さようなら

 私は柵を乗り越え、屋上の縁に座った。

 上を見ても下を見ても、赤、赤、赤。

 世界中が何者かの口腔に収められたと錯覚してしまう程に、世界は一色で満たされている。

 あの日この屋上で見た、空も大地も、ここからは見えない海でさえも、Aに侵食された。

 今や地球上の何処にも、在りし日の色彩は残されていない。

 

 研究者のメッセージが公開され世界が大混乱する中で、Aは着実にその魔手を伸ばしていった。

 無論人類側もただ見ているだけではなく、知恵を絞り武力を用い奴らに対抗をしていたが、その抵抗に意味がないという事に気づいたのは、アメリカ大陸の大部分がAに侵食されてからの事だった。

 

 コッツウェルドを襲った悲劇が、世界中で起きるようになったのだ。 

 カビの生えた食べ物は、表層のカビを削いでもその菌糸は深層の至る所にまで張り巡らされている。

 Aも同じだった、既にAは地球の内部にまでその根を降ろし、何処であっても自身の芽を発芽させる事が出来る程にまで成長していた。

 カビの生えた食べ物を食べるにはどうすればいいか、答えは簡単だ、それをゴミ箱に捨てて、もう一度同じ物を買えばいい。

 でも、地球の場合はどうだろう。

 新天地を目指してロケットで地球から脱出する?

 試した者もいるらしいが、無事墜落したそうだ。

 急ピッチでタイムマシンを造って過去に逃げる?

 荒唐無稽が過ぎるし、例え実物があって過去に逃げたとしても現状の汚染を過去に持ち込むだけだ。


 とどのつまり、人類は完敗したのだ。

 フィクションの様な化物に。


 私は、今日まで生き残ることが出来た。

 両親がAになって、友人もAになって、同僚も顔見知りもペットも家も道も何もかもがAになっても、運悪く私は生き残ってしまった、こんな八方塞がりの世界で生きていて、何になるのであろうか。

 

 今日、私は死ぬためにこの屋上にやってきた。

 せめて、あの日の想い出に浸りながら、人らしく死ぬために、ここにやってきたのだ。

 足に力を込めて、立ち上がる。

 一陣の風が吹き抜ける、ねっとりとした臭気を含む風は、私の頬を撫でて、何処かへと去っていく。


 とん、縁を蹴って、私は空を舞った。

 重力に従って、私の身体は落ちていく。

 こんな狂った世界でも、自然法則は働くのだな、口元に久方ぶりに笑みが浮かんだ。

 さぁ、ここからは楽しい楽しい走馬灯鑑賞会だ。

 何を見ようか、家族との想い出?青春時代のエピソード?それともそれとも。

 ……やっぱり最初は、と、目を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのは、あの日の屋上でみた景色、空には月、眼下に広がる色とりどりの町並み、当たり前すぎて気づかなかった、私の愛した世界。

 

 さようなら。


 私は、最期の瞬間まで、目を開かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日 紅葉 日和 @momizi27

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