エピローグ
エピローグ
<1>
「全くもう、死んじゃうとこだったじゃない。自分に任せてください、だなんて百年早いわ。……ねえ聞いてる?」
僕たち四人は、沖田の借りる高級ホテルの一室に引き上げていた。ベッドに寝かされている沖田と、タバコを咥えながら魔法で治療をする雨宮暁子。それを見守る僕と晴月。
「私、こういうのは空人くんみたいに得意じゃないからさ。空人くんが魔法で唯一私に勝ってるとこね」
「……だからそういうふうに修行したんですよ」
「そうね、でも良かったわ。どれも致命傷は外れてた。空人くんが死んじゃったら私、生きていけないわよ? 誰が出版社とやりとりして、誰が私の身の回りの世話をしてくれるっていうの? もうこの半月、空人くんの作るご飯がずっと恋しかったんだから」
「そうですね……すみません」
この二人はどういう関係なのだろうか? 魔法使いの師匠と弟子と聞いていたが、なんだかそれ以上の関係にも思われる。
「あ、あの! 沖田さんは……大丈夫なんでしょうか?」
おずおずと気まずそうにしながらも、晴月が会話に割って入る。
「命には別状はないけど、しばらくは絶対安静ね。──あなたたちが守ってくれたのよね? 私からも礼を言うわ」
「そんな……! 沖田さんは私たちを助けてくれましたから。それに最初は、私たちを危険から遠ざけようともしてくれて」
「あら、そうなのね。やるじゃない! さっすが私の弟子ね!」
バンと肩を叩かれ、沖田は呻き声をあげる。
「……安静に、させてください」
「あ、ごめんごめん。嬉しくってつい」
そう言ってニヤニヤとしながら雨宮暁子は治療を続ける。
「えっと、あの……雨宮……暁子さんでいいんですよね?」
「晴月ちゃん、だっけ? 暁子でいいわよ」
「じゃ、じゃあ暁子さん。改めてですけど、私たちを助けてくれてありがとうございました!」
晴月は深々と頭を下げて感謝を伝える。
「気にしないでいいわ。あなたたちは私の大事な人を守ってくれた。だから助けた。それだけよ」
「暁子……さん。僕からは謝ることがあります」
「ハルくん……大きくなったわね。外見だけじゃない、すごく変わったわ。もちろん、いい方向にね」
暁子さんは、五年前よりも少し大人びていたが、その微笑みは以前のまま、とても柔らかかった。
「それで、謝ることって?」
「五年前、あなたに借りた傘なんですが、失くしてしまって」
「ああ、そのことね。それこそ気にしなくていいわよ。その代わりに、出会えたんでしょう? あなたを陽の下へ連れ出してくれる人に」
「……はい」
「ならもうあの傘はいらないでしょう」
その時、僕は気付かされた。あの借りていた傘をこの人に返す。そのために、灰色の日々でも歩き続けられていたことに。
「暁子さん、僕はずっと、また出会えたらあなたに言いたいことがあった。伝えたいことがあったんです」
「いいわ。聞いてあげる」
沖田への治療はひと段落したようで、近くにあった灰皿に吸い殻をすて、僕の方に暁子さんは体を向き直した。
ただ、一言。簡単なことなのに、それを伝えたかっただけなのに、僕はそんなことにも向き合わなかった。何もかもから逃げてきた。あまつさえ、街を騒がす殺人鬼だと疑いもした。だけど、今の僕があるのはどう考えたってこの人のおかげだった。そう、五年前のあの日、僕を助けてくれたから──
「暁子さん、五年前、僕を助けてくれて、ありがとうございました」
「──ふふ、どういたしまして」
僕の言葉を受けて、暁子さんは優しく微笑んでいた。
「さて、と。これからのことだけど、私たちはしばらくこの街に留まるわ。何か困ったことがあれば遠慮なく頼りなさい」
「ありがとうございます! それと、浅黄先生と藤永くんのことなんですけど……」
あのビルの屋上で命を落とした二人。二人の遺体はすでに、暁子さんが焼き払っている。
「行方不明……ってことになるでしょうね。ちなみに委員会と繋がりのあった学生くんだけど、その繋がりはゼックス……あの長身の男とだけみたいね。だからあなた達が今後、委員会に狙われる心配はないわ」
