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 インテリアに拘りのない大学生の住むワンルームは、ただそこに人間が住んでいるという生々しさばかりが目立つ。とても人をもてなせるような空間ではないが、呼ぶのが同性ならば案外気にならない。もっともつい最近まではそのような間柄の友人もいなかった訳だが、最近は頻繁に遊びに来てくれる存在ができたお陰で、部屋は日に日に綺麗になっている。


「そういえば東羊さん、結局バイトは見つかったんですか?」


 アルコール度数の低い甘めのチューハイを、三五〇ミリリットル缶から直接飲みながら、紫苑は言った。


「いや、面接は受けたんだけどさ……」

「落ちたんですね」

「しょうがないだろ、面接した店長?っぽい人がやけに偉そうでさ、ムカついて態度悪くなったっていうか」


 俺が手にしている紫苑より少し度数の高いチューハイは、アルコールの味が強くて果実のフレーバーをほとんど感じなかった。薬を飲んでいるようだ、と酒の飲めない友人に言われて、こんな体に悪い液体が薬でたまるか、と笑い飛ばしたのを覚えている。


「そんなやつが仕切ってる店なんてこっちからお断りだし。いいんだよ」

「もう十一月終わっちゃいますよ」

「……貯金あるし。多少間空いたって平気だよ」


 誤魔化すようにまたアルコールを流し込む。喉と腹がカッと熱くなるような感覚。

 実際、ほとんど貯金をしたことはなかった。親の仕送りとアルバイトの給料を合わせるとそれなりの金額になったが、給料も仕送りも、家賃と光熱費を残してすぐに使ってしまっていた。思い切り遊べるのは今だけだから、というのが俺の言い分だった。


「紫苑はどうなの? 貯金してる?」


 居心地の悪さを感じて、咄嗟に話題を変える。


「まあ、それなりに。今度一人暮らしするんです」


 特に追求することもなく紫苑が会話を続けてくれたので、密かに安心する。それから、彼が住んでいる場所についてはほとんど知らなかったことに気付く。

 空いている日に酒を飲むことはあったが、俺の家に誘うばかりで、紫苑の家に行ったことはなかった。どの辺りに住んでいるかはなんとなく知っているが、住居がどういう外観で、どういう家庭環境なのかも聞いたことがなかった。

 ある程度訳ありだろうというのは風俗業に従事していることから察していたから、敢えて聞こうとしなかったのも原因の一つだろう。


「じゃあ、今は実家だったんだ。親と仲良いの?」

「まあ、そうですね。よく会話はしてましたよ」

「それじゃあ、引っ越したら寂しくなるな」


 箸につまんだ白菜のキムチを咀嚼しながら、紫苑の「ええ」という返事をなんとなく聞いた。質問はしたけれど、あまり知りたいことではなかった。

 バイトのシフトが入っていない日、紫苑は度々俺の家に来て酒を飲んだ。こちらから誘うこともあったが、紫苑が提案することがほとんどだった。

 夜から始めた宴会は夜明けごろまで続き、眠くなると紫苑はソファで、俺はベッドで眠る。酒を飲みすぎて動けなくなり、そのまま床で眠ったこともある。

 その日も同じように、深夜四時頃になって俺と紫苑は眠る準備をした。といってもどちらからともなくそろそろ寝ようかな、といったことを呟いて、いそいそと定位置に移動するだけだ。電気を消すのは出遅れた方の役目で、俺は今回そちら側だった。

