眠り--------『巡りゆくもの』
今宵は新月であるらしい。
薄闇の中、ジェーンが目覚めたあの夜からちょうど三月が過ぎたことになる。目覚めの夜を迎える前のジェーンは百年もの長きに渡って眠り続けていたと聞く。
そう説明した相手は作家を名乗る若い男で、今はジェーンのお世話係を自称していた。
眠りにつく前のことをジェーンは何ひとつ覚えていない。そればかりかおのれの名さえ覚えておらず、ジェーンという名はお世話係の男が名付けたものだ。
いつぞや連れ出された温室にせよ、いつもの男の居室にせよ、古城はしんと静まり返り、他人の気配を感じることはない。
男が話す事柄のすべてを信ずるのであれば、調理や洗濯をはじめ、身の回りの生活の世話を担う使用人はいるようだ。時々は城を来訪する者もあるらしい。しかしその存在を証するものは何もない。
もっとも、話の真偽を確かめたいなどとはジェーンは思わなかった。手足どころか心の臓さえ持ち合わせぬジェーンは、首から下の体とともに物事への関心だとか好奇心だとかを失ってしまったのかもしれなかった。
目覚めの挨拶のつもりらしい雑談を終え、男が部屋を出て行ってから──どれほどの時間が経ったのかは分からないが、そろそろ戻ってくる頃合いだ。正確に時を計るすべを持ち合わせているわけではないので、なんの根拠もないただの勘でしかないのだが。
そう考えながら見つめる先の扉には、百数える間にもなんの動きもない。
不意に馬鹿馬鹿しくなってジェーンは瞼を伏せた。たかだか退屈しのぎの役にしか立たぬ世話係の戻りを心待ちにするなどどうかしている。
戻ってきた時にジェーンが眠りに落ちていたら、男は何を思うだろうか。
瞼がおのれとそれ以外を分断するものであるように、眠りとはすべてを分断するものであるらしい。目の前の景色も音も過去も未来も、あるいは生と死さえも。
外界との関わりのいっさいを断つという意味では眠りは死そのものであり、目覚めは生のはじまりとも言えた。一昼夜の間に刻む細やかな生と死は、しかし記憶のすべてまでもは分断しない。
瞼の向こうへと追いやった扉がわずかに軋む音をとらえて、ジェーンは渋々瞼を上げた。この三月の間、飽きもせず繰り返される食事の時間が再びやってきた。
ジェーンには食道も胃もなく、空腹を感じたこともない。だから食事の必要性を感じることもないというのに、お世話係の男にとっては必要な儀式であるらしい。
この夜、用意されたのは鹿肉のシチューだった。夏の盛り、よく脂ののった牡鹿が手に入ったのだという。じっくりと火を通したモモ肉には臭みもなく柔らかだった。
男の話を聞きながら、夏とはどんな時期であったろうかと考える。夜に道を譲ることを忘れた太陽が空をぐるりと巡り、春撒きの大麦が育ちゆく中を心地よい風が駆け抜けてゆく──そんな季節であったような気がする。
舌で潰し、飲み下した肉の感触が喉の奥からいずこかへ消えた。首の下端から滲むでもなく腹へ下りる感覚があるわけでもなく、いつものことながら不思議な感触だった。
夏の盛り。繁殖の期を控えた牡鹿たちの肉も、生を維持するために食されるのであれば狩られ煮込まれる意味もあろうというもの。では、ジェーンが咀嚼し嚥下した肉にはなんの意味があるのか。長い長い眠りから覚めた後も小刻みに生と死を繰り返しているようでありながら、首から下のすべてを持ち合わせないジェーンは、果たして生きていると言えるのか。食すことを許される身と言えるのか。
「今夜は心ここにあらずだね。──何を考えこんでいるの」
穏やかな男の声でジェーンは我に返った。男は空になった小皿を膝に置き、ほとんど同じ高さからジェーンの双眸をじっと見つめていた。
多少なら動かすことのできる顎を突き出してそらし、なんのことだ、と男の問いを突っぱねる。
「何も考えてなどおらぬわ。次なる死までの、眠りに戻るまでの時を数えておっただけのこと」
男は唇を歪めるようにして笑み、ふぅん、と低く声を漏らしただけだった。
罪深い僕が君を取り戻すまでの長く短い物語 こどー@鏡の森 @kodo
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