旅--------『百の顔を持つ男』
「湖畔の酒場に旅の男が宿を求めたそうだ」
温室を暗闇が満たし始めた頃、不意に男は話し始めた。
「人口三百にも満たない小さな村のことだから、珍しい客があったとなればすぐに広まる。ところがこれといった特徴のない男だったようで、誰もその風貌を覚えていない」
いつもと同じ、ジェーンの反応があろうとなかろうと関係のなさそうな話しぶりだった。あるいは静まり返った客席を眼前に独演会でも催しているつもりなのかもしれない。
「酷く年老いた男だったと言う者もあれば、老いてはいたが闊達な旅人だったと言う者もあった。はたまた、あれは男装の老女だと言う者もあった。どす黒い肌を覆う髭が獣毛のようだったと言う者も」
つい先ほど特徴のない男と言ったわりには、さまざまな特徴がその口から語られる。語る中身に深い意味などないのだろう──おそらくは。
瞼を伏せ、ジェーンは男の声を聞き流すことにした。この日の目覚めは男の言うとおり、普段よりもいくらか早かったようだ。視界を閉ざせば穏やかな眠りの波がすぐ近くまで押し寄せるようだった。
心地のよい波に時にさらわれそうになりながら
高くの窓から清冽な月の光が注いでいる。目の前に作られた石の道は花道のようにも見えた。ジェーンの居場所が舞台ならば観客は温室を彩る多くの花々、ジェーンの居場所が客席ならば舞台のあるじの姿はいまだ見えない。
小さくため息をつきかけた時、あっ、と間の抜けた声が隣から聞こえた。
続いて石の上を木が──おそらくは男が座していた椅子の脚が──こする耳障りな音。いつになく慌てて席を立った男は、ジェーンのしかめっ面を振り返りもせず足早にどこかへ去った。
みずから動くすべのないジェーンには、その姿を目で追うことしかできない。姿が隠れてしまえばその先は追いようもなく、耳をすませて様子をうかがうことくらいしかできなかった。
男の言うようにジェーンが真に古の魔女であるのなら、もう少し何かできることがあってもよさそうなものだった。何も人を呪い殺そうとか思いのままに操ろうとしているとか考えているわけではない。
道の向こうから金属の軋む音が聞こえてくる。聞き覚えのある音だ。
キィギィ、キィギィ。やがて男は台車を押して戻ってきた。その上には大きな鉢と支柱に支えられた大振りの葉、そして白く大きな蕾が乗っている。
そのさまに既視感を覚えてジェーンは目を見開いた。大きな葉に縁どられた白い蕾。あの目覚めの夜、城のどこかにある鏡に映ったおのれの姿がそこにあるようだった。
台車を押してきた男はいかにも一仕事を終えたふうに手近の縁石に腰を落ち着ける。その目が高くの光源を見上げ、その後にこちらを見つめたことに気がつくと、ジェーンは眉間に皺を寄せた。
男はつい今しがた落ち着けたばかりの腰を上げ、石の道を踏んでジェーンのそばまで戻ってくる。
「あれを見せたかったんだ。もう少しだけ待っていて」
ささやくように言ってジェーンの隣に座り直すと、男は伸ばした手の甲で断りもなしにジェーンの頬に触れた。皮膚を挟んで伝わるほのかな体温と湿りはあちらとこちらに宿る命を証するもののよう。視界の右下に映る指は無防備で、思い立ちさえすれば容易に噛みつくことができそうだった。
自由に動き回ることもできず呼気や食物の行く先も知らず、ジェーンにできることと言えば見つめ、瞬き、嗅ぎ、食し、聞き、話し、そして思考することのみ。ろくに油の行き渡らない台車で運ぶなど、合理的ではあるかもしれないがなんとも味気のないことだ。あの白い花にとってはどうだろう。故郷を離れどことも知れぬ場所で鉢の土に植え付けられ、月光を浴びてかすかに震える──。
やがて長短の知れぬ時の果て、花は音もなく透きとおった花弁をゆっくりと開き始めた。ジェーンの頬に触れたままだった男の指がぴくりと動いた。
この温室にジェーンを招き入れた理由が開花にあることは聞くまでもなく明らかだった。月が満ちる一夜だけに咲き、翌朝には儚く散ってしまう花のことなら知っている。
男にとっての誤算はジェーンの目覚めが早すぎたこと。おかげでろくに推敲もできていない旅の男とやらの話を無理に紡ぐ羽目になった。
ふふ、とジェーンは小さく息をこぼした。かすかな音に驚いたように男の指が再び動き、頬に張り付いた肌が離れゆく。
時の過ぎゆくを感じる心のあることを、求めれば冴えわたる思考のあることを今はよしとしておくべきなのだろう。
記憶は新たに紡ぎ、積み重ねてゆけばよい。月の光を受けて幾重にも透きとおりさざめく、あの美しい花のように。
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