目が覚めると体中が痛かった。体のあちこちについた細かな傷が、どこもかしこもじくじくと熱っぽい。

 僕の枕元で泣き入っていた兄は、僕が身体を起こすなり僕に飛びついてきた。

 それから両親にたっぷり説教され、同時に説明を聞いた。川に飛び込んだ僕のことを善意で助けてくれた人がいたから、僕は奇跡的に一命を取り留めたということ。流されている途中で枝に引っかけたり壁にぶつかったりしたせいで、体中に打撲と擦り傷が出来ている上に、川の水にさらされて膿んでしまう可能性もあるからしばらく様子見で入院すること。それから、もう二度とこんなことはするなと、何度も何度も釘を刺された。心配していた両親や兄の手前、僕は真剣そうな顔つきをして頷くしかなかった。

 翌日の昼過ぎ、「今日は学校が早めに終わったから」と、日向が僕の病室まで訪ねて来た。手にはハーゲンダッツを三つ持って、「お前何ばかなことしてんだよ」という苦笑も土産と一緒に持ち入って。

 日向が持ってきたハーゲンダッツは、バニラといちごとチョコだった。「なんか好きなの取っていいよ」と言われ、僕が迷わずバニラを手に取ると、日向は露骨に残念そうな顔をした。遠慮して戻そうとすると、「いいよ、食えよ」と僕にスプーンを差し出し、彼自身はいちごのカップを手に取った。チョコ味は備え付けの小さな冷蔵庫にしまった。

「亮也が心配してたぜ。……まあ、俺もだけどさ」

 彼がアイスの蓋を剥がす。固いアイスにスプーンを突き立て、大きな欠片を口に入れる彼の傍ら、僕も同じように蓋を取った。容器はすごく冷たい。

「潔癖症のお前があのドブ川に入るなんて相当の異常事態だろ。冗談で言ったことが本当に起こっちゃって、もしかしたら俺のせいかと思ってめちゃくちゃ焦った」

「日向のせいじゃないよ」

「わーってるよ。……なんであんなことしたわけ」

 いちごのアイスは僕のバニラの倍のスピードで減っている。その残りを大雑把に削りながら、日向は僕を睨みつける。

「正直、よくわからないんだ」

 日向はスプーンを口にくわえて、続きを促す。

 僕は起こしたベッドの背に身体を預ける。派手に擦ったらしく、ずきずきと痛い。

「あの川がきれいじゃないからこそ、あの川に入ったら、僕は世界から受容されるんじゃないかって気がしたんだ。今考えるとおかしい話だけどね。本気でそう思った」

 拒まれ続けていた世界から、僕は一度受容され、そして再び拒まれた。そんな感覚を、僕自身が受け取っていたのかもしれない。ショックで自殺をしようと思ったとか、そんな意図なんてこれっぽっちもなかった。

「それはちょっと違う気がするけどな」

 日向はベッドの白い台に肘をつく。アイスはいつの間にかほとんどなくなっていて、日向は僅かな残りをかき集めて、口に含んだ。それから、僕の方を見た。

「世界がお前を受け入れるかどうかじゃなくて、お前が世界を受け入れるかどうかじゃん」

 日向の目はあまりにもまっすぐで、僕はすぐに言葉が出てこなかった。

 日向は食べ終わったアイスのカップを乱暴にゴミ箱に放り投げた。


 面会時間の終了間際になって、赤羽先輩は病室にやってきた。もう来客はないだろうとたかを括っていた僕は、驚きのあまり読んでいた文庫本を取り落としてしまった。赤羽先輩はそんな様子を、きょとんとした顔で見つめていた。

「座っていい?」

 僕は「はい」とぎこちなく答える。すると、てっきり椅子に座るものだとばかり思っていた先輩は、僕のベッドの空いている場所に腰掛けて、僕に身体を向けた。僕は慌てて伸ばしていた足を引っこめた。

「どうしたんですか」

「どうしたんですかも何も、お見舞いだよ。後輩が入院してるって言うからさ」

 退屈してるかなーと思って、と。少し不機嫌そうに口をとがらせた先輩は、僕の顔をじっと覗きこんだ。

 彼女の行動の意図がわからず、僕は困惑していた。

 すると、先輩はかばんの中を漁り、ひとつのプラスチックケースを取りだした。どうやらDVDのケースのようだ。ケースを手に取る。どこか古めかしいパッケージにはこう書かれていた。『リリイ・シュシュのすべて』

 確か、前に先輩がオススメしていた作品だ。

「見たことないって言ってたから持ってきたの。お父さんの奴だから、絶対壊さないでね」

 僕はDVDケースを手に取ったまま、しばらく呆然としていた。「はい」と頷く声もどこか上の空で、先輩はそんな僕を心配そうに見ていた。

 うまく会話がつなげられずない。手の中のDVDに目線を落とす。耳障りな秒針の音がどこからともなく響いてきた。

「てかさー、映画の上映会終わっちゃったってほんと?」

「……ええ、まあ」

「ちぇっ、私せっかく頑張ったのに文化祭本番までお預けじゃん。こんなんだったらいとこの結婚式とか行かなきゃよかったなあ」

 先輩が唇を尖らせる。「いとこの結婚式?」と僕はオウム返しに口にした。

「私のいとこさー、新卒三年目でできちゃった結婚したの。ばっかでしょー。結婚式の前にはサプライズの手伝いまでさせられてさ。まったく、いい迷惑だ」

 まあ、新しいピアス買ってもらっちゃったからいいけどね。先輩はそう言うと、髪を掻きあげてこちらに耳たぶを見せてくる。耳には小さな石が付いていた。いかにも高そうな感じだ。「それ、いくらしたんですか」と言うと、先輩は人差し指をひとつ立てて、「これだけ」と僕に示した。

「千円?」

「ふふっ、ざんねーん」

「一万?」

「さあ、どーだろー」

 ぞっとした僕のことを見透かしたみたいに、先輩は腹を抱えて笑う。

「とりあえず、早くその怪我治して元気におなりよー。じゃあね」

 先輩が僕の頭を乱暴に掻き混ぜて、颯爽と病室を去っていく。来てから帰るまで、十分足らず。なんだか嵐みたいな人だ。

 先輩の去る足音を聞きながら、僕はベッドの上に座りこんでいた。手の中にあるDVDと、ぐしゃぐしゃに乱れた髪の毛と、先輩の手の感触。全部に現実感がなくて、僕は内心混乱していた。

 僕は自分の手で髪を直す。ベッドの横にある小型のテレビでは、このDVDは見られるのだろうか。

 僕はベッドに横たわった。白と緑を基調としたパッケージを見つめて、その裏に先輩の名前がひらがなで書かれているのを見つけると、僕は少しおかしくなって笑ってしまった。小さい頃の悪戯書きだろうか。拙い字が妙に愛くるしかった。


 僕はもう少しだけ、この世界を愛してみよう、と思った。

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