瞑目せよ、汝、幻影の剣よ

宮脇無産人

 



 縹渺たる夜空を割って月が顔を覗かせ

 聖も邪もなべて淡い光の下に照らし出す

 そんなありふれた夜のこと


 永い困苦に満ちた旅路の果て、テュケーの導きのままに私はここへやってきた。矢は尽き刀は折れ、文字通り錆び付いた己の身ひとつとなり、気が付けば私は深い森の中にひとり取り残されていた。

 昼夜を分かたず光も射さぬ、静かな森の奥、常闇の中を人と人でないものの叫びが木霊する、この恐ろしい森の奥に。途方もない悠久の時間が過ぎゆく間、訪う者ひとりない孤独の中を、豹や獅子や牝狼の闇に光る目に怯えながら、ひたすら自問に自問を重ねる日々を送った。もはや語らう相手もいない私には、幻のように過ぎ去った日々を忘れまいと強く脳裏に呼び起こすことだけが、千古不易の時の重圧に耐える唯一の手立てであり、かつ慰めでもあったのだ。

 問いを発する者もそれに応える者も己以外にあり得ないことを、己を裁く者すら己以外にあり得ぬことを知ったのはいつだったのか。叫びたくなるほど寂寞の情に駆り立てられた荒涼とした夜、天を仰いで己の来し方の意味するところを問うても、そよと吹く夜風はなにも語らず、ただ森に棲む獣たちの無意味な叫び声だけが心の空隙に限りなくこだまするのを聞いた晩のことだったのか。己を責め苛み、過ぎ去った喜悦の残響に身を浸しながら過ごしたあの日、闇の漆黒と見分けも定かならぬ下賤の鳥が樹木の頂から下界を見下ろし、正路を見失った私の暗愚を嘲笑うかのように鳴き交わしつつ払暁の空に飛び立つのを見送った、あの夜明けのことであったのだろうか。


 私の記憶の中から一羽の奇態な鳥が飛び出す。あの畜生とさえ出遭わなければ、あるいは今も私は路地裏のどぶの中に転がり酔っ払いの吐瀉物にまみれていたかもしれず、あるいは骨董屋の店先で陽光を存分に浴びながら午睡にまどろんでいたかもしれず、めくるめく冒険や悲喜交々の騒がしい人世とも無縁のまま、眠るように静かな一生を終えたに違いない。よしんば、あの鳥のように翼があったとしても、堕ちたダイダロスの息子の栄光とも無縁であるのはもちろん、羽ばたく翼はなんら我が生に浮上し風に乗る揚力を与えず、むしろ羽ばたけば羽ばたくほど罪業の重さに押し潰され、地上のくびきへと強く結わえ付けられることだろう。げんに私の身体は半ば土に沈み苔に覆われ、森という獄につながれたまま永劫の時の中を彷徨い続けている。これはいったい何の仕打ちであるのか。夜の向こう側から飛来したあの鳥は、テュケーの使者であったのか。そうであったとしても、私のこの境遇は鳥のせいではない、荒波に抗して己の本性を存分に発揮しようと奮闘した挙句が、しかじかの事態に立ち至ったのだ。そう考えれば、運命の与え給うた刑罰は報償となり、みじめな境遇に沈淪するこの身もまたつかの間の栄光のうちに輝くことになりはしないだろうか。……


 そんな回顧と夢想だけを唯一の慰めとしながら、私はきょうも巨木の根元に老体を委ね、来るはずもない迎えの姿を闇の虚空に幻視しつつ、明けの明星の見える時を待っている。


 双頭の鷲がインシュラの巨木の頂からおまえを見下ろす


 泥のようにねっとりと絡みつく闇に満たされた真夏の夜更け、尽きせぬ欲望を上塗りするかのように危なげに建て増しされたインシュラの屋上に、どこからともなく飛来したあの鳥が、四つの薄気味悪い目を夜光虫のように煌めかせ、両の頭を怪しげな動きで別々に傾けていた夜のことを、私は鮮明に覚えている。

 ひとつは路地の上に這い回る鼠を狙うでもなく、さりとて満腹に倦んで毛繕いに精を出すのでもなく、しかし他方の頭に付いたふたつの目は、無情な光を放ちながら猛禽特有の正確さでもって、石畳に倒れ伏したおまえの上にしっかりと注がれているのだった。

 追い剥ぎに取り囲まれたあげく、歌のひとつも吟じてみせる気力も洒落っ気もなくした一文無しの旅の男。あるいは、蛮族に蹂躙された片田舎から体ひとつで飛び出してきた貧しい男の、行き当たりばったりの身過ぎ世過ぎの果てに身代を潰し、哀れな浮浪人として命の泉を枯らさんばかりの骸同然の行き倒れ。

 そうとしか見えない男の魂魄がやがて地上を離れる時を今かと待ち伏せながら、たったひとつの置き土産であるやせ細った肉体を啄ばもうと虎視眈々と狙いを定めている、そんな様子にも見えず、

 かといって、こともあろうに食い詰めてあわや事切れんばかりの男のふところを当てに、路地からわらわら這い出でてきた、薄汚れた無宿の類を追い散らしておまえに恩を売り、引き換えになにがしかの糧を得ようというさもしい料簡でもなさそうで、

 冷たい石畳の上に杭で磔にされたかのようにしっかりと固定され、石像のようにぴくりとも動かないおまえ、襲いかかる不埒者になされるがままに、差し伸べられる無数の腕に懐をまさぐられ続けているおまえの姿を、頭上はるかに輝く無慈悲な神話に彩られた月と星々の煌めきに照らされながら、ただの奇形の鳥獣とは思えぬ、神性すら窺わせるような崇高な眼差しでじっと見下ろしているのだった。


 そのとき、双頭の鷲が人間の言葉で語りかけるのを、私は聞く


 五階建てのインシュラの屋上に見える鳥の、正確にはふたつある頭の一方がくるりとこちらを向いて「ディアナの森、ディアナの祭司」という一言を発したのを私は聞いた。

 鷲はやにわに翼を大きく拡げるとインシュラの谷間へ向かって身を踊らせ、夜の空を滑り出し、路地の溝の中にがらくたのように転がっていた私めがけて急降下を始めたのだった。そして石畳すれすれのところで翼をよじり気流の流れを反転させると、私の体をむずと掴み上げそのまま夜の空へ羽ばたきながら舞い上がった。

 恐ろしさに身がすくむ思いだったが、ときに雲間に現われた月の光が私の抜き身を稲妻のように煌めかせた刹那、鷲がこの世のものとは思えぬ絶叫を轟かせたかと思うと、まるで投石器に投げられた飛礫のように私は宙に放り出され、欲望の色を頬に漲らせながらおまえに群がっている無宿たちの頭がぐんぐん視界に迫ってくるのが見えた。

 気が付くと、私は不埒者のひとりの咽笛をするどい矢尻のように刺し貫いたあげく、ちゃりんと石畳に弾んだ音をたて、そのままおまえの胸元に転がっていたのだった。


 暗がりの中にも怯懦の色がありありと見える無宿どもの顔


 ほとばしる鮮血とともに倒れ臥した仲間から飛び退いて、骸の有象無象の同類たちは慄き、後ずさりを始める。そんな気配を感じながら、おまえはおのが心臓の鼓動に励まされるようにゆっくりと瞼を開こうとする。

 おまえを危急存亡の事態から救ったあの鷲は、いつのまに飛び去ったのかどこにも影はなく、夜空は海のように凪いで元の静寂を湛えている。

 かたや溝のなかで錆び付くにまかせていた私の体は、たったいま鋳出されたような初々しい熱気に包まれ、ぎらぎらと月光に輝きながら赤子のようにおまえの胸元に抱かれているのだった。

 先の閃光がきらめいたとたん、命を奪う道具としてこの世に生まれ出てから長きに渡る日々をぼんやりと半睡の状態で過ごしていた私に、再び生きんとする力が賦活されたとでもいうのだろうか。その証拠に、ひとりの男と私を取り巻く無宿たちが我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってゆくのとは裏腹に、おまえがこの世に生を受けてからすべての記憶と感情が、溢れかえる光の奔流のように我が身に流れ込んでくるのをたしかに感じるのだった。

 おまえがこうしてひとり冷たい星空の下で、ひとしれず路上で目覚めることはもう何度目のことか分からず、朝の挨拶をかわす家族のかわりに出迎えるのは、烏と、野良犬と、どこか遠い異国から連れ去られ奴隷の身に落とされたあげく主人にさえ見放された宿無の群れたちと、さわやかな朝の涼風のかわりに鼻先をなでまわす、かすかな腐臭をはなつ都の薫風だけであることを、私はわが身のことのように知っている。

 こうして夜が更けるまで、城門から荷物を運び込もうとする牛馬の嘶きがきこえるほかは寝静まった街のなかを徘徊し、何がしかの銭をふところにしては翌日の酒代に当て、酔いつぶれた頭はきょうが暦の何年とも知らず、酒精に鈍った鼻先は家畜の糞と、さまざまな香料の馥郁たる香りと、ひとの汗の匂いを嗅ぎ分けることもできない、そんな幾年を過ごしてきたことを親しい友よりもよく承知している。


 おまえの空には煌々と月が輝いている

 生殺与奪を律する、無慈悲な天体が見下ろす


 蒼白い光に照らされたインシュラの森に、おまえはたったひとり、人の世から追放された流謫の貴種のように佇んでいる。その手には私がしっかり握り締められ、もはや我々がひとりの人間と一個の金属という以上の絆でしっかりと結び付けられているのを私はひしと感じていた。そして、おまえのなかに眠る記憶という記憶の箱の蓋をのべつに開け、おまえという人間について学びながら、懐刀として何をなすべきかについてさっそく思索を始めている。

 まどろんでいた私に再びみずみずしい命を注ぎ込んだのは、異形の鳥の姿に化身した古の神々の悪戯であるのか、それとも月とその光源たる女神の恩寵によるものだろうか。人であるおまえと記憶を分かち合い、おまえにまつわる万象と呼応しながら物想う剣。私がそんな奇態な運命を背負い込むことになったのは、底なしの闇に浮かぶ月が梟の目のように燦燦と輝く、ごくありふれた夏の夜のことだった。



