五 鉱床

 翌朝早く、反対するラグナを押し切ってアルフレドに案内してもらった洞穴は想像していたよりは大きくないようだった。

 けれど、細い坑道を進んだ先、突然開けた空洞のようなそこに広がっていた光景に、イェリンは息を呑んだ。透き通るような淡い青を基調として、壁一面が淡く光っていた。隣り合い向かい合う結晶同士が互いに反射して、さらに複雑な色彩を生み出している。

 どこまでも静かで穏やかにゆらめく光は、けれど確かにイェリンにあの炎を思い出させた。見惚れてしまうほど美しいのにどこか恐ろしい、底知れない光の乱舞。


「何だ、ここは」

 呻くような声に振り返ると、ラグナは片手で額を押さえ、苦しげに顔を顰めながらも呆然と一面の結晶を見つめていた。小刻みに震えるその腕に触れると、イェリンを見つめ、細く息を吐いてからもう一度結晶に向き直った。アルフレドが隣に並びながらさりげなくその肩を支える。

「大丈夫か? ここはこのあたりじゃ一番でかい月晶石の鉱床だ。これだけの結晶クラスターがあるのは、あとは北の果てのノールヴェストくらいだろうと言われてる」

「北の果て?」

 アルフレドの言葉に首を傾げたラグナに、イェリンは記憶を辿りながら頷く。

「カラヴィスからさらに北にある精霊たちの古都、イェネスハイム。その向こうに万年雪の降り積もる高地があるの。その山腹にある洞窟の最奥には天蓋のように空洞を包み込む月水晶の極大結晶があるって。でもあそこは……」

 イェリンは一度言葉を切ってラグナを見上げたが、顔を顰めたまま首を傾げるばかりだ。アルフレドの方に視線を向ければ、こちらは何かを知っているのかニッと口の端を上げて笑う。

「嬢ちゃん——イェリンは魔法学術都市あそこから来たんだったか。大戦は一応は終結したが今だにあれこれ揉めてる、それは知ってるな?」

 問いはラグナへ向けたもの。ラグナの出自は既に知れている。世界の事情について詳しいのは容易に察しがつくだろう。アルフレドはどこか皮肉げな笑みを浮かべたまま先を続ける。

「和平条約を締結に導いたのは五氏族の一つ、レスティアラの精霊の長と若い先見視。紆余曲折あったようだがまあなんとか停戦に漕ぎ着けただけでも大したもんだよな」


 大戦が終わり、精霊と人との間で和平条約が結ばれた。立ち会ったのはイェネスハイムの精霊の長と長老たち、そして西の大陸の人間の王たち。条約の内容は無尽蔵な破壊をもたらす魔法と銃火器の使用の制限を求めるものだった。戦いにんでいたのは双方同じだったが、さりとてそれで全てが丸く収まるわけではない。一族やたみを失ったものたちの恨みは深く、あちこちで火種はまだくすぶっている。その一端が、アルフレドの故郷を、そしてラグナの村ダレンアールと麓のクルムを焼き尽くした。


 それを受けて、世界を救った先見視が精霊の長に恒久の平和を求めて盟約を結ぶよう働きかけている、という噂がカラヴィスに流れてきていた。

「盟約?」

「正確には『厳格な罰を伴う盟主との契約』、ね。交わした契約を破った者には災禍が降りかかる。レスティアラの長は言の葉の司オルデマストレでもあるから、執行されれば、その効力はほぼ絶対的なものになるっていう」

 世界の均衡に影響を与えるとさえ言われるレスティアラの一族。そのほとんどが数百年前に滅んだと言われていて、実態も謎に包まれている。それでもその圧倒的な魔法の力は、ノールヴェストの月水晶を触媒として世界にあまねく張り巡らされると吟遊詩人たちによって歌い語り継がれている。


「月水晶を触媒に……じゃあ、あれもなのか?」

 ラグナの低い声に目を戻せば、ゆっくりと一歩踏み出したところだった。青い瞳にゆらめく光を映しながら、吸い寄せられるように月水晶の最奥の壁へと近づいていく。その背に、いつかも見た赤い陽炎が浮かび上がった。その身を包む極彩色の炎とは全く異なる、熱のないくらよどんだその色は、イェリンの不安をかき立てる。

「ラグナ?」

 イェリンが声を上げたが、ラグナは歩みを止めない。さほど広くはない洞穴の壁にたどり着くと、じっとその壁に見入っているようだった。ひどく嫌な予感がする。イェリンはその傍らに駆け寄り、今しも輝く結晶に触れようとしていたその手を掴んだ。

