第38話
1991年。この頃からタイ人、イラン人、中国人が歌舞伎町に目に見えて急激に増え始めた。
不良イラン人は、偽造テレフォンカードや覚醒剤、大麻を売り歩く。
不良中国人は、盗んできたモノを曜日と時間を決めて日本人客に売っていた。
ある雑居ビルの踊り場の階段に、ひな祭りのひな壇のように値札のついたままの高級バッグ、高級腕時計、高級財布、アクセサリーを六段にも七段にも並べて販売していた。
それを口コミで知ったホストやキャバ嬢、風俗嬢が、時間にあわせてゾロゾロと買いに集まってくるのだ。
常連の客になるとブランドや色、サイズの指定まで売っている中国人にお願いしていた。
彼らは「アッタラネ、アッタラネッ」と笑いながらリクエストされた商品名のメモを取っている。だいたい値札の六掛くらいの値段である。三十万円のバックなら十八万円といったところだ。ロレックスは大人気で、メンズ、レディースともに種類も豊富ですぐに完売である。
不良中国人たちの泥棒市は大繁盛していた。
しかし、大金が動けばアンダーグランドのパワーバランスも大きく動く。
チャイニーズマフィアと呼ばれる不良中国人たちの縄張り争いが激化し、この後、世間を騒がせる『歌舞伎町 青龍刀事件』が起こることになる。
中国人同士の壮絶な殺し合いが風林会館のそばで起こるのだ。
九十年代はチャイニーズマフィアが歌舞伎町の中で、やたらと目に付くようになる。
そんなことを歌舞伎町のヤクザたちが黙認するわけもなく、チャイニーズマフィアと歌舞伎町のヤクザがこの後、衝突することになる。
これが世間を騒がせた『パリジェンヌ 発砲事件』である。時刻もこの街のエンジンがかかる十九時くらいだ。多くの一般人が行き交う時間帯だ。
調子にのった数人の中国人がパリジェンヌでヤクザを射殺したのだ。
歌舞伎町のヤクザを怒らせたことで、相当な数のチャイニーズマフィアが殺されたと、街の住人たちの間でニュースとなって流れた。
これが、『歌舞伎町浄化作戦』の引き金にもなる。
タイ人といえば、歌舞伎町二丁目のホテル街から職安通りを越えて百人町、大久保駅前、大久保通りと、この辺一帯の街角に立ち、売春をしていた。
当時は、今、女性に大流行の微笑ましい大久保界隈の韓国カフェや韓国グルメの街ではなく、殺伐としたアンダーグランドの匂いが立ち込める、いかがわしい街であった。
小柄で童顔なタイの女の子たちは日本人受けしたのだろう。タイ人だけのデートクラブがあっという間に二丁目に増えた。
客は飲み放題一万円で店に入り、飲みながら店内にいるタイの女の子を物色するのだ。気に入った女の子がいればそのままホテルへ直行する。ショート三万円、ロングが六万円だ。客から貰うお金に引かれるものはない。そのかわり、女の子達はホテルに行かなければ給料はゼロである。
その頃、アニが雑居ビルの中にある居抜きのパブクラブを借り、タイ人だけのデートクラブを始めていた。イベントがあると僕も助っ人に駆り出され、そこで手伝いをすることもあった。一日、八十人近くの客が来る。八十万円、まるまる店に落ちるのだ。
若くて可愛い子であれば、一日四人、五人と客につく。一晩で十万、二十万円と稼げてしまう。
カタコトの日本語で稼ぎ倒すのだ。
彼女たちの、この店へ来る金を見せてニヤケ面した日本の男たちへの憤りは、腹の中で渦巻いている。
渦巻いているのだが、チカラまかせの作り笑顔だ。異国の地で行儀よくなんてクソくらえなのだろう。金を稼ぐことだけが、彼女たちの目的である。
小柄で可愛らしい彼女たちの小さな手のひらで作った握りこぶしの中に、現金さえ握ることができれば、なんだってできる。それが、顔をそむけたくなるような男の腹が乗っかってきてもだ。
ハングリーはパワーに変わる。それが犯罪であったとしても。
今の日本はハングリーではあるが、残念ながらそれをパワーにする者は少ない。
別に犯罪を推奨するわけでなはい。ひとつの生き方としての話である。
なにか流行るものが見つかれば業種変更しながら生き延びていく街だ。
タイ人専用のホストクラブ、美容院、レストラン、カラオケスナック、お弁当屋、スーパー、ディスコ、高利の金貸しまで出現していた。
さながら職安通りから大久保の街はリトルバンコク状態である。
異国の地で、カタコトの日本語だけで金を稼ぎまくる彼女たちに、僕はいつも感心していた。そして、このタイ人が急増したことで思いも寄らぬ大きなフォローの風が僕の背中を押してくれたのだ。
「瀬野君、どう?店うまくいってる?」
オープンしてから半年くらい経った四月の夕方だ。滝ちゃんがひよっこり顔を出した。
「おぉー滝ちゃん、久しぶり!アロワナ元気にしてる?」
「最初にそれ聞く?あの店は先月で締めたよ。杉戸さんもパクられたし」
杉ちゃんの働いている店にガサが入ったのだという。杉ちゃんの時間帯に警察が入ったのだ。それで金主の中古車屋のオーナーがビビってしまい、滝ちゃんが働いている店も系列店ということで閉めるということになったみたいだ。
