<中盤試し読み>第六章(暴力描写あり)

六.中学一年生 七月十三日

 制服が夏服に切り替わってから一週間。ホームルームが終わってせん風機が切れた瞬間から教室が一気に暑くなった。帰りの準備をしつつ、シャツをパタパタと動かして風を通す。

 初めての期末テストが終わった教室は、自由を手に入れた喜びでいっぱいだった。おれも、夏休みに入ればサッカー部の練習づけになるし、今日くらいは思い切り遊ぼうと決めている。部活には真面目に行っているし、体つきもしっかりしてきたから、一年生のうちからレギュラーをとれる可能性は十分にある。

 タカユキとヒロシとしゃべりながら、B組の帰りのホームルームが終わるのを待った。今日はコースケとヨッチも入れて、モールのフードコートに行くのだ。買い食いが許されるようになってから初めて行くフードコート。テストの開放感も相まって、ワクワクが止まらない。

「ねえねえ晴雪たち」

 女子に呼ばれてどきりとした。三人でいっせいに振り向くと、沢村と田中が手を振りながら近づいてきていた。沢村のスカートの短さはたぶん校則違反だ。田中は、半袖がめくれて、うでより白いわきがちらりと見えている。

「今日フードコート行くの? 私たちも入れてよ」

 おれたちはちらちらと目配せし合う。「だめ?」と沢村が言ってからやっと、おれは「き、今日、リョウスケたちは?」ときいた。余裕ぶりたかったのに、声が上ずってしまっている。リョウスケとは、沢村たちがいつもつるんでいるバスケ部の男子だ。田中はピンク色のくちびるをにかっとつり上げて、「今日は晴雪たちと遊びたいんだってば。だれといようがウチらの勝手でしょ」と笑った。

「ま、そんなに言うなら、いいけど」

 タカユキはうで組みをして胸を反らしてたけど、ほっぺの肉がゆるゆるだった。

 コースケとヨッチが遅くなってごめんとドアから顔をのぞかせ、俺たちは七人で校門に向かった。期末テスト、部活、買い食い、女子と出かける……おれはじわじわと、自分が大人に近づいているのを感じていた。中学生って楽しい。浮かれた気分で校門を出た、そのときだった。

「晴雪くん?」

 反射的に振り向き、ぎょっとした。私服姿の男が十人くらい、校門脇の塀にもたれかかっていた。高校生くらいだろうか、派手な身なりだったり、体が大きかったり、強そうな見た目の人ばかりだ。

「ちょっと話があるから、晴雪くん借りていいかな?」

 茶髪の、モデルかと思うような男が、おれを指さしながらコースケたちにきく。声色は優しかったけど、誰にもダメと言わせない迫力があった。

「あ、はい……」

 おれが行きたくないと言えばもしかすると引き留めてくれたかもしれないが、おれ自身も何が何だかわからなくてだまっていたので、みんな一歩引いておれから距離を取った。

「じゃあな晴雪……明日学校で」

 みんなはじりじりと後ろ歩きで下がっていき、おれが「ん、じゃあ……」と弱々しく言うやいなや、体の向きを変えて足早に歩いて行った。

「さーて」

 みんなの後ろ姿を半笑いで見送っていた男たちは、「一緒においで」といっせいにおれを見下ろした。胃の底がふるえるような感覚がした。何が起こるのかわからなくて怖い。こんな目にあったのは初めてのはずなのに、この恐怖はいつか味わったことがあるような気がした。男たちが歩き出すと、がっちりと囲まれたおれもついて行かざるをえない。全員黙ってにやにや笑っているのが不気味だった。

 帰路と反対方向に歩かされ、たどり着いたのはひっそりとした団地の敷地内だった。団地の裏には、夏のくせに枯れ葉がびっしりと地面に広がった林が広がっている。十一人分の足が、がさがさ、がさがさと音を立てるたびに不安が膨らんでいく。こんな男たちにこんな所に連れてこられることをした覚えはない。腹いせに年下を殴りたいだけなら、何でおれを名指ししたんだろう。お金を渡せば見逃してくれるのか。でも財布には千円しか入っていない。

 真っ昼間なのに林は団地と木の影で薄暗く、その中でも葉っぱがうっそうとしていてかげが濃くなっている場所に差しかかり、男たちは「ここらへんでいいか」と急に立ち止まった。いよいよ何かが始ま――る――あっ?

