12月25日【最後のお手紙】


 ピイーと薬缶がなりました。ゆみこさんは、よっこいしょと立ち上がって、コンロの火を止めに行きます。まったく、立つのも座るのも、ひと苦労です。

 コンロの火を止めたあと、保温ポットにお湯を注ぎまして、そうして、ゆみこさんの一日は始まります。


 久しぶりの、静かな朝です。石炭の局員さんも、オパールの人も、真っ黒なお馬さんも、ゆみこさんのお家に来ていた不思議なものたちは、昨日のうちに帰ってしまいました。

 封筒の再配達という大仕事を終えましたから、自分のお家に帰って、クリスマスを過ごすのです。



 昨日は、みんな、大活躍でした。


 オパールの人は、オパールの舟に封筒を満載して、消波ブロックに打ち付けられた波のお手紙や、沖の方で光りながら跳ぶ魚の群れのお手紙や、水底を滑る冷たい海流のお手紙なんかを届けました。


 メレンゲの王様は、白いクリームの中を奔走して、初めて作ったクリスマスケーキのお手紙や、ココアに浮かぶマシュマロのお手紙や、ストーブの前で丸くなった白い猫のお手紙なんかを届けました。


 真っ黒なお馬さんは、真っ黒な影の中を疾走して、折れた鉛筆の芯のお手紙や、線の切れた黒電話のお手紙や、犬のつぶらな瞳のお手紙なんかを届けました。


 みーちゃんは、狭い隙間をすり抜けて、忘れ去られた日記のお手紙や、冷蔵庫の裏に積もった埃のお手紙や、路地を吹き抜けた木枯らしのお手紙なんかを届けました。



 そして、ゆみこさんと男の子が、毛糸の靴下の中に入れたお手紙たちは、あらゆる靴下の中に届けられました。


 寒空の下で乾くのを待っている靴下の中に。箪笥の中で丸められて眠っている靴下の中に。床の上に脱ぎ捨てられた靴下の中に。枕元に吊るされた靴下の中に。

 女性の、男性の、大人の、子供の、赤ちゃんの、犬の、猫の、椅子の、テーブルの、お絵かきの、折り紙の、オーナメントの、靴下の中に。


 お手紙は、どこにだって届いたのです。そして、宛先になっている誰かや何かのそばで、そっと封が開かれます。

 ある人は、なぜだか突然、とても懐かしい気持ちになったでしょう。

 ある人は、もういないはずの誰かの声が、聞こえたような気がしたでしょう。

 ある人は、自分でも気づかないうちに、そっと、かすかに、微笑んだでしょう。


 そのようにして、お手紙は届けられたのです。



 静かなお家の中で、ゆみこさんは、適度に冷めたお湯を飲みました。お腹の中からぽわっと温かくなって、ほっとします。

 椅子に座ってじっと耳を澄ませていると、リビングに置いてある椎の木のクリスマスツリーから、ひそやかな声が聞こえてきます。声の主は、かそけきものの雪雲さんです。


 かそけきものの雪雲さんは、嵐のような再配達の間は、喧騒から逃れるように、梢に立ち上っていました。今日、お家の中が静かになってから、ようやく椎の木の根元まで降りてきて、封筒に戻る準備を始めたのです。

 そのかすかな物音は、雪の降る音や、水たまりが凍り付く音よりもささやかで、それでいて、どこか楽しそうなのでした。今日が、クリスマスだからでしょうか。


「再配達のお手伝いは、どうしましょうか。今日はもう、バイクや舟では行けないけれど」

 ゆみこさんが尋ねますと、雪雲さんは湯気のような体を膨らませて「大丈夫」と胸を張ります。

「もう、ずいぶん寒くなりましたから。冬の音を頼りに、私自身の力で、どこへだって行けるはずです」


 窓の外から、高く細長い北風の音が聞こえました。「ほら」と、雪雲さんが囁きます。

「なんて素敵な、冬の音。ゆみこさん、たいへんお世話になりました。では、さようなら」

 雪雲さんが言いますと、窓が、ひとりでに開き、冷たい北風がリビングに流れ込んできます。かそけきものの封筒は、風に乗って、舞い上がりました。そして、北風に煽られた枯れ葉のように、天高く、昇って行きました。


