《後編》一人の魔族
『これ、受け取ってくれる?』
茶髪の彼がくれたのは、紫色の石を遇らったペンダントだった。それを見た瞬間、思わず顔が綻んだ。
『ありがとう、すごく嬉しい!』
『よかった…。それ、僕がつけてあげても良い?』
安堵したような表情を浮かべ、彼は私に尋ねる。すぐに頷き、ペンダントを彼の手に預けると、彼は後ろに回ってペンダントの金具を引っかけ、再び私を正面から見た。
『うん、凄く似合ってる。』
『本当?ありがとう!』
彼は頬をほんのり赤く染めると、そっと私の右手を取った。
私はどうかしたのかと首を傾げる。
『どうかした?』
『えっと、その…。』
口籠った彼はますます顔を赤らめる。
しかし、一度思い切り息を吐くと、腹を括ったように鋭い目でこちらを見据えた。
『これからもずっと一緒に居てくれる?。』
彼が勇気を振り絞って出たその言葉は、とても温かいものだった。
『…うん。』
今度は自分の頬が熱くなる。でも頷いて、自分の右手を握る彼の手に左手を重ねた。
少年は目を見開くと、にっこりと笑顔を見せ、私を抱き寄せる。
この時の私は、確かに幸せだった。
***
一夜が明け、焚き火が燃え尽きた朝。眠るロイの前に、暗い影が忍び寄る。じわじわと近づいて来た人影は、彼の目の前にその手を伸ばした。
カキンッ!
金属が激しくぶつかった硬い音が、静かな山に大きく響いた。
「全く…やっぱりお前か、エマ。」
ロイは聖剣を鞘から半分だけ抜き、彼女の短剣を阻みながら言った。彼女は昨夜と打って変わって、冷たい視線をロイに向けている。
「いや、“聖女殺しのリーチェ”…かな?」
ロイの言葉を聴いたエマ、もといリーチェはその眼差しを一層凍りつかせ、赤い瞳が姿を現した。彼女の褐色の肌は病人かと思うほどに真っ白に変化し、端正な顔立ちも幼いものに変わる。
“聖女殺しのリーチェ”とは、千年ほど前に大聖女を殺害した魔族だ。元は魔王の配下であり、主人を討たれた怨恨で犯行に及んだとされている。しかし太古の戦いを生き残った魔族を今の人間は捕まえることができず、あっさり姿を眩まされて行方を追えなくなっていた。
「…大人しく眠っていれば良いものを。」
「だったら魔法で寝かせとけよ。それができないお前じゃないだろ?」
「そうか。少々甘く見ていたんだが…勇者の末裔相手に手を抜くべきではなかったか。」
「へー、“甘く見ていた”か…。本当にそうか?」
ロイは聖剣でリーチェの短剣を弾き、宙へ飛ばす。そのまま鞘の先でリーチェの腹を突き、自分が体勢を整える隙を作った。
逆に体勢を崩したリーチェの胸許で、彼女がつけていたペンダントが揺れる。きらりと光った紫色の石を見て、ロイは目を細めた。
一方でリーチェは手元に魔法陣を描き、大きな火炎の球を放つ。ロイはそれをあっさり斬ってしまうが、リーチェは次に氷魔法をぶつけた。
火炎と違って硬い氷に聖剣の刃が止まり、ロイの手も少し凍った。その隙に別の魔法陣が描かれ、今度は黒い光線が飛ぶ。至近距離で避けきれないと直感しつつ、ロイは身を翻して急所を避けた。
光線は彼の脇腹を掠り、地面に紅い血が落ちる。しかしロイはリーチェから距離をとると、口角を上げた。
リーチェは怪訝な目を向けるが、ロイが手に握る物を見てはっ、とした。彼女の手が、無意識に胸許を探る。
ロイの手に見えたのは、紫色の石。リーチェのペンダントだ。攻撃を
それに気がついたリーチェは目を見開き、下唇を噛んだ。
「そんなにこれが大事か?」
「…るな。」
リーチェがドスの効いた声で呟く。目にかかる前髪の隙間からロイを睨む形相が見え、彼女が噛む下唇からは血が垂れ始めた。
「その穢らわしい手で触れるなっ!」
