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 俺の名前は『梦』という。夢ではなく、梦。二つの漢字が持つ意味にほとんど違いはない。だからこの字を与えられた理由は、ただ見た目がカッコ良かったから。

 夢いっぱいの子に育つように、夢が叶えられるように。そんな意味が込められているらしいと、幼い頃母親から聞いた。

 今や、夢を見るばかりで手を伸ばそうともしない怠惰な人間に育ってしまった。両親の込めた想いは成就せずに、別の方向で名前の意味を叶えてしまった。

 でも仕方ないよな。両親が俺に良い子を望むなら、それ相応の育て方をしなければならなかったんだ。

 俺が彼らに申し訳なく思う理由はない。彼らも俺の成長に落胆する権利はない。

 そうだろ。




 日雇いバイトはきついと聞くから嫌だった。他のネットカフェはやる事が多いと噂のチェーン店しか通える範囲になく、諦めた。コンビニやファストフード店はトラブルの話をよく聞くから嫌だ。少しいいなと思った個人の喫茶店や定食屋は面接の結果が返ってこなかった。

 そうこうしているうちに十月が終わり、十一月になった。

 宣言通り大橋は退職して新しいバイト先で元気にやっている。なんだかもう焦れば焦るほど自分が惨めに思えてきて、いっそ余裕が戻ってくるまで何もしないほうがいいのではないかと考えた。まあいい、少しだけ普段より質素な生活をすればそれで済むのだから。

 そして、ついに十一月三十日を迎えた。

 今日の深夜営業を終えると、『快適空間I町店』は完全に閉店する。

 次々と人が辞めていったせいで、最終日のシフトには大穴が空いていた。それを埋めるために手配されたのが、俺と紫苑だった。

 本来は三人であたらなければならない深夜シフトだが、最近明らかに客足が減ってきた影響で、二週間前から二人体制に変わっていた。

 時刻は一時を回っていた。あと六時間後、つまり朝七時には、残っている客全員に退店してもらわなければいけない。その作業が終わると、一人で店にやってくる店長に引き継いで、俺の仕事は終わり。後は店長が処理かなにかするのだろう。

 強制的に追い出されるからなのか、いつもよりブースが埋まっておらず、空室が目立った。どこが使用されているかを示すモニターを眺めながら、この景色ももう見納めか、とわざとらしく感慨に耽ってみたりする。けれど、寂しさは湧いてこない。仕事自体を好きになったわけではないから、思い入れが少しも蓄積されていないのだった。


「最後に、読み残した漫画でも読みますか」


 紫苑も俺と同じようで、とりあえずそれっぽいことを言っておくか、というような気楽さがあった。


「別に、それは他のところでも読めるからいいや」

「それもそうですね」


 カバーを掛ける新刊も撤去する漫画の処理作業もない。実に手持ち無沙汰だった。

 特に会話にすべき話題もなく、沈黙が苦になるわけでもない。暇、という言葉が最も似合うシチュエーションで、俺は口にしなければいけないあることを頭に浮かべては、いや、やっぱりやめておくか、と何度も繰り返している。

 正直、紫苑のことが少し怖くなっていた。あの日、俺のことをどう思っているのか、何を隠しているのか、考えれば考えるほどわからなくて、最悪な展開ばかりを想像してしまって、一人で勝手に怯えていた。風呂に纏わる怪談を聞いた夜は入浴が怖くなるのと同じで、考えなければこんなことにはならなかったのに、と何度も後悔した。

 けれど、気にしてしまったからには本当のことを知らなければならない。彼と繋がるきっかけになったこの場所で切り出せなければ、この先何があっても聞くことはできないだろう。


「明日からだっけ。一人暮らし」


 ええ、と紫苑は間髪入れずに答えた。


「もう準備万端ですよ」

「場所って、やっぱり教えてくれないの?」

「急いで探したので、物件が古くて人に見せるのが恥ずかしいんですよね。一緒に住むっていうなら喜んで教えますけど」

「何回も言ってるけど、なんでそうなるんだよ。見せるのが恥ずかしいのに、一緒に住むのは恥ずかしくないっておかしくないか」

「えー。なんとなく気持ち、わかりません?」

「わからないよ」


 紫苑自身が謎めいているから、明らかにおかしい言動があっても一度はそんなものかと飲み込んでしまいそうになる。危ういやつだ。彼の言葉を意識して咀嚼するうちにエグ味が染み出してきて、吐き出してしまった方がいい、と直感するが、今は敢えて口の中に保ち続けている。


「じゃあ、俺の予想言ってもいい?」

「予想? いいですよ。じゃあ、当たってたら正直に正解って言いますね」

「本当は、今住んでる家から引っ越さない、とか」


 紫苑の顔色は変わらない。むしろ俺の方が緊張してしまう。


「へ、変な推測だけど。この前ネットニュースで見たんだ。紫苑と同じ苗字の老夫婦が、事故で二人とも死んだって。その二人は紫苑の育ての親で、残された紫苑は今の家で一人暮らしをする……とか」