 目の前が真っ白になった、その白に重なるように火花がばちばちと散る。お腹が引きさかれて体がバラバラになる感覚がする。死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ、自分の身に何が起こったかわからないうちからそれしか考えられなくなる。死ぬ死ぬ、痛い。背中と頭の後ろににぶい衝撃が走る。火花の向こうに青空が見えた。そこでやっとわかった、おれ、みぞおちを思い切り殴られて、地面に倒れこんだんだ。十二年の人生で、いやこれからの人生でも経験しないはずだった痛みが、前からも後ろからも襲ってくる。逃げなきゃ、殺される。

 けれど手を地面について起き上がるより先に、今度は顔に、骨を直接ハンマーで殴ったような痛みがたたきこまれた。顔と頭が割れそうで、うめいているうちに、男の一人に馬乗りになられて、起き上がれなくなる。

 そこからはもう、痛い、止めて、助けて、お願いします、としか考えられなくなった。息をつく隙もないほど連続して振ってくる固い拳、反動をつけて体にめりこむスニーカーが、胃、胸、腕、顔、頭、体中を破壊していく。口の中が鉄の味でいっぱいになる。誰か助けて、誰か助けてください。全身でそう叫んでも、実際に声は出ないし、助けは来ない。誰も俺が痛めつけられているのを見ていないのか、見ていたとしても無視しているのか。痛い、痛いよ。殴られ蹴られ続けてもう何年も経った気がする。おれ以外の人間は全員、おれを殴るために生きているのかもしれない。

「そろそろいっか」

 耳に膜が張られたみたいに、男の満足げな声が遠くに聞こえる。まぶたが膨れているのか、空がいつもの半分しか見えない。その手前に、おれを見下ろす十人の影がある。逆光で表情がわからず、まだ続けようとにやついているのかもしれないと思うと、全身がびくびくと震えた。

「魚みてえ」

 やっぱり笑ってる! まだ殴られる! 

 その言いようのない恐怖はぼろぼろの胃を縮み上がらせ、胃の内容物を押し上がらせた。

「うええっ」

 仰向けのまま吐き、ゲロが口からあふれる。

「うわ、きたねっ」

 鼻から出ているのが鼻血か鼻水かゲロかわからない。息が出来ない、起き上がろうにも体が動かない、苦しい、苦しいよ。

「すげえ顔」

 ゲボゲボとせきこむとゲロが飛び散って顔に降ってくる。ゲロはのどに逆流してきて、いよいよ息が全く出来なくなる。あ、死ぬ。

「死なれんのはマズいんだって」

 足が背中と地面の間に入ってきて、体をひっくり返させられた。口にたまっていたゲロが枯れ葉の上にぶちまけられ、顔はそれに浸かってぐちゃぐちゃになる。

「子鹿みたいにブルブルしてんじゃん、ここも録っておこ」

 動画を録っていたのか。ゲロを吐いているところなんかをネットに流されたらどうしよう。

 誰かがしゃがむ気配がするやいなや、あごをつかまれて、今度は乱暴に仰向けにされた。最初におれに話しかけてきた茶髪の男の、すっきりとした笑顔がのぞきこんできた。

「ああ、楽しかった」

 こんな仕打ちをしておいて、楽しかっただって? こいつら、人間じゃない。

「サッカー部なんだって? 足はやらないでおいてあげたから」

 別の男が言ってくる。どうだ優しいだろうと言いたげな口調に肌があわだった。どうやったってこいつらとは話が通じないと改めて思わされる。そうわかっているのに、言わざるをえなかった。

「おれ、何もしてないのに……」

 か細く消え入りそうな言い方だったけど、情けなさを感じる余裕もなかった。

「んー、確かに何もしてないよね」

 茶髪がおどけたように口をとがらせる。

「じゃあ何でっ!」

「お、一時間経った。じゃあね、またね」

 十人は突然体の向きを変え、手をひらひらと振って、来た方角へ歩き去って行った。

 しんとした林に、耳鳴りだけが響き渡る。でもだれかが耳鳴りを聞きつけて来てくれるわけもない。一人きりだ。

 どうしておれがこんな目に。視界が揺れ、あふれる涙の重みに負けたようにがくっと首が垂れる。枯れ葉がゆがんで、茶色のモザイクしか見えなくなった。

「助けて……おれ、何もしてない……」

 どこかで今年最初のセミが鳴き始めたけど、おれの体は冬の日みたいに震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

<冒頭&中盤試し読み>晴雪くんとあおいちゃん 青葉える @matanelemon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