきたはずだ。

鉄板の人生などあるはずがないことを彼女は知っているはずなのだ。

だが、自分のこととなるとそれが見えなくなるのか。

「――ゴメン、私ね、哲也の未来にBETできないの……怖くて。でもね、一緒にいてホント楽しかった。ホントだよ」

唇が震えている。潤んだ大きなキレ長の瞳から、珠のような大粒の涙の固まりがキラリとひとつ頬をつたう。頬も鼻の頭も真っ赤にして、涙でグシャグシャになった顔で必死で笑おうとしている桃子が目の前にいる。

「ふぅー言えた。ちゃんと言えた。喉が乾いちゃった。すいませーん、生ビールください!」

彼女は笑いながらハンカチで涙を拭い、手をあげてウエイトレスに声をかけた。

「――ワルイ、俺、帰るわ」

注文したビールを待つ彼女の顔を見て、僕は席を立った。

「ねぇ、乾杯だけしていってよ!まだいいじゃん。哲!……哲也」

会計を済ませ、一度だけ僕は桃子の方を振り返った。

細い肩が揺れている。ひとりで小さな背中を丸め、うつむいたまま震えている桃子が見える。

僕は、ドアを開け外に出た。

――ふざけんなっ!なにが鉄板なんだよ!

フラれたからイラついているんじゃない。

鉄板の人生なんてあるわけがないだろう。歌舞伎町の中で消えていった人、ひょんなことから生き返って復活した人。さまざまな先輩達をこれまで見てきた。

五日も六日も寝られずに、悩んで、悩んで考えて出した結論も五年も経てば「なんであんな答えを出したんだろう」と悔やむこともある。

その時々でモノの捉え方が変わる。そこには経験という武器が加わり、生き方の引き出しがひとつ増えるのだ。

好むと好まざるにかかわらず、生きていればつまずいてしまうことなんて、いくらでもある。

自分には何も非がないのに容赦なく理不尽な壁が立ちはだかるときもある。

それが、天災なのか事故なのか病気なのか、思いもつかないようなとんでもない壁に突然出くわすことなんて必ずあるのだ。

人は変化して生きていく。後悔を重ねることが人生なのかもしれない。後悔したことで変化をしてその難を乗り越える。それが成長だというのかもしれない。

鉄板の人生なんて、どこにもない。あるはずがないのだ。



 乾いた雪が夜空にふわふわと舞っている。時折吹雪く、横殴りの冷たい突風が痛いくらいに頬を刺す。

うかれたクリスマスソングに街がダンスしているみたいだ。

大ガードの前にある『パチンコ・ジャンボ』の壁面に埋め込まれた赤と白のド派手なデッカイ電飾看板がクリスマスソングのリズムに合わせるかのように、縦、橫、斜めにと、ネオンサインが賑やかに放物線を描くよう点滅を繰り返している。

まるで、はしゃいでいるクリスマスの街の喧騒を後押ししているみたいだ。

今日はこのまま、桃子と一緒に腕を組みながら初台のマンションへ帰るつもりでいた。黒の中古のシーマを見せて驚かそうと、ここへ来る前にピカピカに洗車もしてきた。ダウンジャケットの内ポケットの中には、彼女に渡すはずであった二人の名前を入れた婚約指輪もある。

彼女の(喜びの舞い)をリビングで笑いながら見ることができると思っていた。

この先ずっと、一生見ることができると思っていた。

――富士銀行が鉄板かぁ……

僕は目尻のふちを親指で拭った。

ガラにもなく、吐く息が白く震えるクリスマス。

指輪を宙に放り投げ、新宿西口大ガードからタクシーを拾った。

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