「なんだ、わかってたんじゃないですか」


 問題の答えを正しく導き出した小学生を誉めてみせるような、まるで主導権はこちらにあるのだと言いたげな口調。


「ずっと何も言わないから、気づいてないのかと思ってましたよ」

「あ……当たってるのか」

「当たってます。あの事故で死んだのは僕の祖父母。手続き全部終わらせて、やっと明日から本当に自由になれるんです」


 肉親が死んだというのに、紫苑は少しも悲しんでいないように見えた。


「どうしてそんな、試すようなことをしたんだ。大変だったなら、言ってくれればよかったのに」

「僕の話なんてしたって面白くないですよ。それに、ヒントは出したでしょう。一緒に住みませんかって。狭い家ならそんなこと言い出せませんからね」


 途端、紫苑は夢でも見るかのようにうっとりとした表情になる。


「少し古い家ですけど、広さは十分あります。お互いに一部屋ずつ使ってもまだ余るぐらいです。キッチンもお風呂も広いですよ。あ、水回りは最近リフォームしたので、綺麗ですから安心してください。将来的にペットを飼うのもいいですね。犬とか猫とか」

「お、おい、話が飛躍しすぎだ」

「ね、僕と理想の家庭を作りませんか」


 薄く開けた瞼から、紫苑のギラギラした瞳が覗いている。蛇のように絡みつく視線は俺を確実に捉えていて、漂う色香と妖気で決して離そうとしない。


「家庭って。恋人でもないのに突然そんな——」

「東羊さんは、両親のこと嫌いなんですよね。僕も同じです。理想の家族というものがわかりませんし、わからないなりに羨ましかった」

「なんの話だ」

「憧れてるんです。自分は特殊な家庭環境で育ったと言いながら、人を疑うことを知らない純粋なあなたに」


 紫苑の暴走は止まらない。頭に浮かんだことをそのまま吐き出しているような饒舌さに、恐怖すら覚えた。

 それよりも、言っていることが矛盾している。あなたに憧れている、という肯定的な言葉と、あなたは人を疑うことを知らない、という否定的な言葉。それがどうして共存するのだろう。

 おかしなことを言われている、その事実は一旦置いて、疑問が湧いてくる。なんだか、軽視されているような気がする。

 紫苑は俺にありがたがっているのではないのか? 孤独に人に言えない仕事を続ける中で、俺に助けを求めて、それが期待通り返ってきたことに、感謝しているのではないのか?

 その顔はなんだ? どうして俺をそんな、幼い子供を見るような優しげな目で見ているんだ?

 疑うことを知らない。それはつまり、あなたは僕を疑ったことがない、とでも言いたいのか。それを、幼稚で愚かだと?


「やっぱり、お前は俺に大きな隠し事をしてる」

「隠してはいませんが、教えてほしいのなら僕から暴露しましょう」

 紫苑は椅子に座り直した。

「風俗で働いていると知っているのは東羊さんだけではないです」

「……は?」

「掛け持ちのバイト先を隠そうとはしていませんし、聞かれればその都度答えてました。だから東羊さんに噂が伝わらなかったのは、ここの従業員がみんな気を遣って秘密にしてくれていたからでしょうね」

「……でも、こんなことは初めてだって、」

「あちらの勤務先までわざわざ訪ねてきた人が初めてだって意味ですよ」

「じゃあ……なんで、紫苑は、俺と……」

「僕の名前は、紫信、ししん、です」


 紫苑は微笑んだ。


「珍しい名前でしょう」


 体が地面と椅子に張り付けられたみたいに動かなかった。

 珍しい名前? 今はそんなことどうだっていい。本当の名前なんて、それが珍しいかなんて、今は聞きたくない。

 どうして平気な顔をしていられるんだ、ずっと俺を騙していたのに? いや、違う。俺は騙されていたのでも利用されていたのでもない、勝手に信じて勝手に思い込んでいたんだ。自分の中で理想の紫苑像を作り、可哀想な彼を救済しようと行動する可哀想な自分に満足し、日々が充実していると勘違いしていた。かつて親から本物の愛情を与えられなかった子供なのに他者に施すことができる善人。そしてゆくゆくは施した者から本当の愛を——