「そうですか。委員会は今回の件、どうしてこんなに動きが遅かったんでしょうか? それに、明らかに魔法がらみの事件について、調べてる他の奴らもいるかも……」
「それはあんまり心配しなくていいかも。なんたってこの街は私、緋色の魔女のホームだから」
「ホーム……?」
「ええ、私ね、こう見えて有名人なの。魔法使いの界隈でも、委員会の奴らにもね。数年前に、委員会の奴らと結構大きな争いを起こしてね。それから私の名前は、委員会にとってにっくき悪名でもあり、抑止力にもなった。だから委員会の奴らはこの街には手を出しにくいのよ。あのゼックスがこの街に来たのは、私への恨みで暴走した結果ね」
その点は私が迷惑をかけたことになるわね、と暁子さんは謝ってくる。
「いえ、結果的に助けてもらいましたから」
そう、結果的には天罰事件は解決し、僕たちは生き延びたのだ。最良の結果なのかはわからないけど、少なくとも事件は終わって、僕と晴月は生きている。
ところで、だが。さっきから隣でうずうずと何かを我慢している晴月が気になる。
「晴月、何をプルプル震えてるんだ?」
「あ、いや、もしかしたらって思って……あの、暁子さん!」
「何? 聞きたいことがあるなら遠慮はいらないよ?」
「さ、さっき出版社がどうとかって言ってましたよね? もしかして暁子さんの職業って――」
「ああ、言ってなかったね。私の表の顔は作家だよ。それなりに売れてるんだぞー? 世間では話題の天才覆面作家って言われてて」
「も、もしかしてこの本の!?」
そう言って晴月は上着の内ポケットから透明な袋に包まれたカバー付きの文庫本を取り出す。晴月、本当にいつでも持ち歩いてるのか。
晴月は袋から本を取り出し、カバーを外して表紙を暁子さんへ向ける。
著者、宮久志の「魔法のようなちからで」。
「あっ、それ私の処女作……」
「う、うわああああーーーーー! 本当に出会えちゃった! わあ! やったあ! 私、先生の大ファンなんです!!」
狂喜の乱舞を舞い踊りながら、晴月は暁子さんに詰め寄っていく。
「え、私のファンなの? 嬉しいなあ」
「はい! 大大大大ファンです! あ、あの! ああ握手などを……!」
「いいよ。……可愛いなあ。ついでにハグもしちゃえ!」
「ファッ!!」
晴月は興奮のあまり鼻血でも吹き出しそうな勢いだ。よっぽど嬉しかったんだろう。それにしても、まさかこんな繋がりがあったとは。
晴月が普通の会話ができるようになってから、晴月の文庫本にサインを書きながら暁子さんが言う。
「晴月ちゃん、君は覚晴者だったね。それと記憶喪失。他に覚えてることは?」
「えっと、自分が魔法使いだったってことしか……。他はまだ思い出せないです」
「そうか、晴月ちゃん。覚晴者は魔法使いからも、当然委員会からも狙われる。悪魔憑きじゃなくても、普通の魔法使いよりもより優先して、だ。だから絶対にその正体は明かしてはいけないよ」
約束してくれるかい? その問いに、晴月は首を縦に降らなかった。
「できる限りはそうします。だけど、もしも目の前に困っている人がいて、私のその力でないと助けられないのなら……多分、私は迷わず魔法を使います。……ごめんなさい」
「ふむ、困った子だが……私好みの答えだ。いいだろう。それも含めて、困ったら私を頼りなさい」
そう言って暁子さんは、僕たちに連絡先を教えてくれた。
<2>
期末試験の前日、放課後に秋瀬からの呼び出しを受けた僕は学校の屋上へと足を運んだ。
「悪いね、試験前日に付き合ってもらっちゃって」
先に待ち合わせ場所にいた秋瀬に、僕は「気にするな」と伝えてフェンスに背を預けた。
「……あれから、事件起きなくなったわね」
秋瀬の言うように、あの日から雨が降ることはあっても、天罰事件と呼ばれた連続殺人事件は続報のないままだ。真犯人だった浅黄の遺体は暁子さんによって焼却されている。犯人は不明のまま、この事件の報道も次第に終息していくことだろう。
