新田結愛の焦燥

 窓の外を叩く雨の音で夢から覚めた私、新田結愛は、幸せな夢の終わりから大好きな雨の世界に出会うと言う二重の幸せに心が浮き立った。

 雨って何でこんなに心地よいんだろう。

 泳ぐのはそんなに好きではないけど、お風呂と雨は大好きだ。

 特に彼女、橋本愛理との出会い以降もっと好きになった。


 お風呂に入る度、湯気の間からボンヤリと見えた彼女の肌は脳の奥に、本能の奥に響く。そんな彼女をお風呂に入る度思い出す。

 雨の日は彼女の濡れたブラウスの胸元を思い出させる。


 そんなイメージに仄かな幸せを感じながら、しばらく窓の外の雨音に耳を澄ませる。

 こうして雨の音に耳を傾けていると、晴れの日は本当に雑音が多いんだな……と感じる。

 雨音に包まれていると、矛盾してるかもだけど凄く静寂を感じるのだ。

 神秘的で非現実的にも感じる、世界に自分しかいないのかも、と錯覚するような静寂。

 そうしてしばらく雨の世界に浸った後、ようやくもそもそと布団から出て携帯を見るけど特に通知は無い。

 ホッとため息をつくと、リビングに向かい朝食の準備をする。


 最近忙しかったから……疲れてるんだろうな。

 3日前に送った橋本さんへのラインの返事が既読のまま返事が無い。

 別に女子高生じゃないんだから、返事のあるなしに一喜一憂するつもりも無い。

 私たちは先輩後輩でしか無い。

 しかも女性同士。

 そう。

 私と橋本愛理は職場の良き先輩と後輩。

 その後輩から返事が来る来ないなんてどうでもいい。

 明後日、職場で会ったら軽い感じで言おう。

 うん。


 そう思いながら、また携帯をチェックする。

 職場から連絡あるかもだし……

 でも特に代わりの無い待ち受け画面に、胸がちょっとだけギュッと苦しくなる。


 その日の仕事帰り。

 私は橋本さんの住むアパートの前に来ていた。

 体調不良で休みと言う彼女のお見舞いと言う名目で。

 そう自分をごまかしながら実際は、彼女の姿を見てない時間が長すぎて不安だったのだ。

 このままお風呂の湯気のように消えていなくなってしまうのでは無いか? と。


 せめて彼女の姿を見たい。

 ほんの数分でもいつもの笑顔で声を聞かせてくれれば。

 私から離れて行ってるわけじゃ無いんだ、と分かれば安心して明日からいつも通りに過ごせる。


 とはいえラインではお見舞いに行く旨、伝えたけど既読になってないのが不安……


 緊張しながらインターホンを押す。

 少しするとドアの向こうから足音が聞こえた。

 いる!

 そりゃいるに決まってるよね。

 でももし、ドアを開けた彼女が迷惑そうな表情をしたら……

 それとも無表情に「すいません。今、調子悪くて……」とか言われたら……

 大丈夫、その時は私だって特に興味ない風に「食料品とか持ってきただけだから。ゆっくり休んで」と言って、めんどくさそうに帰ればいい。

 そうすれば……傷はつかない……はず。


 そんな事をまるでプロンプターの画面のように脳内に浮かべていると、ドアが開いて橋本さんが現れた。

 お日様のような笑顔を浮かべて。


「やっぱり新田さんだった」


 そう話す彼女は淡い桃色のワンピースタイプのパジャマ姿だった。

 今まで見たこと無い子供っぽい格好と彼女の笑顔に、訳も無くテンションが上がる。


「せめて何か上に着てから出てきなさい。配達の男の人とかだったらどうするの? 私だったから良かったものの。そんなブカブカの服で」


 そうたしなめるように言いながら、彼女の胸元に目が向いて焦る。

 そこもブカブカだ……


「絶対新田さんだと信じてました。なんて」


 一瞬真顔になったあと、そう冗談っぽく言うとクスクス笑った。

 彼女はただ笑ってるだけ。

 なのに、なんでこんなに嬉しくなるんだろ?

