その日は悶々とした気分で家に帰った。例の川のある橋も渡った。俯きながら歩く帰路はやたら早く、僕はその早さに助けられたのかそうじゃないのかわからなかった。ただ、カバンの重さを背中に感じながら、自分の影を踏むようにして歩いた。

 家に付き、玄関のドアを開ける。「ただいま」という言葉は口からこぼれ落ちるようで、同時に落ちそうになる涙を僕は必死でこらえる。家族の前では泣きたくない。

 靴を脱ぎ、顔を上げると、最初に飛び込んできたのは大きなゴミ袋だった。なんでこんなものが廊下に、と怪訝に思ってそれを見つめていると、その中身が洗剤類やスポンジ、消毒液の類なのだと分かった。血の気がすっと引いていく。

 僕は慌てて玄関の三和土を見た。僕の靴の横には、乱雑に脱ぎ棄てられた祖母の靴が転がっていた。

 どかどかという足音が聞こえてくる。僕の目線の先には、袖を肘までまくって、ゴミ袋を抱えた祖母が立っている。

「何、やってるの……?」

 半ば放心しながら、僕は祖母にそう尋ねた。

「何って、家の中の要らないものを片づけるの。こんなにたくさん洗剤があっても仕方ないでしょう? 必要ならあとでおばあちゃんが買い出してあげるから、今は大掃除」

 そうでもしないとあんたの潔癖症なんか治りゃしないもの、と祖母は続けた。祖母の抱えたゴミ袋の中には、僕が自分の部屋で保管していたはずのものもたくさんあった。祖母は僕の部屋に無断で立ち入ったのか……? その足で?

 一度認識してしまうと、とたんに気持ちが悪くなった。喉もとにまで胃のものがせり上がった気がした。祖母に立ちいられてしまった部屋、捨てられてしまう僕の道具、家の中をあちこち歩き回ってはものを掻きだす祖母。想像がぐるぐる頭を巡り、寒気が背中を這い上っていく。

「……なんで」

 僕は額に手を当てて、呟いた。僕の問いに祖母は答えない。代わりに、彼女は「あのねえ昌人くん」と僕を見て、ひとつ、大袈裟なくらいに大きな溜息をついた。

「あんたのそれねえ、一度、病院行った方がいいと思うんだよ。おばあちゃんも色々調べてみたんだけど、『強迫性障害』って言って――……」

「触んないで!」

 肩に手を置こうとした祖母の腕を、僕は必死にはじいて、声を張り上げる。祖母の腕に触れた自分の手の甲を制服に擦りつけ、僕は彼女を思いっきり睨んだ。少し、祖母がたじろいだのがわかった。

「ばあちゃんはそうやって僕の居場所を奪うんでしょ。洗剤も消毒も全部ないと僕が生きていけないってわかってて、それでも全部捨てるんでしょ。もうこれ全部使えないんだよ、ばあちゃんが触ったせいで、わかってる? ねえ!」

 喚き立てる僕の声に、「昌人?」と母親が僕を窺う。祖母は呆然とした顔のまま僕のことをぽかんと見ている。

「僕がばあちゃんになんかした? なんか物凄い迷惑かけた? それでも我慢しろって言うんならばあちゃんだって我慢してよ。兄さんを殺しかけた人殺しの癖にその汚い手で僕に触るなよ!」

 息が苦しい。「ちょっと昌人、何言ってるの! おばあちゃんに謝りなさい」という母親の声が、いつもよりも外側で、がんがんと鳴り響く。僕はこぶしを固く握った。僕に触れてこようとする母親を振り払い、僕は玄関口に向かって走った。勢いのまま靴を引っ掛け、ドアを押しあけ、転がり出るように外の世界へと走り出した。

「昌人?」

 横ですれ違った人影が、僕の名前を呼ぶ。兄だ。僕は彼の方も振り返らず、ひたすら前に向かって進んでいた。どこに向かおうかすら考えず、思いつくがまま道を走って行った。

 気付くと例の川のところまで来ていた。日はもう沈み切って、中途半端に欠けた月が夜空に所在なく佇んでいる。そんな月を、水面は逆さに映しだしていた。

 ざあざあという水流の音。暗くてよく見えない川面は、街の鈍い灯りを反射して揺らめいている。夜で視界が効かないからか、水質がどうなっているのかなんて見下ろしているだけじゃ全くわからない。僕は川面を見つめていた。今度こそ泣こうと思ったけど、涙は出てこなかった。心に巣食った色んなものを涙と一緒に流してしまいたかったのに、瞳は濡れるばかりかどんどん乾いていくようだった。

 淀みに溜まった落ち葉が怪しく艶めいている。質量を持った水の流れと、昼間は感じ取れない水の温度、匂い。橋の上から見下ろしているだけなのに、色々な情報が頭の中に飛び込んでくる。

 この水は涙の代わりに何もかもを流してくれるだろうか。そんな考えが、不意に心の隅に浮かび上がった。まっさらな世界で生きるには穢れすぎた自分自身を、この川の流れは洗い流してくれるだろうか。ざあざあと流れる水の音。何もかもが洗い流されれば、僕は、この世界で少しは生きやすくなるだろうか。

 僕は橋の手すりを握った。川面を見つめたまま動かない僕のことを、何人かが訝りながら通り過ぎていく。僕はそんな目線に急かされるように、手すりに体重をかけて身を乗り出した。

 意外と幅のある手すりの上にあがると、何人かの人があからさまにざわついた。僕は不思議と落ち着いていた。ちっとも怖くなんかなかった。

 僕が世界から受け入れられるためには、こうするしかないんだ。

 僕は大きく手すりを蹴る。内臓がふわりと浮き、風が耳のすぐ横を切る。水面が迫ってくる時間が、随分とゆっくりに感じた。

 身体は縮めた両足から着水し、僕は派手な飛沫とあぶくを立てて水中へと潜る。大きな衝撃と水音。濡れた衣服が水の流れに引っ張られて重たい。

 ――どうか、目が覚めたら、見える景色がきれいになっていますように。

 くぐもった音をしきりに立て続ける冷たさの中、僕はそう祈って、目を閉じる。


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