橄欖哀歌
芦葉紺
À propos de la mort des saints.
ヴェルヌ河の鱗のような水面が赤い西日を照り返しながらさざめく。勤め先の銀行から退勤した僕は明日の朝食のためのバゲットを買い、家路を急いでいた。
今夜は共和政の樹立を祝い、革命を先導しながら病死した男装の聖女フランソワを悼む革命祭だ。すでに人々は彼女の名を冠した広場に集まりつつあり、河岸の道の人通りは少ない。
僕はといえば、そもそもが祭りに行くような人間でもないし、革命祭に行きたがっていた同居人が昨日から熱を出しているのでそのまま帰るだけだ。
時折吹き抜ける風の冷たさに身震いし、パンの袋を抱えているのと逆の手をコートに突っ込んだ時だった。
「すみません。今お暇ですか」
所在無げに佇んでいた小柄な女性――二十代半ばで、分厚い灰色のワンピースの上から焦げ茶の防寒着を着込んでいる――が声をかけてきた。
「どうされましたか?」
努めてにこやかな笑みを浮かべ、僕は彼女に尋ねた。帰ってきた答えはこうだった。
「聞いていただきたいお話があるのです」
僕はその昔、まだ十代のころ、小説家を志していたことがある。その名残だろうか、この素性も知らない彼女の話とやらに僕は強く興味をひかれていた。
僕は答えた。
「ぜひお聞きしたいのですが、同居人が熱で寝込んでいまして。もしよければ、僕の自宅にいらっしゃいませんか? 夕食をご馳走します」
「良いのですか? ではご相伴に預からせてください」
と、彼女は控え目に微笑んだ。生気というものがまるで感じられない笑みだった。
◆ ◆ ◆
「こちらです。どうぞ、お入りください」
「……失礼します」
体を縮こまらせた彼女に、先に家に上がった僕は長いこと使っていない客用のスリッパを軽くはたいて差し出した。彼女が怪訝そうな顔をするので僕はうちでは外の埃やら何やらを持ち込まないために靴を脱ぐのだと教えてやった。
それから脱いでもらった上着を預かってハンガーにかける。随分と老けた格好だと今更ながら思った。
歩いている間に聞いたところ、彼女の名はマリー・デュラン。二十五歳――僕と同い年だ。婦人服店に勤める針子らしい。どこにでもいそうな、ごく普通の女性だ。
「夕食を用意しますので、先に座っていてください」
僕は手早く鍋の中のポトフをよそい、買ってきたパンを切って食卓に出した。
「どうぞ。簡単なものしかなくてすみません」
デュラン嬢は首を振ると、スプーンを手に取った。僕もスープを一口含む。なかなかの出来だ。
「それで、話というのは?」
尋ねると、彼女は暫し逡巡したのち話し始めた。
「……私は昔、王女殿下の侍女をしていました」
「王女……というと、オリヴィア殿下のことですか?」
「はい」
革命の最初期、視察先の港町アーヴル・エトワールで蜂起した民衆に襲われ亡くなった王女オリヴィア。遺体すら残らず革命期の混乱故に葬儀も行われなかったと聞く。
「確か、革命の初めにご逝去なさったのでしたか」
すると彼女は驚くほど強い瞳で僕を見返した。この華奢な女性のどこにこんな苛烈さが眠っていたのかと、僕は感嘆さえした。
「いいえ。殿下は生きておられました」
「……と、言いますと?」
「殿下が訪ねた街の名はアーヴル・エトワール。ご存知でしょう――聖女フランソワの出身地です」
僕は思わずはっと息を呑んだ。
革命が始まり王女オリヴィアが殺された街、アーヴル・エトワール。そこの出身で王女の死から数日後に現れ、革命軍の旗印となった男装の聖女フランソワ。一度は考えて否定した仮説が甦る。
「……まさか」
僕は首を振ったが、デュラン嬢は告げた。
「聖女フランソワとオリヴィア殿下は同一人物なのです。革命軍の中でも数人しか知りませんでしたが」
僕に息をつく暇も与えず、彼女は続ける。
「そして、殿下の死因は病死などではありません。殿下……いいえ、ここからはフランソワ様とお呼びしましょう。フランソワ様は、自殺されたのです」
僕は目を見開いて彼女を見つめた。