「さようなら。どうか、お元気で」

 ゆみこさんは、窓から身を乗り出して、空へ向かって手を振りました。返事の代わりに、口笛のような風の音が、ゆみこさんの耳元を掠めていきました。

 北風は町を抜けて川を渡り、海の上を巡って、山へと向かいます。風の向かった先の山は、朝霜が降りたのでしょう。真っ白に染まっています。


 みんな、行くべき場所へ行けたんだ。ゆみこさんは嬉しくなって、冬の冷たい朝日の中で、背伸びをしました。そして、さすがに体が冷えてきましたので、窓を閉め、ストーブの前へと向かいました。



 冷えた体を温めてから、ゆみこさんは、窓のそばに置いてある籐のかごを覗き込みます。

 こんなに穏やかでのんびりとした朝ですが、ゆみこさんにはまだ、やるべきことがあるのです。最後のお手紙を、届けなければなりません。


 かごの中では、色とりどりの毛糸の玉と、紺色の封筒と、それから小さな猫の女の子が、仲良く身を寄せ合っています。

「みーちゃん、おはよう」

 ゆみこさんが囁きますと、彼女は「ううーん」と寝ぼけた声を出してから、ぱちり。お目目を開きました。


「ゆみこさん、おはよう」

 みーちゃんが挨拶をしました。こうして、みーちゃんの一日も、始まります。

 今日はきっと、特別な日になるでしょう。なんといっても、クリスマスなのですから。



 朝ごはんを食べて、身支度を整えておりますと、キンコーン。玄関のチャイムが鳴りました。

「はいはい、今行きますよ」

 ゆみこさんは立ち上がって、玄関の方へ向かいました。

 チェーンを外して、鍵を回します。カチャリ、とドアが開きました。


「ゆみこさん、おはようございます。メリークリスマス」

 そこに立っていたのは、長江商店のヨシオさんです。

 毎年、クリスマスには、ヨシオさんに配達をお願いしています。ゆみこさんのお家に届けてもらうのではなく、ゆみこさんのお家から、届けてもらうのです。



 毎年、ゆみこさんは子供用の靴下をたくさん編んで、クリスマスの前に、近所の教会に持って行きます。今年は、クリスマスの前があんまり忙しかったものですから、ヨシオさんにお願いして、クリスマス当日に教会に配達してもらうよう、頼んでいました。

 クリスマスのミサには間に合いませんが、クリスマスが終わったあとも、教会にはたくさんの人が来ますので、ゆみこさんの靴下は皆に行きわたるでしょう。


 ヨシオさんは、靴下のたくさん詰まった段ボールを何箱も、配達トラックに運び込みました。そして、先日とは打って変わって、がらんとしたゆみこさんのお家を見て、首をかしげます。

「あれ、あの男の子は? もう、帰っちゃったんですか」

「そのことなんですけれど……」

 ゆみこさんは、ヨシオさんにひとつ、お願い事をします。

「教会への配達のあとで良いですから、私を、長江商店まで連れて行ってくれませんか」




 長江商店は、この町に古くからある商店で、何でも売っていることで有名です。この町に住む人たちは、ほとんどの人が、長江商店で日用品を調達します。

 ゆみこさんも、もちろんそうです。ゆみこさんがまだほんの子供だったころから、ゆみこさんは、長江商店のお得意さんだったのです。


「親父から聞いていますよ。ゆみこさんとは、仲が良かったって。親父がこの町を離れていた時期も、ずっとお手紙でやり取りをしていたんでしょう?」

 トラックを運転しながら、ヨシオさんが感心したような声を出します。助手席のゆみこさんは、昔を懐かしんで、目を細めます。


「親父がこの町に帰ってきて、長江商店を引き継いだときも、ゆみこさんにはお世話になったって。本当、頭が上がりませんよ」

「そのぶん、こうして色々と助けてもらっていますからね。お互いさまですよ」

 配送トラックは町を行きます。川沿いの道を抜け、四辻をいくつも曲がり、やがて長江商店へと到着します。



「ところで、ヨシオさん」

 トラックを駐車場に止め、お店の裏口まで歩きながら、ゆみこさんが尋ねます。ちょっとだけ声をひそめて、内緒の話をするように。

「あなた、たしか、お兄さまがいらっしゃったでしょう」

 ヨシオさんは、ちょっとだけ驚いたような顔をしました。そしてすぐに「親父から聞いたんですか」と納得します。

「ええ、兄がいました。親父が町を出ていた時期に生まれて……火事で亡くなった兄が、一人」

「お気の毒なことです。お兄さまのお名前を、教えていただけませんか」


 なぜ? という表情をしつつも、ヨシオさんは教えてくれます。

「タカオです。長江タカオ」

「タカオくん。タカオくんね」

 ゆみこさんは、胸に手を当てて、その名前を繰り返しました。これで、配達の準備が整ったのです。




 長江商店の前店主であり、ゆみこさんの幼馴染である彼は、お店の奥の小部屋で、具合が悪そうに、ベッドに横たわっていました。この冬の、暖かかったり寒かったりする気候が、老いた体に堪えたのでしょう。


 ゆみこさんが「失礼します」と声をかけますと、老人は、つらそうに身を起こしました。「ああ、ゆみこさんか」と言うその声は、すっかり掠れてしまっています。



「久しぶりだね。どうしたんだい、わざわざうちに来るなんて」

「あなたに、渡したいものがあって」

 ゆみこさんは、カーデガンの内から、封筒を取り出しました。

「タカオくんからの、お手紙ですよ」

 老人はそれを受け取って、穴のあくほど見つめます。ざらざらした手触りの、紺色の封筒です。赤い封蝋は、しっかりと封筒の口を閉じています。


「何度も受け取り拒否をされたって、怒っていましたよ」

 ベッドの脇の丸椅子に腰かけて、ゆみこさんは話します。

「自分のことを忘れちゃったんじゃないかって、悲しんでもいました。でも、忘れてなんかいないでしょう」


 封筒から顔を上げ、ゆみこさんを見つめる老人の唇が、わなわなと震えます。「忘れるわけがない」と、掠れた声が言いました

「でも、思いださないようにしていた。思い出すと、つらくなるから」

 震える指で、老人は、封筒を開きました。封筒の中は、空っぽです。

 問いただすように、老人は、ゆみこさんを見ました。ゆみこさんは静かに、ベッドの向こうを指差しました。


 老人が振り返りますと、そこには、男の子の姿があったのです。


 紺色のダウンジャケットを着て、赤いマフラーを巻いています。男の子は、ぶすっと不貞腐れた顔で、老人を睨んでいます。でも、への字になったお口は、今にも緩んでしまいそうです。潤んだ両目からは、今にも涙がこぼれそうです。



 邪魔してはいけないと、ゆみこさんは、そっと丸椅子を立ちました。小部屋を出て、音を立てないように扉を閉めます。

 これできっと、配達は成功です。何度も受け取り拒否をされて、とうとう郵便局を逃げ出してしまったお手紙は、ようやく正しい宛先へと届けられたのです。


 どんな言葉が届けられたのか、それは、送り主と受取人しか知り得ないことです。




 こうして、最後のお手紙は届けられました。北風ゆうびん休憩所は、その役目を終えて、無事に閉所のはこびとなります。


 ……が、もちろん皆さんお分かりの通り、もう一通、未配達のお手紙が残っているのです。これに関しては、宛先について何のヒントもなく、誰もかれもお手上げだった一通です。


 いったい、みーちゃんは、誰から誰へ宛てたお手紙なのでしょう。本人に訊いても、「うーん」と言うばかりなのです。けれど、休憩所はクリスマスをもって閉じられるのですから、何とか、配達しなければなりません。


 もう一度、みーちゃんに訊いてみましょう。あなたは、どこ宛てのお手紙なの? 何か、手掛かりになるようなことは、思い出していない?



 そう尋ねようと思ったのですが、お家に帰りますと、なんと、みーちゃんがいないのです。リビングにも、台所にも、家具の隙間にも、椎の木の影にも、カーペットの下にも、窓際の籐のかごの中にも、どこにも見当たりません。

 一体、どこへ行ってしまったのでしょう。もしかして、ゆみこさんがお留守にしている間に、封筒に戻って、自分の力で宛先まで行ってしまったのでしょうか。


 それだったら、良いのですが。でも、お別れくらいは言いたかったと、ゆみこさんは肩を落とします。

 すると、その時です。


 キンコーン。玄関のチャイムが鳴りました。



 どきどきと、胸を高鳴らせながら、ゆみこさんは玄関のドアを開きます。そうしますと、なんということでしょう。玄関ポーチに、白い封筒が落ちているのです。いいえ、落ちているというよりは、きちんと玄関の方へ向けて、置いてあります。


 ゆみこさんはよっこらしょと腰を曲げて、封筒を拾おうとしました。すると、ゆみこさんの指が封筒に触れる前に、封筒は、かすみのように消えてしまったのです。


 風で飛んでいってしまったのかと思って、ゆみこさんが顔を上げますと、ふたつの瞳と目が合いました。



 どこからやって来たのでしょう。見るからに野良だと分かる痩せた子猫が、ゆみこさんを覗き込んでいます。

 その瞳は、飴玉のようにまんまるで、琥珀色のセルロイドのようにつややかです。朝露のように澄んでいて、つららを通り抜けた光のようにきらめいています。


 見間違えるはずもありません。それは、可愛らしい、愛おしい、みーちゃんの瞳です。


「まあ」

 驚くゆみこさんの足元に、子猫はすり寄って、にゃーんと鳴きました。



 ――あのね、誰宛てのお手紙にするか、まだ決めてなかったの。


 ――お手紙になってさまよって、誰かやさしい人がいたら、その人宛てにしようと思ってたの。そして、お手紙を受け取ってもらえたら、その人のところに行こうと思ってたの。



「まあ!」

 ゆみこさんはもう一度感嘆して、子猫を抱き上げました。まったく、猫というものは、なんてちゃっかりした生きものなんでしょう。自分をきっと愛してくれる人を、お手紙になって、探していたというのです。


 ゆみこさんは、子猫を抱きかかえて、お家の中に入りました。子猫はあんまり汚れて、痩せていますので、まずはそこをなんとかしなくてはいけません。


 ゆみこさんは、子猫のためにミルクを温めようかと思い、そしてはたと思いなおします。確か、猫に人間用のミルクを飲ませてはいけないのだと、そんな話を聞いたことがあります。


 不思議な猫の女の子は、ミルクもケーキも何だって食べましたが、痩せっぽちの子猫は、そうもいかないでしょう。だとすれば、ゆみこさんがすべきことは、ただひとつです。



「もしもし。さっきの今で申し訳ないのですけれど、子猫のごはんを配達してもらえませんか。ええ、そう、みーちゃんの。ちょっと預かっているだけのはずが、どうも、長い付き合いになりそうなのよ」

 長江商店へ電話するゆみこさんに、痩せた子猫は、嬉しそうに頬をすり寄せます。


 ゆみこさん、だーい好き。

 まぼろしの言葉が聞こえた気がして、ゆみこさんは、電話をかけながら微笑みました。



 十二月が、終わります。新たな年を迎えるゆみこさんのお家は、例年にも増して、にぎやかになるでしょう。




<おわり>

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