先程までの冷静さが嘘のように声を荒らげると、彼女は一瞬で距離を詰める。ロイも反応して聖剣を握り直すが、それも間に合わないくらいの速さと勢いで、リーチェはロイの頬を殴った。魔法で身体強化されていたらしく、まともに受けたロイは後ろに吹っ飛ばされる。
起き上がる暇も無くリーチェは短剣で彼の首を狙うが、ロイも聖剣で辛うじて阻む。短剣を握るリーチェの手は、赤く腫れていた。
「それを返せ!」
「ったく…そんなに俺が嫌いか?」
「当然だ。お前達人間が…お前の祖先が、全てを奪ったんだ…!」
***
———今から三千年以上前。人間と魔族が争い、戦いの終わりが見えなかった時代。私は魔族の小さな村に住む、ただの子どもだった。
情勢に反していつも穏やかな村だったが、あの日ついに、そこにも戦争の魔の手が押し寄せた。
突然攻め込んで来た人間の兵士達。村の住民のほとんどは彼等の前になす術も無く、無抵抗に近い形で次々と殺された。
「逃げるよ、リーチェ!」
そう言って手を引いてくれたのは、幼馴染のカインだった。
彼に引かれて走る中で、耳を
「待て、餓鬼ども!」
人間の兵士が、逃げる私達を追う。
ひたすらに走って村の出口に辿り着いた時。そこに居たのは、銀の鎧を身に纏う金髪の青年だった。その顔には返り血が飛び、彼の持つ剣の刃にも紅い血がべっとり付着している。
青年と目が合い、カインは急ブレーキをかける。青年の碧い瞳は、霞んでいるように見えた。
目の前にも後ろにも、敵は迫っている。どちらに進むべきか迷うところで、青年はこちらへ歩き、素早く私の腕を掴んだ。
「きゃっ…!」
「このっ…リーチェを離せ!」
「大人しくしてろ。」
カインは青年の言葉を無視し、魔法を撃ち込もうと術式を書く。青年は下唇を噛みながら腰の剣を抜き、魔法陣を斬った。
「勇者様!」
「っ⁉︎…やめろ!」
こちらへ向かって来た追手に、青年は叫ぶ。追手の手元には、魔法陣が既に描かれていた。
青年の制止も虚しく、追手の魔法陣から白い光線が飛ぶ。
その光線が彼の胸を貫いた瞬間が、はっきりと見えた。
どさっ。
倒れたカインの胸には穴が空き、紅い血が地面に流れ出ていく。
その瞬間に、純粋なリーチェは死んだ。
何も聞こえなかった。何も考えられなかった。ただ気づいたら、この手は血に塗れていた。
何が起こったのか分からない。分かるのは、自分の前に彼が倒れていて、自分の足元には大人の亡骸が転がっているということ。そして背後には、銀の鎧の青年が負傷して膝をついていること。
「この
青年が呟き、負傷箇所を押さえながらこちらを見る。その表情は、悔しがっているとも泣きそうになっているとも取れるような、何とも言えないものだった。
しかし、そんなことは関係ない。
トドメを刺そうと近づくと、青年は負傷しながらも再び剣を握った。しかし次の瞬間、互いの間に突然黒い魔法陣が現れると、そこから白い煙があがった。
「っ⁉︎」
煙は青年を覆い隠し、晴れる頃にはその姿は消えていた。
味方が来たのか?はたまた第三者の仕業だろうか?まぁ良いか。あの人の所に、早く行かなければ。
カインの手は、まだ温かい。しかし少しずつ温もりが失われると同時に、幸せだった時の記憶も消えていく気がした。
自分があの男に捕まらなければ。自分が彼の手を離さなければ。いや、
どうして私だけが生き残ったのか?生きるべき人は皆死んでしまい、死ぬべき自分は生きている。そんなのは間違いだ。
先程自分の足下に転がしていた死体から短剣を取る。そして鞘を抜いて、自分の胸に刃先を突きつけた。
間違いは、正さなければ。
するとその瞬間、ピシッと音を立てて何かが手に当たった。急な衝撃で、思わず短剣を落とす。