 紫苑がソファに横たわり体にブランケットを掛けたのを確認してから電気のスイッチを押す。それから手探りで、ベッドに潜り込む。

 部屋が暗くなったことで段々と脳が就寝モードになって、興奮状態だった体がリラックスしていく。明日の講義は何時からだっけ。アラーム掛けたっけ。まあいいや、寝よう……

 ぼんやりした思考の濁流の中でチラリと見えたものが、最後まで俺の頭に強く残っていた。

 紫苑、一人暮らしするのか。それだと余計お金が必要だろうし、あの仕事をやめられないじゃないか……




 翌朝、無事に鳴ったアラームでなんとか起床した。紫苑はなぜか俺よりも先に起きていて、キッチンで何かを作っていた。


「おはようございます」


 様子を見にフラフラとやってきた俺を振り返りながら、紫苑はガスコンロの火をとめた。キッチンからは味噌の匂いがした。


「味噌汁……」

「冷蔵庫の具材、勝手に使っちゃいました。傷みかけだったし」


 鍋の中には、薄い茶色の液体に浸かった豆腐と玉ねぎ、それからちくわが入っていた。


「味噌汁にちくわって入れるか?」

「残り物ならなんでも入れちゃっていいのが味噌汁のいいところですよ。もう食べますか?」


 飲酒したせいで若干痛む頭と重い体に、温かい手料理はさぞ染みるだろう。普段朝食はあまり摂らないが、この日は食欲が湧いた。


「貰おうかな」

「ん、じゃあ、よそっておきますね」


 慣れた手つきで腕に味噌汁を注ぐ。実家暮らしだという割には、普段から料理をしているらしい様子だ。


「紫苑、あのさ。引越し先って、もう決まってるの」

「いえ、まだですが」


 一つ注ぎ終わって、二つ目の入れ物に手を伸ばす。俺が食器にこだわらないせいで、それは味噌汁のためのお椀ではなかった。


「しばらく、俺んとこいていいよ。それなら、家賃とかもいらないし、お金貯められるでしょ」


 紫苑は二つの入れ物に味噌汁を注ぎ終えた。鍋には、あと一杯分ぐらいの量が残っていた。


「東羊さんと同棲か。それも楽しそうですね」


 片手鍋に蓋をして、お玉を流しに置く。


「でも、僕はあの仕事やめるつもりないので。お金を貯めるために、お世話になる必要はないんです」

「でも、それじゃ一生やめられないよ、この仕事」

「一生ってことはないでしょう。年齢もありますし。でも、もうしばらくは続ける予定です」

「どうして……だって、嫌だろ?」

「この仕事がですか?」

「本当はやりたくないはずだ」


 キッチンに置かれた二つの味噌汁が、湯気を立てている。俺と紫苑は前で向かい合って突っ立っている。

 紫苑は眠そうな目を困ったように細めた。


「それは東羊さんの感じ方であって、僕のものではありませんから」

「麻痺してるんだよ。前も言っただろう。おかしいことをおかしいと感じられないのは、本人がおかしくなっちゃってるからなんだよ」

「東羊さんの、お父さんとお母さんの話ですか」

「紫苑にはそうなってほしくないんだよ。それに、もう良い加減本当の名前を呼びたいよ」


 彼の仕事を通して話をした日から、俺は冝導のことを紫苑と呼ぶようにしていた。本人の希望だった。初めは違和感があって嫌だったが、そのうち彼が仕事をやめたら、本当の名前で呼ぶことに決めた。それまで一緒にいようと思ったのもその時だった。


「僕は不幸じゃありません。他人からそう見えていたとしても、実際そうだとしても、本人がそう感じないのなら事実にはならないんです。また、そう感じないことは、人生を生きやすくするために、ある程度必要なことなんじゃないですかね」

「そんなの、見て見ぬふりをしてるだけじゃないか。自分の不幸を自覚しなきゃ、不幸の元凶を恨むこともできないんだぞ」

「恨んで、どうなるんです?」


 どうなる、って。

 考えたこともなかった。歪んだ家庭環境をずっと恨めしく思っていたものの、それがどう発展するかなんて興味がなかった。そもそも思い至ることがなかった。

 少し言葉に詰まって、それから俺は言った。


「そりゃ、気持ちがすっきりするし、正確に自分を把握することは大事だろうし」

「把握した過去を他人に話して、共感して貰って泣いて、またすっきりする」

「それの何が悪いんだ」

「あなたはずっと同じところにいますね」


 言葉の意味がわからず聞き返そうとしたけれど、紫苑は味噌汁が入った二つの器をもう運び始めていた。


「さあ、冷めないうちに食べましょう」


 その時にはもう普段の紫苑に戻っていて、目の前の料理の温かさに顔を綻ばせていた。




 紫苑は何か隠している。

 講義が終わった後の休み時間、俺は咄嗟にカバンからスマホを取り出した。メッセージアプリの緑のアイコンをタップして、トーク履歴の一番上を開く。冝導、という名で登録された、紫苑とのやりとりが記録されている。

 メッセージを送ろうという気はあった。しかし、何を送ればいいのかわからない。


『あなたはずっと同じところにいますね』


 きっと悪気があった訳ではないのだ。あるはずがない、こんなに心配している俺にそう思うわけがない。同じところにいて何が悪いのだろう? 過去に足を取られて進むことが苦しくて、その場でもがくことのどこがいけないのだろう? 正しくなるための手本のなかった子供が、大人になって急に正しくなれるわけがないのだ。正しくなくても、落ちこぼれでも、誰かを助けたいと思ったっていいじゃないか。

 関わりたいと思ったって——

 結局紫苑に送る言葉は見つからず、何もしないままアプリを閉じた。やることがなくなって、なんとなくネットニュースを眺めた。政治家の不祥事だの、芸能人の熱愛報道だの、ゴシップ記事ばかりが目についた。それが嫌でスクロールしているうち、暗いニュースばかりが並ぶ画面に辿り着いた。それはそれで気が滅入るが、知らないところでどんな悲劇が起きているのかが気になった。

 子供が不幸になった事件、一方的に搾取された人間の記事、誰にも手を差し伸べて貰えずに非行に走った誰かへの批判。

 一歩間違えれば、俺もこうなっていたかもしれない。更に深い不幸に突き落とされていたかもしれない。そんな思いが渦を巻いて気持ちを重くする。

 色々な記事を流し見していって辿り着いたある事故の話。

 深夜、妻の介護をしている途中で、男性が突然死した。見守ってもらう役を失った認知症の妻は、運悪く階段から足を滑らせ、転落死した。一週間前のことだ。

 二人の苗字は、冝導だった。

 心臓が跳ねた。

 いやまさか、偶然だろう。

 確かに珍しい苗字だが、被る可能性だってないとは言い切れない。

 それに、もしこれが紫苑の祖父母ならば、俺に相談しないはずはないのだ。


『一人暮らしするんです』


 引越し先は決まってないと言っていた。本当に?


『よく会話はしてましたよ』


 言われた時は気にならなかった。けれどよく考えたら、言い回しが少しおかしい。

 紫苑に対する疑念と、得体の知れない恐怖が湧いてくる。一体何を隠しているんだ? それとも、全て俺の勘違いなのか? 願わくばそうであってほしい。俺が何をしたって無駄なくらい、手遅れだなんてことは絶対にあってはいけない。だとしたらどうして俺と一緒にいたんだ。助けられる準備ができていたからじゃないのか。

 その時、スマホのバイブレーションが突然作動した。完全に意識が他へ向いていた俺は、驚いて身をびくりと震わせてしまう。情けない姿を周りに見られていないかが気になって密かに辺りをきょろきょろと見まわした。どうやら誰もこちらを指して笑ったりはしていないらしい。

 一瞬だけ震えたスマホには、一件の通知が届いていた。それはまさに紫苑からのものだった。

 タイミングが良すぎて、まさか見張られているんじゃないだろうな、とありもしないことを考える。生徒でない彼が大学に足を踏み入れることはできないし、この時間ならばとうに仕事の準備を始めているはずだ。

 恐る恐るアプリを開く。紫苑からのメッセージに目を通して、俺は緊張からごくりと唾を飲んだ。

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