20 繋いだ手の中に

* * *


「こちら、すべてサインできました」

「一、二…はい、間違いないようですね」


 宰相様の執務室で、シリーンは何枚もの書類にサインしていた。応接セットのテーブルを囲んで、ぼくたちはその手元を見守っている。

 外務局の係官は彼女から受け取った書類をチェックすると、次に向かいのソファに腰を下ろしている殿下にも一枚の書類を渡した。


「殿下はこちらの同意書にサインをお願いいたします」

「ああ」


 殿下がサインし終えると、係官はそれも確認して一束にまとめ、シリーンに向き直った。


「シリーンさん、これであなたは正式にガレンドール国民となりました」

「ありがとう」


 ぼくたちは、シリーンの帰化の手続きに来ていた。事実上の独り立ちとなり、殿下も身元保証人の立場を離れる。


 トスギル使節団は、そろそろ国境を越える頃合いだった。彼らのことは、ちょっとした国際ニュースになっているらしい。王都にいる近隣各国の大使らは、興味津々で謁見の場や晩餐会に参加していた。でもファルハードはあまり愛想がよくなく、おまけに初日の謁見で陛下に向かって聖女のことを言ったので、ゴシップばかりが自国への報告書に書かれることになったらしい。

 礼拝堂での立ち回りもどこからか――たぶん衛兵の誰かから――漏れていて、色々誇張された形で王都内のかわら版に書き立てられたりもしていた。


 隠れ家から出てきてそんな事態になってることに面食らったけど、シリーンの風貌が伝わってないのは幸いだった。聖女もトスギル人だからと、朱色の髪の設定になっていた。


 でもとにかく、もうシリーンは何かにおびやかされたり怯えたりすることはない。


 係官が一礼して退室すると、シリーンは両手を伸ばして一息ついた。


「やっとヨハンくんと同じ身分ね。わたし『難民を卒業する』って言ったはずなのに、そうなるまで一年以上もかかっちゃったわ」

「仕方ないよ。言葉を覚えたり仕事を探したり、そういう準備が必要だったんだから」

「それもそうね」


 くすっと笑う。


「今度は聖女を卒業ね」

「高位精霊をなくして、さみしくない?」


 いつもシリーンの周りを舞っていた蝶は、もういない。故国にいた頃は彼女を励ましてくれていたと言うけど、天に還る時は別れらしい別れを何もしなかったように見えた。


「…今はまだ、さみしいわ。でも、あの時彼女は最後に語りかけてきたの。やっとわたしが心からの強い願いを持ったので、全力で応えたと。これで力尽きるが満足だ…と」


 シリーンはソファに深く背を預け、天を仰いだ。


「彼女がわたしに与えてくれたものには、言い表せないくらいとても感謝してるの。忘れないわ」

「そう。ぼくも忘れないよ」


 何となく、ぼくはあの精霊に少し気に入ってもらってたようにも感じる。たまに、ぼくにもほんの少し魔法の効果をおすそ分けしてくれたりしてた。いつも一緒にいたから、「シリーンのお気に入り枠」に入れてくれてたんだろうな。これからはもう、そういうこともない。


「シリーンさんは、精霊魔法はもう使えないということですかな?」


 宰相様が、執務机の向こうから声をかけてきた。


「多少の魔力操作はできますが、何かはっきりした効果が出るようなものは難しいでしょう」


「魔力操作って?」と小声で聞くと、「魔法器に魔力を込める、とかよ」と返ってきた。教会の下っ端修道士がよくやる仕事らしい。


「薬草園の作物の出来も前ほどではなくなるでしょうから、ちょっと残念です」


 しんみりと言うシリーンに、宰相様は明るく言った。


「あなたが来る前の品質に戻るだけですから、気にすることはありませんよ。むしろあなた固有の技能に頼って業務が属人化してしまうと、業界全体のためになりません」

「え…?」

「それは同感だな」


 どういう意味か彼女が考え込んでいると、殿下が宰相様に振り向いた。ソファの背に肘をかけ、話を続ける。


「ところで宰相、学園の生徒で医療改革を提唱している者がいるんだが、担当者を紹介してくれないか? 施術の手順や医療器具の保管方法を見直すことで効率や安全性が上がるそうで、大したコストもかからないのですべての施療院に導入できるらしい」

「ほう。それはまた随分うまい話ですな。一体どんな生徒です?」

「一学年下の、さる侯爵令嬢だ。宰相も聞けば納得するさ」

「左様ですか。学園では、次々と優秀な女性が育って頼もしい限りですな」

「その筆頭はアナスタシアだと言いたいんだろう?」


 お二人の会話は、ちょっと軽口の応酬めいてきた。


「当然ですよ。親馬鹿じゃありませんよ。私が何も言わずとも、殿下の方から口にしたのがその証拠です。聞きましたよ、先日の『技術は分け隔てなく恩恵を与えてこそ意義がある』談義、あれは娘が…」

「宰相、ちょっっ…と外で話そうか。オリバー、話を進めといてくれ」


 殿下はやにわに立ち上がると、宰相様を連れ出した。空いた席にオリバーさんが座り、封筒から新しい書類を探り始めた。


「アナスタシア…様って、確か殿下の…」


 さすがにシリーンももう、アナスタシア様のお名前と立場を知っている。


「殿下の婚約者だった方ですが、あの宰相様のご息女です」

「…お父様のご自慢の方なのね」

「非常に優秀ですからね。観点が鋭くて俺たちも叶いません」


 オリバーさんは手を止め、ちょっと苦笑した。


「先日殿下と俺たちで、精霊魔法の活用法について雑談していたんです。魔法器があれば兵站が楽になるとか、呪符で敵を追い詰められるとか。そうしたらアナスタシア様が通りがかりましてですね…」


 そして会話を身振り手振り交えて再現してくれた。


『あなたたちって、新しいものを見つけるとすぐ軍事や政治に使おうとするのね。バッカじゃないの!?』

『有用な技術を治世に取り入れるのは、何も馬鹿なことじゃないだろう』

『ガレンドールの今は平和でしょ。平和な世を平和なままに維持するのも治世じゃない。もっと平和利用のアイデアを考えてみなさいよ。命を駒にした権力ゲームをどれだけ効率化するより、毎日のちょっとした不便を解決した方が国民にはよっぽどありがたいわよ』

『…わかったよ。君が正しい』


 アナスタシア様と殿下の声色を真似るオリバーさんは面白いけど、今でもアナスタシア様に頭が上がらない殿下も面白い。


「正直俺も、アナスタシア様のほかに王太子妃に相応しい方はいらっしゃらないと思うんですが…何で復縁しないんですかねえ」

「ぼくが従者だった頃、アナスタシア様の方が気が進まない感じでしたから」

「そうなのね。じゃあきっと彼女も、王太子妃になるよりも大切なものがあるのね。…わたしみたいに」

「シリーン?」


 シリーンは急に、ぼくに手を重ねて見つめてきた。ど、どういう意味だろう。ていうかちょっと顔が近いです。


「さあ! ヨハン、次はお前のサインだ」

「あ、はい」


 オリバーさんがビシッとした声で呼んでくれて助かった。テーブルの上にもう新しい書類を出している。

 ペンを取ったぼくの脇から、シリーンが書類をのぞき込んだ。


「銀、鷲、騎士団…入団、宣誓書!? ヨハンくん、これ何!?」

「騎士団に入るんだ」

「どういうこと!? 薬草園は出てっちゃうの?」

「この後で話そうと思ってたんだけど、びっくりさせてごめんね」


 ぼくはサインしてしまうと、ペンを置いて彼女に向き直った。


「シリーン」


 彼女は、さっきとは打って変わって不安げにぼくを見つめている。


「ぼくは、シリーンを守りたいんだ」

「十分守ってくれてるわ」

「何もできていないよ。ただ側にいただけだ。ぼくには全然力が足りてない」

「…側にいてくれてるだけで、わたしには十分支えになったわ」

「ありがとう。でも、それだけじゃだめなんだって、今回のことで自覚したんだ。結局色々な人に頼って助けられて、ぼくの手だけでシリーンを守り切ることができなかった」

「人に頼るのも大事なことよ」

「…頭ではわかってる。でも、そういうことじゃないんだ」


 シリーンは、ぼくにとって憧れのお姉さんだ。

 彼女の力になれるならどんなことでもするし、絶対側を離れずに支えたいと思ってた。


 でも今は、それだけじゃない。

 それだけじゃ嫌なんだ。


 シリーンには、ぼくを一番に頼ってほしい。

 ぼくには、それに応えるだけの力がほしい。


「この一年、どこか中途半端に過ごしてた自分に納得できないんだ。…騎士団に入ったら、まずは見習いで二年は出られない。みっちり打ち込んで、力をつけたいと思ってる。それと、読み書きや教養も必要最低限しかないから、大人の話についていけてない。殿下のお計らいで、学園の授業を何科目か聴講させてもらえることになってる」