 悠久の歳月はこの私から何もかも、記憶すらも奪おうとしている


 もはや理性を錆びつかせた私の頭が、過ぎゆく過去の記憶を追いかけようとすればするほど、それは一層早く私から逃げ去ってゆくように見える。追いつき、捉まえたと思えばたちまち霧散する、それは影法師のようなものだ。過去の私やおまえの影が、私をせせら笑いながら傍らを通り過ぎる。その影と影とが儚い夢のうちに絡み合い、束の間の舞踏を演じるのが人生であり、あたかも煉瓦が次々と積み上げられて古い地層を覆い隠してしまうように、人生の舞台装置は常に新しくあろうとして過去を容易に忘却しようとする。おまえとの邂逅はいったい誰に幸運をもたらしたと言えるのか、そんな問いすらいずれ私の頭の中から消えてゆくに違いない。

 人であれ物の怪であれ、誰もすべてを記憶に留めることはできない以上、テュケーすらこんな私の運命を責めることはできないだろう。一介の剣に過ぎない私は、動くこともかなわない木石にひとしく、波間を漂う一枚の木の葉のように、運命の河の流されゆく先を粛々と受け入れるしかない。だが動く生き物であるおまえ、私という武器を振り回すことのできる両の腕と大地を踏みしめる二本の足を持つおまえが、澱んだ夜の街の陰風に逆らいながら、いま自らの意思で立ち上がろうとするのを妨げるものはだれもいない。


 よろめくように立ち上がり、迂遠な千鳥足の行き着いた先は、

 一軒の居酒屋


 気が付くとおまえは、居酒屋らしき看板のあがった店先で、ふところに手を突っ込み探るように銭を勘定している。先ほどの不逞の者たちは驚きと戦慄のあまり手持ちの銭を投げ出していったらしく、銭袋がむしろ昨夜よりも重みを増していることに満足げな笑みを漏らし、

 だがおまえはその重さが十分であるかも確かめないうちに、いつの間にか酒場の中央にあるテーブルにどっかりと座を占めて、馥郁とした料理の香りを存分に堪能しながら、東方ふうの舞踏を踊る妖艶な女たちの姿や、それを取り巻きながら卑猥な言葉を投げかけるのに余念がない兵士たちの姿を、もの珍しそうに眺めている。

 女たちの嬌声に混じり、辺境では蛮族の童どもが戦の終わった戦場で死体を見つけては生首を集めているという噂、あるいはその首を互いに蹴り合って陣地を奪い合う遊戯がかの地ではたいそうな人気だという話が飛び交い、そんな与太話に夢中になっている連中の顔を見れば、赤い髭に覆われたそばかすだらけの顔や、獅子のごとき金色の毛のかがやく丸太のような腕、流れる流氷のような見事な銀髪から察するに、正規の兵ではなく、蛮族との国境近くに派遣された軍団を補強するべく現地で補充された傭兵の一団といったようすで、

 真夜中をとうに過ぎてもいっこうに店仕舞いをするふうもない店の主人はというと、卑屈な愛想笑いで口の端を引き攣らせながら、酔っ払いの男たちを前に、蛮族の子どもたちにそんなに変わった風習があるのなら皇帝陛下もさぞかし興味をそそられ、このローマに招いて興行を行えば大当たりを取るでしょうなぞと軽口を叩いているありさまで、その間にも新たな葡萄酒の杯が次々と運ばれて宴はいつ果てるとなく続くのだった。


 厄介に巻き込まれないうちにここを去るように、私はおまえに忠告する


 ところがそれを無視して、おまえはぐっと一息に葡萄酒をあおり、髭面の小男である店の主人を呼び付けては次の一杯をたのみ、舞い踊る女と浮かれさわぐ無頼の男たちの狂態を見つめつづけている。  

 そのとき、遠目にこちらを窺っていたらしい大男がこちらに近付いておもむろにテーブルに腰掛けると、どぶの底から立ち昇った湯気のような不快な息を吐きつけながら、馴れ馴れしく声をかけてきたのだった。私は厄介を避けてこの場から席を立つように忠告しようとするが、しかしおまえは男の声にも気付かないまま呆けた顔つきで異国の妖艶なる踊りに眼を奪われたままだ。

 そしていつのまにか男は、テーブルを挟んで差向いの席に陣取ったまま、おまえの顔をしげしげと眺めており、見上げたおまえの顔ときたら、自分の薄汚れた身なりを咎められたのではないかと訝りながら、眼をぱちくりさせているだけなのに、私はひどく落胆させられてしまう。

 よもや宿り主を誤ったのではないか。しかしそんな私の思考を遮るように、戸口の外でなにやら叫び声がしたかと思うと、さきほどの貧相な店主が外へ駆け出して行き、しばらく安堵の表情を浮かべて店に戻ってきたのがちらと見え、

 というのは、酔って帰途に着いた客のひとりが物陰に引き込まれて盗賊どもに短剣を突きたてられたわけでもなく、夜のうちに都にさまざまな資材を運び込もうとわんさと荷物を積んだ荷車が、野犬に吠えられて驚いた小心な牛の暴走に引きづられ、通りを隔てた娼家の明かりへ突っ込んだというだけで、その悲鳴が女たちの竪琴を弾く手先をほんのわずかのあいだ止めたに過ぎず、夜ごと飽かず繰り返される乱痴気騒ぎはそんな些事をものともせず、濁世のすべての汚穢を飲み込むように宴は続くのだった。


 浮かれ騒ぐ者たちのなかで、おまえはひとり黙したまま正面を見据えて動かない


 大男が真正面に向かい合ったまま、彼の目をじっと覗き込むように見つめている。大男はあきれ顔で周囲を見まわして言う。さっきの騒ぎで表へ飛び出していった胆の小さい連中は、巻き沿いを食らって腕や足をへし折ったり、頭を潰されてお陀仏になったやつもいる、わざわざ危険なところへのこのこ顔を出す野次馬根性がおれには信じられないと、そううそぶく男の目は笑っていないのにおまえは気付いていない。優に天井に頭の支えそうなほどの大男は、どこまでも親密さを装いながらおまえに近付き、だが賢明なおまえは表情ひとつ変えずに、相変わらず関心もなさげに不機嫌に杯を傾けるだけだ。

 たいした胆力だ、と私はしきりと感心する。だが厄介な相手には関わり合いになるまえにそっと席を立つのが、力に恃まず己を守る最善の方策だと私はおまえに忠告してやる。

 なにも因縁を付けようというんじゃない、と男は言う。さっき、おまえは外の騒ぎには目もくれずにひとりで酒を飲んでいた。女たちの踊りや竪琴を弾く手が止まっても、おまえは何も目に入らないようにじっと机の端っこを見つめていた。そう、ちょうどおれの肩越しに、壁にパピルスの切れ端がひらひら落ちかかっているところをな。そんな大男の言葉が耳に入るや否や、おまえは意識しないうちに、いわば危急の事態から逃げ出そうとする私を引き留めでもするかのように、薄汚れた着衣のふところに手をしのばせて、体温で熔けんばかりに熱した私の体をぐっと握りしめている。

 大男はというと、相手のこわばった表情を解きほぐそうとでもするかのように笑みを浮かべながら、しかしその目は檻のなかの野獣を見るような、冷酷な調教師のように残忍な光を湛えて潤んでいる。調教師は矛先をかわし、先手を打つように話題を変えようとする。


 おまえは決して警戒を解かず、いっそう力を籠めて私を握り締める


 おれが何の生業をしているように見える、と男はいう。ここスブラ街の夜を仕切っている裏の界隈では、ちょっとは名の売れた商人だったといい、そういってもあつかう品物は人間の形をした道具、しかも切れば血も出る本物だ、そう自慢げに話し出す。

 薄っすら微笑を浮かべながらうそぶく男の視線はテーブルの下に注がれ、私は吸い込まれるような碧眼と思わず眼を合わせてしまい、気付かれないようにそっと暗がりに身を隠す。おまえはそんな私を大胆に膝の上にもてあそびながら、そういう男や女の形をした商品を属州から荷車に詰めて運んで、ここローマの市場で売りさばくのは、けっこういい金になる商売だったなぞという、真偽も定かでない男の述懐を黙って聞いている。

 男もまた解放奴隷の子孫であり、そのなかには市民に昇格する奴隷もいれば、ばかでかい借金をこしらえて、また奴隷の身分に身を落とすやつらもいる。腕に覚えがあるなら、己の命を運命の秤にかけて、闘技場へ飛び出してゆくのもひとつの生き方だ。そうでもなければ、他人の不運を踏み台にして、自分がのし上がるという最低の方法もある。

 そう続ける男の話の要諦はいうと、おまえがこのローマの街で白昼どうどうと歩けぬような過去があるならいっしょに組まないかという相談に尽き、男はもはやおまえに断る術はないとでも言いたげな自信ありげな面持ちで腕を上げると、蝋燭の明かりではよく見えない、剥がれかかったパピルスの人相書を指さしてみせた。


 おれには、あんたの顔が

 千セスティルティウスの金貨の山に見えて仕方がないのだよ


 そう駄目押しの一言を耳にしたとき、大男はにやりと笑って周囲のひげ面の男たちに合図を送り、とたんに総立ちとなったむくつけき男どもと、おまえはやにわに蹴倒したテーブルを挟んで対峙し、大振に構えた私を蝋燭の明かりに煌めかせる。気が付くと碧眼の大男がうなり声を上げながらどうと足元にたおれ伏し、丸太のような首筋から流れ出すその鮮血を私は驚きをもって眺めている。

 そして、闇夜の蝙蝠のように次々に襲いかかる短剣のきらめきをおまえとともにかわしてうちに、目のまえの大男がふらふらと血を流しながらよろめき倒れかかり、兜の隙間からきっとこちらを睨み付けているような錯覚に落ち込んでゆく。

 そいつが鼻息を荒立て、瀕死のサイのように猛進してきたとき、その首の付け根から腹にかけて三日月形の大きな裂け目をつくったのが振り下ろした剣である私の一撃であり、相手のからだが鉄と青銅の表皮でかたく鎧われていることや、いつのまにか、自分たちが蟻地獄の底でもだえる二匹の虫けらのように、砂塵の舞う大円形の闘技場のまん中で命のやりとりをしている真っ最中であることになんの疑問も感じなくなっている。

 意識は茫としてかすみ始め、時間の感覚は失われて意識はその中を前後にゆらめき、ふと気がつくと体はひらりと相手の巨体をくぐり抜けてうしろざまに延髄を斬りつけ、どうと倒れこんだ男の咽喉もとにおまえの手はおのずから動いて剣をするどく突きつけている。


