お前が全部悪いよ
@magyaku
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二十五日締め月末払いの給料が支給される日、俺はいつもより上機嫌なのを自覚している。週に三回二十三時から翌朝六時までの七時間、ネットカフェの監視と清掃とたまにお客様対応をするだけで、一日あたり一万円程の給料が貰えるのだから、これほど楽な仕事はない。労働への対価というよりも生きてるだけでえらぁい代のような感覚で、いつも残高が増えているのを見てはにやけるのが月に一度の楽しみである。
振り込みは自動だが給与明細は手渡しなので、俺は軽い足取りのまま店長の元へ向かう。クマみたいな体格に重い一重瞼という、いかにも厳つい外見をしていながら話し方は中学の同級生のような気軽な店長が俺の足音に気づいて、椅子を回転させてこちらを振り返った。
そこでようやく、いつも観葉植物と大好きな漫画の新刊のことしか考えていなさそうな能天気な顔をしている店長の様子が、なんだかおかしいことに気付く。
眉間の皺は深く、どこか俯き気味だ。暗い雰囲気に気圧されて、俺の足取りも自然と静かになる。
「お疲れ様です」
とりあえず挨拶をしてみる。いつもと変わらぬトーンで話しかけてみても、店長の表情は硬いままだった。
「ああ……お疲れ」
ほとんどため息みたいな声で返される。
「これ、今月分の給料明細ね。一ヶ月お疲れさま、来月もよろしく」
いつもと同じセリフを、プログラムされたロボットのようにすらすらと読み上げる。
「あ……ありがとうございます」
とりあえず明細を受け取りながら、これは話しかけた方がいいのだろうな、と心の中の俺がほとんど確信している。しかしプライベートなことであれば聞いたら余計変な雰囲気になるだろうし、でも落ち込んでいるときは誰かに話したいものだと聞いたこともあるし、いや、どうしよう?
こういうとき、自分の損得を関係なしに行動できる人間に、内心憧れている。けれど、それができるのは人から信頼されていて、適切な言葉を選べる人だけだと、諦めてもいる。
「あのな、東羊(トウヨウ)くん」
迷いの中にいた俺は突然名前を呼ばれて、叱られる前の子供みたいに肩をびくりと震わせてしまう。どうやら店長は自分から悩みの種を打ち明け始めたのだと悟り、密かにほっとする。これで非情な人間にならずに済んだ。
「うち、閉店することになったんだ。三ヶ月後に」
ネットカフェ「快適空間I町店」は、俺の自宅から徒歩十五分のところにある。自転車に乗って通勤するのが良い距離なのだろうが、深夜と早朝は歩いていて気持ちがいいので、敢えて徒歩で通っている。
早めの出社を憂鬱な顔でこなすサラリーマンへ、ファイト、と念を送りながら、晴れ渡る夏の朝、履き慣れたスニーカーで舗装された道を蹴って歩く。
「快適空間I町店」は、俺にとってすごくいい職場だった。飲食物の提供がなく、深夜帯の利用者が少なく、他のネットカフェほど変な客がこない治安の良さがあって、勤務中はほとんど同僚と駄弁るか漫画を読むかして潰していた。だから、閉店してしまうのはすごく残念だ。しかし、どうして、という驚きはなかった。まあそうだろうな、ついに順番が回ってきたんだ、という気持ちだ。
半年前、「快適空間」の運営会社が不祥事を起こし、ニュースやネット記事で大々的に取り上げられた。最初は幹部が未成年の女子を売春した小さなネットニュースから始まり、次に幹部による横領がバレ、最終的に多くの店舗で残業代を支払っていない事実が発覚した。掘れば掘るほどネタが飛び出したため、マスコミは我先にと取材をした。本社の社員は上層部の傲慢な態度を嫌っていたため、軽い話も重い話も簡単に暴露してくれた。どれもうちの店には関係のない話だったが、ニュースで何度も取り沙汰された曰くつきの店を利用しようという者は当然おらず、売り上げも目に見えて激減した。
だから、随分前から予感はあった。事実、当時の同僚の何人かは退職して別のバイト先を探した。俺はそうしなかった。滅多にないであろう楽なバイトをギリギリまで手放したくないというのも大いにあるが、一番は怠惰だったように思う。行動を起こすのが面倒だった。
しかし、もうそんなことは言っていられない。今後も定期的に遊ぶ金が欲しいなら、さっさと次のバイト先を見つけてそちらに移らなければならない。
ずっと工事中のまま一向に完成しない工事現場の横を通りながら、俺はぼんやりと、新しいバイト先について考えていた。具体的にどこで働きたいかなんてイメージは全く無かった。
俺の自宅の周りは家が密集していて日当たりが悪い。その辺りに差し掛かるといつも、散歩の心地よさなんてどうでもいいから早く帰りたい、と、卑しく早足になるのだった。
二週間が経過した。俺は何もしなかった。
求人サイトを眺めるぐらいはしたものの、応募するところまではいかなかった。なんだかんだあと三ヶ月あるのだから、もう少しゆっくりでも問題はないだろうと判断したのだ。これも間違いなく怠惰であるが、俺の怠惰はいつも切羽詰まった場面では発揮されない。ギリギリ困らないラインを攻めてくるから、いつまで経っても本気で直そうとは思い至らないのだった。
俺のシフトは、金曜日と、土曜日と、日曜日と決まっている。大学との兼ね合いもあるが、しんどいことはまとめて済ませてしまった方が良いというのが当初の俺の考えだ。今では、読んだ漫画の内容を忘れてしまわないようにまとめてシフトを取るのが一番良い、と思っている。
従業員用の裏口のドアを開け、埃っぽい階段を登り、更衣室とトイレを通り過ぎて、事務所の真正面にある部屋が、勤務中の主な居場所だ。簡素な椅子と机、乱雑に積み上げられた漫画、新刊の入った段ボール箱。商品を汚さないためにペットボトル飲料以外の持ち込みは禁止されている。部屋はいつも、洗剤と紙の混ざったような独特の匂いがした。
「東羊、次のバイト先決めた?」
新刊にスリーブを掛ける作業の傍ら、同僚で同い年の大橋が唐突にそう聞いてきた。
「決めるも何も、応募すらしてないけど」
「マジ。俺もう決まったよ」
「は?」
「ちょっと遠いんだけど、個人でやってる漫画喫茶風のカフェがあってさ。面接行ったら受かっちゃった。来月からそこ行く」
透明のスリーブに埃が入っていないか確認しながら、大橋は漫画を収納していく。彼の手つきはとても丁寧で、丁寧すぎて作業が遅い。これは彼のとてつもない漫画愛からくるもので、決してサボっているわけではなかった。
「そこの店主めちゃくちゃ漫画オタクでさ。俺の知らない昔の名作とかいっぱい知ってんの。面接ですげーすげーって言ってたらいつの間にか受かってたよ。逆に最近の漫画には疎いから、俺に教えてほしいって」
黒縁メガネの向こうに、大橋の期待に満ちた瞳が見えた。
「いいとこ見つかってよかったな」
「うん。むしろここじゃなくて、最初からそっちにしとけばよかった」
「それは店長に悪いから言わないでおけ」
「東羊も早く探した方がいいよ。快適空間の他の店舗もどんどん潰れてるし、そこから流れた奴らにいい仕事取られちゃうよ」
「全員が全員楽なバイト探してるみたいな言い方するなよ」
「だってそうじゃん。東羊だってそうだろ」
大橋は一切悪気なく、俺にそう聞き返した。
「まあ……そうだけど」
図星だったので、否定することもなかった。
「実は、俺も新しいバイト先探してるんだけど、なかなかいいとこなくて……」
「なんだ、そうだったの」
「まだ早いからいいかなあと呑気に考えてたんだけど、大橋の話聞いたらちょっと焦るっていうか」
「じゃあさ、冝導(ギドウ)くんに紹介してもらいなよ。な、冝導くん。何かいいバイトないかな」
大橋はそれまで丁寧に行なっていた作業を中断し、身を乗り出しながら振り返った。
あまりに突然だったので、俺は明らかに狼狽えてしまった。
それまで俺は大橋と二人で話していたのに、なぜ急に他の人間を何の予告もなく混ぜるのだろう。彼は一見シャイなオタクのように見えるが、案外人と関わることに躊躇がない。
「そうですね。東羊さんが何をしたいかによりますかね」
声を掛けられた冝導はというと、少し離れたところで俺達と同じ作業をしていたのをぴたりと中断し、俺のように情けなく狼狽えることもなく、話の趣旨をしっかり理解しつつ返事をした。密かに聞いていたのだろうか。
大橋は彼とそれなりに親交があるようだが、俺は正直ほとんど話したことがない。仕事上必要な時は言葉を交わすぐらいで、プライベートの話は一度もしたことがないんじゃないだろうか。
というのも、冝導はどこか掴みどころがなく、また容姿がそれなりに整っているのもあって、絡みづらい印象があった。
「だってさ」
「や、やりたいことっつっても……」
一つ年下の冝導に対し、もごもごと不明瞭な言葉を返しているのが情けない。二十歳でフリーターの彼は現在もアルバイトを掛け持ちしているらしく、深夜帯で働く誰よりもしっかりしている。
はっきりしない俺のことを急かすことなく、冝導はいつもの柔和な表情で待っている。
彼の目の前には気泡一つ入っていないカバーのかかった漫画が、俺よりも大橋よりもたくさん積まれていた。
考えてみれば、明確に何かがやりたいと意識しながら仕事を探してはいなかった。ただ楽で、給料が極端に安くなければなんでもよかった。それはなかなか難しい条件なのだけれど。
俺がうんうんと考えている中、大橋が何かに気付いて椅子から立ち上がった。
俺は釣られて顔を上げる。大橋の視線の先にはモニターがあり、清算を済ませた客が残していったブース、つまりこれから清掃が必要なブースの部屋番号が表示されていた。
「あ、俺行ってくる」
「え」
俺は咄嗟に大橋を引き止めようとしたが、口実が見つからなかった。というより、二人きりにしないでくれよ、という思いの方が遥かに強かった。
そそくさと待合室を出ていく大橋の背中を、虚しくも黙って見送ってしまった。
話し慣れていない相手と、話の途中で置いていかれると言うのは、人見知りで若干人間嫌いの節がある俺にとってはかなり辛い。
しかも、相手はあの冝導だ。彼は話しかければにこやかに対応してくれるが、そうでなければ滅多に自分から話さない。プライベートなことを全く口にしないらしく、二十歳でフリーター、ということ以外はほとんど謎に包まれている。
「い……行っちゃったね。そんなに清掃したかったのかなあ」
とりあえず、適当なことを言って場を繋ぐ。
「僕たちの話の腰を折らないよう、気を遣ってくれたんでしょうね」
しかし、冝導は話を続ける気らしかった。
「やりたいことって言われても、困っちゃいますよね。別に働きたくて働いているわけじゃないですし」
「ん、うん……?」
冝導が冗談っぽいことをいうので、意外に思いつつも少し安心する。そういう会話もできるのか。
パイプ椅子からすらりと伸びる足は長く、長机の下で窮屈そうだった。
「ええと、僕何か変なこと言いました?」
「あ、いや。もっと気難しい人だと思ってたから、意外とフランクなんだなって」
「もう、東羊さんまで。それよく言われるんですけど、自分では全くそういうつもりないんですよ」
冝導は苦笑した。よく見るとこんなに人懐っこい顔をしているのに、どうして自分は彼をとっつきにくい人間だと思い込んでいたのだろう、と今更疑問に思った。
見た目の美しい人間と対等に話ができている。俗物的だとは感じるものの、どんな人間でもこの事実に少なからず優越感を覚えるのは事実だろう。
俺も同じだった。少しいい雰囲気で会話を交わすことができたというだけで、調子に乗って踏み込んだ質問をしてしまう。
「そういえば、冝導くんってバイト掛け持ちしてるんだよね? どこで働いてるの?」
聞いてから思い出す。冝導は他人にプライベートな話をするのを嫌っている、という噂。
俺ははっとするが、時すでに遅い。慌てて質問を無かったことにしようとするが、その前に冝導は俺に微笑み掛ける。
そして、何の遠慮もなくこう言った。
「風俗です。男の人相手の」
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