六 熾火(ラグナ)

「ラグナ⁉︎」

 悲痛と驚愕の入り混じる声に、我知らずラグナの顔に自嘲するような笑みが浮かんだ。普段はどこかぼんやりしていてマイペースなイェリンのそんな必死な声を聞くのは、それでも初めてではなかったからだ。主に、彼自身の向こう見ずな行動のせいで。

 出会った時から変わった娘だなと思ってはいた。魅了の瞳を持ち、その身に不穏な炎を宿しながらも、決して異形に侵されることのない稀有けうな魂。

 ああ、だからなのか、と今さらのように気づく。不穏の塊のような旅人があの炎を託したのは、宵闇花よいやみばなの精としての彼女の性質を利用しようとしたのは間違いがないだろう。だが、それ以上に彼女の決して揺らぐことのないあの強さを見抜いていたからなのだ、と。


 貫かれた痛みは一瞬。目を開けると、視界を覆う昏い炎の向こうには何も見えなくなっていた。針のような炎が突き刺さった胸を中心に燃え広がった赤い闇は、それでも緩やかに暖かく、焼けつく激しさを持たない。あれほどに執拗にイェリンを狙い、ラグナをも取り込もうとしていたというのに。

「何がどうなっているんだ……?」

 掠れた声でラグナがそう呟いた時、呆れたような声が割って入った。

「愚か者。何のために私があれやこれやと手を回していると思っているのだ」

 美しく柔らかい低い声には覚えがあった。それでもそのあからさまに不機嫌な響きは違和感があって、思わず目を見開く。艶やかに流れる青みがかった黒い髪、白皙の頬に整った鼻梁。薄く開いた唇は、ゆらめく炎の向こうでさえ、その質感が伝わってくるような淡く柔らかな薄紅色。


 たった一度会ったきりの——決して忘れえぬ美貌がすぐ目の前にあった。


「なんじゃ、亡霊でも見たような顔をしおって」

 すい、と細く美しい指先が伸びてきて、ラグナにまとわりついていた炎を払う。触れた指先はひどく冷たかった。

「ここは……それに、あんた一体……?」

「ふむ、名乗ったのにもう忘れたのか」

 片眉を上げて言う表情はあの時会ったそれと同じはずなのに、やはり何かが違う。そう感じて、伸びてきた手を掴むと引き寄せた。目線の高さはラグナの肩ほど。艶やかな髪は緩く流れて、あるかなきかの風に揺れている。吸い寄せられるように顎に手をかけて仰かせて、ようやくその違和感の正体に気づいた。

「その眼……」

 秀麗な顔の中で、浮かぶ不穏な光に比べてやけに穏やかで不似合いに見えた灰色の瞳。今、そこには淡く蛋白石オパールのような遊色がゆらゆらと揺れていた

 赤、青、紫、黄色に白。あの極彩色の炎を薄めたような淡い色が目まぐるしく変わっていく。美しいが、見つめていると吸い込まれそうになる。ラグナが思わず額を押さえると、くつりと笑う気配がした。

 相手が一度目を閉じ、それからゆっくりと開いた時には記憶にある通りの灰色だった。瞬きをするとわずかにまだ揺れる色が見えた気がしたが、少なくともラグナを惑わすほどではない。両手で包み込むようにその顔をあおのかせ、もう一度じっと覗き込むと、相手は屈託なく笑った。まるで彼らの間には何事もなかったかのように。


 あの大穴の底へとラグナを誘い、そして極彩色の炎を生み出した旅人。

 炎に身を投げた彼を救い、カラヴィスへと導いた魔術師。

 そしてまた、炎の針に貫かれ呑み込まれようとした彼に手を差し伸べるこの存在は。


「あんたの目的は何だ?」

 絞り出すような声でそう問うたラグナに、相手はふわりと笑った。それまでのどこか皮肉げなそれとは違った、透明な柔らかい表情で。わずかにゆらめく灰色の瞳でラグナを見つめ、そうして頬を包み込んでいる彼の手を自分の手で包み込む。