 観客席からとどろく歓声に包まれ、

 それもいつしか遠い虫の音ほどにしか聞こえなくなる


 いま自分の剣のさきで血と泡を吐くばかりの男は、もはや奴隷どころか手負いのけもの、というよりもすでに生きものの住む世界からじわじわと遠ざかろうとするぴくりともうごかない肉塊に過ぎず、その魂魄はおそらくもうなにも見てはいない虚ろな目のうちに映り込む、真夏の蒼穹のなかに拡散しつつあり、ひろがる血溜まり、つまり命の精髄が沈みかけの肉体から逃げ出すかのようにからからに乾燥した大地に吸いこまれつつあり、

 その光景をいま見下ろす位置に立ち、たたかいに熱して湯気を放つ肉体を冷まそうとしきりと肩を上下させ呼気を吐いている自分は少なくともまだ死んではいないことは確かなようだった。

 歴戦の戦士であった男は、命知らずの最後の猛攻にうって出たものの、今やだらしなく血を垂れながら魂を手放しつつあるただの肉体に過ぎない。

 おまえは、かすむほど遠方に見えるばかりの、観客たちの指がさし示す気まぐれな命乞いの合図にもかかわらず、かたく握りしめた剣をふかぶかと男の咽喉もとに刺し入れる。それから葡萄酒の栓を開けるように一気にひき抜き……そこに熱した陽光がかっと照りつけ、たかだかと掲げられれた私は、オリュンポスの神のように煌々と誇らしげにきらめき、

 だがそのきらめきがおまえに、いつか旅路の途中で生き別れとなった姉に手渡されたクルス=十字架を思い起こさせたことに私は身震いする。肋骨の浮き出たみすぼらしい痩身の男の像を刻み込んだこの手のひらに乗るほどの金物が、いったい何ほどの値打ちのあるものだろうかと私はそれを疑い、嘲笑い、これを肌身離さず身に着けてさえいればいつか姉弟は再び会うことができるという姉の言葉を信じる、おまえの愚かさを罵りながら。……


 見まわすと、

 居酒屋のなかは盗賊にでも押し入られたかのような

 凄まじい荒れようで、

 葡萄酒をなみなみと湛えた水瓶はぶち割られて

 床は血のように真っ赤に染まり、


 その幾分かは本物の血が混じっているのかも知れず、というのは床には背中に短剣を突きたてられた男たちがいくたりも倒れ伏したまま呻き声を上げているありさまで、しかしやがてどやどやと店の外に駆けつけてくる足音は、近くの路地からさまよい出てきた野次馬たちの足取りに混じって、パラティウム宮の方角から聞こえてくる夜回りの巡邏隊の馬蹄の響きをたしかに伝えていることは間違いなく、私を硬く握りしめたまま血まみれで立ち尽くすおまえに、逃げろと大声で叫ぶ。こんどはその声が届いたのか、おまえはひっくり返されたテーブルや椅子をひらりと飛び越えると、壁に貼られた一枚のパピルス、闘技場から逃げ出した剣奴の人相書を剥ぎとり、蝋燭の火のなかに礫のように投げ入れる。火はたちまちにおまえの相貌を焼き尽くす。

 そして、誰もいない厨房から流れ出した油に飛びうつり、みるまに天井に燃え広がり、その炎と吹き上げる煙に追い立てられるように店を飛び出したおまえは、いつか闘技場の観客の喝采を浴びながら、止めを刺した相手の骸から短剣を引き抜いたとたんに、その場になだれ込んだ警備兵たちに槍を向けられたことを思い起こすだろう。試合に勝ったにもかかわらず皇帝から労いの言葉もかけられず、こうして命を狙われるのはどういうわけか皆目見当も付かないまま、野獣のような叫び声をあげて兵たちに飛びかかり、恐れおののいて道をあけた群集のあいだを駆け抜けた記憶が鮮明によみがえり……

 そうだ、あの日からもう三年ものあいだ、汚物と悪臭とに満ちたあの下町のインシュラの陰に広がる路地裏に、カラスや野良犬、無宿たちと寝起きを共にしながら小銭と食い物をめぐって泥濘の上を這い回るような暮らしをしていたことを。おまえは何もかもを思い出す。そして城壁を乗り越え街の外へ出ると、捨て去った過去の自分の姿をそこに確かめるように、もはや自分とは無縁な帝国の都の姿をしかと目に焼き付けようとする。


 城門の上から、双頭の鷲がじっとこちらを見据えている


 二つの頭を持つ雁首をそろえ、月光の下に半身をそれぞれ白と黒とに染め分けながら、石像のように身じろぎもせず四つの目を闇夜に煌めかせ、おまえを注視している。鷲よ、おまえはいったい光と闇のいずれの使者であるのか。善と悪、高貴と卑賤のいずれの代理人であるのか。双頭の鷲はそれには答えずに、いかにも鳥らしい所作で羽づくろいを終えると、月明りの夜空を旋回しはじめ、光と闇のあいだに身を躍らせる。そしてくるりと身を翻して森の方角へと飛び去ったとき、おまえの口からふと「ディアナの森、森の祭司」という言葉が漏れる。それはまるで逆らえない運命の言葉のように私の上に圧しかかり、見上げれば月もまた、怜悧な刃物にも似た冷たい光を放ちながら、我々の前途を照らし出している。

 テュケーよ、おまえの意思は我々にはうかがい知ることができない。




 生あたたかくまとわり付くような路地の大気をとおく置き去り、

 城門を越え、起伏する丘陵の向こうに、

 夜明けの空を背景にこんもりと森の影が浮かび上がる


 遥か樹上から差し込むわずかな木漏れ日と、ようよう明るさを増す外界の景色とはうらはらに、おまえの心はいっそう深い闇の底へ沈んでいくのを、私は不安げに見詰める。木々を縫い、谷川をいくつも越えて、蔦の絡みつく枝や深い草木を分け入ったこの奥地までは、いかな俊足の追っ手といえども追いつけないことを、私はおまえの耳に囁き、おまえの進むべき方角にぐいとわが身をわずかに乗り出してやることで正しい道を指し示してやるのだが、おまえの心は依然くらく沈みきったままだ。

 すでに日は高く昇って燦々と世を遍く照らし出そうというのに、おまえの双眸に映し出されるものといえば、過去の追憶と慙悸の念ばかりというのはどういうことなのか。だが、私はさきの乱闘での見事な戦いぶりに、おまえの頭の中から引き出した剣闘士としてのあっぱれな活躍にぞっこん惚れ込んでしまった。そして、戦士たるべしと見込んだおまえに、生きることは戦いであり、他者の生命を奪うことは勝利であり、この世の普遍原理であるところの力を行使する権利を放棄したものは腑抜けにすぎないことを懇々と説いて聞かせる。

 森のさらに奥へと足を踏み入れ、さながら夜の海に漂う夜光虫のように光る獣の眼だけが闇を支配する、魑魅魍魎の世界へと踏み入ってゆこうとするおまえは、ディアナの森の祭司とはいったい何者なのかと疑問を抱くことだろう。


 それはおまえのことなのだ、私はそう答える


 どこからともなく聞こえた天啓のような声に、おまえは狼狽してあたりを見回しながら耳を澄ませる。街を追われ、お尋ねものになってしまったおまえには、もはや日の当たる世界に行くべきところなどない。おまえがこれから向かうさきは、二度と振り返ることの許されない黄泉への一本道などではなく、この森を通り抜けたところに開ける肥沃な一大平野に栄える平和な王国などでもなく、それは奪うべき目標として与えられた玉座なのだとおまえに教え諭す。

 盗み、人殺し、姦淫、ありとあらゆる世俗の罪を贖うばかりか、不可侵の神秘の光に守護されながら、さながら森の王として君臨することのできる罪人の王であり、その地位は先代の王の命を奪った者によって、連綿と受け継がれているということを。

 おまえはとたんに大声で笑い出し、くるりと踵を返してもと来た道を引き返そうとする。そんな役どころを押し付けられるのはまっぴらだという気持ちを、おまえの表情は隠そうとしない。そんなものはただの言い伝えであり、官憲が捕まえそこなった罪人に惨めな死を与えるために方便に過ぎないではないか、あるいは死に追いやられた義士を生かしておきたい人々の願望の生み出した幻ではないのか。それに、罪人の王ならもっとふさわしい者をおれはいくらでも知っている。長旅をつづける親子を襲い、舌嘗めずりしながら母と姉を陵辱したあげく異国に売り飛ばし、おれを見世物小屋の興行師にたたき売った盗賊の首領、そんな男こそもっとも罪人の王にふさわしいではないか。

 そんなおまえの内心の叫びを聞き届けたかのように、空にはいつのまにか黒雲がむくむくと湧き起こり、天蓋を覆い尽くすほどに拡がると、まるで不吉な予兆を告げるかのように嵐のように渦巻き始め、大雨が蛮族の奇襲のように突如として襲いかかり、おまえは春雷のような雄叫びを上げると胸を躍らせながら、ぬかるむ足下をものともせずに、斜面を一気に駆け下りようとする。

 そのとき、目のまえに見事が大鹿がおどり出すと飛ぶように樹木のあいだを駆け抜けてゆき、左手のさきに見える大岩の上にぬっと姿を現すと、こちらを振り向いて、まるでおまえを手招きするかのように一声を上げ、するとそれを追うように茂みがすばやく走って追いかけるのを目にした私は、「やつが王だ、追え!」心のうちでそう叫び、すると耳に届いたのかどうか、おまえは本能的に私を振り上げると獣のような咆哮を上げて、サテュロスもかくやと思われるほど人間離れした壮快な足取りで飛び上がると、人影を追い、暗い森の奥へとまっしぐらに突き進んでゆくのだった。



 百人隊長からの使いと称する巡邏隊のひとりと思しき男が

 この山深い谷のそばにある小屋を訪れたのは

 つい先日のこと


 猟師は、丸太のような胴を持つ鹿の親子と数羽の鳥とを手土産に数日ぶりに寝屋にもどったばかりとみえて、奥の間に篭ってなかなか父を迎えに出ようとしない娘の振る舞いを苦々しく思いながら、テラコッタの壷から古い酒を汲み出すと清流のようにいっきに咽喉へ流しこみ、山の神々であろうと皇帝の使いであろうと家へ無断で足を踏み入れようとするやつは容赦はせぬと、内心の怒りを満面に漲らせ、

 そして断固たる足どりで戸口に駆けつけると、逃亡奴隷などこの家にかくまっておく余裕はない、田畑とローマの市民権を人手に売り渡し、だれからも邪魔の入らぬところに娘とふたり隠れ住まいをつづける自分たちには、太陽の恵みと、森から供される鳥獣たちと、川のせせらぎと渓谷でとれる魚があればそれで十分であり、いかなる理由があって見ず知らずの他人それもどこの馬の骨とも知れぬ罪人や逃亡者に分けてやらねばならないのか、とまくし立てるようにいうと、気圧されてあきらめ顔の兵士はいそいそと森のなかの小径を消えてゆき、