 途端、ラグナの体から炎が吹き上がった——ように見えた。暗赤色の彼の髪とよく似た、昏くゆらめくそれはラグナを包み込み、そしてイェリンをも取り込もうとする。

「何……これ⁉︎」

「イェリン、ラグナ⁉︎」

 弾かれたように駆け寄ってきたアルフレドが剣を抜く。けれど、彼らを包み込む炎にたたらを踏んで立ち止まった。その影が炎の向こうでゆらめく。

「どうなってる⁉︎」

「わ、わからない。でも、熱くはない、みたい……?」

 熱のない炎は、探るようにイェリンを包み込んでいる。やがて、何か不快な気配がした。

「や……っ、何これ……」

 普段なら真っ先に反応するであろうラグナはぼんやりと虚ろな眼差しで月水晶を見つめている。昏い炎は構わずイェリンの肌を這い回り、そして何かに気づいたかのようにぴたりとその動きが止まった。かと思うと、昏かった炎の一部が勢いを増し、細い矢のようにイェリンの胸元へとつがえられた。

「イェリン!」

 細い炎の矢の先、そこにあるのはイェリンの心臓——封じられた極彩色の炎だ。かたわらでラグナが昏い炎に包まれたまま、再び月水晶へと手を伸ばす。ぞくりとイェリンの背筋が震えた。この昏い炎は確かに意思をもって、彼女を狙い、ラグナをいざなおうとしている——月水晶へと。

 一度目を閉じ、イェリンは胸の奥に眠る炎の確かな存在を感じ取る。あの時それを預けられたのは、利用するだけの価値が、力があると認められたから。そしてこの色鮮やかな炎はただ人にまとわりつき狙うようなそれよりも、遥かに複雑でなはず。

 意識を集中し、ラグナとイェリンを包む炎をまとめて引き寄せる。彼女に狙いを定めている矢へとしゅうれんさせるように。ぶわりと膨らんだ炎が風に舞い、より凝縮されて矢のように細かったそれがより鋭利さを増した刃となってイェリンの胸元に突きつけられる。あとわずかでも動けば心臓を刺し貫く近さで。


「アルフレド、あれを斬って。間に合わなければで構わない!」


 取り返しがつかなくなる前に。黒い獣のような男が見せたためらいは一瞬。金色の双眸に苛烈な光を浮かべ、大剣を振りかぶった。極彩色の炎さえ利用し無に帰すことができる黒いはがね。ならば、きっとこの炎も斬れるはず。

 アルフレドの剣が届くより先に、赤い炎の刃が動く。避けようとは思わなかった。その刃はイェリンを外せば次に狙うのはラグナだとどうしてか確信できたので。単色の赤い炎とイェリンに封じられた極彩色の炎。それらが混じり合えば災禍が起きる。けれど、黒鋼ならイェリンごと無に帰すことができるはずだから。


「自分の愚かさのせいで、誰かを失うのはもうごめんだ」


 静かな声に目を向ける間もなかった。鞘から剣を抜き放つ音と、イェリンを貫こうとしていた炎の刃が交錯する。ぐいと腕を引かれ、彼女がいたその場所を薙ぎ払った剣は、瞬時にどろりとまるで飴のように溶け、黒く澱んで地面に染みを作る。

「やるじゃねえか!」

 嬉々とした声と共に黒い影が今度は大きく辺りを薙ぐ。キィン——という耳障りな音と共に、炎が真っ二つに断ち切られた。アルフレドの大剣の刃は、闇そのもののように深みを増し、戸惑うように揺れる昏い炎を切り裂いていく。かき消された炎は霧散し、不穏な気配ごと消えていった。


 ほっと誰もが息を吐きかけた時、消滅に抵抗するように、わずかに残っていた炎が、最初の矢よりもさらに細い針となり、真っ直ぐにイェリンを捉えた。先ほどと同じ構図に、イェリンはとっさに前に出ようとしたが、腕を掴まれた。何が起こったのか把握するよりも早く、暗赤色の髪が目の前をよぎる。ちらりと向けられた青い瞳はどこまでも澄んでいて、そうしてほんの少しだけ、確かに笑った。


 ——あんたには借りばかりだからな。


「ラグナ⁉︎」

 叫んだ声は二人分。けれど、伸ばした手も黒鋼の刃もどちらもが届く前に、輝度を増した赤い針がラグナの胸を貫いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る