好奇心を抑えられない僕とは対照的に、デュラン嬢は静かに言った。ちょうど夕映えの水面のような声音だった。
「聞いていただけますか。彼女の博愛と、復讐の結末を」
◆ ◆ ◆
ジルベール国王の第一子オリヴィア・アデル・カミーユ。やがては山の女神に守られた美しき聖王国を継ぐ、祝福の王女。
女の王など所詮中継ぎ――そんなことを言える者はどこにもいなかった。オリヴィアは誰よりも強く、賢く、誰より民を想う完璧な王太子だったのだから。
だが、運命は残酷にも彼女から玉座を奪った。次の子は望めないと言われていた王妃マルガが王子を産んだのだ。
その王子の名こそが、フランソワ。
のちにオリヴィア王女が男装して名乗る名であった。
◆ ◆ ◆
「フランソワ様はお美しい方でした」
そう言った時だけデュラン嬢は夢見るような表情をした。組んだ手の指先が恋慕に震えているように僕には見えた。
「私はフランソワ様が十二の頃からお仕えしておりました。アーヴル・エトワールへも付き添ってまいりましたし、革命戦争の間もずっとお側に侍っておりました」
彼女は訥々と言葉を紡いでいく。端々から主への思慕が溢れ、僕はただ相槌を挟むのみで聞き入った。
「弟君がお生まれになるまで、フランソワ様はたった一人の継承権者でした。フランソワ様が物心つく頃には国王陛下は男児をあきらめておいでで、フランソワ様は女王となるべく育てられました」
王妃は体の弱い人で、結婚から七年経ってようやく身籠った子がオリヴィア王女だったそうだ。
「王と王妃を処刑した日の夜、フランソワ様は話してくださいました――この戦争は、フランソワ様にとって復讐でもあったのだと」
◆ ◆ ◆
「終わったな」
王と王妃が広場で斬首刑に処せられたその夜。自室の窓からぼんやりと外を眺めていたフランソワがぽつりと呟いた。
マリーは己の耳を疑った。
フランソワは戦時中から既に革命後の国を見据え、常に先々のことを考えて行動していた。その彼女が、まだ戦争で荒れた国が元に戻っていないというのにこんなことを言うなんて。
「マリー、座って」
フランソワの前の席を示され、マリーは恐る恐る腰かけた。
涙は流していない。けれどフランソワはひどく哀しい目をしていた。
「……僕はね、国王になりたかったんだ」
悲痛に揺れる声だった。マリーには黙って目を伏せることしかできなかった。
「僕は誰よりも国を、国民たちを愛してきたつもりだよ。良き王となるために子供のころからずっと努力してきた。……それなのに、あいつが生まれた」
フランソワがまだオリヴィアだった十二歳のときに生まれた弟王子。
オリヴィアの父親でもあったはずの国王は男児の誕生に涙を流して喜び、重臣たちも口々に祝い、オリヴィアの居場所はどこにもなくなった。
オリヴィアになら安心して国を任せられるといったその口で。
歴史上稀にみる名君になるだろうと誉めそやしたその口で。
男が生まれてよかったと。
この女らしくない王女は一体誰が貰ってくれるのだろうと。
「殺してやりたいと本気で思ったよ。実際、今日殺したんだけど。……なあマリー、僕には王冠しかなかったんだ。『未来の王』という肩書が僕の価値の全てだった。それを奪われたら、後には何も残らなかった」
フランソワは肩を震わせ、マリーの手を白手袋に包まれた手で握った。大きい手だ。……けれど、男の骨ばったものではない。
「僕は正しいことをしてきたつもりだ。けれど今は――肩書が『聖女』になっただけのような気がしてならないんだよ」
僕には何もないんだ、とフランソワは殆ど声も出さずに呟いた。
実際その通りだった。フランソワはみんなの英雄、この国はみんなのもの。彼女だけのものなどこの世のどこにもありはしない。
辛い、苦しいと言葉よりも雄弁に語る睫毛の震え。それでもフランソワは涙を見せない。助けてとも言わない。
彼女は英雄だった。どこまでも、英雄だった。
「フランソワ様……」
――ああ、わたしのご主人様。
陶酔のような甘い痺れがマリーの全身を駆け抜けた。
――わたしだけは永遠に、あなたの側に。
