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 暖色の照明、虚しく流れ続ける謎のBGM、一見高級感があるがよく見ると端々がチープな部屋、ベッドと風呂場だけがやたらと存在を主張するその一室。

 どうしてこんなことになったんだっけ。

 いや、これは紛れもない自分の意志だ。俺が選んだ結果なのだ。

 覚悟を決めてここへ来たはずが、改めて辺りを見回すと、これまで交わることのなかった淫靡な雰囲気が眼前にある気がして、体が硬直してしまう。

 ベッドに腰掛けて情けなく項垂れ、暖かみのある灯りに照らされてオレンジ色がかっている自分の膝を見つめ続けていた。

 冝導は一体何度これと似たような部屋を訪れ、見知らぬ男性と体を重ねたのだろう。

 あの日、冝導が唐突に発した言葉は、紛れもなく衝撃的で、しばらく意味を理解することができなかった。


『風俗です。男の人相手の』


 ようやく何か言おうとして口を開いたとき、ちょうど大橋がブースの清掃から帰ってきて、ドリンクバーの補充を手伝ってほしいと言うので、俺はそちらについていくしかなかった。

 ずっと引っかかっていた。冝導はどうして突然あんなことを言ったんだろう。

 本来親しい人にすら隠すはずの事実、それ以前にプライベートを他人に話したことのない彼が、なぜ俺にだけ簡単にあんなことを言ったのだろう。しかも、あんなにあっけらかんとした、当然のような顔で。

 好奇心ではなく、それは焦燥に似ていた。

 冝導は何か、俺には想像できないような闇を抱えているのではないか。

 光の差さない場所で、助けを待ち続けているんじゃないのか。




 あれから二週間、俺は冝導と話す機会を作るために、元々ないコミュニケーション能力を総動員して頑張った。

 しかし結果的にだめだった。大橋のように邪魔してくるものもいれば、ようやく捕まえた冝導がいつのまにか話題をすり替えていることもあって、連絡先を聞くことすらままならなかった。本当は触れてほしくないんじゃないかと疑ったこともあるが、それなら初めからあんな言い方はしないだろう。

 痺れを切らした俺は、ゲイ風俗、と呼ばれる文化を初めてインターネットで検索した。近場で営業しているそれらを調べて、冝導の勤務先を突き止めようとしたのだ。

 本当は本人から聞くべきなのだろう。けれど、刻一刻と迫っていく閉店までのタイムリミットが俺を焦らせていた。

 既に九月が終わりかけている。閉店までの二ヶ月で、勤務先を教えて貰えるほど仲良くなれるとは思えなかった。

 冝導のもう一つの職場は所謂デリバリーヘルスで、ホテルや自宅に従業員を呼んで行為に及ぶという形態らしかった。

 俺は意を決して、行ったことのないホテル街へ足を踏み入れ、震える手で電話をかけた。

 やたらと愛想のいい男性が電話に出て、不慣れな俺に優しく、見方を変えれば逃げられないよう丁寧にレクチャーしてくれた。冝導——この店では紫苑と言うらしい——を指名すると、指名料を頂きますがよろしいですか、と有無を言わさぬはっきりとした口調で男性は言った。

 冝導は一体どんな気持ちでここへ来るのだろう。

 少なくとも、楽しみとか期待しているとか、そういうポジティブな感情は抱いていないはずだ。あの時俺に告げたテンションから察するに、もう仕事に対する諸々の感情が麻痺してしまっているのかもしれない。きっとそうならざるを得なかったのだ。

 『冝導には何か、この仕事をしなければいけない切羽詰まった理由があって、けれど本当はこんなことをしたくなくて、あの時無感情に俺に伝えることで助けを求めようとした』心に引っ掛かっている何かを言葉にしようとするとこうなった。

 呪文のようにこれを唱える度、俺の中に義務感や正義といったどうしようもない衝動が湧いてきて、行動せずにはいられなくなる。回避できないほどの事情を抱えた人間。俺は彼に同情する。

 できることならその場所から逃れて欲しいと思う。

 俺の親は不倫をしている。それも、何度も何度も、夫婦ではない相手と関係を持っている。母親が、それとも父親が? 俺の家の場合、二人ともがそうした不貞を繰り返している。しかも、双方合意の上で。

 新しい夫婦の形、と彼らは言うけれど、その割に周囲には隠したがった。

 彼らは結婚と出産、子供を持ち育てるという人生のレールの正しい道を行きながら、常に欲望のまま生きている。何かに縛られる人生ではなく、常に楽しくいられる人生を生きよう。そういう約束で結婚した二人の間に恋はなく、あるのは利害だけだった。夫婦として振る舞うことはできるし、育児もちゃんとする。ただし、それが生きがいではなくて、あくまで一つの要素としてこなす。

 彼らにとって俺は一番ではない。時期によって変動し、大体それぞれの不貞相手より優先順位が低い。

 乱れた肉体関係を好む人間はどこかがおかしい。だからそんなものを進んで求める奴がいるわけがない。心の大事な部分が欠けていないとそうはならない。

 本来は全く別の素材でできているその穴を、他人からの仮初の愛というドロドロの液体で埋めようとする。当然固まるわけもなく、それは流れて地面に落ちて、心の足元はどんどん汚れていく。