 目印である兜の赤い羽根飾りが見えなくなるのをたしかめると、レティシアは扉を閉めて父親にあらためて感謝のことばを述べたがにべもなく、言っておくが兵隊のやつを追い返したのは男をかくまうためではない、おまえの怪しげな異教信仰を悟られないためだとシリウスは念を押すように畳みかけ、それでも邪気のまったく感じられない娘の真剣な眼差しにじっと見入られると、ことさらに声を荒立てて、

 あの男は出会うなりいきなり短剣を差し向けて躍りかかり、この父の命を奪おうとした男でもあるのだぞ、そう押し殺した声音で念を押す父と、娘とのやりとりに耳を澄ませながら、私はこの森ふかい山小屋に娘とふたり遁世の暮らしを営んでいるシリウスという猟師の腰にしっかりと納められ、ことの成り行きをじっと注視している。慣れない山道へ踏み惑って谷底に転げ落ちたあわれな男であるおまえを二人がどう処遇するかそっと見守りながら、いつかおまえがこの男の胸元にあやまたず私を突きつけてその王位を奪う機会をじっと窺っている。

 貧しい杣人のごとき慎ましい身なりをしているとはいえ、昨夜の鹿を追うしなやかな身のこなしといい、先ほど兵士のひとりを追い返した堂々たる態度といい、月と狩猟の女神の祭壇に仕える、あの伝説の王にふさわしい風格を備えていると私はしきりと感心している。

 しかしどうしても解せないのは、雷雨の猛襲でぬかるみに足を取られ、転げ落ちた谷底で手負いの獣のように呻きながらも抗戦の意志を捨てないおまえから、まるで子どもから玩具を取り上げるような慣れた仕草で私をもぎ取ったかと思うと、何ごともなく腰の鞘に納め、がっしりした肩におまえを担いで歩き出したことだ。信じられぬお人よしだとそのときは思ったが、そもそもおまえの命に止めでも刺されていたら、男から祭司の身分を強奪するという私の企みは徒労に終わっていただろう。

 あれこれと今後の策を巡らせながら、私は父娘のやりとりにじっと耳を澄ませていると、娘は質素なチュニカの胸元から金色に煌めくクルス=十字架を取り出し、それならどうして狼の餌になるまで谷底に見捨てておかなかったのかと逆に父に問い返し、

 その銀色に輝くものに私はぞっと身震いすると同時に、どこかで眼にしたようなその形状に恐れおののき、まるで不吉なものに出くわしたような戦慄を覚えながら、この娘を上から下までとっくりと観察したのだが、簡素にまとめられた栗色の髪といい、吸い込まれるほど澄んだ黒曜石のような両目といい、肌理の細かい、ほどよく日に焼けた小麦色の肌といい、どこにも死を誘うような兆候は感じることができず、しかし父である猟師はというと、その物体を忌避する感情がじわじわと肌を通して、身につけている私の内部にまで浸透してくるのが分かり、

 そのとき、はじめて私はその物体の色かたちがおまえが姉の形見として身に付けている十字架と瓜二つであることに気付き、おそらくシリウスは、倒れているおまえの胸元からそのきらりと銀色に光るそれを偶然に見出したとき、娘と同じこの印を身に纏っているおまえに止めを刺すことに躊躇いを覚えたのだと考えるのが自然の成り行きで、だとすれば、どうしようもなく死と不吉の予感を感じさせる代物であるとはいえ、おまえの命をこの世に繫ぎ止め私の企みが頓挫することから救ってくれた、ある種の恩人であることは確かで、遠ざけるよりもむしろ感謝を捧げるべきであるのかもしれない。


 翌朝、娘レティシアが運んでおいた朝食のパンは

 手付かずのまま捨て置かれ、

 寝台は空っぽのまま


 私はこのシリウスという猟師が、ディアナの祭司にふさわしい類まれな洞察力を備えていることに、ますます確信の度を深めることになった。だがそれは同時に、おまえにとっては決して手抜かりできない、侮りがたい敵の出現を意味することに他ならず、密猟者が的となる獲物の警戒心を解きながら徐々に距離を詰めてゆき、獲物を追い込んでゆくような緊張の日々の幕開けともなるはずで、

 というのはまだ夜露と暁光のあらそう朝まだき、弓矢をつがえて森へ出かけるまえにシリウスは、怪我人とはいえ、念のために施錠をした一室へ寝かせておいたおまえのようすを確かめるために奥の間へと向かったが、案の定おまえの姿が見えないことを看取したとたん、崖から転げ落ちるときに足をひどく傷めていたはずの男が、神々か獣かはともかくよほど人間離れした精力の持ち主でもなければそうやすやすと一人で動けるはずがないとすばやく洞察を巡らせ、ひょっとすると怪我で動けないふりをしてこちらを油断をさせ、あわよくばその隙に命を狙おうという私の魂胆をずばりと見抜いたのかもしれず、

 そのとき、ふいに鶏小屋の方からばたばたと騒ぎ立てる物音と悲鳴を聞いたシリウスは、腰の鞘から私を引き抜いておまえの予期せぬ襲撃に備えながら、近付いた鶏小屋の戸を蹴破ってみると、小屋の真ん中にふんぞり返るように座り込み、口の周りを真っ赤な血の色に染めているながら、生きたままの鶏を引き裂いてむしゃぶりついているおまえを見つけたのだった。

 駆けつけたレティシアは色を失ってその場に倒れ込み、シリウスはというと畜生や下賤のものを見るように顔をしかめたまましばらく立ちすくんでいたが、やがて安堵の表情を浮かべるとすっかり警戒心が緩んだものか、とたんに大口を開けて呵々大笑するありさまで、床に寝かしたレティシアに気付け薬を処方すると耳元で、


 獣はどこまでいっても獣に過ぎず、信仰が動物を人に変えることはない


 そんな言葉まで呟いてみせるのだった。思うに私は、少しこの男を買いかぶり過ぎていたのかもしれない。というのは、その立派な体躯といい権力に媚びへつらうところのない堂々たる態度といい、森の祭司としての風格を十分すぎるほど備えていると私は睨んでいたのだが、畢竟、それはこの男の出自が元々、いまはどういう事情があってか世を捨てた猟師の暮らしに甘んじているとはいえ、身分卑しからぬ歴としたローマ市民の家柄であるがゆえの倣岸不遜の態度の表われに過ぎないではないか。

 そうとすれば、辺境の地からはるばる連れてこられた、どこの馬の骨かもわからぬ奴隷たちや、未だローマの文明の恩恵に浴さない蛮族を人間以下に見下げて憚らない驕慢がこの男の骨の髄まで染み込んでいることは必至で、げんにシリウスの顔はいま、ほっとするような安堵の色に染まり始め、警戒心があからさまな侮りの色に取って代わられるのを、私は見逃さなかった。

 森の中で鹿を射止めたとき、とたんに横ざまに殺気をはらんだ風が吹くと同時に斬り付けてきたこのどこの馬の骨かもしれない男が、たまたま娘レティシアが肌身離さず身に付けているクルス=十字架と同じものを首にかけていたからといって、心情まで娘とひとしくしているとはとても思えず、そもそも男が正当な持ち主とは限らないではないか、もしかしたらどこぞの良家の娘を襲って強奪したものかもしれないではないかという嫌疑がシリウスの顔にありありと浮かび、しどけない姿で倒れ伏している娘の横で鶏を頬張るおまえの目のうちに、みるみる動物の雄としての荒々しさを取り戻してゆくのを感じて不安におののき、たちまち父としての真情に立ち返ったように見え、

 この猟師の男は遠からずおまえを山小屋から追い出しにかかることは必定であり、もしもおまえにその気があるのなら、いち早くこの男の咽笛を掻き切らせて次の祭司の地位をたしかなものにしなければならぬ、私はそう己につよく言い聞かせるのだった。



 ところが、天意はあわれな父親に同情するよりもむしろ

 数奇なる運命と邂逅をもてあそぶ方をより好み

 やるせない思いに沈むのはシリウスのみ


 あの血の惨劇の記憶からそう日も経たないというのに、また私のなかに、おまえをしてあのシリウスという男から森の祭司の地位を簒奪せしめんという野望がまだぶすぶすと燻っているというのに、おまえがこの山小屋に当座のあいだ逗留することが許されたことに、私は正直なところとても驚いている。

 それがあのレティシアという娘の働きの賜物であることは到底、私の理解の及ぶところではなく、というのも、あれからものの数日も経たないうちにレティシアは真っ赤な血にまみれたおぞましい姿などすっかり忘れてしまったかのようにおまえの部屋をしきりと訪れては、食事を運んだり、汚れた着物の洗濯などをみずから進んで申し出るばかりか、おまえの臥している一室から出るときに、伏し目がちに笑みを浮かべ頬を薔薇色に染め上げることもあるほどで、そんな様子を見るに付けにわかに信じがたい感慨にとらわれるばかりで、

 いったいこの娘のなかでどのような超自然的な神秘が作用したというのか、それは一介の剣に過ぎない私などには皆目見当も付かない事柄に属するに相違なく、平俗な比喩を用いればさながら、つい昨日まで曇天にあまねく覆われていた枯れ草の荒野が、一夜明けてたちまち花咲き乱れる黄金の緑野に変貌を遂げてしまったかのような、あるいは蛇蝎のように嫌われる醜い幼虫が羽化するやたちまち玉虫色の蝶となって天空に飛翔する、そんな景色を髣髴させてやまず、ともかくも山小屋での暮らしの中で暗く沈みがちであったレティシアの面持ちが、おまえという思いがけない客人との出会いでひととき華やいだ表情を見せるようになったことだけは疑いなく、父もまたおまえへの警戒を忘れたわけではなかっただろうが、娘の密かな楽しみを取り上げることは差し控える、そんな心境になったのかもしれなかった。

 しかし夢を見るような日々を送るうちに、日課であるところの毎朝の食事の仕度や卵を産ませるために飼っている鶏の世話も忘れがちになるに及んでは、さすがのシリウスも苦りきった表情を隠そうともせず、また初めのうちはそれほど頻繁にはおまえの部屋へ行き来しなかったレティシアが、日を経るごとにその頻度を増してゆき、それにつれて猟から戻った父に一杯の葡萄酒をすすめ、森で出くわした獣についての話や、ときに街の市へ出かけた際の土産話などに耳を傾けることも次第に避けるようになり、シリウスはいつのまにか、ひとり弓矢の手入れに没頭した後、いまは遠い日々の思い出を相手に杯を傾けて過ごす夜がふえてゆくのだった。