「どうしてそこまで…? どうして今、わたしから離れちゃうの?」

「ぼくは」


 今度はぼくがシリーンに手を重ねた。


「ぼくはシリーンが好きなんだ。前は、シリーンがどんな選択をしてもぼくはとにかく支えよう、そう思ってた。でも今は違う。きみのことを、もう他の誰かに任せたりしたくない。誰にも渡したくない。きみの隣に立つのはぼくでありたい。そういう『好き』なんだ」


 だから堂々と隣にいるために、はっきりとした自信がほしいんだ。


「…今…? 今、そういう『好き』なの…?」

「そうだよ」


 ぼくの手の下で、シリーンの手がぴくりと動いた。


「…やだ…」


 ああ、やっぱりやなのか。ごめんね。


「わたし、勘違いしてた」

「え?」


 シリーンは手を重ね直して、ぎゅっと握ってきた。


「てっきりわたし、ヨハンくんは最初からそうなんだと思ってて…」

「え? え?」


 うつむいた彼女の白い肌が、顔から首筋まで真っ赤になった。

 手もかっと熱くなって、全身から湯気が上がりそうな勢いだ。


「だから、わたしももうすっかり…その気でいたんだけど…今ようやくだったなんて…は、恥ずかしい…」


 え? シリーンのあのどこまで本気かわかんないような、わかんないから天然だろうと思うことにしてたあの圧は、ほ、本気?

 ぼくに本気でいてくれるの…?


 ど、どうしよう。

 どうしようって、ものすごく嬉しいけど。


 シリーンの熱い手に掴まえられて、ぼくも手から順番に腕や首や顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。


「シ、シリーン。その…」


 ドアが開く音でぼくたちは飛び上がり、ぱっと手を離した。


「宰相、その話はもういいだろう」

「ですが、陛下もご心配されてましたぞ」


 殿下と宰相様が戻られた。


「どうした、オリバー」


 気づくと、オリバーさんはぼくたちの前で机に突っ伏していた。


「殿下…どうしてここに居てくれなかったんですか! ていうか、どうして俺も一緒に外に出させてくれなかったんですか!?」

「な、何だ!?」

「はああ…もういいです。あー春が待ち遠しい」

「これから冬本番なのに、気が早いな」

「くくっ…!」


 殿下は再びうなだれたオリバーさんを不思議そうに見ると、入団宣誓書を手に取った。


「書類手続きは済んだみたいだな。頑張れよ、ヨハン」

「はい!」

「じゃあ行くか。宰相、長居したな」


 それを機にぼくたちは立ち上がり、執務室を出た。

 殿下とオリバーさんは、学園を抜けて来ていたのでまた戻られるそうだ。

 ぼくとシリーンは薬草園へ帰る。でも着いたらぼくは、荷物をまとめて騎士団の宿舎へ入る準備をしなきゃならない。


 歩きながらぼくたちは手を繋いだ。今回のことで、手を繋ぐのはぼくたちにはすっかり当たり前になっていた。

 彼女の手の平から、信頼感と安心感が伝わってくる。


 ぼくたちはこんな風に、手を繋いで並んで歩いていく。

 今はこの道を歩いている間だけだけれど、いつか、ずっと歩いていくようになれたらいい。


 思いを込めて、軽く力を入れる。


 くんと引っ張られて、ぼくは振り返った。

 シリーンが立ち止まる。


「…三年なんて、あっという間よね」

「二年だよ」

「騎士団じゃなくて、…ヨハンくんが大人になるまでよ」


 シリーンは、はにかみながら言った。


「…そうだね」


 彼女は続きを言わず、微笑んで握り返してきた。ぼくも微笑む。


 そしてまたぼくたちは歩き出す。

 繋いだ手の中に、信頼感と安心感と、約束を握りしめて。




(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

背のび従者は追放された聖女のスローライフを守りたい 〜なのに遠国の傲慢王子が彼女を連れ戻しに来たので偉い人たちに頼ります〜 宇野六星 @unorokusei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