「お兄ちゃんの葬儀、来てくれてありがとね」
「いや、僕は晴月と沢田の付き添いみたいなもんだった。僕自身、面識もないのに邪魔して悪かったな」
「ううん、それこそ『気にするな』よ。お兄ちゃんが生きてたら、東雲のことも沢田みたいに気に入ってたかも。面倒見のいい人だったから」
「そうか。会ってみたかったな。秋瀬の自慢の兄貴に」
僕の言葉に、秋瀬は少し驚いたような表情を浮かべてから、
フフっと小さく笑った。
「東雲、あんた本当に変わったわね。他人に興味がないオーラ出しまくりだったのに。最近は沢田以外のクラスメイトとも喋ってるとこ見るし」
「変わった……のかもな。変か?」
「別に。いいんじゃない? なんかとっつきやすくなったわよ、
あんた」
そういう秋瀬も、兄が事件の被害者になった頃はしばらく塞ぎ込んでいる様子だったが、最近は以前のような明るさを取り戻しつつあるように見えた。
「あんたを呼んだのは聞きたいことがあってね。私と病院で会った時、言ったわね。『事件を終わらせる』って」
「ああ、言ったな」
「あれから、本当に事件は起きなくなった。晴月も関わってるみたいだけど、あの子は何も教えてくれないし。信じられないけど……本当にあなた達が事件を終わらせたの?」
さて、どうしたものだろうか。あの時は半ば勢いで言ってしまったが、どうやって言い訳をするべきか。
「しかもあんた、『自分が魔法使い』だって」
そうか、それもあったな。どうやって誤魔化そうか。
……考えてみるが、いい言い訳が思いつかない。非常に困っている。こんな時こそ暁子さんを頼ってみるか?
「……ふふ、東雲、あんた面白いし良いやつだね。落ち込んでる私を元気付けるために言ったんでしょ? それにしても魔法使いだなんて……。案外メルヘンなとこあるのね、あんたって」
「あ、ああ。そうだ。タイミングよく事件も終わったし良かった。魔法使いっていうのは……小さい頃の夢だったんだ。もちろん、今はそんな夢は持ってないぞ」
「どうだか。別に高校生でも魔法使いになることが夢でもいいんじゃない? 魔法使いの東雲くん?」
……誤魔化せたのだろうか? 代わりにメルヘン野郎というレッテルを貼られた気がするが。
「と、まあ冗談はさておき。──ありがとね、東雲」
秋瀬は顔を背けながら、小さく呟いた。その横顔が赤く染まっているように見えるのは、夕焼けのせいだろうか。
「少し前から、晴月とあんたが裏でなんかやってんのは知ってたよ。最初は晴月が何かよくないことに付き合わされてるんじゃないかって心配してたけど。でも晴月は真剣だった。間違ったことはしてないと、晴月の顔を見ればすぐにわかった。そんな二人が本当に事件を終わらせてくれたんだったら……感謝しないとね。──だから、ありがと。あの日のあんたの言葉が本当でも嘘でもいい。あたしの感謝は本物よ」
そう言って秋瀬ははにかんで見せた。
晴月からも何度も受け取った「ありがとう」という言葉。それは何度だって僕の胸を熱くさせた。
「と、本題はここまで。いや、ここからも大事なことなんだけど。──少し前にさ、あんたと晴月が駅前のゲーセンで遊んでるの見かけたんだけど」
駅前のゲームセンターというと……四件目の事件の後のことか。見られていたとは全然気づかなかった。
「晴月、本当に楽しそうにしてた。ちょっと妬いちゃうぐらいにね。ということで東雲、真剣に答えなさい。あんた、晴月のことどう思ってるの?」
別にそのことで誤魔化すつもりも茶化すつもりもない。
「晴月は僕の大切な人だ。僕を救ってくれたし、晴月が困ったなら救いたいとも思ってる。大事な人だよ」
僕の言葉に、秋瀬はぽかんと口を開けて、呆気に取られている。
「……あんた、よくそんなこと真顔で言えるわね。こっちが恥ずかしくなるわ」
「なんで恥ずかしくなるんだ? 僕は本音を口にしただけだぞ」