 ヤバいくらいのぼせ上がってる。


「ご飯は食べた? 良かったら作ってあげようか」


「あ、お気遣い無く。もう食べちゃいました」


 あ……そっか。

 酷く落ち込んでしまった自分に驚く。


「でも……良かったらお茶でもどうですか? 体調も大分良くなったし、ずっと一人で寂しかったんです」


「大丈夫? 無理しなくていいよ。私もただ食料品とか持ってきただけで、すぐ帰るつもりだったし」


 そう答えると、何故か橋本さんは小さく笑った後、首を振った。


「無理してないです」


 ※


「新田さん、ジャスミンティーとか大丈夫な人ですか?」


「あ、いいよ。寝てて。私がやるから」


「お気遣い無く。明後日には仕事に戻ろうと思ってるので、そろそろ動かないと」


 そう言って二人分のジャスミンティーを入れたカップを目の前に置いた。

 心の落ち着く香りは大好きだったが、今は目の前の彼女から目が離せなかった。


「すいません。お風呂も入ってないから、こんな汚い感じで……」


 そう言って俯く彼女は、普段と違って髪もしっとりとしている。

 でも……そんな彼女はいつもと異なる色気も出していた。


 人前には決して見せない秘めた部分を見ている。

 そんな優越感と非日常感が心地よい。

 そして、彼女から仄かに感じる甘い香り。

 いつもよりハッキリと感じられて、胸が高鳴る。


 自分は嫌われてなかった。

 そんな嬉しさと相まって、余計に彼女への愛しさが湧き上がる。

 ジャスミンティーのせい?

 それとも熱と橋本さんの香りのこもった部屋の空気のせい?

 やけに生々しい動物的な衝動が沸いてくる。


 それから少しの間、お互い職場のことなんかを話すと、やがて橋本さんがホッとため息をついて言った。


「ちょっと横になってもいいですか? 勝手でホントにすいませんが、良かったら入り口にある鍵をかけて、郵便受けに入れといてもらえれば」


「うん、もちろん。ごめんね、やっぱ無理させてたよね?」


「お気になさらず。私がお話ししたくて無理言ったんです」


 そう言って彼女は近くのベッドに横になると、驚くほど早く寝息を立て始めた。


 私はそれを見て、邪魔しないように静かに出て行こうと思ったが、最後にちゃんと寝てるか確認しようと彼女の顔をのぞき込んだ。

 でも……離れることが出来なかった。

 肌に残る汗、甘い香り、無防備な表情。

 それらを見てると、心臓がうるさいくらいの音を立てる。

 顔が妙に火照る。


 ちゃんと寝てるか確認……しなきゃ。

 そんな笑える言い訳をしながら、顔を彼女の胸元に近づける。

 小さいけど綺麗な曲線はワンピースで余計に目立っている。

 

 私は頭の芯がボーッとしていた。

 まるで酔っ払ってるみたい……フワフワする。

 女性どうしなんだから……いいよね。

 

 もう自分が何を言ってるのか分からない。

 私は彼女の鎖骨にそっとキスした。

 気持ちいい……

 背徳感と心地よさで倒れそうになる。

 もっと……


 目の前のいろんな色がビックリするほど鮮明……

 

 もうどうなっても……

 そう思いながら彼女の胸元に手をかけたとき、ハッと我に返った。


 そして慌てて彼女から離れた。

 危ない……私、何を。


 早鐘のように鳴り響く心臓を必死に沈めながら、バッグを手に取って部屋を出ようとした。ゴメンね、愛理ちゃん。

 私……とんでもない事する所だった。


 そう心の中で謝って後ろを向いたとき。


 「いくじなし」

 

 と聞こえたような気がした。


 え?


 驚いて振り返ったけど、橋本さんはぐっすりと寝ていた。

 私はホッとため息をつき部屋を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水の繭のわたしたち 京野 薫 @kkyono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