だんまり--------『目覚めの夜のこと』

 ふたつ前の新月の夜、ジェーンは目覚めた。

 たとえ昼間だったとしても陽が差すようなことはない、ひどく静かなその場所は、後にして思えば礼拝堂だったのかもしれない。

 薄く開いた視界に真っ先に宿ったのは何本かの蝋燭の灯りだった。火はゆらゆらと音もなく頼りなく揺れていた──大気の流れはあるようだった。

 乾いた目を何度かの瞬きで潤し、周囲を見回した。首の可動域は妙に狭く感じられ、身を起こそうと思ったところで、体の感覚がないことに気がついた。それに、目覚めたばかりであるはずなのに視界が垂直であることにも。

 少しばかり視線を下ろしたあたりには、一心不乱に祈りを捧げる何者かの姿がある。

 背格好は成人のもの。まじないの句を唱えるでもなく、ただこうべを垂れ胸に手を当てる姿はさながら殉教者のよう。

 物音ひとつ立たない中で、殉教者はやがて頭を上げた。目はすっかり薄闇に慣れていたので、相手は男だと分かった。

 薄闇越しに目が合うと、男はしばし動きを止めた。その直前の頭を上げる仕草を見ていなければ、よくできた彫像に見えたかもしれないと思うほどにピタリと。

 男の手が持ち上がって口もとを隠す直前、その唇は確かに笑みの形に歪んでいた。ほんの一瞬見えただけのいびつな笑みは奇妙なほどに印象深く、記憶の溝にしかと刻まれた。

 男は口もとを隠したままうなだれ、床に両の手を置くと、またしばらくの間動きを止めた。

 音のない世界に最初の一音を放つのはためらわれた。唇を動かしてはみたものの口腔は目と同じようにひどく乾いていて、うまく発声できないのではないかという気もした。

 そもそも状況がまるでつかめず、発するべき言葉さえ思い浮かばなかった。

 うなだれていた男はやがて上半身を起こし、無言のままこちらを見つめ、そして低くつぶやいた。

「──ジェーン」

 男は立ち上がり、冷たい足音を残して室内を去る。

 初めにつぶやいたからには、それがわたしの名なのだろうかと思った。けれど、それにしてはこちらへ呼びかけたという風情ではなかったし、返事を待つ様子もなかった。

 状況がまるで分からない時、混乱と沈黙は意外に仲がよいものらしい。

 瞼を伏せると長い眠りの中に戻るような気がした。眠りにつく前のことは何も思い出せなかった。

 ここはどこで、わたしは誰で、立ち去った男は何者なのか。


 やがてガタゴト、キィギィと耳障りな音とともに男は戻ってきた。台車を押してきたようだった。台車の下段から降ろした踏み台を上り、骨張った両手をこちらへ伸ばす。

 ひやりと乾いた両手が頬を包んだ。抵抗はできなかった──何しろほとんど動くことができなかったので。

 男の掌が頬から顎へと下りる。皮膚に張り付く圧を感じたと思ったら、視界が揺れてふわりと上がる。

 首の真下を冷たい大気が撫でた。引っ張られてついてくるはずの体の感触はなかった。

 吸い込んだ大気は鼻腔を満たしはするものの、その先の胸に膨らみを感じることもない。

 なんの抵抗もできないまま台車の上段に置かれた上質な生地の上に据えられ、そして、視界は動き出した。キィギィ、ガタガタという音は、今度は振動を伴っていた。

 冷たい夜風を全面に受け、顔をしかめる。夜を切り分ける柱をいくつも通り過ぎ、途中の突き当りで暗闇に浮かんだ生首を見る。

 その後ろにぼんやりと浮かんだ白い手が頭のすぐ後ろにある男の手だと気づいて目を見開いた。突き当りの生首もまた目を見開いたので、どうやらわたしは体をなくしてしまったようだと気がついた。

 戦慄し夜気を吸い込むことはできても、跳ね上がったり締め付けられたりする胸郭はここにはない。

 ここはどこで、わたしは誰で、わたしの体はどこへいってしまったのか。

 ここはどこで、わたしは誰で、わたしの体にいったい何があったのか。

 ここはどこで、わたしは誰で、台車を押す男は何者なのか。

 ガタゴト、ガタゴト、キィギィ、ギィ。

 不快な不協和音と揺れに占拠された耳に、応えるものは何もない。

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