 しかし思えば、こうして人目を避けた生活を続けているのは年頃の娘であるレティシアには不本意なことであるには違いなく、買い物のために市へ足を運ぶ日を除いては父のほかに話し相手ひとりいない暮らしぶりであってみれば、突然に転がり込んできた見知らぬ男との会話に夢中になるのも止むを得ないなりゆきだろうと、シリウスは半ば諦観しているのかもしれない。

 だが私に言わせればもっとも心配なことは、おまえが逃亡奴隷であることがふたり以外の人間に見咎められることであり、このあいだの山狩りの兵士のように首尾よく追い返せるとは限らず、もしも街から来た人間に見破られることにでもなればたちまち密告の対象となり、何事もなく看過されることなどまずあり得ず、さすがに祭司の地位をこれまで連綿と守り抜いてきたに違いないシリウスはそこにおいても抜かりなく、人目につきにくい深い森の中とはいえ、おまえをなるべく戸外には出さないようにレティシアに強く言い含めていたのだが、それが却って災いしてクルスと両輪の輪のように二人のあいだを近づけさせたのだと思えばつい胸が苦しくなっても詮無いことだった。

 一方、レティシアはそのような父の懸念など毛ほども察しないという顔つきで、顔を合わせるたびにそわそわと避けるような素振りを見せるばかりで、父はというとなにか二人のあいだに窺い知れない秘密が出来ているのではないかとやるせない気持ちで空を見上げる夜が続き、朝目覚めるとともに、無闇に殺気立った気持ちを無理やりとり静めながら弓矢の仕度をととのえ、己の腕前なら確実にし止めることができると自負する獲物たちの待つ森の中へと消えてゆく、そんな男の姿に、いつか討ち果たすべき敵とはいえ、私はいま僅かばかりの同情をもって付き従っている。



 つれづれの日々は瞬く間に過ぎてゆき、

 無聊をかこつおまえを嘲笑うように今日も陽は昇るのをやめない

 復讐を忘れた魂は、木漏れ日に縁どられながらまどろんでゆく


 おまえは、狩人の男が森の奥へと出かけてゆくのを窓から見送ると、寝台に座ったまま右足へ視線を落として、きょうはレティシアが市で手に入れてきた書き字板を使って文字を教えてくれる日だということをぼんやり考えはじめる。あの日、猟師に助けられこの小屋で過ごすようになってからの日々を思い出し、なぜあのシリウスという男が刃を向けた男であるこの自分を匿うのか、そしてその娘の世話を受けながらこうして何日も逗留を続けている自分は、いったいこの先どこへゆこうとしているのかを、粗末な丸太で組まれた壁を見ながら日がな一日、とっくりと考えている。

 塵溜めのようなスブラ街の路地で無宿同然の暮らしぶりのなかに身を潜めていたものが、居酒屋で大立ち回りを演じたあげくに身元が割れてしまい、ふたたび追われる身となったおまえ。森の中で聞こえたに違いない私の声の意味することに思いを馳せるが、確かな答えは私にも分からず、恐らくはあの双頭の鷲だけが正しい意味を知っているのかもしれない。祭司とは、罪人の王とはいったい何者なのか、あのシリウスという猟師が本当にその王であるのか、私の声を天啓のように聞きながら、がむしゃらに私という刃を振り回していただけのおまえには謎だらけだ。おまえは頭を抱える。ようやく良くなりかけた右足の具合をたしかめるように左右に動かしていると、その不在の祭司、シリウスの娘であるレティシアが、いつの間にか書き字板を携えてテーブルにつき、きょうの手習いの仕度を始めている。

 レティシアの手はすらすらと書き字板の上を流れ、蝋の溝がくざぐさの文字や言葉を書き付けてゆく。おまえは、その文字のすべてを読むことはできない。幼いころに盗賊に襲われ、奴隷商人に売り飛ばされ、畜生同然の暮らしを長いあいだ強いられてきたおまえには、見覚えのある文字とて、その綴り方や意味をすっかり忘れ果てていることを私は知っている。だが、おまえが記憶の底から霧の彼方に浮かぶような朧な思い出の数々を引き出しつつあることを、私はおまえとともに、半ば驚き、半ばおののきをもってそれを見詰めている。

 おまえがまだ私と出会うよりもはるか以前に、あのクルスと呼ばれるおぞましい不吉な物体と浅からぬ因縁の紐帯を取り結んでいたかもしれないことに、私はひそかに嫉妬に似た感情が湧き起こってくるのを感じ、霧の中からいよいよ姿を現そうとするそれは、出し抜けに現われる目の眩むような光のように、私を脅かすような気がしてならない。

 おまえは、まだ両親や姉とともに暮らしていた幼い折に、列柱廊の連なる広場の一角で、近所の子どもたちといっしょに読み書きの手習いを受けていたときのことを思い出す。あるとき、いつものように復唱に励んでいると、肩の肉を打つするどい響きがあがったのが聞こえ、ふと姉のほうを見ると長い顎鬚を生やした痩せぎすの教師が鞭棒をゆっくりと左右に振りながら姉の顔を覗き込んでおり、

 そのチュニカの胸のなかへ手を差し込むと金色にかがやく鎖の付いた金物をつかんで引き出し、袖を引っ張りながら教場の輪からはなれた場所へと連れてゆくのが見え、後日そのときのことを訊ねると、姉は人差し指をそっと立てて口に添えて、誰にも他言は無用であると念を押しながら語ってくれたことは、いまもおまえの記憶の底に澱んだままであることを、私は知っている。

 これはいったいなんのまじないだと教師は、低く押し殺した声でたずね、石のように黙り込んだ姉にさらに畳みかけるように、これは邪教の神を崇めるものだと一喝し、ローマではオリュンポスの神々に加えて、属州から持ち込まれた種々の神々を崇めるものたちを咎めることはないが、それはあくまで数多の神の一人として至高の存在であるところの皇帝陛下に祭祀を欠かさず行うかぎりであり、このクルスを崇める一派はそれをすら行おうとしない、すなわち皇帝陛下と帝国に仇なす者たちであると、頭ごなしに決め付け、三倍の月謝を払うならこのことを黙っていてもよいが、そう言い捨てると薄ら笑いを浮かべながら姉を教場へ帰す男の顔に、おまえは殺意に似た感情をおぼえて身震いしている。

 そんなおまえに、私はそっと吹き込んでやる。その教師の顔は、おまえたち一家を襲い奴隷商人に売り飛ばした盗賊の頭に似てはいなかったか、いつか酒場でおまえに斬りかかってきた荒くれ者には似ていなかったか、と。そしていつの日にかおまえがこの私を振りかざして立ち向かうべき、ディアナの森の祭司にして王であるかもしれぬ、あのシリウスの相貌には似ていなかったかと。

 そのとき、ちゃりんという金属の落ちる物音にふと我にかえったおまえは、書き字板を手にしたまま顔を紅潮させ凍りついているレティシアを不思議そうな眼で眺めると、その首にかかる細い金属の鎖の先がなくなっていることに気が付き、しかしとっさにそれを拾おうとかがみ込んだおまえの眼がとらえたものは、テーブルの下で息づきながら組み直される小麦色の艶かしい脚と、そこへさながらパンに葡萄酒が注がれるようにつたって流れる赤い筋であり、

 おまえはやおら立ち上がると体をうち震わせ、怖れのあまり声を上げることもできずに身を竦ませるレティシアを血走った眼でにらみ付け、いまにも屠られんとするカンパニアの牡牛のような雄叫びを上げながら、森中の獣たちが振りかえるほどの絶叫をそこに残して部屋を飛び出し戸外へ踊り出てゆくのだった。


 私はその景色を、じつに誇らしく、爽快な気持ちで眺めている


 おまえが顔を真っ赤に染めているのは羞恥や欲望のためではなく、血を求めて止まない益荒男のこころばえ故にほかならず、取り上げられた剣のかわりに両の拳をただわけも分からず闇雲にふり回す姿は、かつて闘技場で血に飢えた野獣を相手に善戦した勇姿を、私に懐かしく思い出させる。おまえが求め、おまえが浴びんとする血は、このどこまでも不条理の支配する濁世で生き抜くために必須の闘志をまさに証するものではないか。生命の根底にたぎる不撓の力がいまおまえのなかに湧きかえり、いまこそこの勢いに乗ってあのシリウス、森の祭司を討ち果たしてその地位を簒奪するには絶好の機会ではないのか、私はそうおまえを鼓舞し焚きつける。そして生命溢れるこの森でじっくりと滋養を養い、おまえの母と姉を拉し去ったあの憎き奴隷商人、盗賊の頭を討ち果たすための旅にも出られるではないかと、私はおまえの心の深層の声に媚びながらそっと囁いてみる。

 ところが、獲物を携えて戻ってきたシリウスにおまえは気が付かないばかりか、照りかがやく月光の下、止むことのない猛り狂った叫び声を辺りいちめんに響かせながら、肉体に脈打つ力をあるかぎりふるって木立の幹を拳で殴り付けているのはどういうわけなのか。ただ手負いの獣のように呻きつづける男と、その声に呼応するように狼の遠吠えや森のけものたちのざわめきがさざ波のように打ちかえしているのを、すっかり意気を殺がれた私は、虫の声のように虚しく聞いている。

 呆然とする私をよそに、急ぎ小屋の戸口に駆けつけたシリウスは震える娘の肩を抱いて、なおも荒れつづけるおまえの狂態とおののく娘をこもごも見くらべながら、これでおまえが情をかけているのはただの獣、いや魔物であることがわかっただろうと優しく諭し、信仰がけものや魔物を人間に変えることはあり得ないのだと付け加え、ところがレティシアはかぶりを振ると真っ直ぐな眼差しで父に向き直り、あのひとはわたしを助けたのだわ、そう一言を口にするのを、信じがたいものを目にしたように眼をしばたくばかりのシリウスは、わが身からするりと身をかわした娘がたちまち男の傍へ駆けつけてゆき、まるで巣から転げ落ちて怪我を負った雛を見守る母鳥のような慈悲ぶかい眼差しで見つめるのを鞭打たれたように慄然としながら眺めているだけで、

 その姿はもはや討つべき仇敵としてはあまりにも卑小で、憐憫をさそう惨めさには満ちていても、闘争心をかき立てる相手とはとても思えず、つまりはこの男があの罪人の王たる森の司祭であるとは信じられなくなった私は、すべて自分の妄想に過ぎなかったことを正直に認めるしかなくなり、おまえという主人の前途のために考えたあれこれの企みの一切を放棄せざるを得ないという考えに急速に傾いてゆき、さていまはこのシリウスという男の腰に差されたまま、己の身の振りを案じ途方に暮れるばかりで、