 冝導にはそうなってほしくない。きっと彼もそうはなりたくないと必死で抵抗しているはずだ。

 きっとそうだ。俺は冝導を助けに来たんだ。苦しいことがあれば話してほしい。これは勝手じゃない。これは勝手じゃない。これは勝手じゃない。

 インターホンの音が鳴った。それはこの部屋の前に誰かが訪れたという合図で、その誰かというのは一人しかあり得なかった。


「もしも知り合いが客として僕を呼んだ場合、こちらから断ることもできるんですよ。その逆も然り。とにかくこの仕事を通して知り合いと遭遇したのは初めてです」


 部屋の中にいる俺を見て、冝導は少し目を見開いたが、それ以上のリアクションを見せることはなかった。すぐに仕事用の笑顔と声色を取り繕うと、立ち尽くす俺を引っ張って部屋の中へ行き、ソファに座らせた。


「まさか東羊さんがそっちだとは思いませんでした。しかも僕を指名するなんて」

「ち、違う。俺は男としたいなんて思ったことは一度もない」

「そうですか。経験は大事ですもんね」

「どうして決めつけるんだ」


 冝導は首を傾げる。


「だって、そういう目的じゃなければ何をするっていうんですか」

「俺は話をしに来たんだ」

「話?」


 俺の手は段々汗ばんできて、緊張しているのが嫌でもわかった。状況を一向に飲み込めていない冝導の態度が、演技なのか本当なのか判断しかねた。


「バイトを休んでまで僕にしたい話って?」


 追い討ちをかけるように冝導が俺を覗き込む。図星を突かれたせいで言葉に詰まった。どうしてそれを知っているんだ。


「別にいいんですよ、仕事も大学も嫌になって癒しを求めにきたって正直に言っちゃっても……」

「だ、だから違うって!」


 営業スマイルで穏やかに俺を諭す冝導を、慌てて否定する。その答えで間違いないと確信してしまっているようだ。


「じゃあ……」

「よ、余計なお世話かもしれないけど、俺はお前が心配で……!」

「心配?」


 冝導は俺のことをまだ信じきっていないようで、冗談半分に話を聞いていた。あわよくば、このまま時間が過ぎてしまえば楽でいいとさえ思っているのかもしれない。

 本当のことを話した途端、心臓がバクバクと音を立てはじめた。ここにきて、受け入れて貰えるかどうか不安になってきた。

 ネットカフェのバイトとは違って、ヘアセットをばっちり決めて薄くメイクを施している冝導の小綺麗な顔を、うまく見られなくなってきた。


「冝導がなんでこの仕事やってるのか、事情は知らないけど、」

「紫苑」

「え」

「仕事中は紫苑、ですよ」


 それまでとは違って強い口調で修正されたので、俺は正直に呼び方を変える。


「……紫苑は、なんでこの仕事してるの?」


 冝導は薄い唇を閉じてじっとしていた。無表情のまま考えているようだった。

 やがて口を開いた時、目元をゆるりと下げてわざとらしく微笑んでいた。


「こういうの好きだから」


 俺は風俗というものに来た経験がないけれど、それがテンプレートの回答であることはすぐにわかった。


「見てて辛いんだよ」


 絞り出すように出た言葉は、用意していたものではなく、無意識から勝手に出てきたものだった。

 冝導を見ていると両親を思い出す。心の深いところに触れようとせず、大切なものが欠けてしまった人間。同じ職場で働いているだけの弱い接点しかない相手でも、知り合いがそうなるのを想像するだけで胸が痛い。


「そうやって平気で取り繕えるの、麻痺してる証拠だと思う。俺は冝導……紫苑にからかわれてたのかもしれないけど、助けられるのなら助けたいよ。あの時、どうして俺にだけあんなこと言ったんだ?」

「あの時……」


 冝導の目線が斜め上へ向いて、何かを思い出したように、ああ、と声を漏らした。


「そっか。覚えててくれたんだ」


 目を細め、嬉しそうに笑う。


「忘れられる訳ないだろ」

「僕が東羊さんだけに言った。それで東羊さんは僕のことを気にしてくれて、わざわざ店を突き止めてお金を払って会いにきてくれた」


 噛み締めるように、冝導は言葉の一つ一つを確認した。


「こんなことは初めてだ」


 もしかすると、微笑むのが癖になっているのかもしれない。眠たげに見える垂れ目を細めて、まるで愛玩動物を相手にしているような穏やかな笑い方をする。


「あんなことでわざわざ会いに来るなんて。どうせ噂にでもして楽しんでいるだろうと思ってたのに」

「俺はそんな悪趣味じゃない」

「そうですか。ふふ、そうなのかな」

「そうだよ」

「僕のこと話したって、きっとどうにもならないですよ」

「既にどうにもならなくなった人を俺は知ってる。紫苑はまだそうではないから、変わってしまう前に止めたいんだ」

「止めたい、か。そっか、そうですか。それなら」


 冝導は安っぽいソファにもたれて、初めてこの場でリラックスしてみせた。

 少しずつ心を開いてくれている。そう感じて内心高揚していた。話せばわかるんだ。俺にもできる。彼を正しい方へ引っ張ってやることができるんだ。こんなに可哀想で何もできない俺にも、できることがあるんだ。


「僕はまず、あなたのことが知りたいな」


 背もたれに体を預ける冝導が、甘えるように言った。言葉の意図はわからなかったが、それで心を開いてくれるなら安いものだと思った。

 両親のこと、過去のこと、冝導に話せるだけ全て話した。他人に自分のことを赤裸々に話したのは初めてだった。

 隠していたわけではない。ただ聞かれなかったから、話したことがなかったし、話そうとも思わなかった。辛かったことや今でも許せないことを言葉にする度、感情が鮮明になっていく。

 時間いっぱい、俺は冝導に自分の話をしていた。二人きりの時間の終わりを告げる着信音が鳴ったとき、俺は泣いていた。こんなはずじゃなかったと心のどこかで思いながらも、今更話を戻せる訳もなかった。

 冝導は今まで会った誰よりも親身で、優しかった。

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