「……やっぱりあんた、ちょっとズレてるわね。──晴月はさ、放って置けない子なんだよね。あんたも知ってると思うけど、あの子の正義感は異常だからさ。いつか自分の身を削り続けながら人を助けて、最後には満足しながら消えていっちゃいそうで。だから、あたしはあの子の側に居続けようって思った」
「それは……まあわかる気もするな」
誰かを助ける為ならブレーキは一切踏まない。アクセル全開で突き進むのが晴月だ。そんな運転をしていたら、いつか事故が起きる可能性が高い。
「あたしが高校に入学したばっかの頃はね、ヒーローとして活躍している晴月を遠目で見ながら『凄い子がいるなあ』なんて遠巻きの一人として見てたの。でもね、ある時に晴月に助けられたことがあって──。詳しく話すと長くなるから省略するけど、女子高生が一人で太刀向かう問題じゃなかった。でも、あの子は懸命に立ち向かってくれた。その時に思ったの。この子を一人で走らせちゃダメだって」
「それで沢田曰く番犬になったってわけか」
「あんた……それもう一度行ったら容赦しないわよ」
腰に手を当てながら、上目遣いで凄まれる。江崎ほどではないが、中々の圧を感じる。
「ったく、やっぱズレてるわねあんた。──まあ、いいや。最初は放って置けないから近くにいたんだけど、一緒にいるうちに自然と仲良くなっていってね。私たちはあっという間に親友になった。卒業したって、大人になったって、これから先もずっとあたしは晴月の親友よ。だから、まあ、あれよ。晴月の親友として、あれは言っておかないとね」
ため息を吐きながら、秋瀬は腕を組んで僕の正面に向き直った。
「晴月を悲しませるようなことしたら、ただじゃおかないからね」
ふんっと鼻息を出して鋭い目つきになる秋瀬は、よく見るいつもの秋瀬に戻っていた。
<3>
「……あ」
なんだか懐かしい匂いがした気がして、目を開ける。
どれくらい眠っていたのだろうか。窓から差し込む日差しが灯りのついていない部屋を明るく照らしている。
「どれくらい寝てました?」
痛みの走る体を起こし、タバコを咥えてノートパソコンと睨み合っている暁子さんに声をかける。
「んーと、結構かな。まあここ数日は空人くん寝てばっかりだからね。『どれくらい寝てました?』って聞かれるより、『これからどれくらい起きてますよ』って教えてほしいかな」
相変わらず無茶苦茶なことを言う暁子さんは、依然として視線はノートパソコンと睨み合ったままだ。
「そんなに睨んでても執筆は進みませんよ。手を動かさないと」
「そんなことわかってるわよ! 今は待ってるの。待ちの姿勢なの。天から降りてくるのを受け止める体勢なの」
「そうですか……。まあ応援してますよ」
ベッドから下りて暁子さんの対面に座る。相変わらず体の痛みはあるが、日に日に痛みは弱まっている。暁子さんが魔法で治療してくれたおかげだろう。
机の上に置かれていたタバコとジッポライターを手に取り、口に咥えて火をつける。
「空人くんはまだ入院中みたいなものなのよ? タバコはよくないと思うわ」
「僕をヘビースモーカーにしたのは、半分はあなたのせいですよ」
「私は勧めた覚えはないけど……。──はあ、一回休憩!」
前のめりに座っていた体を背もたれに勢いよく預けた暁子さんは、天井を見上げながら吐いた煙で輪っかを作っている。
「そういえばまだ暁子さんの方の顛末、聞いてなかったですね」
「面白くもない話よ。単に私と背格好が似ていた魔法使いがコソコソと復讐劇をしていたってわけ。嗅覚が優れた女でね。見つけるのに手間取ったわ。──しかもあの女、私を見るなり『ドッペルゲンガーだ!』なんて騒ぎ始めちゃって」
「そんなに似てたんですか?」
「くりそつね。並んで一緒に写真を撮ってもらいたかったぐらい」
「暁子さん、生き別れの双子がいたとか」
「いないわよ、そんなん。仮にそうだったとしても結果は変わらないわ」
確かに、暁子さんなら例え身内だとしても容赦しないだろう。身内に甘いようで、その中でもしっかりと線を引いている人だ。