フランソワには自分しかいないのだと、マリーは思い知る。変な話、そう実感すると安心して愛せた。
民衆を導く聖女。革命の英雄。人道正義を体現する存在。復讐心からそんな高尚なものになり果てた彼女。――わたしの、可哀想な王子様。
「僕が『フランソワ』を名乗った理由がわかる?」
「……弟君への復讐、でしょう」
マリーが答えるとフランソワは満足げに笑った。そうするとまるで少年のようだった。
「そうだ。後の世の歴史書に、あいつの名は記されない。革命の直前に生まれ、戦中に病死した幼い王子の記録などどこにも。あいつの名は、あいつに玉座を奪われあいつから玉座を奪った、この僕の名として残る」
フランソワは笑う。空色の目を細めて、薄い唇の端を上げて、哀しそうに笑う。
「だから僕は、聖女失格だ。人々のためにこの国を国民のものにするべきだと思った。僕を認めない王侯貴族どもと玉座を消し去ってしまいたかった。……どちらも紛れもない僕の本音だ。ほんの少しでも私怨を以て手を血を染めた僕に、神は微笑まない。父上と母上を殺してようやくわかったよ」
「あなたは殺していません。投票の、結果です」
思わず否定したマリーに、フランソワは思いがけず冷静な口調で反駁した。
「一票差だった。僕の『賛成』の一票が、彼らを殺した」
ころころと変わる表情の中で、真昼の空を写し取ったような瞳だけが凪いでいることにマリーは気付く。彼女は全ての覚悟を決めたようだった。
「どうせ血に染まった両手なら、新しく血を被っても同じこと。そう思わないかい、マリー?」
フランソワがどこまでも穏やかにそう言うのを、マリーは恍惚とした表情で聞いていた。
――なんて凄絶で、なんて美しい方。
何かに導かれるようにしてマリーは跪いた。黙って微笑む、彼女の神様。マリーの人生に意味を与えたひと。
「フランソワ様」
声が震えているのが自分でもわかった。
「わたしの全てはあなたのもの。……どこまででも、ついて参ります」
下界に降りてくるような仕草でフランソワは椅子から降り、屈んでマリーの頬に手のひらを添えた。柔らかく温かい手だ。
言葉は要らなかった。ただ、お互いの魂に刻み付けるように視線を交わらせる。
地の果てのようなこの場所で、マリーは最低最悪の恋をした。
◆ ◆ ◆
「それから……フランソワ様は、国内に残った王党派を粛清して回りました。戦争が長引かぬように、ぼろぼろになったこの国が少しでも早く復興できるように」
僕は今や食事も忘れてデュラン嬢の話に聞き入っていた。
好奇心と得体の知れない感慨とが混ざり合った不思議な気分だ。良質な歴史小説を読んでいるような、けれどそれより胸に迫ってくるものがある。
彼女の主の記憶を辿るにつれ、デュラン嬢の瞳は妖しく輝き出す。それは彼女の話が『愛した英雄を失った悲劇』では終わらないことを予感させた。
「フランソワ様は、革命派の有力者の数人にはご自身が王女オリヴィアであることを明かしていらっしゃいました。彼らはさあこれから新しい政治体制を作っていこうというときに言いました――フランソワ様が新たな王となればいいと」
腐敗した国の上層部に武器を取って立ち向かい、ついに打ち倒した英雄フランソワ。彼女は己が王女であることを明かし、民衆の味方、善良なる女王として玉座に着く。悪くない筋書きだ。先陣を切って戦い、己の父母すら処刑させた彼女なら王政への悪印象を振り払えると思ったのだろう。
しかしそうはならなかったのは、僕も知るところだ。
「望んでやまなかった王位が手に入る。フランソワ様にとって最良の結末だと、彼女の正体を知る皆が思いました。ですが」
デュラン嬢は誇らしげに視線を上げた。
「フランソワ様はそれを断られました。王政は第二第三の僕を生む、とおっしゃって」
僕は息を詰める。なぜだか無性に泣き出したくなった。彼女の周りから少しずつ色が消えていくような、そんな錯覚をおぼえた。
けれど僕は終わらせなければならない。引導を渡すように、僕は訊ねた。
「彼女は……自殺した、とおっしゃいましたね」
「はい。共和国憲法が制定された、五年前の今日のことでした。フランソワ様は毒を呷って、眠るように亡くなられました」
