温室--------『籠の中』

 ある時目を覚ますと、風景が一変していた。

 驚きはしたものの、長くは続かなかった。検討するまでもなく理由は知れていた──作家を名乗る男の仕業だ。

 ジェーンは夜が明ける頃には眠りに落ちる。首から下のないジェーンを部屋から違う場所へ移すことくらい、あの男には造作もないことだろう。

 今度の居場所は温室のようだった。煉瓦を積み上げた壁の合間にガラスの煌めき。その向こう側にはまだ太陽が控えているようだ。柔らかな日差しがうっすらと筋を落としている。

 光が注ぐ先にはうら若い乙女の頬のように色づいた胡蝶蘭ファレノプシス、淡く柔らかな大輪の洋蘭カタセタム。道を分けた反対側には大振りの鳥羽玉ウバタマ翠冠玉スイカンギョクなどの多肉類。それらを取り囲む多くの植物の葉や花弁がゆっくりと揺れている。おのれの意志で動く力があるのでなければ、どこからか風が入り込んでいるのだろう。花弁の上では鮮やかな色の花粉が光を受けている。

 統一性があるとは言いがたく、太陽を好む種もそうでない種も、湿りを好む種もそうでない種もあまり区別なく植え付けられているように見えた。断りもなく気軽にジェーンをここに運んだように。

 名も知れぬ樹にしがみついた芋虫の背が不意に盛り上がる。絹布に据え付けられた首の端にも芋虫がすり寄っているような気がしてジェーンは眉間に皺を寄せた。心地よい空想とは言いがたかった。

 枝葉が乾いた音を立てる。つられて視線を動かすと、細い光の筋を割るように影が落ちた。

 影を追って地に降り立ったのは、果たして気まぐれの主だった。その手に持った棒の先で芋虫をひょいと絡げとり、腕に下げた籠へと落とす。

「目を覚ましていたのかい。まだ太陽は隠れていないのに」

 ジェーンが目覚める時間にはなんの定めがあるわけでもない。ただ目覚めた時に目覚め、寝入る時に寝入るだけの日々と知っていように、この男はジェーンを夜の眷属と決めてかかっているようだ。

「君が早く目覚める時もあると分かっていたなら合わせて趣向を用意したのに。理解が足りなくてすまないね」

 男の口ぶりは謝罪にしては軽やかすぎる。心にもないことをと言ってやってもよかったが、何らかの理解とやらを求めているわけではないのだからと黙して聞き流すことにした。売られた言葉に応じたところで、何も得られるものはない。

 男はその口ぶりと同じくらいの軽やかさでジェーンに近づき、すぐ隣に腰を落ち着けた。あらかじめ椅子を置いてあったようだった。

 先ほど芋虫を放り込んだ籠の口には返しがあって、連中は逃げ出すことはできないようだ。

 ジェーンが籠を見つめていることに気がついたのだろう、男は行儀悪く投げ出した足先で籠を少しばかり遠くへと追いやった。

「苦手かい。古の魔女なら魔術か何かで使いそうなのに」

「……知らん、そんな術など。そもそも何も覚えておらんと言うておるだろう」

 何も覚えていないのだから、男の言う古の魔女とやらのこともジェーンにはよく分からない。記憶とやらは残念ながら内から湧いて出てくるものではないようだ──芋虫の姿を見たとたんに湧いて出た嫌悪感とは異なって。

「……その中身はどうなる」

「あとで外へ放つよ。今、君を放っておくのは不本意だから」

 這い出てはこないから安心していいよ、と続けられ、何やら複雑な気分になった。小馬鹿にされているということはあるまいが、気遣われているという印象でもない。

 ジェーンは静かに嘆息した。這い出ることのできない籠の内側に投げ込まれた芋虫を思う。据え付けられた場所からの身動きが叶わないと分かっているだけジェーンはマシなのだろうか。

「気まぐれで突然に居場所を移されてはかなわぬ。次からはせめて予告せよ」

 予告され拒否したところで、抵抗するすべなどジェーンは持ち合わせていない。その自覚はあるからこそ、男の答えにジェーンは目を見開いた。

「……悪かったよ。少し驚かせたかっただけなんだ。陽が沈んで気温が下がり、月の光が注いだら──」

 話を尻切れに終わらせ、それきり男は沈黙してしまった。

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