売上げも落ちていたし、潮時といえば潮時かもと笑っていた。
「全然だめだよ。来るのはヤクザかケンちゃんばかりで。店の場所が悪いのかなぁ」
僕はコーヒーを滝ちゃんに渡しながら椅子に腰を下ろした。
「確かに、すぐそこが職安通りだしね。歌舞伎町の一番奥だもんね。でもさ、ああやってタイ人がチラホラ来てるんでしょ?」
滝ちゃんは二番台に座って仲間のタイ人と楽しそうに話し込んでいる、数少ない常連のオカマのトニーの方に目をやった。
このトニーは新規ゲームの五千円しかやらないのだが、ここで仲間と待ち合わせすることが多かった。ゲームもしないトニーの仲間が入れ替わり立ち替わり、この店を訪れる。
「瀬野君さ、この店タイ人専用のゲーム屋にしちゃえば? ギャンブルが好きなタイ人多いよ。陽気だし韓国人や中国人みたいに負けが込んでもモメないしね」
滝ちゃんの閉めた店にもタイ人の客は結構いたらしい。
確かに韓国人は熱い人間が多く、負けたあとのゴネ方がハンパなかった。
中国人は負けが込むと大声で喚き散らしゲーム機を蹴り叩き、金を店員に投げつける者もいた。
「そうだなぁ。場所的にもタイ人の溜まり場みたいな店でもいいかもね。この店に来れば仲間のタイ人の誰かが必ずいるって感じのね。タイ人だけが集まる喫茶店かぁ」
僕は、なにやら暗闇から明かりが見えてきたような気がした。
滝ちゃんがこの店を手伝ってくれるようになった。タイ人の集いの場を作るというコンセプトで常連客のオカマのトニーから二人の若いタイ人を紹介してもらった。
タイのホストクラブで働いていたティンとペーだ。
タイの女性は身体を売ることで金を稼ぎまくっていたのだが、男のほうは安い金での肉体労働が多い。ティンやペーの母国のタイでは大卒の初任給が日本円で三万円くらいだという。
「ダッシュ」では日払い一万円の給料だ。三日で母国の一ヶ月分を稼ぐことができる。日本は黄金の国だと彼らは笑った。
僕が初めて歌舞伎町に足を踏み入れたときのように、日給一万円に彼らは目を丸くして喜んでいた。
ティンとペーに、ディスコやホストクラブ、レストランなどタイ人だけが集まる歌舞伎町や大久保界隈にあるすべての店にタイ語で書いた【10円ゲーム・ティールーム・ダッシュ】のポスターを貼ってもらうよう頼んだ。
異国の地で働くタイ人のネットワークはすごい。
街角で警察官を見つけると「オトーサンが来たよ!」という情報が彼らのネットワークによって街中にあっという間に駆け巡る。携帯電話などない時代だ。それなのに、ホテル街のタチンボや百人町、大久保通りで売春をしている彼女達は蜘蛛の子を散らすようにその場所から一斉に姿を消すのだ。「オトーサン」とは警察官のことを指す彼女たちの隠語である。
「ダッシュ」は、あっという間にタイ人たちの溜まり場になった。
働くみんなのアイデアで4カードのビンゴゲームや、クジ引きサービスなど他店にないさまざまなプレミアやサービスを用意した。
上野・かっぱ橋で買った赤や青や黄色のテープを天井の四隅の角から角に掛け、大量の金や銀のリボンを壁一面に貼り付けた。
天井からは、白やピンク、オレンジの風船を吊るしたり、と手作り感満載の小学生が学芸会でもするかのような飾りつけをした店内だ。ゲーム機も二台追加して狭い店がもっと狭くなった。
店内満席でゲームができないタイ人は、ゲーム機とゲーム機の間に小さな補助椅子を出して、他人がするゲームを見て歓声を上げている。
ストレートフラシュが出て椅子の上で手を叩きながらジャンプをする者。
ロイヤルストレートフラッシュが出てゲーム機の上に乗っかり、笑顔で声を張り上げ、踊り出す者。さしずめディスコクラブのようなゲーム喫茶だ。
歌舞伎町広しと言えども、こんなゲーム喫茶は「ダッシュ」だけだ。
陽気なタイ人の笑い声や叫び声で、他の日本人客や韓国人客が顔をしかめるほどだ。
街が静かになる朝の四時、五時でも店内は常に満席、お祭り騒ぎである。
通路で何人もお弁当を食べながら、席が空くのを待っているタイ人を見てママが大笑いしていたほどだ。
僕の作りたかった静かな高級感のあるゲーム喫茶とは180度違う店が出来上がった。
あれほど金策に苦しんだ僕の借金はなくなった。ママとの約束の毎月百万円の小遣いも出せるようになった。
与後社長にも出資した金額以上のお金を渡せることができた。
ある時、社長から五百万円で僕にこの店を買ってくれないか?という話がきた。
この店の保証金は五百万円である。店を出ていくときには返ってくる五百万円だ。
ママも社長もこの店から手を引くという。
よく頑張ったね、儲けさせてもらったよ、と二人から褒めてもらえた。
その晩、店の前のとおりの向こうのガードレールに腰かけて、滝ちゃんと冷えた缶ビールで乾杯をした。
さぁ、ここからがホントの勝負だね、と飲み干した缶を強く握りつぶして。
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