愛した人の死を想起しながら、彼女は涙一つ流していない。僕はその事実がとてもうつくしいものだと感じた。
それはデュラン嬢がフランソワの正しさを、望みを、願いを、誰よりも理解していた証だ。
「机の上に残された紙片には、ただ一言『革命は成った』とだけ書かれていました」
鳥肌が立った。
「……革命は成った」
僕が繰り返し呟くのを聞いてデュラン嬢は微笑んだ。その微笑みが本当に幸福に満ちていて僕は胸が苦しくなる。
「遺書の代わりに、偽の肺病の診断書が私に残されました。私はフランソワ様が病死したことにする手続きを取り、――粛清を再開しました」
革命軍を支援しながら、その実政権掌握を狙っていたさる伯爵。
他国と内通し、祖国を征服させ見返りを得ようと目論んでいたさる将校。
『民のため』などという綺麗事を本気で信じる厄介な聖女がいなくなった途端、売国奴どもは尻尾を出した。彼らを排除するのがデュラン嬢に与えられた遺命だったという。
「そして昨日、粛清の終わりが見えました」
変わらず静かな口調でデュラン嬢は語る。ポトフは冷めきっていた。
――ふと、廊下から足音がした。同居人が起きてきたようだ。
「……ちょっと失礼」
デュラン嬢に彼を見せるわけにはいかない。僕は焦って立ち上がり、食堂から廊下に続くドアに駆け寄った。……しかし、遅かった。
「アンリ、何か食べるものはないか」
くしゃくしゃになった陽光のような金髪に、気怠げに細められた真昼の空の碧眼。権高なすっと通った鼻筋。気紛れそうな口許。この、僕の胸ほどの背丈の浮世離れした少年が僕の同居人だ。
「客人を招いているんだ。風邪を移すと困るだろう、部屋で寝ていなさい」
僕はなんとか彼を部屋に戻らせようとしたが、デュラン嬢は背後から穏やかに告げた。
「あなた方の素性は把握しております。アンリ・ド・ベルナール元伯爵閣下、フランソワ元王子殿下」
「――――ッ」
そう、彼は王子だった。他ならぬ僕が、あの冷たい牢獄から手を引いて連れ出したのだ。
……僕の話をしよう。
望みうる限り最大の栄光を目の前にしながら、たった一人のためにそれを手放した馬鹿な男の話を。
◆ ◆ ◆
僕の実家、ベルナール伯爵家は海岸沿いに領地を持ち、貿易で栄えた一族だった。
僕は跡継ぎでもその予備でもない三男で、加えて言うならかなりの放蕩息子で、文学にかぶれて世情など何も知らずに暮らしていた。おおよそ現実感というものがないままに青春時代を過ごし、大学を出た矢先に跡継ぎの兄が舟遊び中に死んだ。
それを聞いて療養中だった父は体調を崩し、数ヶ月後には帰らぬ人となった。僕はと言えばそれなりに悲しんだ覚えはあるが、特段引きずりもしなかったし、正直に言うと自分の生活がどうなるのかの方が気になっていた。
急遽下の兄が跡を継ぐことになり、僕は今までの生活を続けていいはずだった。何しろ兄はすでに結婚していて、奥方は妊娠中だったのだから。
しかしそうはいかなかった。革命戦争が始まったのだ。兄の戦死の報せは奥方が出産する二週間前に届いた。
三男に過ぎなかった僕の手の中に突然転がり込んできた伯爵位。僕の手には余る代物だったが、僕が相続権を放棄したら爵位は隠居した大叔父の手に渡るか、僕の甥か姪になる子供が生まれるのを待ってその子が継ぐかだ。どちらにしても破滅の未来しか見えなかった。
僕は渋々爵位を相続し、僕なりに家のためを思って革命軍に味方することを決めた。兄を殺した奴らに味方するなんて、と兄嫁には随分と恨まれたものだ。
正しい判断ではあったと思う。ベルナール家は徴税権こそ失ったものの、領地は一部残されたし何より政府への大きな影響力を得た。
金を出せば出すほど僕の革命軍の中での地位は上がり、そして運命のあの日がやって来た。
雲一つなく晴れ渡る青空が眩しい、寒い冬の日だった。資金援助への謝礼として革命軍の拠点に招かれ、ついでにと案内された牢獄の奥深く。そこに、彼はいた。