 おまえはいつの間にかレティシアの膝のもとで赤ん坊のようにすやすやと寝入り、それを慈母のように見守る娘が両手に取り出したクルスを掲げてなにやら聞き慣れぬ呪文を唱えているのを、私はじっと見守っている。獣のように猛りくるっていたおまえを穏やかにし、赤子のように寝入らせているその文句は私の知らないものであり、しかも剣であるところの私の存在の核心にじりじりと迫りながら、おまえを徐々に私から遠ざけようとする。おまえはいったい何ものであるのかと私はクルスに問い訊ねてみる。

 おなじ金属の鋳型から生れ落ちた、同属のよしみからそう訊ねる。真っ赤に熱した鋼から、ひとを屠るという目的をもって生まれたのが私であるとするなら、おまえは何のために生まれたのか。姉と弟の仲を裂き、奴隷商人に売られるのを助けるためにおまえは生まれたのか。世を捨ててひっそりと暮らす猟師と娘の仲を遠ざけ、どこの馬の骨とも分からぬ男と恋の真似事をさせるためにおまえは生まれたのか。なぜおまえは生贄の獣を屠り襲いかかる敵を打ち倒すかわりに、なんの役にも立たぬ無力な祈りのために用いられるだけで満足するのか。一振りの剣の力にも如かず、ただ祈りを捧げるだけのおまえが、いつかの教師がいうようになにゆえに帝国に仇なすことができるというのか。

 おまえは理解を超えている。私はおまえの存在に嫉妬しているのかもしれない。




 シリウスはその日、狩りのまえにそっと私を腰からとり外すと、

 鈍く光る刃にしげしげと見入りながら、

 レティシアの言葉を思い出しては幾度も反芻に反芻を重ねる


 あの、鶏を生きたまま貪り食った、まさに目前で人間とは思われぬ狂態を演じている野獣そのものの男を指さして、あのひとに助けられたとはどういうことなのか。驚きの目で問いかえす父に対して娘が真顔で語った言葉、あのひとは一度は殺そうとしながらも意志の力で踏みとどまったとは、どうしてそんなことが言い切れるものか。それに続き、弱きものの救済、天国の門なぞという言葉が矢継ぎ早に娘の口から漏れるのを驚きをもって聞くに及んで、異教の教えにみるみる傾斜してゆく娘の行く末を案じては不安に陥るばかりで、しかし娘が大切に身に帯びているクルスを取り上げることだけはどうしても憚られた。

 シリウスはふと妙案を思いついたらしく、手に弄んでいた私に目を止めるとやにわに立ち上がり、レティシアの姿を求めて小屋の奥へと消えてゆき、察するにどうやら、護身のためにこの短剣を娘に持たせるという考えに落ち着いたようだった。パンと干し肉のかんたんな食餌を済ませたシリウスを見送ったあと、おまえに読み書きを教える日課を済ませたレティシアは、日没までに市場へ買い物を言い付かっていたことを思い出すと、チュニカの胸の内に下げたクルスに加え、腰にはひそかに私を同行させながら小屋を後にするのだった。

 ところが、いつもならからりと晴れた空の下で爽やかな薫風としか感じられない、各地から運ばれたかぐわしい香料の香りと混合した牛馬や家禽の排泄物の臭いも、湿気の多い大気と汗だくの男たちの体臭と混ざり合って鼻をつき、列柱廊に囲まれた広場をびっしりと埋め尽くすように並んだ露天商や天幕のあいだをぐいぐいと互いに押しつ戻されつ進んでゆく心地よさを、きょうのレティシアは感じることができないようで、

 というのも、市場の人込みのなかを進むにも私を汗ばんだ手でぐっと強く握りしめているせいで、そこからは久しぶりに街へ出たうきうきした気分よりも警戒と緊張のみがひしひしと伝わってくるばかりで、店先で品物をいろいろと手にとってたしかめるあいだや、人込のなかをうろうろと目当ての品を探しまわるうちにも、振りかえるとなにやら気味のわるい人影がさっと物陰にかくれるような気がして落ちつかず、私がその正体をしかと眼に納めることができたのは、帰り道にある街外れの丘の上にさしかかり、偶然に吹いた一陣の風がチュニカの裾をひらめかせて、その隙から背後の光景がちらりと眼に入ったそのときだった。

 林檎の木のそばから怪しい影が飛び出したかと思うと、トガをだらしなく緩めて着こなした遊び人風の若者を筆頭に五六人の男たちが、おもわず籠を取り落としそうになるレティシアを取り囲むや、進み出たひとりがその腕を鷲づかみにし、おまえはおれの妻になるのだなどと出し抜けに結婚をせまり、レティシアがうすぎたない蛇蝎でも見たように顔を背けて拒絶の意志をしめすと、おまえの秘密はおれには筒抜けなのだと自信たっぷりにうそぶき、さらに数ヶ月のあいだレティシアの消息をだれにも気付かれないようひそかに追跡しながら、暮らしぶりの隅々にいたるまでなめ尽くすようにこの目に焼き付け、おまえのことでなにひとつ知らないことはないのだと豪語し、まだ街の人間はしらず役人にも報告していないのだが、おれは山小屋にかくまっている逃亡奴隷のことも承知なのだと駄目押しのひとことを付け加え、

 ところがレティシアは、それに心の動揺をしめすことも、握りしめた私を即座に取り出して相手に突きつけることもなく、高飛車に出た相手の態度をただちにはったりと決め付け、小心者のマリウスと面罵したあげく、目のまえの男が、代々ローマ市内に住む裕福な商人ながら城壁の外に広大な奴隷農場を持ち、その豊かな収入にぶら下がって日々のらりくらりと詩を吟じたり竪琴を弾いてすごすだけの酒びたりの放蕩息子であることを知らぬ者はなく、城壁の内外を問わず身分の別を問わず、女と見るや当人だけは得意なつもりの竪琴をかき鳴らし下手な詩を朗々と吟じながら手当たり次第に口説きにかかり、あえなくふられてはスブラ街の居酒屋で夜が明けるまで愚痴をぼやきつつ飲んだくれるだけの、あきれた男であると喝破し、

 さらにきっと撥ね付けるような目で相手を見据えると、出し抜けに人差し指を突きつけてマリウスのトガの胸をぐいぐいと押してゆき、あなたの手は竪琴を弾くことは知っていても大麦を育てる畑の土を耕すことは知らず、奴隷を鞭打つことは知っていても行き倒れの老人をたすけ起こして一杯の水をその口に宛がうことは知らないでしょうと一喝し、おおぜいの奴隷たちの労働の果実をかすめ取り、泥棒や詐欺まがいの行為のすえに積み上げられた親の恒産の上に胡坐をかいて平然としている男のところへ嫁にいくつもりなど毛頭ないと、そう畳みかけたときには、辺りいちめんに寄り集ってきた男女がこの押されっぱなしの若い男につめたい視線を投げかけているのには、私も柄にもなく喝采をおくり、

 逆上したマリウスが性懲りもなく、そいつは皇帝陛下と元老院を愚弄しこき下ろす暴言であり、奴隷の護衛も付けずに女だてらに一人で市場へ出かける根性は気に入ったが、理屈をいうとは生意気だと喚き出すと、それこそ皇帝陛下を泥棒や詐欺師といっしょにする暴言ではないかとたちまちやり返すレティシアをまえに、ただ石のように押し黙りながら、血の気が引いてオリーブ色に蒼ざめた反動で真っ赤に染め上げた顔を震わせながら、主人となるべき男に歯向かう女と奴隷はこうするのが一番だと、力ずくでレティシアの肩に手をかけ人目も憚らずに押し倒そうとしたとたん、

 するどい矢音がしてマリウスの眼前をかすめて飛び、ふたりの背に立つ林檎の木に這いのぼろうとする蛇の頭を鋲を打ったように正確につらぬき、ぬっと姿をあらわした猟師姿の男がつかつかと歩み寄り、だらりとした蛇の屍骸を籠に放りこみながら、そこに人がいたとはつい知らなかった、どうやら蛇が草叢に隠れていたらしいなと、詩歌の一節を引きながら笑いかけると、小心な若者とその腰巾着の一党は、すぐに娘のからだから飛び退いてきまり悪そうに頭を掻きながら市街のほうへあたふたと駆け出していき、レティシアはというと父親のほうを振り向いてにっこりと微笑み、無言でクルスを取り出してひそかに祈るようなそぶりを見せ、

 シリウスは苦笑いを浮かべながら、こういう急迫の事態には力に訴えることをためらってはならないのだと言って娘の手から私を受け取り、疵のないことをたしかめるとまた娘のまえに差し出し、だがレティシアがそれを受け取ろうとはしないのを半ばあきれ顔で眺めつつ、ふたりはいつの間にか帰途について歩き出しており、

 私はというと、ふたたびシリウスの腰に揺られながらあれこれと物思いに耽っているばかりで、度胸だけはたしかに感心はするものの、さきの出来事も弓矢ではなくクルスの導きによって解決したと考えるこの娘は、身の危険に際してもやはり、私ではなくクルスのほうを頼りにするのだろうかと考えるうち、この街の喧騒をさけて森に暮らす男の背中がしみじみと身に沁み入ってくるようにも思われ、討つべき敵であるという考えを抱いていたことも、このときにはすっかり忘れ去ってしまった。




 森のなかは見渡すかぎり

 木々また木々がどこまでも目に入るばかりの、

 足下は鬱蒼と繁る名も知れぬ草々にさえぎられる獣道


 おまえはわずかに射す木漏れ日を追って見上げ、すると奇態な声をあげ枝から枝へと飛びうつる鳥獣の影が遠く目をよぎるだけで、そこに一歩を踏み付けるたびに、かつて闘技場のなかで死闘の相手をまえに踏み出す一歩とはまったく異なる手応えを感じて心に戦慄がはしり、つまりここには暇と金を持て余しとろりとした目を見世物にそそぐ観客たちとあした博打を打ち酒色に耽る金のためなら今日の危険もかえりみない命知らずの勇者の代わりに、うごめく気配のうちに天敵と獲物とを見分け、狩るか逃げを打つかの判断をするほかに理非を弁えない生き物たちの目が光る闇があるばかりで、

 五体に血潮はみなぎり脈打つ身体はやわらかな土を蹴り、土と草の馥郁とした香りを嗅ぎながら木々のあいだをけもののように駆けはしりながら思うのは、レティシアから文字を教わったあの日に突然狂ったように雄叫びを上げて外へ飛び出していった自分をそのまま小屋に置くことを許してくれたシリウスはいったいどんな人物なのかという疑問であり、

 そのシリウスが狩人としての仕事に出かけている昼間のあいだ、森から出ることだけは父娘に固く禁じられながらもこうして小屋のまわりを散策するのがいつしかおまえの日課となり、かつては闘技場のそばの宿舎で暮らし、試合のある日のほかは養成所で打ち合いをするだけの毎日に倦んだ眼には、森のなかで見聞きする万象すべてが、人為的に拵えられた檻のなかでの血生臭い果し合いよりも新鮮で生々しく、

 ことに大小を問わずときに奇抜なかたちをとる生き物たちの命のやりとりには目を見張るばかりで、草を食むちいさな虫はやがて肉食のより大きな体の虫の食するところとなり、ヤモリのような生き物が舌を伸ばしてぺろりとそいつを平らげれば、やがて舞い降りた鳥がそれを啄ばんでゆくのは暖めた卵から孵った雛を育てるためで、つまり生き物がほかの生き物を殺すのは、食うことによって身を養い子を育ててゆくためであるという厳然たる摂理が貫かれていることに驚かされるのだった。

 しかし、ひるがえって闘技場でひたすら人や猛獣を相手に殺しに明け暮れていたころの自分を思い出すと、いったいどうしてそのような日々を送っていたのか、相手を食うために命を奪っていたわけでもなく、まして子を養うためでもなく、金で己自身を買い取り晴れて自由の身となることもできたが、そうした仲間さえも多くは市井で生きる術を失い路頭に迷い、血の匂いを懐かしむようにまた闘技場の修羅場に舞い戻ってしまうのはなぜなのか、もはや剣の握り心地と血の匂いを忘れつつある己にも皆目わからないのは、結局はなんのために生きているのかという鳥獣には分からないはずの究極の謎であって、

 いやじつは地を這い野を翔ける生き物たちのほうが存外そのことについては知悉しているのかもしれず、というよりもかれらは今も闇に光る天敵の目を避け獲物とみればすばやく狩り、おのれのなすべきことを余さず実行しながらあまねく地を充たすよう産み殖えているのであってみれば、仮にも人間である己のほうが生きる理由も知らないよほど哀れで滑稽な存在ではないかと、駆けはしる足を一時とどめ、こんもりとした樹木の陰に鎖された薄暗い天を仰ぎながら、声をあげて笑い出すのだった。

 視界を遮る大枝の一本をぽきりと折ってみせたおまえは、それを剣のように振りかざして一瞥するや足もとの地面にぶすりと突き刺し、するとむっとするような異様な臭気が流れてきたのは、つい見下ろすとそこに腐乱したイノシシの屍骸が横たわっていたせいに違いなく、山のけものに食い破られた腹から臓物がはみ出し白い蛆がむずむずと表面に動き回るようすは、まるで都市とそこへ群がり暮らす人間の暮らしそのもののようにも思われ、その卑しい子どもたちの面倒を見るように甲斐甲斐しくその上を飛び回るうるさい蝿どもを、おまえは童子のような無邪気さで大枝を振るっては打ち払う。

 頭のなかの想念もまた振るい落としてしまったような清々しい顔つきで森を自在に闊歩するおまえは、もはや私という剣なしでも立派に力の思想を体現する理想の戦士の面影を宿している。そんなおまえをどこか羨ましく思い、その堂々たる姿を心の眼に幻視しながら、私はいまもシリウスの腰の鞘のなかで揺れている。


 猟師はといえば、

 いつものように弓矢をつがえて山谷を巡り、

 枝から枝へ飛びうつり木々のあいだを翔ける影を見れば

 これを狩るのみ


 いつの間にか小屋を離れてずいぶん遠くのほうまで来てしまったようでもあり、あるいは近くで逡巡しながら同じ場所をぐるぐると経巡っているだけかとも疑いながら、シリウスはその日の朝に見つけたばかりの鹿の親子を追ってこの渓谷のほとりまで追いかけてはきたものの、ときに離れときに合流しながら狩人をたぶらかす親鹿子鹿の神出鬼没ぶりに悩まされつつも追跡をやめず、

 それというのも狩りとは畢竟、生きるためにほかの生き物を屠ることであり、けもの同士が生きるためにそうすることとなんら変わるところはなく、いざ獲物を仕留めたならばかならず祭壇をつくってアルテミスの女神に奉げものを欠かさないのも狩人こそ己が生きるための生業と信じるためで、

 しかし今日という日は狩猟の女神をいつき祭ろうにも奉げものもなく森を駆けまわるだけで、矢はことごとく的をそれて空を切り、虚しく地に落ちるほかないのは年のせいで衰えた腕前と霞んだ目のせいばかりともいえず、というのはいつの間にか辺りには霧が立ち込めて視界はおぼろになり、矢がしばしば正確を欠いて獲物を逃すのも湿気を含む大気のおかげで弓のしなりに狂いの出るために違いないとシリウスは思い、

 ままよ、今日は女神の後ろ髪が皺だらけの頬をかすめて素通りしていったことよと嘆息すると、街の人びとのしがらみを振り捨てて娘と二人、この生業に暮らしを賭けることを決めてから、自然の恵みだけに頼るこの暮らしは少々幸運の風向きがちがえばたちどころに生活にひびくと不安に駆られたのは今日がはじめてだと思い、ふと不吉な予感が忍び寄せてくるように感じたのもいよいよ猟師としての勘が身についてきた自信によるものかも知れなかった。

 やがて、ぽつぽつと降りはじめた雨がしだいに雨脚をはやめたのに気付いて重い腰をあげると、ちょうど斜面を降りたあたりに風雨を避けるのに適当な洞穴が開いているのを見つけてすかさず飛びこみ、つい運命の流転ということに想いは及んでゆき、きょう獲り逃した鹿の親子の偶然も、見方を変えればこれまでつつがなく暮らしてこられたシリウス父娘にそっくり重ね合わせることができるかもしれず、つまり狩るものと狩られるものの幸運はけして一致することはないのだという当たり前すぎる事実に今さらのように気付かされ、

 暗い洞穴の壁を背にもたれてそう考えに耽っているうちに雨脚はますます激しく、やがて雷鳴がとどろき暴風の吹き荒れるにおよんで、もしも今夜中に戻ることができなければ娘は一晩のあいだ父のいないあの山小屋に居候の男とふたりで過ごすことになるという考えに思い至って慄然とし、いそぎ山を降りる支度をととのえると洞穴の出口へ駆け出そうとしたとたん、

 低い唸りを発しながら覗き込んでいるのは爛々と赤く輝くふたつの眼で、シリウスはもう数本あまりしかない残りの矢をつがえてきりきりと弓を引き絞り、しかし狼は濡れた灰色の背からしずくを垂らしながら、ゆっくりと鼻息荒くこちらへ近づいてくるのが臭いからも分かり、

 これまで運よく狩られるよりも狩る側に生きていた自分も今日こそは命運の尽きる日が来たとあやうく悟りかけ、人である自分が殺され食われる代わりにこの狼とその眷属には何がしかの幸いが訪れるのだろうかと、殊勝にも己ひとりの身を案じる代わりに万象をめぐって変転する禍福の相に想いを馳せながら、しずかに目を閉じようとする間際、するどい叫びをあげて土砂降りの坂を転がり落ちてゆくのはあの灰色の狼で、やがて遠吠えをひとつふたつ残すと時折ふりかえりながら木々の間に逃げるように去ってゆくのを、シリウスは驚きの眼で見送っている。


 洞窟の入り口で、莞爾と笑っているのは、

 あの娘レティシアをかどわかしかねない居候の男


 おまえはずぶ濡れで、衣服をその鋼のような筋肉でつつまれた肢体にぴったりと張り付かせたまま、じっと洞窟の奥をのぞき込んでいる。転げ落ちた狼の行方などどこ吹く風といったふうで、青銅の像のように不動の姿勢を保って佇んだままだ。

 そんな光景を怪顛の顔つきで眺めながら、獣を追い払うために持っていた松明の灯りが徐々におまえの相貌を明るく照らし出すにつれて、狼をむずとつかんで斜面に叩きつけた男がおまえであることにシリウスは気付き、なによりも獣を素手でひねり倒した素晴らしい腕前に感謝をおぼえるよりも驚き呆れ、そして知らぬうちに、狩人はおまえに手を差し伸べ、洞窟の奥へと誘ったばかりか、火に当たるよう奨めている。

 そして、ずぶ濡れの男としげしげと顔を見合わせながら対座すると、非常のために身に付けている干し肉を炙って男のまえにぐいと突き出し、自分の身の上などを語りはじめたのは、この私にも意外な成り行きというほかなく、おまえはいま、娘とのいきさつのあれこれを不問に付されながら芳ばしい肉を頬張りつつ、茫とした目付きでひとり語りに沈潜する遍歴の狩人の長い物語に、じっと耳を傾けている。

 虚空の一点を見つめ、肉を食む合間の口から流れ出したのは、こうしてレティシアとふたり小屋での隠遁の生活へ入るに至ったそのいきさつ、まだ娘が子守の手を離れないほどに小さかった時分、民会へ出席した帰りのシリウスを待ち受けていた悲劇についてであり、

 騒々しい野次馬たちをかき分けるようにドムスに近づいてみると、庭は荒らされ、家財道具の一切が持ち去られ、奴隷たちはただ血まみれの死体の転がる部屋の隅でふるえているばかりで、妻の安否を激しく追及する主人の言葉にも呆けたように口を開いたまま宙を見つめている使用人を押し退けたシリウスは、この目でしかと見るまでは忌まわしい悪夢、あやしい幻であって欲しいと念じつつ、勇を鼓して家の奥へと踏み込んでゆき、

 奥の間に静かに横たえられていた妻の瞼をそっと閉じてやったその後、レティシアを連れて近くの民家に匿われていた乳母から聞いた話によると、家を襲ったのは覆面で顔をかくした不逞の男ども幾人かで、しかし速やかに金品の強奪を狙ったにしては部屋の荒れようは凄まじく、手加減なく無慈悲にひとが殺され、では殺人そのものが目的であったかというと金目のものはすべて持ち去られている徹底ぶりからしても、白昼堂々と民家に押し入るその厚顔無恥で大胆なふる舞いとはうらはらに、どうも生活に窮したあげくの素人の犯行とも思われ、