「それよりもこっちの事件の方が大変だったわね。この街でのことだから嫌な予感はあったけど、空人くんが譲らないから……」
「俺の故郷でもありますからね。俺だってあの事件の模倣なんて許されざることだから。……まあ、結果的には若者の二人に助けられましたけど。みっともない結果ですよ」
「みっともなくなんてないわ」
上を向いていた顔をこちらに向けて、真剣な眼差しを突き刺される。
「仮にあの二人だけで進んでいたら、もっと悪い結果になっていたかもしれない。あの二人に助けられたのは事実だけど、同時に空人くんはあの二人を助けてもいたのよ」
私の弟子ならそれを誇りなさい、と叱咤される。
ふと、祖父に叱られた幼い頃の記憶がフラッシュバックした。
「……そうですね、暁子さんの言うとおりです。思い描いていた最善にはならなかったけど、最善は尽くした。俺にしては上出来だ」
「『俺にしては』だなんて。相変わらず自己評価が低いわねー」
「これでも変わった方ですよ。それに、あの緋色の魔女と共にいるんだから、少しは卑屈にもなります」
「……煽てたって原稿は進まないわよ」
「得意げな顔して何言ってるんですか。本当にいよいよ不味いですよ? 休憩もここまでにして、降りてくるのを待つのもやめて進めてください」
「……わかりましたよ、やればいいんでしょう? 私専属の編集さん」
カタカタとキーボードを打つ音が部屋に響く。
俺はタバコを灰皿に捨て、珈琲を淹れる為に席を立つ。もちろん、カップは二つ用意する。暁子さんと俺は、共にヘビースモーカーでもあり、カフェイン中毒でもある。昔は紅茶派だったんだけど、あっという間に染められてしまった。
「ねえ、そういえばさ」
キーボードを打ちながら、暁子さんが話しかけてくる。
「なんですか?」
「マスターは元気にしてた? 私まだ会いにいってないんだよね」
「ああ、元気にやってましたよ。それに、相変わらず情報屋としての腕前も衰えてない。今回も色々と助けてもらいましたよ」
「そっか。じゃあ今度お礼しに行かないとね。今回の事件の犯人についても聞きたいことがあるし」
「ああ、例の件ですか。暁子さんはどう思います?」
「七・三ってとこね。いや、八かも。空人くんは?」
「俺は九はあると思いますね。……このこと、あの二人には話しますか?」
「いいえ、関わらせないのが一番でしょ。それにこれは、私と空人くんの物語だからね」
淹れたての珈琲をノートパソコンの側に置くと、暁子さんは「あら?」しかめていた顔を上げる。
「え、もう休憩していいの?」
「違いますよ。甘えないでください。カフェインで頭を回して書き続けてください」
緋色の魔女と敬われ、畏れられている魔女とは思えないような情けない顔で暁子さんはため息を吐いた。
<4>
期末試験最終日の放課後、僕は晴月と共に喫茶店「陽だまりの猫」に来ていた。
いつかと同じ席で、珈琲を片手に晴月と向き合っている。
「期末試験お疲れ様! 灰夜くんはどうだった?」
「ぼちぼちってところだな」
これは見栄を張った嘘である。ぼちぼちどころか実際はボロボロだ。
「晴月は?」
「私はそれなりに手応えあるかな。今回は泉さんといい勝負になるかも」
これは真実だろう。得意げな顔で、小さくガッツポーズもしている。
「でもまあ、勉強どころじゃなかったもんね。灰夜くん、補習があるならお手伝いするよ?」
「そこまで悪かったとは言ってないだろ」
僕のくだらない小さな嘘は見破られているらしい。見栄を張ったことが少し恥ずかしくなる。
「ふふ。──改めてになるんだけどね、今回の事件、最後まで私に付き合ってくれてありがとう。おかげで事件は終わって、犯人も……」
「晴月、僕たちは自分たちが出来ることを精一杯やったんだ。それに、晴月の信じた正義の為に、晴月が動いたのが始まりだったんだ」
「……そう、だね。そうかな……?」
