三千年の悪夢

林 稟音

《前編》お尋ね者


「待て!」

「待てって言われて待つ奴は居ないよ!」


 街の通りを黒いローブに身を包んだ女が走り抜け、その後を複数人の兵士が追う。裏の路地や建物を駆使して逃げおおせる身のこなしは、人間業とは思えないほどに軽やかなものだった。

 それも至極当然。なぜなら、彼女は人間じゃないのだから。


 ここは、人間と魔族が共存する世界。かつては対立し、差別もあった二種族だが、とある大聖女の尽力によってまとまり、今では魔族も人間と変わらぬ生活を送れるようになっている。


 そして、人間の兵士から逃げる彼女も、また魔族であった。街を抜けて近くの山に入った彼女は、そこら中の木の枝に乗っては次の木へ飛び越え、地を駆ける兵士を混乱させていた。


「ハハッ。ざまぁ無いね。」


 彼女は被っていたフードを脱ぎ、中に入れ込んでいた長い黒髪と褐色の肌を見せる。

 この女の名は、エマ。現在殺人容疑で指名手配されている、お尋ね者である。

 お尋ね者というだけあって兵士に追われるのは日常茶飯事であり、いつもこういう隠れやすい場所に逃げ込んでは追手を巻いている。


 一人になったエマは、緑に囲まれた山道をゆっくり歩き始める。今日はどこで身を潜めようかと考えていたところで、ピタリと足を止めた。

 自分が歩いている道の数歩先から、何やら魔力の残滓を感じる。調べるべきかと思い、ほんの少し近づいたところで、突如として地面に青白い魔法陣が浮かび上がった。


「何っ⁉」


 魔法陣から透明な鎖が飛び出し、エマの右手首を捕える。すると絡みついた鎖に青い稲光が走り、その熱さと痛みにエマは悶絶した。


「…っ⁉︎」


 逃れようと手を引けば引くほど痛みが激しくなり、徐々に手に力が入らなくなっていく。

 遂に抗いも虚しく片膝をついたところで、目の前に短い金髪の兵士が現れた。


「これで参ったか?」


 男は腰の剣を抜き、エマの首元に刃を向ける。


「観念して大人しく捕まっておけ。これ以上苦しみたくないだろ?」

「…はぁ。確かにそうね。」


 観念したかのようにもう片方の膝もつき、抵抗して力んでいた右手の力を抜く。それを見た男は、エマに一歩近づいた。

 その時、エマは空いていた左手で剣の刃を掴み、右手に絡んだ鎖に引っかける。


「なっ…⁉︎」


 男は咄嗟のことで反応が遅れ、剣はほとんどエマによって操作されていた。

 エマの思惑通りに剣は鎖を断ち、ようやくエマの右手は解放されたのだった。


「じゃあね!」

「あっ、待て、そっちは…!」


 後ろを確認すると、相変わらずさっきの男が追いかけて来る。何か言っているが、よく分からない。

 しかし次の言葉は、はっきりと耳に入った。


「前を見ろ!」


 その言葉に反応して、エマはようやく前を見る。すると、そこにはあるはずの地面が無く、緑色の景色が目に飛び込んできた。


「あっ。」


 急に止まろうとして止まれるものでもなく、エマはそのまま空を蹴った。

 まぁ、足から落ちれば大丈夫か。飛行魔法は得意ではないが、一瞬浮くくらいはできるだろう。冷静に考えながら、エマは覚悟を決める。するとその時、何かが自分の手首に引っかかった感覚を覚えた。


「待てっ!」


 聞こえたのは、先程の男の声。男の手が崖の上から伸び、エマの手首を掴んでいた。しかし触れたところから白い煙が上がり、焼けるような感覚にエマはその手を離そうとした。


「おい、暴れるな…って⁉︎」


 エマの手首が軽くなる。それもそのはず。男ごと崖から落ちたのだから。


「わっ⁉︎」


 二人は見事に宙を舞った。



 土の上で目を覚ましたエマは、起き上がって周りを見渡す。すると、ずっと自分を追いかけて来た兵士の男が倒れていた。確認したところ息はあるようだが、無数に傷を負っていて痛々しい。しかしエマが着地直前に風魔法で衝撃を和らげたおかげか、幸い骨が折れるような事も内臓の損傷も無く、ただの掠り傷だけで済んでいた。


 だが困った事に、エマが男の肌に触れるとその手がジューッと音を立てて焼けてしまう。何度か挑戦するもののどうにもならず、エマは深くため息を吐いた。


「はぁ…最悪。よりによって勇者の末裔だなんて…。」


 勇者とは大昔の人間の英雄で、現在の人間の王族の始祖にあたる。魔族を焼く力は聖なる魔力によるものであり、それを宿すのは勇者の血を引く者のみ。したがって、目の前の男は勇者の子孫ということになる。


 さて、触れられない相手をどう手当てしようか?