小さな少年だ。おそらくまだ七、八歳の。囚人なのだから当然だがまともに食べていない華奢さで、何よりその全てを諦めきったような表情が彼を儚げに見せていた。
「――!」
目が合ったその瞬間、僕は生きるということを知ったのだ。
獄中生活で汚れて傷み、それでもなお光を放つ淡い金髪。ちょうどその日の空のような透き通った天青の瞳。嗚呼、誰よりも彼は存在していた。
生まれて初めて体験する鮮烈な『感情』。名前の付けようもない、ただ世界を知ったばかりの幼子が感じるような無垢な感動。今までの情動は全て紛い物だったのだとはっきりわかった。心の凍り付いていた部分が溶け出し、奔流となって全ての些事を洗い流していく。彼以外のこと全てはどうでもいい気さえした。
言葉も出せず固まっていると、一緒に来ていたフランソワが片眉を上げて僕の方を見た。
「何だ、彼かい? ……ううん……まあそろそろ君にも教えるべきか。元王子だよ」
「……そうなんですか」
「彼の処遇をどうするべきか、こちらでも意見が割れていてね。子供まで処刑しては新政府の印象が悪くなるという者と、反乱分子に担ぎ上げられかねないから今のうちに処分しておくべきだという者と……」
「難しいですね」
適当な相槌を打ちながらも、僕の中には嵐が渦巻いていた。
葛藤はどこにもなかった。だって彼は奇跡だ。この現実味のない世界でたった一つの真実だ。薄い膜を隔てた向こう側にある『現実』なんて、いま目の前にいる彼の前ではパン屑一つほどの意味も持たない。
元王子だって? そんなの知ったことか。僕はただ僕の人生に光を与えてくれる、唯一の存在を決して失いたくなかった。
彼が僕を見る。それだけで全身を甘美な雷鳴が駆け抜ける。
知るということは絶望だ。
何も知らないで生きていれば、優しい虚構に漂ったまま僕は生涯を閉じられただろう。けれど僕は知ってしまった。
彼を失ったなら、僕はきっと二度と紛い物の幸福すら掴めない。確信していた。
その日僕は、遺言状を書き始めた。
◆ ◆ ◆
足音がする。忍ばせているつもりなのだろうが、彼の耳にははっきりと聞こえた。
見張りではないだろう。
しばらくその音を聞いていると、鉄柵の外にカンテラの光が落ちた。足音がぴたりと止む。
足音の主は鍵束を取り出し、檻の鍵を開けた。
何をするつもりだろう。彼が体を起こして柵に近付いていくと、そこにいたのはこの間牢獄を見に来ていた青年だった。
「あなたを助けに来ました」
青年がこちらに手を差し伸べるが、彼は微笑んで首を振った。
「私は行かないよ。一緒にいた聖女様が言っていただろう、私のことは早いうちに処刑しておくべきだと言う者がいると。私もそう思う。……哀しいことだけれど、生まれない方が良かった人間というのはいるんだよ。国のためを想うなら、私を助け出してはいけない」
彼には姉がいた。といっても彼は姉のことをほとんど覚えていない。彼が四歳の時姉王女は亡くなったし、その前もほとんど関わることはなかった。
まだ王宮で暮らしていたころ、彼は一度だけ姉に会いに行ったことがある。多分、亡くなる直前のことだった。外国語の勉強でわからないことがあって、姉はとても優秀な成績を収めていると聞いていたから彼は姉の居室の扉を叩いた。
今でも克明に思い出すことができる。
感情というものが全て凍り付いてしまったかのようなその酷薄な笑み。自分によく似た顔立ちがあれほど冷たくなれるのだということ。
『失せろ。二度と僕の前に顔を見せるな』
――吐き捨てる、声。
幼い彼は何を言われているのか理解できず面食らうばかりだったが、今ならわかる。彼は間違いなく姉の人生を壊した。
別に生きていることに罪悪感があるわけでもないし、死にたいほど辛い訳でもない。それでも客観的に見て、彼は生まれてこない方が良かったとわかるだけだ。
死にたくはない。けれど明日処刑台に上るとして何の文句もない。王党派に連れ出されて担ぎ上げられるぐらいなら死んだほうがましだ。幼いころからの教育が正しく根付き、彼は民のことを第一に想うように育っていた。
「私は争いの火種になりたくはないんだ。君が無理やり連れ出すというのなら、今すぐ舌を噛み切って死ぬよ。どうか私を正しく死なせておくれ」