「そうだ。晴月は誇れることをした。何よりも、僕は晴月に助けてもらった。灰色だった世界に色を塗ってくれた。僕は晴月を誇りに思うよ」
僕の言葉を受け、晴月は目を丸くしてこちらを見る。
「何度だって言うさ。晴月は僕の恩人だ。いつまでもこの恩を忘れることはないし、晴月を何がなんでも守っていくよ」
晴月が覚晴者であることが明らかになったあの日、改めて僕が誓ったこと。
この先、晴月は覚晴者としての力で人を助けることがあるだろう。必然、覚晴者としての正体を明かすリスクを伴う。それこそ委員会にだって命を狙われることもあるだろう。
ならば僕が隣で守ってみせる。
その為に僕は強くなる。魔法使いとしても、人としても、だ。
「──え、えと……」
晴月の顔がみるみると赤くなり、両手でバンバンとソファを叩いている。
「なんだその、溺れた鳥みたいな動きは」
「お、溺れてない! もう! 灰夜くんは! これだから灰夜くんは!」
怒っているのだか焦っているのか、よくわからない感情をぶつけられる。なんだって言うんだいったい。
バタバタと騒ぐ晴月が落ち着くまで、僕は珈琲をゆっくりと味わうことにした。
「──はあ、はあ。まったく、灰夜くんはまったくだよ、もう」
「……落ち着いたか?」
「騒ぐのに疲れたの! もう、心臓が破裂しそうだったよ」
「そこまでか。何か悪いことしたな」
「いや、灰夜くんは悪いことはしてないけど……まあ、いいや。悪いことしたと思ってるなら、私のお願いを一つ聞いてください」
喋るにつれ、晴月の声は萎んでいく。
お願いなんて、一つどころかいくらでも聞くつもりなんだけど。
「いいよ。お願いって?」
「……来月の頭にね、近くの湖で花火大会があるの。結構大きな花火大会で、前から見に行きたかったんだけど……何故かその日に限って用時ができちゃって。まだ一度も見に行けてないんだ」
「ああ、その花火大会は知ってるよ。僕も同じく見に行ったことはないけど」
見に行きたいけど行けない晴月とは逆で、見に行けるけど行く気がなかっただけだが。
「今年は近くに引っ越してきたこともあって、絶対見に行きたいんだ。予定も絶対入れないようにしてるの」
「そうか。秋瀬とでも行くのか?」
「誘われてはいるんだけどね。私はできたら一緒に見に行きたい人がいるから……」
晴月は顔を赤らめたまま、だけど眼差しは真剣に、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「──灰夜くん。私と一緒に、花火大会、見に行ってくれますか?」
「ああ、いいよ」
「そ、即答!? え、本当にいいの? 予定の確認とかは?」
「僕は基本的に予定のない人間だ。それに断る理由が何もない」
晴月と一緒に、公園で星空を見上げた時のことを思い出す。今度は一緒に花火を見上げることができる。それはとても素敵なことのようで……なんていうか、そう、単純に嬉しいのだ。晴月と一緒に、今まで見てこなかった世界を見れることが。
「あ、あの……一応なんだけど……できれば二人で……」
「ああ、いいよ」
「これも即答!? 本当にいいの? 誰かに見られたら噂になるかも……」
「? その噂っていうのがどんなことかわからないけど、僕は元々噂話を気にしない人間だ。それに断る理由が何もない」
何人かで見るのもそれはそれで楽しそうだが、晴月と二人きりならもっと楽しい、そう思う。何故だかはわからないが。
「じゃ、じゃあ約束ね。ゆびきりしよう? ゆびきり」
そう言って晴月は小指を差し出してくる。
流石の僕もゆびきりぐらいは知っている。依然、顔を赤らめたままの晴月の小さな小指に、僕も小指を重ねた。
<5>
「おう、灰夜! おはようさん!」
後ろから肩を叩かれる。
「お前か……」
「なんだよその反応はー! にしてもあっちいなあ。溶けちまいそうだ。クーラーの効いた教室に早く駆け込みてえ。だけど急ぐともっと汗かいちまう。ジレンマだ……。この世の残酷な理だ……」
