まじりてつくる

ヨシコ

第1話

 そのひとは、とても美しいひとだった。

 存在を隠されたため、直接呼ぶ人はなかったのではないかと思う。そのひとの存在を知っているごくわずかな人たちは、本人には決して声の届くことはない遠くで「イイ様」と呼んでいた。


 初めて会ったのは、わたしが十歳になった日。

 それまで行ったことのなかった広大な屋敷の奥深く、誰も寄り付きはしない場所にひっそりと佇む土蔵の最奥の、隠された入口から地下へと潜り長い廊下を抜けた先にある座敷牢。大叔母に連れられて向かった先にイイ様はいた。


 大叔母もわたしと同じく生来口を利けなかったため、終始二人揃って無言のまま。薄闇と緊張感に苛まれながら、片手に持つ手燭がじりじりと燃える音が聴こえる気がした。


 わたしが持つ手燭てしょくの小さな灯りの他には、格子のこちら側に背の高い燭台が二つだけ。

 大叔母が今し方灯したばかりの明かりが、薄闇を照らしだす。


 格子の向こう側で、イイ様は顔を伏せて座っていた。


 まず目に入ったのは白い髪。歳の頃は二十歳ぐらいだろうか。村にいるどんな男性とも異なり、生きた人間の臭さを感じない、簡単に手折れそうな儚さを感じる様相に見えた。

 投げ出した手足と共に畳の上に広がる髪、同じ色の白い着物。着物の襟元が、薄い胸元とお腹が見えるほど開けていて、髪や着物と同じぐらい白い肌が当時はまだ子供だった私にも艶めかしく感じられた。


 イイ様は、何もない狭い座敷牢の壁に背中を預け、何をするでもなくただそこにいた。


 ふいにその顔が上がり、正面に立つわたしたちに向けられた。

 いや、わたしに、だ。

 その瞳がわたしを捕らえた。上げた表情のない美しい顔に、なぜか鼓動が跳ねた。

 血のように真っ赤な瞳がわたしを見て、そして、薄っすらと微笑んだ。


 それまで村に在って、空気のようにしか扱われたことのないわたしを、イイ様は認識した。見て、その存在を認めて、そして笑ったのだ。


 心と思考のどこかで、その笑みに不吉なものを感じたけれど、得体の知れない恐怖心に似たその感情よりも、その笑みが、わたしの心にさざ波を立てた。


 イイ様。その名前を心の中で呼ぶ。

 この美しいひとに出会うために、わたしは生まれてきたのだろうか。


 膝が、自然と崩れた。伏せた顔の下、勝手に涙が落ちた。


 この陽の差すことのない暗い地下でたったひとり、その美しいひとは、哀れにも囚われているのだ。


 そう、思った。



 ◇



 この村は山と森に囲われた山間の窪地にある。

 わたしが住んでいたのは、村を束ねる長のお屋敷の一番奥にある離れ。日常的に顔を合わせる人といえば、身の回りの世話をしてくれる使用人の女性と、離れを管理する大叔母。


 屋敷を自由に出入りしそこら中にいる、何匹いるのかも良く分からない猫の世話が、物心つくより前からわたしに与えられたお役目だった。


 たまにお屋敷の誰かに用事を預かり村の中の家を訪れ荷物を届けることはあったが、生来口を利けない、表情も感情も乏しいわたしを気味悪がって、積極的に話しかけてくる人はいなかった。


 屋敷では猫たち以外からほぼ空気のように扱われ、村を歩けば遠巻きな視線を背に受ける。


 もしかしたら、寂しい気持ちがないわけではなかったのかもしれないけれど、親もなく気付けば大叔母の庇護の下で生きていたわたしの中で、この世はすでにそういうものと定まっていた。


 停滞した小さな村の片隅で息を潜め、誰かが話す何かを盗み聞きながらこの世界の情報を集めることだけが、わたしにとって唯一の楽しみと言えただろう。


 春夏秋冬季節は廻り、自然は偉大で人に厳しい。

 子は親を慕い、親は子を愛し、人は人に優しくする。

 実際のわたしにとって、世界は決して届くことない遠くにあるものだったけど、それでも色んなことを想像し、想像するとほんの少しわくわくした。


 この村にはないけれど、てれびやすまほという便利なものが世の中にはあるという。

 都会には驚くほどたくさんの人がいて、世界は知らないもので溢れていて、とてつもなく広いらしい。


 その広い世界の中心で、この村は蛇神様を祀り、お守りしている。

 何よりも畏れるべきは蛇神様の祟りであり、蛇神様が快く思わない外の世界の猥雑なもの。生まれた時から繰り返し言い聞かされるそれらを信じ、世界と断絶したこの村はいつからか時代の流れに逆らい時を刻むことを止めているのだそうだ。

