恋人たちの湖

白井なみ

恋人たちの湖

 もう十五年も前のことになるだろうか。子供の頃に見た、白昼夢のような光景を今でも鮮明に覚えている。今思えば、あれはその後に起こる不思議な出来事の前兆だったのかもしれない。

 あの湖には何かがいる。人出の多い日中は昏い湖の底に身を潜め、水上から聞こえる喧騒を煩わしく思いながらも眠っているに違いない。

 それが何故あの時だけは、燦然と照りつける日差しの下に現れたのか。そんなこと、私にわかるはずがない。


 父方の祖父は老舗水産会社の役員で、避暑地に別荘を持っていた。祖父は定年を過ぎても働いていたが、足腰が弱くなりそれも難しくなると、会社がある都内を離れて別荘に移住した。

 祖母は私が生まれるよりも前に亡くなっており、家政婦なども雇っていない。別荘には祖父一人で暮らすことになるが、父や母が心配しても、祖父は「大丈夫だ」と厳いかめしく言い張って耳を貸さなかった。

 

 夏休みに入ると、祖父の別荘を訪れることが我が家の恒例行事となった。忘れもしないあの夏──両親は幼い弟を連れて買い物に出掛けており、家には祖父と私がいた。

 当時十歳だった私は、虫取り網と虫籠を片手に「カブトムシ捕まえてくる!」と、高らかに祖父に宣言して家を飛び出して行った。

 

 別荘は湖畔に位置し、周囲を生い茂る木々に囲まれている。手入れが行き届いていないだけだが、外壁には蔦が絡まり、まるで西洋の森の中に佇む洋館のような風情を湛えていた。

 避暑地だけあって夏休みシーズンは観光客もそれなりに多い場所だが、別荘のある一帯は比較的静かで、すれ違う人も地元民と思しき人が多い。

 木々が鬱蒼と生い茂る森のようなこの場所は、カブトムシを捕まえるには正に打ってつけだと言える。

 だが、結局カブトムシは見つからず、いるのは蝉ばかりだった。幼き日の私は子供らしくすぐに飽きてしまい、空の虫籠を首から提げて湖の方へぶらぶらと歩いた。

 照りつける真夏の直射日光は、少年の肌をじりじりと焦がす。耳をつん裂くような蝉の生命の大合唱は、子供ながらに鬱陶しいと感じた。カブトムシを捕まえられず、気が立っていたのだろう。おまけにこの暑さだ。子供でさえ、外で走り回る気力を失くす。


 生い茂る木々の間を縫って湖へ行き着くと、そこには図鑑でさえ見たこともないような生き物がいた。

 所々が茶色く褪せた白い毛並みに、先端が黒くなった三日月のような嘴。湾曲した長い首に、つぶらな黒い瞳。

 それは何食わぬ顔で水面を悠々と進み、その姿には気品さえ感じられた。

 ここまでなら、殆どの人が至・っ・て・普・通・の・白鳥を思い浮かべるだろう。だが、それは何処にでもいるような白鳥ではない。

 本日は営業していないようだが、湖畔には観光客向けのスワンボートが何台も停まっている。折角の休日だというのにどこか哀愁を漂わせ、黒マジックで塗られたような丸い目でそ・の・白・鳥・に視線を向けていた。

 