「そなたの手は温かいな」

「はぐらかすな。ここはどこだ? それとも俺は夢を見ているのか?」

「ふむ、ようやく知る気になったか。あの宵闇花の娘のおかげかの。ずいぶん気に入っておるようじゃが」

「宵闇花……イェリンのことか?」

「そう、輝ける闇とはまさにあれのこと。圧倒的な闇を内包しながらなお光を放つ。あれほどの魂が地上に存在するとは信じ難いことだ」

 感嘆する響きに欺瞞はない。好奇心を隠そうともしないその表情に呆れながらも、ラグナは覚悟を決めてその問いを投げかけた。


「——あの時、俺は死んだのか?」


 深淵の底、あの極彩色の炎がにえを求めていると聞いた瞬間、衝動的に炎に身を投げた。本能だった。あの炎は焼き尽くすまで動きを止めない。自分一人の犠牲で済むならそうすべきだと思ったのだ。あの炎を育ててしまったのはラグナ自身だったから。

 炎に身を包まれ、意識が遠のいていったのを覚えている。そして魔法学術都市カラヴィスの魔女の言葉は、彼の体が一度は激しく焼かれたであろうことを示唆していた。一瞬にして村を焼き尽くすあれだけの炎に飛び込んでこの身が無事であろうはずがない。

 イェリンと出会い、旅をしてここまでたどり着いた。それでも、全身を昏い炎に包まれ、無意識に月晶石に惹きつけられる、このあまりにも人としては不自然な状態。それを説明するのは一つしかないことを、彼自身もずっと知っていた気がした。


死者おれを繋ぎ止めたのか。あの炎をあんたのその魔力で改竄かいざんして。俺の決意もしょくざいも全てを無にして」


 声が震えたのは怒りのせいだろうか。それとも人の枠を越えてしまった恐れによるものだろうか。

「言ったはずだ。そなたにとがはない。利用されただけだ。そなたがあがなうべき罪などそもそも存在せぬ」

「それでもあの炎は俺を憎んでいた。えんの声を聞いただろう?」

「あれが憎んでいるのはダレンアールの全ての生者だ。そなたに限らぬ。それにしても、そんな些細なことで身を投げるとは、若者の情緒は理解できぬ」

 呆れたように言いながらも宥めるように伸ばされた手はひどく優しく、胸の奥がじわりとおかしな熱を持った。イェリンに出会うまで誰にも告げられなかったラグナの内実を、この魔術師はとうに知っていたのだ。

「あんたは人の心なんて理解する気もない。興味があるのは魔力と研究だけだ。そうだろう? エリィクシス・アルディオス——この世の全てを焼き尽くす知の炎」

 ぴくり、とラグナに触れている手が震えた。じっとラグナを見つめ、わずかに目を細める。背筋がぞくりと震えた。頬に触れていた手がするりと滑り降り、ラグナの喉元に触れる。相手は力ある魔術師だ。たとえ外見が非力に見えたとしても、ラグナ程度であれば、一瞬にして息を止めるなど、赤子の手をひねるようなものだ。


「なるほど、我が炎を埋め込んだ際に、真名も伝わったか」

 魔術師にとって真名は命にも等しい。知られれば、身を縛り心を操ることさえも可能だ。故に、不用意に知った相手を殺すことさえいとわない。そうしなければ自分の身が危ういからだ。

 イクスはさらに指を滑らせ、ラグナのちょうど心臓のあたりに触れる。細い指先がするりとそのまま胸に沈んだ。何の抵抗もなく、まるで元から一つの存在であったかのように。

 その指先から熱が生まれ、ラグナの心臓を包み込んでいく。

「……ッ」

 異物が自分の中で熱を放つ不快さと、同時に何かが形づくられていくのを確かに感じてラグナは我知らず眉根を寄せて歯を食いしばる。不安定だった核が流し込まれる魔力で確かな形を取り戻していくように。それはまるで——。

「あいつの……イェリンの……極彩色の炎と同じ……?」

「構成は似たようなものだな。あちらの方がもっと原始的で頑強だがの。そなたであれば耐えられまいよ。あれの自己修復機能は予想を遥かに超えていた」

「人を……実験動物みたいに……ッ」

 苦しい息の下から顔を顰めて詰るラグナの言葉に、けれどイクスは動じた様子もない。むしろ聞き分けのない子供をさとすように微笑む。

「放っておけばフェレンの人々も焼き尽くされた。無害に済んだのはあの娘が引き受けたからこそ。相当量を預けられたから時間も稼げたしの」

「時間……?」

「そなたの命脈はまだ尽きてはおらぬ。意識と記憶をそのままに、死者を地上に留めおく術は未だ実用段階にないからの」

 

 あればそちらの方がよほど手っ取り早いのに、と言う顔は冗談を言っているようには見えなかったから本気なのだろう。だが、イクスはまだ、と言った。

「さよう、そなたの魂はもう半ば融解しておる。それ以上不安定さが増せば、あやつらに取り込まれて二度と戻ってはこられぬ。故にあれらを完全に滅ぼすまで時間を稼ぐ必要がある」

 告げられた言葉に反応するように心臓がどくんと大きな音を立てた。見下ろしたイクスの瞳には再び様々な色が灰色を覆うようにゆらめき始めている。


 あの時、炎に身を投げた後。そしてもう一度、深淵へと下りた後。いずれもラグナにはっきりした記憶は残っていない。それはなぜなのか、ずっと気になっていた。けれど、どこかで考えないようにしていた——知ってしまえばもう後戻りはできないから。


 身を震わせた彼に、イクスはふっと今まで見たことのないような柔らかな笑みを浮かべた。

「身体の修復は容易たやすい。だが、あれは魂を焼き尽くし、己に取り込み内燃機関とする。ぎりぎりで保全して留めたが、そなたの中にはもうあの炎が入り込んでおる。我が炎でそれ以上侵蝕せぬように書き換えたにもかかわらず、あれは未だにそなたに働きかけるだけの意思を有している」

 心せよ、とイクスは真摯な眼差しで続けた。

「あれはそなたを惑わし取り込もうとする。だが、その先に待っているのはそなたが何より望まぬ破壊だ。平穏を望むのなら、北へ戻れ。レスティアラがあれの存在を把握した以上、あの地ではこれ以上の破壊は起こらぬ。そなたへの手出しも防げるはず」

「だから、俺をカラヴィスへと……。だが、俺はダレンアールへ戻ったはずだ」

「あれが大穴からそなたを呼び込もうとするのは想定内じゃった。故に魔法陣を残しておいた。あっさり引っかかったの。保護用にカラヴィスへと飛ばしたが、こんなことになるのなら眠らせて留めおいた方が無難であった気もするが」

 言いながら、ラグナの胸から指を引き抜き、そこに残る暗赤色の炎に唇を寄せる。覗いた舌がひどく艶かしく見えた。

「我ながら愚かだと思うが、世界のことわりの一端を担うものとして、その安寧とはかりにかけても、引き換えに眠るだけの人形などいらぬと心とやらが主張する。まったくに適わぬ。知への好奇心と探究心以外に私を駆り立てるものがあろうとは、興味深い発見だった」

 他人事のように言いながら、その目は真っ直ぐにラグナに向けられている。すでに覚悟を決めた眼差しで。


 ——だからこそ、私もそう易々やすやすと滅びるわけにはいかぬ。


 そう笑って、ラグナの頬を両手で包み引き寄せる。間近に迫った秀麗な顔は、ごく楽しげに笑っていた。それだけではなく、その瞳に浮かぶのは——熱情だったろうか。

「南の霊峰、その中腹にノールヴェストに比肩する月水晶がある。その地を訪ねよ。だが、決して一人では行動せぬように」

 昏い炎はすでに幻惑と守護の効果を失った。ラグナのもろい魂を守るのは、イクスがかき集めた彼の純粋な魔力のみ。

「あとは宵闇花とあれを守る妖精がそなたの命綱となろう。南で待っておるぞ」

 秀麗な顔が近づき、それでも触れたのはごくわずかな間。離れた後、イクスはもう一度笑って、ラグナの耳元に低く囁く。

「機会は一度きり。逃せばそなたは人のかたちで故郷の地を踏むことは二度と叶わぬ。しくじるな」


 ただそう言い残して、あとは真の闇に包まれた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

隔週 水曜日 17:30 予定は変更される可能性があります

世界の果て、そのまた向こうの時の彼方で 橘 紀里 @kiri_tachibana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