「全く…ダメじゃないか。命は大切にしなきゃ。」
優しい声が、前から聞こえた。
顔を上げると、ローブを羽織った魔族の男がこちらを見ていた。彼の瞳は黄金色で、なんとも言えない神秘的な雰囲気を醸し出している。
「折角助かったんだからさ。」
「…
「僕はユーリ。…このくだらない悲劇を終わらせる者だ。」
「悲劇を…終わらせる…?」
その人は、にこりと微笑んで言う。
「一緒においで。君の望みを叶えてあげる。」
「のぞみ…?」
「
そう言って手を差し伸べた彼に、妙に惹きつけられた。
初対面で、何者かも知らない男。それでも何故か信じようと思えた。もしかしたら、ただ何かに縋りたかっただけなのかも知れないが。
この時初めて、私は主君となる人の手を取った。すると彼は私を立ち上がらせ、頬に付いていた血を拭った。その時のあの方はどこか哀しげな瞳で、ただ穏やかに微笑んでいた。
彼は後の魔王。この出来事から五年もしないうちに、勇者に討たれる事となる。
***
「…勇者なんて、大嫌いだ。」
リーチェは馬乗りになってロイに短剣で迫りながら、確かめるように、それでいて悔しがるように、ぽつりと呟いた。
カインもユーリも、勇者の手にかかって死んだ。ユーリの子も、勇者の末裔によって殺された。彼女は守りたかった者を、
「お前の言う通り、私はお前が嫌いだ。聖女も勇者も…ただの人間でさえもな。」
「…嘘だな。」
「何?」
「嫌いなのは事実だとしても、聖女を殺したのはお前じゃない。」
「…何を根拠に?」
「俺がそう思ったから。」
「は?」
リーチェは首を傾げると、ロイは自分の推測を話し始めた。
「だって可笑しいだろ?聖女は魔族に強いんだぞ?いわば対魔族特化の聖女が、そう簡単に魔族に暗殺されるとも思えない。それに“エマ”が殺害したのは国の高官だが、魔族との戦争を目論んでいた輩。一方でリーチェが殺したのは魔族との和解を進めた聖女。“エマ”と“聖女殺しのリーチェ”が同一人物なら、矛盾してる。」
「…別に、勇者に対する憎悪と考えれば不思議じゃない。国の高官はほとんどが勇者の血を継いでいる。」
「違うな。」
「何?」
「その理由じゃ、俺を助けた説明がつかない。俺は勇者の直系なんだからな。」
「…。」
「図星か?」
確かに、ロイの推理は的を得ているが、その結論に辿り着くにはなかなかに強引だ。リーチェは図星を突かれたことより、ロイが強引にでもその結論に持って行ったことに驚いていた。
主が居なくなって以来、誰かを信じる気持ちなんて忘れてしまったから。
「…カイン…。」
リーチェは自分が口にした名前に気づき、思わず口許を手で覆った。完全に無意識のことで、自分で自分の行動に戸惑いを覚えた。
短剣で抑えていたロイの聖剣を離してしまい、リーチェは相手の動きに身構える。しかしロイが手を出す気配は無く、聖剣から手を離して、もう片方の手に握っていたリーチェのペンダントを見た。
リーチェが身を引いて距離を取ると、ロイはゆっくり立ち上がり、ペンダントのトップをぶらりと垂らして悪戯っぽく微笑んだ。
「つけてあげても良い?」
違う。そんなはずはない。だって彼は死んだのだ。私の目の前で。
たとえその言葉が、声音が、私を見る瞳が、同じだったとしても。
「…やめろ。」
「リーチェ、」
「その名を呼ぶな!」
声を荒らげ、再び短剣を手にロイのもとへ飛び込む。しかし今度はロイが聖剣を握ることは無く、ペンダントを片手にリーチェの刃を避け、その手を押さえて阻むだけだった。
「聴いてくれ。」
「嫌だ。聴きたくなんかない!」
そう叫ぶと、リーチェは自分の頭を押さえた。