「大丈夫か? 水浴びるか? 駅前の噴水、ここから近いけど」
「俺もそこまで常識を捨ててねえよ! ──そういえば灰夜、期末試験どうだった?」
ここ数週間は勉強などしてる暇などなかった。授業も普段通り碌に聞いていなかった。
「……もう、どうでもいいかな」
「おっ! 気が合うねえ! 夏休みの補習、一緒に受けような? それも青春だ」
バシバシと肩を叩いてくる。あんまり寄ってくるな暑苦しい。
「青春といえばさあ、雪月とはどうなんだ?」
「どうって?」
「どうとはどうしかないでしょ! 上手くいってんのか? もしかしてもう付き合ってたり?」
「別に、沢田が期待してるようなことは何もないよ」
「まあた照れちゃって、可愛いんだから灰夜くんは! 絶対なんかあっただろ? 手繋いだ? チューした? ──おいおいまさか、その先まで」
「黙れ」
手提げ鞄で沢田の尻を思いっきり引っ叩く。
「いてえ! なんだよ、少しぐらい教えてくれたっていいじゃんかよお。親友だろう?」
沢田は確かに僕の側にいてくれた、まごうことなき親友である。だからと言って、ウザいものはウザいのだ。
「しゃあねえな。今度じっくりと聞こうじゃないか。今日の放課後、うちでどうだ? たまには遊びに来てくれよー」
「まあ、遊びに行くのはいいけど」
「え、まじ!?」
「……なんだそのムンクみたいな顔は。別に遊びに行くぐらい構わないよ。期待してるような話しは聞かせないけどな」
「お、おう。じゃあ放課後、約束な? いやあ、ついに灰夜がうちに来てくれるなんてな。感動で抱きついちゃいそうだ」
「……やっぱりやめとくか」
「嘘! 今の嘘! もう遊びに来てくれるって言質は取りましたからー! もうこの約束は絶対です! 今夜はパーティだぜ!」
相変わらず騒がしい。そして暑い。沢田の側にいると体感温度が数度高く感じる気がする。
「──あ、先に言っとくな。ベッドの下は覗かないでくれ。例え親友にでも見られちゃいけねえもんがある。そこには大事な男の夢がある」
「興味ないよそんなん……」
「──あっ! 二人とも! おはよう!」
またもや後ろから声をかけられる。小走りで寄ってくる晴月と、その後をついてくる秋瀬の二人組だった。
「おう! おはよう雪月! 秋瀬もおはよう!」
「うん、おはよ」
「あー、その、なんだ……大丈夫か、秋瀬?」
この男、珍しく本気で心配そうな顔をしている。
「……ふふ、あんたがそんな顔するなんてね。もう大丈夫よ。心配してくれてありがと」
「別に、大丈夫ならいいってことよ!」
天罰事件のことについては誰も直接触れない。だが、確かに事件は終わったのだ。あの日を境に、新たな事件は起きていない。
「それよりもあんた、しっかり覚えてるんでしょうね? プレジャーランド、この四人で行くんでしょ?」
「ん? ああ、もちろんだ。てかもう一応チケット買ってある。日付指定はないけど、そうだな、早速今週末の土曜でどうだ?」
「あたしはそれでいいよ。晴月は?」
「うん、私も大丈夫」
僕も同じく、問題なし。予定はない。
「よし! じゃあ土曜日で決定! 土曜日もアチいかなあ? 天気予報はっと……。んん? 気温は高くないけど、晴時々曇り、降水確率四十パーセントだってよ。び、びみょーだな」
「あたし、日曜日はバイトだからなあ。土曜日が助かるんだけど」
「俺も同じく日曜はバイトだ。その次の週だとチケットの期限切れちまうんだよなあ。こうなりゃ祈るしかねえな。雨が降らないように!」
なむなむ、と空に向かって沢田は拝んでいる。それに習うようにして晴月も同じく空に拝む。
そんな姿を見て、僕は何気なく、自然に想いを口にした。
「その日、晴れるといいな」
僕は魔法使いになってから、初めて晴れを望んだ。
In the rain 灰色の魔法使いと憧れる少女 森月 優雨 @moridukiyu
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