青年は静かに首を振った。
「僕は王党派ではありません。もう貴族も辞めました。今の僕は、ただのアンリです。……あなたに死なないでほしいというだけでは、いけませんか」
彼はゆっくりと瞬きをした。
「……どうしてだい? 私と縁もゆかりもない君が、私を生かしたい理由は? 何の罪もないのに処刑台に上らされる子供に同情した? それならお門違いだよ、私は自分の意思で刑死を選んだ。憐れまれる謂れはどこにもない」
憐憫は彼が最も嫌いなものだ。
周りの大人たちはたまたまこの時代に王子として生まれてしまった彼を憐れみ、可哀想だと言った。牢獄に入ってからも、他の王党派たちと違って彼だけは気の毒そうな視線で見られた。それが何より嫌だったのだ。
彼は無力だった。混迷の時代に為す術もなく翻弄され、命を散らそうとしていた。
自分でもよくわかっている。出来ることなんて何一つなかった。彼は何の罪も犯していないし、取るべき責任も本当は存在しないのかもしれない。
それでも自分の人生は全て自分で背負いたかった。そんなことすらもできない本当に無力な存在に成り下がるのだけは嫌だった。周囲を恨み、時代を恨み、怨嗟の声をまき散らすような無様だけは。
――私は、可哀想なんかじゃない。
憐れまれてたまるか。同情されてたまるか。不憫だなんて、間違ってもこの私に言うな。
あまりにも凄絶で苛烈な、間違いなくそれは誇りだった。
「おまえが私を憐れんではいないと言うのなら、言ってみろ。何故私を生かしたい」
その問いに、青年は真剣な眼をして答えた。間髪入れず真っ直ぐに、真実と知れる声で。
「僕にはあなたが必要だから」
◆ ◆ ◆
彼をどうやって連れ出したのか、僕は全く思い出せない。覚えているのはもっと大事なこと、闇の色だとか肌を突き刺す冷気だとか、手を握り返してくる力の意外な強さだとかだけだ。
ただの平民になった僕は実家から持ち出していた貴金属類を売り払って生活基盤を整え、身分制度がなくなった直後の混乱に乗じて職を得た。
守るべきものはただ一つ、彼との平穏な生活だけだ。
僕は彼を背後に庇い、食卓からナイフを取る。デュラン嬢にとっては命に代えても遂げるべき主の遺命なのだろうが、彼を傷付けさせるわけにはいかない。
死者は崇高だ。殉じた理想は絶えることなく燦然と光を放ち続け、彼ら彼女ら自身にも、穢されることはもう、ない。
僕たちは生きている。ただ一市民として日常を生きている。信念より命を、人類よりも知己を、――理想より現実を、選び取って生きている。それを奪う権利なんて、どんなに気高い生者にも死者にもありはしない。
「彼をどうするおつもりですか。返答によっては……命の保証はしません」
ただの虚勢だ。僕に戦闘の心得はない。女性でも戦いに熟達している相手なら負けるだろう。それでも僕なりに必死に威嚇したつもりだったが、デュラン嬢は至極穏やかな微笑みを絶やさなかった。
警戒の視線を緩めない僕に、彼女は諭すように言った。
「わたくしはフランソワ様の忠実なる僕です。フランソワ様の言葉がそのままわたくしの生き方となるのです。ですから王子に危害を加えるつもりは、最初からございません。――フランソワ様は、あなた方が脱獄するところをご覧になっていました」
僕ははっと視線を上げた。
フランソワは気付いていた。それなのに、僕たちを見逃したというのか。
「高潔なお方でした。迷って迷って、それでも最後には正しさを選ばれました。あの方が見逃すとおっしゃるのなら、わたくしもそうするまでです」
陶然とした眼差しでデュラン嬢は僕たちを見る。
僕はゆっくりとナイフを下ろした。澄み切った彼女の目をじっと見つめる。
そこに大切な何かがあるような気がした。きっとほとんどのことはデュラン嬢に託して、ほんの一かけらだけ僕たちに残されたあの聖女の遺志を、僕は確かに受け取ったと思う。
「……ありがとう」
「わたくしこそ。ありがとうございました」