 その白鳥は、スワンボートよりも大きかった。遠目だと象と同じくらいの大きさに見える。

 あれは何だ。自分は夢でも見ているんじゃないのか。だが、照りつける日差しと騒々しい蝉の声が、これが紛れもなく現実なのだということを幼き私に告げていた。

 呆気に取られ、暫くの間、私はその場を動けずにいた。視線は巨大な白鳥に固定され、ゆっくりと水面を進むその生き物の動きを注視していた。

 どれくらい時間が経っただろう。はっと我に返り、辺りを見回した。付近に人の姿は一人も無いが、視線を再び前に向けると巨大な白鳥は相変わらずそこにいた。

 小さき私の存在に気づく素振りも見せず、つぶらな瞳でただ正面を見据えてゆっくりと進んでいる。もしかして、水面下では巨大な脚を必死にばたつかせているのだろうか。

 私は巨大な白鳥にくるりと背を向け、弾かれたように別荘への道を全速力で駆け出した。


「じいちゃん!!」

凄まじい勢いで扉を開けて現れた私に、祖父は驚いた様子だった。急いで走ってきた為に、息が上がって喋ることさえままならない。

 祖父は何事だとでも言いたげな表情で座椅子から立ち上がると、私の為に冷たいお茶を淹れてくれた。

「どうした。そんなに慌てて。何かあったのか?」

 私は祖父から受け取った麦茶を一気に飲み干した。

「白鳥が、でっかい白鳥がいたんだ!!でっかいなんてもんじゃない!象くらいでかいの!じいちゃんも来て!新種の生物かもしれない!」

早口で捲し立てると、私は祖父の手を引っ張って家を出た。

「なんだなんだ。そんなに慌てなくても。それに虫取り網は?置いてきたのか?」

 祖父に言われて、私は初めて自分が虫取り網を持っていないことに気がついた。だけど、今は虫取り網なんかどうでもよかった。

 あの白鳥は新種に違いない。もし本当に新種だったら、名前を付ける権利を与えられるのかな。そしたらあの白鳥を、キング・スワンと名付けよう。

 見たらじいちゃんも、びっくりして腰を抜かしてしまうかもしれない。祖父に早く見せたくて、私の足は次第に速くなった。


 しかし、湖までやって来ると、そこにキング・スワンの姿はなかった。

「なんだ、何もいないじゃないか」

祖父は腰を摩りながら、些か疲れた様子で言った。私は愕然とした。つい先ほどのことが本当に白昼夢であったかのように、水面は静かにそよぎ、巨大な白鳥は忽然と姿を消していた。

「ほ、本当にいたもん!でっかい白鳥!じいちゃん、ここに住んでるのに一回も見たことないの!?」

キング・スワンが消えたのは祖父の所為だとでも言わんばかりに、自然と祖父を責め立てるような口調になってしまった。

 祖父は困ったように笑いながら、私の頭の上に老いた掌を重ねた。

「見たことないなぁ。そんな凄いもん見れたなんて、ラッキーだったな。じいちゃんもこれから、湖をよく見張っておくことにしよう」

 祖父の優しさは、先ほど見た光景が本当に夢だったのではないかというような気持ちにさせた。

 虫取り網はすぐ近くに落ちていた。気付いた祖父がそれを拾った。

 夕方、両親と弟が帰って来ても、私は昼間見た白鳥のことを話す気にはなれなかった。話したところで、どうせ信じてもらえない。

 少なくとも私がいる所では、祖父もそのことを話しはしなかった。




 あの夏から三年後──祖父が亡くなったのも夏だった。

 祖父は認知症を患い、別荘での一人暮らしが難しくなってからは父によって半ば強制的に都内へ連れ戻され、私たち一家と一緒に暮らすこととなった。

 次第に言動にもおかしな所が見られるようになり、溺愛していた私や弟のことさえもわからなくなっていく祖父を見ているのはとても辛かった。

 祖父はよく譫言のように「きよ子」という名を呼んでいた。きよ子とは、今は亡き祖母の名前である。

 

 祖父は八十五歳で亡くなった。病院の一室で眠るように息を引き取った。最後の晩まで、ずっと「きよ子」と祖母の名前を呼んでいた。二人は余程、仲の良い夫婦だったのだろう。



 

 祖父が亡くなってから五年後、別荘は売りに出されることとなった。祖父との思い出が詰まった美しいあの家を手放すことは憚られたが、何年も誰も訪れていない為に老朽化が進んでいた。

 最後にあの別荘を訪れておきたいと思い、私は職場に休暇申請を提出した。

 生温い風しか当たらない、蒸し暑い夏である。私は新幹線に乗り、一人で祖父の別荘へ向かった。父や母、弟は仕事があり来られなかったが、母と弟は別日に遺品の整理に訪れることになっている。


 別荘は老朽化が進んで廃墟と呼ぶに相応しい外観となっていたが、鬱蒼と茂る木々の緑に囲まれたその建物には、依然として古びた洋館のような趣があった。

 玄関の戸を開けると、中から埃っぽい空気が溢れ出し、思わず噎せ返った。何年もの間、誰も中に入っていないのだから仕方がない。

 動物か何かが棲みついているのではないかと不安に駆られたが、明かりを点けると、以前訪れた時と少しも変わらない室内が照らし出された。埃こそ被っているが、整理整頓が好きだった祖父の家ということもあり、物は所定の位置にきっちりと置かれている。まるで何年間も時が止まっていたかのようだ。

「いらっしゃい」と、笑顔の祖父が二階から下りて来るような気さえした。

 二階も同様に、以前訪れた時と変わった様子はない。祖父の寝室もほとんどそのままで、忘れられたような家具や雑貨が静かに息をしていた。

 書斎の本棚には所狭しと分厚い本が並べられ、木製のデスクの上は整然としていた。デスクの上に置かれた写真立てに目がいき、ふと手に取ってみると、そこには中年の男女の姿があった。別荘の前に、笑顔の祖父と祖母が写っている。本当に仲の良い夫婦だったんだな、と思わず頬が緩んだ。

 

 立て付けの悪い窓を開けると、生温い風が吹き込んできた。木々の向こうに青々と耀く湖が見える。日差しを受けて水面は光の粒子を纏い、美しい穏やかな時間が流れていた。暫しの間、私はそうして窓から見える絵画のような景色に目を奪われていた。