 いつか時代の流れに逆らうことをやめ、動き出す時がやってくるのだろうか。


 それを考えると、そこまでしか考えられはしないのだが、すこしだけ、心に明かりが灯るような不思議な心地がした。



 十歳になり、わたしは猫の世話以外にもお役目をひとつ、与えられた。


 新しいお役目は、夕方から夜にかけて。

 昼間はそれまでと同じように、猫の世話をした。

 世話と言っても餌やり程度。お屋敷の台所にある猫用により分けられた残飯と猫用ペレットというものを適当に混ぜ合わせ、離れの庭の片隅にある餌箱に一日二回、補充をし三日に一度その餌箱を洗う程度である。


 昼を過ぎた夕刻が、新しいお役目の時間。わたしは身を清め真新しい白い着物に袖を通す。


 そして、毎日昼の内にわたしの部屋に置かれているひつを検める。

 十歳のわたしがぎりぎり抱えられる大きさのひつは、木製の年季が入ったもので、わたしが使い始めるより以前からずっと使い続けているものらしい。


 蓋を開けると中には仕切りで二つに区切られている。


 一方には白い着物と白い帯。わたしが着ているものと同じ真新しく真っ白で、大きな着物がたたまれている。念のため広げてほつれや汚れがないかを確かめて、再び綺麗にたたんでしまう。


 もう一方の仕切りは空。

 その仕切りの内側に汚れが無いことを確かめる。


 庭に出ると、猫たちが餌を貰えると勘違いして寄ってくる。そのうちの健康そうで見目のなるだけ良い猫を一匹抱き上げ、手の内に握り込んでいたまたたびを嗅がせ、酩酊し始めた猫をひつに納めて蓋をする。


 向かうのは、イイ様のいる座敷牢。最初の一回以降、大叔母が共に行くことはなかった。

 抱え上げたひつの上には年季の入った小さな手帚と、真新しい真っ白な手拭、そして蝋燭二本と手燭を乗せている。

 手燭の小さな灯りを頼りに、土蔵の地下の暗闇を進んでいく。


 抱えるひつの中で、時折猫が動く気配がある。がりがりと箱の中を爪で掻く音がする。

 猫が必要なのは月が満ちる日。およそひと月に一回程度。


 ひつを抱えて行った座敷牢で平伏し、まずは燭台の灯りを灯す。

 何もない座敷牢の中を掃き清め、乾拭きし、座敷牢の入り口横に前日わたしが置いていったひつを座敷牢から出し、代わりに持って来た猫の入ったひつを置く。


 イイ様は薄闇の中、ただじっと、薄い笑みを浮かべわたしを眺めている。


 燭台の蝋燭を交換し、最後に平伏して、座敷牢を後にする。


 毎日同じことを繰り返した。毎日毎月毎年同じ。

 月が満ちる晩だけは猫を一匹、ひつに入れて。


 一度だけ、座敷牢から持ち帰ったひつの中を覗いてみたことがある。猫を運んだその翌日。

 土蔵から持ち帰ったひつは、わたしが開けることなくそのまま使用人に渡すことになっていた。でも、どうしても猫の行方が気になってしまった。


 おそるおそる開けたひつの中には、丸めた白い着物が入っていた。こちらはイイ様の着替えだろう。

 そして、前日猫を入れたはずの仕切りの中には、猫ではない別の何かが入っていた。


 最初は、布だと思った。白い、布だと。

 無造作に放り込まれたように見えるそれは、隣の仕切りで丸められた白い着物の倍以上のボリュームがあった。


 よく見れば、布というにはところどころが半透明になっていて、模様らしきものが見えている。


 さらに目を凝らし、触れてみようと伸ばした指先が直前でぴたりと止まった。


 大急ぎでひつの蓋を閉めて、その上に覆いかぶさった。

 足元から、覆いかぶさったひつの中から、恐怖が忍び寄って来るような気がした。


 蛇の、抜殻だ。


 姿を消してしまった猫の代わりに入っていたのは、巨大な蛇の抜殻だった。

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