ロイが手を離すと、リーチェは短剣を落とし、その場にへたり込む。痛みに耐えるような苦悶の表情を浮かべ、両手で頭を抱えている。
「もうやめて…。」
先程の叫びとは反対に、弱々しい声で訴える。彼女の目にはいつの間にか涙が浮かんでおり、ぽたりぽたりと地面を濡らした。
「もう、期待なんかしたくない…!」
———何度あの日を思い出しただろう。何度彼を夢に見ただろう。そうやって現実に戻る度に、何度絶望しただろう。
忘れたくても忘れられない。だからペンダントも捨てられなかった。あの日から三千年も経ったのに、結局一度もペンダントを外したことはなかった。
信じたくなっても、信じてはいけない。だってあの日を忘れられないから。彼ではないと、知っているから。
「分かってるんでしょ?」
違う。分かってなんかない。
「どうして、ずっと目を背けたままなの?」
目を背ける?何から?私はずっと向き合ってきた。だからこんなに苦しいんじゃないか。
「…いや。君を責めるべきじゃない。悪いのは僕だ。君を独りにしてしまった僕の
あなたの
ザッ、ザッ…。
足がこちらへ向かってくる。
やめて。来ないで。
「逃げないで。」
どうしてだろう。逃げなきゃならないのに、彼の言葉を聞いてしまう。
「リーチェ、」
駄目だ。この先を聴いちゃいけない。きっとまた、同じ思いをするだけ。夢から覚めて、この上ない虚しさに苛まれるだけだ。
「僕を見て。」
嫌だ。見たくない。もう同じ苦しさを味わいたくはない。従っちゃいけない。分かってるのに…。
目の前には、あの人と同じ、澄んだ瞳。
「…ごめんね。」
彼はそう言って涙を流した。
どうして?なぜ彼が謝るのだろう?
「三千年も待たせて、ごめん。」
これは夢だ。きっと夢だ。今まで見たものと何ら変わらない。永遠に叶わぬ夢だ。
でも、赦されるのなら…もう一度だけ、信じても良いだろうか?
「…遅いよ、カイン。」
彼に触れようと、手を伸ばす。しかし彼は私の手を制した。
「駄目だよ。火傷しちゃう。」
そうか。やっぱりこれも、夢だったか。
そう思った時、彼が持っていたペンダントが仄かに光り始めた。
「これは…。」
彼も気が付き、ペンダントを動かすと、後ろの方向に向けた時に光を強めた。
その先にあるのは、勇者の聖剣。彼が空いた手で柄を握ると、その剣が刃毀れしているのが見えた。
彼は驚いた表情を浮かべると、次に私を見る。
今まで刃毀れなど無かったはずの聖剣。初めてできたその傷は、私がつけたものだったらしい。
ペンダントが更に光る。彼はペンダントと聖剣を見て、何かを思いついたようだ。
「そういうことか…!」
彼は何を思ったのか、側にあった石に剣先をつけて斜めにした。
彼は一瞬迷うようは表情を見せ、目を閉じる。
「この世界には、もう要らない。」
そう呟くと、彼は剣の腹を思い切り踏んだ。
バキンッ!
破片が飛び散るとともに、聖剣が纏っていた淡い光が失われた。そうして聖剣は、ただの折れた剣と化したのだった。
彼は剣の柄を地面に置き、こちらを振り向く。彼はにこりと優しく微笑んだ。
聖なる力は聖剣によって与えられる。つまり聖剣が失われた今、その力もまた姿を消したのだ。
「リーチェ。」
酷く優しい声で、彼が私を呼ぶ。
呼ばれた私は、いつの間にか彼の方へ走っていた。
長い間触れたくとも触れられなかったその腕が、私を包み込む。感じたかった温もりを、一身に受ける。
これは夢じゃない。長い長い悪夢から、今やっと覚めたんだ。
約束通り、これからはずっと一緒に居るよ。
三千年の悪夢 林 稟音 @H-Rinne218mf
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