 魔法によって異空間収納していた中から手袋を取り出し、装着してから再び彼に触れてみる。今度は焼ける事なく、手当ても可能だと判断した。


「これでいいか…。悪いけど我慢してよ?」


 きっと聞こえていないだろう男に呼びかけて、エマは処置を始めるのだった。




「あれ…ここは?」


 男が目を覚ました時、手当ては終わっており、体の至る所に包帯が巻かれていた。


 何があったのかよく分かっていない男は、身体を起こして辺りをきょろきょろと見渡す。彼が居るのは芝生の生えた場所で、体の下には黒いローブが敷かれていた。


「やっと起きたか。」


 声の聞こえた方を向くと、ローブを脱いだエマが木の枝の束を持っている姿があった。

 彼女は男の前にそれを置くと、火炎魔法で着火させて焚き火を作る。空を見ると、日没前で少し暗くなっており、焚き火が特に明るく感じる。


「お前が俺を助けたのか?」

「だったら何?」

「…どうしてわざわざ?」


 自分は彼女の追手なのだから、放置してそのまま逃げ仰るのは容易いだろう。それをしなかったエマに、男は首を傾げた。


「あなたが私を助けようとしたから、それを返しただけ。」


 崖で咄嗟に彼女の手を掴んだことを思い出す。

 あの時は必死で考えていなかったが、そうか、その所為せいだったのか。


「だから助けたのか?」

「何か悪い?借りは作りたくないの。」


 素っ気なく答えるところがほんの少し癪に触るけれど、それよりも彼女の犯罪者らしからぬ行いに、男はまた首を傾げた。


「お前、本当に殺人犯か?」

「は?」


 唐突な質問に、エマは思わず訊き返す。そして彼女は呆れ顔になり、深々とため息を吐いた。


「…そっちこそ、それでも兵士?」

「だって…わざわざ俺を助けるメリットなんてほぼ無いだろう?それでも人助けする優しさがあるのに、どうして…。」

「はぁ…。」


 エマは焚き火を挟んで男の前に腰を下ろし、片膝を伸ばしてもう片方を立てた。立てた膝に肘を置いてその手で頬杖をつき、彼女はじっと焚き火を見る。赤い炎をその黒い瞳に映しながら、彼女は口を開いた。


「殺してないもの…人なんて。」




 エマの言葉を聴いた男は、一瞬きょとん、とした後に無邪気な笑顔を見せた。


「やっぱり⁉︎」

「素直かっ!」


 この男は本当に兵士なんだろうかと心配になる。捕えなければならない相手の話に乗っていてどうするのか?


「じゃあ、どうして殺人の容疑をかけられているんだ?」

「ただ近くに居ただけ。」

「それだけで?でも、事情説明すれば…。」

「私は魔族。それだけで犯人にされるのが、今の世の中でしょ?」


 表面上は無くなったと言われても、長い間の差別は簡単に消えるものではない。


 エマの言葉に男は何も言えなくなり、しゅん、と背中を丸める。こいつは犬か、などと思いながらエマはまたため息を吐いた。


「ねぇ、あなた王子様でしょ?どうして魔族退治の兵士なんかやってるのよ?」

「一応役職的には騎士なんだけど…。と言うか、どうして王子だと思った?」

「これだけ私の手を焼いておいてよく言えるわ。」


 利き手である右手は結構な具合に爛れており、聖剣で傷ついた左手と同様、現在は適切な処置をしてから包帯に巻かれている。


「その包帯もしかして?」

「あなたに触ったり、魔法で縛られたりした痕。」

「それは…すまない!崖で腕を掴んだ事に関しては条件反射で…。あと、魔法に関しても…。」

「そうね。ご丁寧に聖魔法なんて使ってくれちゃって…死ぬかと思ったわ。」


 男が使った鎖による拘束魔法は正真正銘聖魔法であり、聖魔法は魔族に対して相性が良い。エマには効果抜群の攻撃であった。


「だって逃げたから…。」

「別に怒ってない。お役目でしょ?」

「いや、本当…すまない。」


 先程から謝りっぱなしの男に、何故か今度は逆にこちらが申し訳なくなってきた。

 全くもって騎士らしくない純情さに、エマはふっ、と笑う。


「何笑ってんだ?ってそうじゃなくて…、俺はロイ。助けてくれてありがとう。」

「ロイって…末っ子王子の?」

「言い方…。まぁそうだけど。さっきの質問に答えると、別に魔族退治じゃないぞ?確かに兄弟の中で一番聖剣と相性が良いっていう理由で魔族を担当することは多いけど…。」

「同じようなものでしょ。」

「確かに…。でも退治するのは犯罪者だから。って、君は違うのか。」


 ロイはふわりと笑うが、それを見たエマは思わず訊く。


「さっきの話信じたの?」

「えっ、嘘だった?」

「いや…幾らなんでも簡単に信じすぎでしょ。」

「確かに。でも、嘘だったら捕まえ直せば良いし。」

「一回でも捕まった覚えは無い。」

「あ…そっか。でも、———。」


 ロイの声は急に小さくなり、エマは「でも」の続きを聞き取る事ができなかった。


「今、なんて言った?」

「…ううん。なんでも無い。」


 思い切りはぐらかされたものの、わざわざ問い詰めるほどのことでも無いだろう。


 エマは訊くのを諦めて、視線をまた焚き火に向けた。炎はパチパチと音を立てながら燃え続け、暗くなった山の中で目の前を明るく照らす。

 焚き火を挟んで二人。それからは互いに何も言わず、只々静かなときが流れるだけであった。



『でも、———君になら、騙されても良い。』



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