彼女は最後に深く頭を下げると、それ以上何も言わずに出て行った。引き留める気も、僕にはなかった。
◆ ◆ ◆
外はすっかり暗くなって、広場の方向から花火が見える。人々の歓声と花火の弾ける音が、どこか遠い世界の出来事のようにマリーの耳には聞こえた。
捨てたつもりもないけれど、とうの昔に捨てたものだ。最初からマリーの手に入るものではなかったのかもしれない。だって彼女はマリーの運命なのだから。
人のいない深夜の河岸は静かだった。マリーは晴れ晴れと微笑む。彼女は今、人生で一番と言えるぐらいに満たされていた。
今日この日を以てマリーの、フランソワの革命は終わる。
終戦から実に三年の月日が過ぎようとしていた。
もう大丈夫。主の信じた国民たちを、彼女もまた信じるのだ。この国はもう誰のものでもない。そして誰のものでもある。
――ああ、なんて素晴らしい人生だっただろう。
堤防に立って花火を見上げながら、マリーは心の底からそう思った。彼女の胸中に後悔は一欠片もない。
『オリヴィア王女』を辞める直前の主に覚悟を問われたとき。終戦後、共に戦った部下たちが皆自分の生活に戻っていったとき。――フランソワが亡くなったとき。何度だって普通の市民に戻る機会はあった。
その全てを拒絶して、マリーはフランソワと共にある生と死を選んだのだ。
「……ありがとう」
その言葉は誰に、何に向けてだっただろう。
誰よりも高潔な彼女の主に。オリヴィアと、フランソワと過ごした日々に。人生を賭けるような人に出会わせてくれた世界に、運命に。
今はただ、全てが愛おしくてたまらない。
フランソワも最期はこんな気持ちだったのだろうか。きっとそうだ。
どこまでも穏やかな心境のまま、マリーは地面を蹴った。ふわり、重い衣服に包まれた体が嘘のように持ち上がり、空中で一瞬静止する。――そして。
視界いっぱいに夜空を焼き付け、マリーは目を閉じる。冷たい水が首元から流れ込むけれど、そんなことはどうだっていい。
「フランソワ様」
最後に呼ぶのはやはり、こちらの名前だった。
マリーのいとしいひと。
「――今、お側にゆきます」
よくやったねと、微笑むひとが見えた気がした。
◆ ◆ ◆
翌朝、若い女性の水死体が上がったと隣の奥さんに聞いた。きっと彼女だ。
昨日の時点でこうなるのは何となく分かっていた。でも僕は止めなかったのだ。これは彼女にとっての最良の結末なのだから。
それでもやりきれない気分は拭えない。
朝の川面を見るともなく見ていた僕は、首を振って家に戻った。
「アンリ。どこにいたのかい」
起き出してきた彼はまだ、報せを聞いていない。
「……ちょっと、外の空気を吸いにね。熱は下がった?」
「ああ、もう平気だよ。明日からまた登校できると思う」
目が合った途端、涙が溢れて止まらなくなった。どうしてなのか自分でもわからない。
彼は戸惑った様子で僕を気遣わしげに見上げる。
「アンリ……? どうしたんだい?」
「……何でもないよ。本当に……何でもないんだ」
僕は胸の位置にある頭を強く抱きかかえた。彼は大人しく抱き締められながら、僕の背を擦ってくれた。
僕は無力だ。誰も何も救えなかった。だからか、それなのにと言うべきか、『彼がここにいる』それだけのことが何よりも尊くて愛おしい。それ以外の何も要らない。
――今。
今ようやく僕は、僕という人生を肯定できた気がする。
高尚な生き方をした彼女たちは、自らの手で自分の人生に幕を下ろした。何もしなかった僕は、何もできなかった彼は、こうして永らえている。そのことにきっと、意味なんてない。
意味なんてなくていいんだ。
全ては偶然で、天に与えられた使命なんてものは存在しない。生きる意義が欲しいなら探せばいいし、なくたっていい。
僕はこれでいいんだ。
「……」
抱擁を解き、彼に向き合う。伝えなければならないことがたくさんあった。
何から語るべきか。
僕たちの生と、聖女たちの死について。
橄欖哀歌 芦葉紺 @konasiba1002
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます