第2話

 その後も、わたしの役割が変わることはなかった。


 祀らなければならない。村を守ってくれる蛇神様は、同時に祟る神にもなり得る恐ろしいものだ。

 その蛇神様を、あんな地下の座敷牢へと閉じ込めておくことに違和感はあった。


 だが、その違和感には蓋をした。

 蛇神様は、猥雑なものを嫌う。灯りを嫌う。賑やかであることを嫌う。


 あの座敷牢は、本当に牢なのだろうか。


 猫に餌をやり、イイ様の元を訪れ掃除をしてひつを交換する。

 およそひと月に一回程度は猫を連れて行く。そして猫は戻らない。


 蛇神様を祀る村で、座敷牢に閉じ込められた美しい青年がいる。

 あれ以来持ち帰るひつを開けることはしなかったけど、中には常に蛇の抜殻があるような気がして怖かった。

 

 薄闇の中、牢の格子と漆喰の壁を乾拭きし、何もない畳敷きの床を箒で掃き清める。

 ほんとうに、何もない。猫自体はもちろん、猫の血肉はおろか、骨も、毛の一本すらもない。


 わたしが掃除をする間、イイ様はじっとこちらを見詰めていた。


 不吉な赤い瞳が、じっと。じっと。薄い笑みを浮かべて、ただじっと、見ていた。


 座敷牢は、施錠されていない。扉はただ牢のこちら側と向こう側を分けるための扉でしかない。

 いつでも出られるはずのそこから、イイ様が出るところも、出ようとしているのも見たことはない。


 この美しく哀れな青年は、この寂しく暗い場所で独り囚われているのだと、そう思ってた。

 でも、本当にそうだろうか。本当に、イイ様は囚われているのだろうか。


 座敷牢を掃除している間、むしろ囚われているのはわたしではないかと錯覚する。恐ろしい、何かのいる檻に放り込まれたような、そんな気がして生きた心地がしない。

 あるいは、どちらが檻の内なのかと。そんな不可思議な感覚をおぼえる。


 怖い。

 怖くてたまらない。


 恐怖に怯え、それでもわたしは役目を放棄することはできず、毎日座敷牢を訪れた。

 どれだけ地下牢へ連れて行こうとも、餌場を求めてやってくる猫はまた勝手に増えていく。


 月日はそうしてただ過ぎてく。

 同じ様に続く日々の中で、初潮がきた。わたしが十三歳のときである。


 初めてのその感覚に戸惑い痛む腹を抱えながらも、わたしはいつも通り座敷牢へと向かった。


 通い慣れた地下牢への廊下。

 板張りの床が悲鳴のように軋む。


 揺れる火が灯る手燭を脇に置き、わたしはいつも通り牢に向けて平伏した。

 薄闇と沈黙が落ちる中、顔を上げればイイ様がこちらを見ていた。いつも通り、美しい顔に不吉さしか感じない薄い笑みを浮かべていた。


 逸らされることのない視線に怯えながらも、いつもと同じく扉を開き、身を屈め座敷牢へと入る。

 再度頭を下げたとき、仄かな灯りが照らす畳の上に、影が落ちた。


 いつもと、違う。


 そう思ったとき、下げた顔の首元に、手が伸びてきた。

 喉を強く掴まれ、息が詰まった。


 苦しい、そう思う前にもう、仰向けに畳の上に押し倒されていた。

 腕一本で容赦なく行われたそれに、目が回る。畳に打ち付けられた後頭部が痛んだ。


 何が起こったのかと理解するより先に、着物の裾に入ってきた手が自分でも触れたことない場所に触れ、その指が肉を割り身体の中へと突き入れられた。


 痛みと混乱と恐怖に涙が勝手に零れた。いくらもがこうとも、わたしの喉を抑えた腕はびくともしない。

 そのわたしを、不気味な笑みを浮かべたイイ様が見下ろしていた。


 目の前に、イイ様の真っ赤な指先が翳された。彼の指をぬらりと汚すその血がどこから出たものかは、考えるまでもない。

 血よりも赤い舌がその指を舐るのを、眩暈がするような気持ちで眺めた。


 その後のことは、悪夢でしかない。


 痛くて、怖くて、でも、イイ様はずっと笑みを浮かべていた。


 その後、気が済んだらしいイイ様に解放されたわたしは、ひつを抱え逃げるように屋敷へと戻った。

 明らかに様子の違う私を見ても、大叔母も、誰一人何も言わなかった。誰も、何も、言ってはくれなかった。


 ああ、そうか、そういうことなのか。


 その日、わたしの役目がまたひとつ、増えたのだ。

 いや、世話係とは、そもそもそういう意味だったのかもしれない。


 その後も、毎日のようにイイ様は私を好きに扱った。


 掃除をして、着替えを交換し、畳に引きずり倒される。


 わたしは一刻も早くこの悪夢のような行為が終わることを望み、毎日その行為が行われることをわかっていながら身を清めイイ様の元へと自らの足で向かう。


 やがてわたしの腹が膨れ始めて、イイ様はわたしに触れるのを止めた。


 悪夢は終わったのだと、そんな勘違いをしたわたしは、約九か月の後腹の中に抱えていた異物を産み落とした。


 白い外殻に覆われた、卵を。


 羊水に濡れた卵を目の当たりにした大叔母は、その足で台所へと向かい自ら喉を突いて死んだ。


 わたしは、見れば死にたくなるようなものを産み落としたらしい。


 卵の殻はすぐに割れて、中からは人間の赤子が這い出てきた。

 わたしや大叔母と同じ様に、やはり口は利けない赤子の声なき産声を聴きながら、悪夢が終わってなどいないことを知った。



 卵から生まれた娘は、ただ卵から産まれたというだけであとは普通の人とそう変わらないという話だった。

 わたしには、どうでもいいことのように思われた。卵から生まれたその娘が、わたしはイイ様と同じぐらい恐ろしかった。


 娘の身の回りの世話は、使用人が全て行った。


 卵を産んですぐ、かつてのようにわたしは再び毎日座敷牢へと向かった。

 薄闇の中、牢の格子と漆喰の壁を乾拭きし、何もない畳敷きの床を箒で掃き清める。


 畳の上に引き倒されることは、その後ただの一度もなかった。イイ様はもう、わたしを見ることすらしなかった。


 大叔母の跡を引き継ぎ、わたしの役目には離れの管理も加わった。わたしが産んだ卵から出てきたあの娘を住まわせている離れを見守っている。

 いや、違う。見張っているのだ。


 あの化け物の娘を。


 娘が産まれて、十回、四つの季節が廻った。


 わたしと同じ生来口の利けない娘。

 卵の殻を破りこの世に這い出た化け物の子。


 私はただ娘の、離れの管理を続ける。そして娘が十歳になったとき、いつかわたしがそうされたようにイイ様の元に連れていった。


 その娘も、やがてわたしと同じ様に卵を産んだ。

 卵を産んだ娘がそのまま衰弱して死んでしまったため、わたしは再びイイ様の世話をしなければならなくなった。


 数年ぶりに見たイイ様は、わたしが十のときと何一つ変わらないように見えた。


 毎日猫に餌を与え、月が満ちるのに合わせ猫を運ぶ。


 十年後、血縁上の孫にあたる娘をイイ様の元へと連れて行った。

 娘にとって、わたしは大叔母だということになっていた。何年経とうとも一切変わらないイイ様とは違い、わたしの顔には皺が増え、髪には白いものが混じっている。


 その娘もまた、卵を産んで死んだ。


 卵を産んでは娘が死ぬ。


 次に生まれた娘は、月に一度自らの皮を脱ぎ捨てた。まるで蛇のように。


 その娘もまた、卵を産んで死んだ。


 卵から産まれた娘はやはり口をきけず、脱皮を繰り返す。

 その娘は、わたしの白髪よりも髪が白かった。まるでイイ様のように。


 次の娘は瞳が赤かった。


 イイ様に、近付いていく。


 娘は必ず卵を産み落として死んでしまう。それでもわたしは娘をイイ様の元へと連れて行く。


 同じ光景を、何度見ただろうか。


 わたしにとって一体その娘はなんなのだろう。


 わからない。わかりたくない。この世界はまるで悪夢のようだ。


 無表情でわたしの隣を歩く、白い髪に赤い瞳の美しい女児が、人には見えない。


 土蔵の最奥の、隠された入口から地下へと潜り長い廊下を抜けた先にある座敷牢に、イイ様はあの頃と些かも変わることなく存在している。


 投げ出した手足と共に畳の上に広がる髪、同じ色の白い着物。血のように真っ赤な瞳が、わたしの隣に佇む娘を捉えた。


 娘が迷いなく、座敷牢へと入っていく。


 イイ様の白い首に、幼い白い腕を絡めしなだれかかる。


 頰まで裂けた口から細長い舌がチラリと覗いた気がする。


 後退りしたわたしを、イイ様と娘、二人分の顔が振り返る。ニタリと笑みを浮かべたその姿に、わたしは悟った。


 とうとう、成ったのだと。


 絡み合ったその身体に、白い頭部が二つ。その姿はまるで、双頭の、蛇のように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まじりてつくる ヨシコ @yoshiko-s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説