 此処を訪れると、やはりあの夏のことを思い出す。いくら時が過ぎようと、あの白昼夢のような光景は鮮明に脳裏に焼き付いて離れない。

 あの生き物は、本当にいたのだろうか。もしいたとしたら、私以外にも目撃者がいたはずだ。それなのにテレビや新聞で取り上げられていないということは、やっぱりいないのかもしれない。

 今となっては確かめようのないことだ。



 その日は家の中を簡単に掃除した後、観光客の多い商店街の方へ出向き、その後湖の周辺をぶらぶらと散歩した。

 数年振りに訪れたが、やはり良い場所である。今更ながら、別荘を手放すことが少し惜しいようにも感じられた。

 夜は商店街で買って来たものを別荘の中で食べながら、映画を観たりして過ごした。

 久々のゆっくりとした休日に充足感を味わいつつ、その日は少し早めに床に着くことにした。



 浅い眠りと覚醒の境界を行きつ戻りつしているような感覚があったが、なんとなく外で物音が聞こえたような気がして目が覚めた。ナイトテーブルに置かれた腕時計は、夜中の二時過ぎを指し示していた。

 仄暗い室内を窓から差し込む朧げな白い光が照らし出している。白いレースカーテンが夜風にふわりと舞い上がり、外がやけに明るいことに気が付いた。

 不審に思い、ベッドから起き上がって窓の外を覗くと、何やら湖の方が異様に明るい。それも花火のような人為的な発光ではなく、蛍のような自然的な灯だった。真夜中の闇の中で、湖の一帯だけが隔離されたかのように浮き上がって見えた。

 この不思議な光景を前に、頭はすっかりと覚醒してしまった。このままでは気になって、とてもじゃないが眠れそうにないので、私は寝間着のまま家を出た。


 私は昔から霊的なものを信じる性質ではなかったが、そんな私でも些か足が竦んでしまうほど、真夜中の森は異様な雰囲気に包まれている。懐中電灯が放つ煌々とした光に導かれながら、不気味な高い木々の間を速足で通り過ぎた。

 懐中電灯も不必要になるほどに、ほとりに近付くほど、幻のように朧げな白い光は濃度を増していく。

 畔に出ると、信じ難い光景を前にして何も考えられなくなった。

 

 夜の湖の上を無数のスワンボートが漂っていたのだ。その数、十、二十……いや、もっとだ。とても数えられそうにない。

 湖面は白い光に覆われていて、スワンボートに乗っている人の顔までははっきりと見えない。顔だけでなく、まるで影が乗っているかのように全体が暗かった。

 スワンボートはどれも同じ方向へ向かって、霧のような白い光の中をゆっくりと進んでいる。虚空に浮かぶ黄金の満月が、この夢幻のような光景を照らし出していた。

 ふと、一台のスワンボートに視線が引きつけられた。他のボートと同様に、乗っている人の姿は影に包まれていてよく見えないが、私にはそれが祖父であると一目でわかった。顔も身に着けているものも見えないのに、どうして祖父だと思ったのかはわからない。それでも、あのスワンボートに乗っているのは紛れもなく祖父だった。

 祖父の隣にもう一人乗っている。そのシルエットは女性のように見えた。そしてそれが祖母であることを直感した。

 二人の影はデートでもしているかのように、仲睦まじく談笑している。よく見ると他のどのスワンボートにも二人乗っていて、夫婦なのかカップルなのかはわからないが、彼らは皆、恋人同士であることがわかった。


 自分の身体を硬直させているのが恐怖なのか、それとも驚愕なのか、私にもわからない。信じられないような光景を前に、ただその場に立ち尽くしていることしか出来ず、現実と夢の狭間にいるような感覚に眩暈がした。

 そうしているうちにどれくらいの時間が過ぎただろう。私の視線は祖父母の乗るスワンボートを追っていた。二人の影は再会の喜びを分かち合うように、顔を見合わせては微笑み合っている。

 亡くなる直前まで、「きよ子」と譫言のように祖母の名を繰り返し読んでいた祖父の姿が思い出された。私は泣いていた。

 二人を乗せたスワンボートは次第に遠退き、月明かりの向こうへと見えなくなっていく。

 その時、巨大な影が頭上を横切った。それは月を侵食し、湖上のスワンボートを導くように西北の空へと羽ばたいていく。

 恐怖も忘れ、その幻惑的な光景の美しさにいつまでも魅入っていた。優しい祖父が笑っているところを最後に見られて良かった。




 それから二カ月後──私は母と弟と連れ立って、遺品の整理の為に再び別荘を訪れた。家具や雑貨、食器や本や小物類、この家にあるもの全てに祖父母の思い出が染みついている。

 じいちゃん。でっかい白鳥、ほんとにいたでしょう。

「そうだな」と言って呵々と笑う祖父の声が、秋風に乗って聞こえた気がした。

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