「違う……違う。お前は俺をからかってたんだ。本当のことを言わずに黙って、勘違いする俺を笑ってたんだろ」


 解けた謎の答えに見て見ぬふりをして、叩きつけるように言った。


「僕は何かを意図的に隠したことはありません。ただ、あなたが聞いてこなかっただけ」

「そんなの言い訳だっ、勘違いしていると気づいていたのなら、その場で訂正すればよかっただろ!」

「間違いは正さない方が幸せなこともあります」

「そんなことっ」

「じゃあ、あなたは両親のことを嫌いだとか、自分を愛していないだとか言いますが、それは勘違いなのではありませんか?」


 紫苑の言葉を遮るように、間抜けなチャイムの音が鳴った。ブースから誰かが退出した合図で、この音が鳴れば従業員は速やかに清掃に向かわなければいけない仕組みだった。

 紫苑はチャイムを無視して続けた。


「確かに、両親共に不倫をしている家庭というのは、歪んでいると言わざるを得ません。しかしそんな環境で、ご両親は東羊さんを……梦さんを最後まで育て上げられました。学校に行かせて、一人暮らしするための資金を与えて、不自由のないように。不倫をしていたのは家庭を崩壊させないための手段。どうしてそこまでして別れないのか。それはきっとあなたのため」


 またチャイムが鳴る。

 清掃が必要な場所を示すモニターの赤色は少しずつ増えている。ああ、どうしてこんな深夜に客が次々と出ていくのだろう。ずっとそこで寝てろよ。朝になってから出ていけばいいだろ。


「僕の意見が完全に正しいとは言い切れません。でも、こういう見方もできますよね。梦さんは自分が被害者になりたいばかりに、ずうっと全部を家庭のせいにしてた。自分がクズでもバカでも仕方ない口実にしていた。だからどれだけ怠けたって罪悪感も焦りもない」


 俺を客観的に見た事実。残酷なそれを述べる口調はやけに冷静で、熱くなっていた俺の体を急激に冷やした。同時に、言い知れぬ不安感が足元から這い上がってくる。

 そうなのかな。そうなのかな。なんか、他人に捲し立てられたらそんな気がしてきた。俺はダメなやつなのかな? いや、元々ダメなやつなのは知ってるんだ。でもそれが全部自分のせい? 環境が俺を作ったのではなくて、全部全部俺が、誰かのせいにして自分を守ろうとしなかった怠慢が招いた結果?

 全部、俺が悪いのか?


「何も……知らないくせに」


 もう俺は紫苑の——いや、紫信の方を見てはいなかった。蛍光灯に照らされた真っ白な長机の表面をひたすらに見つめていた。そうしながら呟いた言葉はまるで干からびたミミズのようにカラカラで、力なく、生きた意思もなかった。


「この三ヶ月近く、梦さんのことが知りたくて側にいました。だから何も知らないということはないです。それでも、知らない部分はまだたくさんある」

「だから、知るために一緒にいたいっていうのか」

「はい」

「誰が、自分を馬鹿にしたやつなんかと……」

「馬鹿になんてしていません!」


 紫信が声を荒げたので、俺は驚いて顔を上げた。

 彼の表情は真剣そのものだった。皮肉めいた言い方をしていたけれど、それは紛れもない本心だったのだと、一眼で感じ取れるような気迫があった。


「最初にも言ったように、僕は憧れているんです。人を疑うことを知らず、誰かを救おうとする真っ直ぐさを、大人になっても持ち続ける眩しさに。もうそれは僕にはないものだから」


 紫信が放ったのは、紛れもない褒め言葉だった。

 そう信じられたのは、彼の言うように俺が人を疑えない損な性格だからではなく、いつもは眠たそうな瞳が、そのときばかりは見開かれ、輝いていたからだ。

 心臓がきゅっとした。一瞬の痛みだった。


「どうしたらそんな風に人を信じられるんですか」


 紫信はもう普段の眠そうな目に戻っていた。けれど切実さは伝わってきた。眦から一筋涙が溢れたからだ。それは頬を伝って輪郭を滑り、ぽたりと落ちた。

 どうしてそんな言い方をするんだ。お前ずるいよ、最低だよ。本当に水商売が向いてる性格だよ。なあ、俺が褒められたら調子に乗るタイプだって知ってて言ってるんだろ。そうだよ、俺は何の取り柄もなくて、だから誰にも特別扱いされたことはない。でもお前はそれを知っててそんな目で俺を見るんだ。やっぱり最低だ。でも、やっぱり、


「知らないよ……人を信じようと思ったことなんて、ないよ……」


 嘘でもいいから、縋りたい。

 立て続けにチャイムが鳴った。

 モニターに表示されている店内図は清掃が必要なブースを示す赤色がたくさん表示されていた。でもどうせ、これから入ってくるやつなんてそういないんだ。だからもう少しサボってもいいだろう。

 これが終わったら、俺はきっとワンルームには帰らない。知らない一軒家の、知らない玄関で靴を脱いでいるのだろう。そして朝一番に紫信の作る味噌汁を飲むのだ。

 この悪魔に気を許し、俺はきっと堕ちていく。

 チャイム音。チャイム音。チャイム音。

 紫信はちらりとモニターの方を見て立ち上がった。けれど向かったのは清掃道具の方ではなくて、俺が座る方だった。

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