 夜半の嵐ふきすさぶ、山中での火を囲んでの昔語りは、しだいにシリウスをして往時の怒りをよみがえらせる結果となり、そのころ東方からの輸入織物などをあつかう家業も順調で暮らしも豊かであったシリウス一家のなかで、裕福な婦人たちの交際に立ちまじるよりも、スブラ街の貧民や奴隷たちのために炊き出しや募金をつのるなど私欲をなげうった活動にいそがしかった妻が、なにゆえに殺されなければならなかったのか、

 貴族や元老院議員でもなく、一平民の家に賊が押し入った程度の事件では、役所もまともに動かないのも当然のなりゆきとはいえ、あるいは表には出せぬ政治がらみの、裏の事情でもあったのかもしれず、賊の一味はそののち市内を荒らしまわったという話も聞かずつい姿をくらましたまま、ただ妻を守ることのできなかった己への怒りと不甲斐無さに、シリウスは思わず握り締めたこぶしを己の膝の上に叩きつけるように置くとがっくりうな垂れ、俯いたまま長いあいだ動かなかった。


「復讐ということを考えたことはないのか」


 めらめらと燃え上がる炎に顔を揺らめかせながら、おまえがその一語を口にしたとき、初めてシリウスは顔を上げ、しかしその虚ろな眼差しにはもはや、生と死の狭間に立ちながら生き物と命のやりとりをする狩人の面影は消え失せ、むしろどこまでも心の闇という不可解な怪鳥に命を吸い尽くされたかのように、萎縮した姿はまるで老人のように見え、

 いまさらどうにもならぬことは運命として受け入れるという古賢の言葉に縋っても、また街の暮らしから逃れ、こうして森の中で獣たちと生死を挟んで向き合う日々を過ごすうちに、生命とは畢竟、流転する運命の大河に浮き沈みながら旅をつづける木の葉の一枚に過ぎないという達観に至っても、妻をうしなった悲しみはやはりどれだけの生き物を犠牲の祭壇にあげたとて癒せるものではなく、

 その命を奪ったものが何ものであるにせよ、古の共和制の時代から連綿とつづくローマの質実剛健の気風をすっかり忘れ去り、帝国の隅々から運ばれてくるゆたかな富を存分に濫費しながら奢侈と安逸をむさぼるいまの世に、そこに疑問も懐かず日々を過ごしてきたおのれの在りようそのものが、レティシアの母親を悲運に追い込むことになってしまったのではないかと、うめくように告白し、

 しかしながら、土地も売り払い街から逃げるように森の中へ引きこもったいまの暮らしも、獲物を金に換えるために市場へ出向くたびに、どこまで離れたつもりにはなっても己もまたこの巨大な都に甲斐甲斐しく栄養を運び込んで止まない働き蟻の一匹にすぎず、戦を繰り広げながら際限なく拡がってゆく帝国の網の目からは逃れられぬことを実感し、

 断じてゆるせぬ非道の行いとはいえ、一家をおそった悲劇もまた、そうしたいまの世の中で思うにまかせぬ生を生き、落伍に次ぐ落伍を重ねてきた者どもの成れの果てにしでかした所業であるかもしれず、そんな救いの見出せない現世においてなおも生き抜かなくてはならない忘れ形見のレティシアのことを思うと、やはりたしかに母親の血が流れているものに違いないと深くため息をつき、

 そんな、はじめて目にするシリウスの懺悔する姿はおまえに深い感動を与えたのかもしれず、ふたりは彫像のように固まったまま、じっと火が燃えつくすまで炎の揺らめきに暗い視線を注いでおり、いつの間にか洞窟の外の雨はすっかり止みあがって、どちらが言い出すともなく連れ立って山小屋へ帰るその道すがら、斜面を走る獣道のまんなかに流れ矢に当たった狼の子が横たわり絶命しているのに気付き、

 ひょっとすると狼はシリウスの放った流れ矢に命をうばわれた子狼の仇をとろうと襲いかかってきたのかもしれないと、おまえの中に胸を突かれるような強い思いがこみ上げてきたかと思うと、居酒屋で乱闘に及んでスブラ街の路地をあとにしてきた夜、いやそれよりもさき闘技場で剣と剣とを突き合わせてその日暮らしをしていた日々から、ずっと心にわだかまっていたものの正体がはっきりと、霧のなかから沈んだ氷山が浮き上がるように相貌をあらわにするのを感じ、

 つまりそれは、生き別れとなった母と姉とを探し出すことと、一家をばらばらに引き裂いて自分を闘技場のかませ犬に売り飛ばした奴隷商人の男を見つけ出して復讐を遂げることにほかならず、するとふたたび険しい怒気をはらみはじめたおまえの顔つきの変化を悟ってか、シリウスはそれをなだめるかのように、復讐なぞおのれを虚しくするだけの行為だと独り言のようにつぶやき、腰にぶら下げた鞘ごと私を取り外すと、それをおまえの手に返し、

 弓矢にせよ剣にせよ、人殺しの道具を身に帯びるものはそれを我が身を守るというぎりぎりの立場に置かれるまではけして使わぬという強い心組みが必要とされるのだと諭し、さもなければ武器にひそむ魔に魅入られて、おのれの魂まで支配されてしまうことを忘れるなと言い添え、

 物思う剣としての私は、そのとき狩人の言葉にふかく首肯しながら、やはりこの猟師が伝説にいうディアナの森の祭司であったかと思い、それだけの見識を立派に身につけている傑物だと感銘を覚え、とても自分ごときのなまくら刀の敵う相手ではないと、王位を簒奪することはきっぱりと諦めてしまう気になり、

 すると鬱蒼とした木立の隙間から浩々とかがやく三日月が姿を現わし、ふたりの男とひと振りの剣、その三者三様の想いをあざやかに照らし出し、そよと吹く夜風のなかに、それを嘲笑いかつ励ますような狼の咆哮が、遠近に鳴りひびくのを私は聞くのだった。



 あのとき、レティシアの胸元にちらと見えたものは、

 確かに姉のものと同じクルスではなかったか


 首にかかった金の鎖を手繰り寄せ、その先にあるものを片手にとり出して浩々と照る月光にかざしながら、おまえはそれがいったい何であるのかを考えている。

 乏しい経験に照らし合わせても満足のいく答えに達する見込みがあるはずもなく、ひとを斬るというあきらかな目的を持つ、腰にぶら下げた一方の私にくらべると、なんとも不可解なしろものと言うほかなかった。

 ただ遠い日に過ぎ去った姉との思い出のなかで、痩せた髭面の教師が意地の悪い笑みを浮かべながら、皇帝陛下に逆らい、帝国に仇なすものといった言葉だけが脳裏をよぎり、それを格別に意識した覚えはないにも関わらず、いままでどのような生活のなかにあっても、姉の形見ともいえるこのクルスだけは、誰の目にも触れさせたことがないことに思いが及ぶと、つまりこれは禍々しい一品であり、実際このようなものを肌身離さず持ち歩いたりなどしているから、姉や自分たちは奴隷商人の手にかかるという不幸な目にも遭ったのではないかと、不吉の徴のようにすら思われ、

 それにしても、自分たちとはいっさい縁のない存在であったはずのレティシアがどうして同じものを持ち歩いているのか、ひょっとすると彼女もまた、このような禍々しい代物を身にまとっていたためにシリウスの語ったような一家の不幸に見舞われることになったのではないか、あるいは逆に、あのような不幸に見舞われたがゆえにクルスをよすがに親子ふたりだけの孤独な人生を生き抜こうとしているのではないかとあれこれ考えを巡らせるうち、

 あるとき突如として、希望の星のかけらが天から舞い降りでもしたように一筋の光明が目のまえに現われると、あたかも離れ離れの二つのクルスを結びつける運命の糸を見つけ出したかのようにおまえは目を輝かせ、もしかするとレティシアは姉や母の行方について何がしかのことを知っているかもしれないという、あまりにも希望的に過ぎる憶測をレティシア自身にぶつけてみるのだった。

 ところが意外なことに、返ってきた言葉は、肉親というものはそんなにも恋しいものかしらという慈悲もない一言であり、何の表情も浮かべずにおまえの方を一瞥するとレティシアはいつものように洗い立ての衣服を干しに表の日溜りの中へと消えてゆき、

 おまえは、可憐な若い娘の口から発せられた慈悲もない言葉を額面どおり受けとってもいいものかと逡巡するばかりで、しかし考えても見ると、幼いうちに母親の愛情を不意に失ってしまったこの娘にすれば、あの父シリウスがいかに家族を大切に思い妻の忘れ形見であるレティシアを溺愛しようとも、おそらく父から常々語り聞かされてきた一家の物語を思うにつけ、どのような災難であるにせよ不慮の出来事でとつぜん失い、深い悲しみの底に落とされてしまいかねない人間の儚い情愛に縋って生きてゆくよりも、それがあのクルスかどう関わるのかは分からないが、もっと確かに掴むことのできる何ものかを求めて世を渡ってゆこうと決意を定めているのかもしれず、

 ほどなく戻ってきたレティシアに、父といっしょに暮らすおまえには分らないことだ、そう無遠慮な答えを返すのがやっとのことで、肉親を慕うことがなぜいけないのか、自然の与えた絆、自然の情愛を奪った奴輩に復讐を誓うことがどうして間違いだといえるのかと、いつの間にかシリウスの言葉を思い出してむらむらと反発の気持ちが湧き起こり、懐からおもむろに取り出したクルスを掴んだ拳をぐいと娘のまえに突き出し、初めて心のうちの決意を打ちあけると、

 クルスの意味をしらないのね、雪白の細面に蒼ざめた微笑を浮かべながらレティシアはそう一言のべると静かに腰を上げ、黙ってついてくるようにと身振りで促しながら先頭へ立って歩き出し、途中シリウスの寝室へ寄って燭のともし火が消えていることを確かめると、いつしか深い闇に鎖された獣道を進むふたりの手は艫綱のようにしっかりと結び合わされ、月光の仄明かりだけが未知の航路へ漕ぎ出そうとするふたりの行方を茫洋と照らし出していた。


 森を抜け、丘陵を越えたさきに見えてきたのは、

 木立の陰にぽっかりと開いた、

 秘密の抜け穴


 やがて森を抜け林檎やオリーブの木の林立する丘陵を越えて向かったのは、市街をぐるりと取り囲んだ城壁からそう遠く離れてはいない開けた土地で、人気のない木立の陰、背の低い潅木に隠れるようなところに、ちょうど人がひとり通れるほどの大きさの穴がぽっかり口を開けており、レティシアはそこへするすると身軽に降りてゆくと、足元の窪みに用意されていたらしい松明に火を点し、ずっと以前から何者かによって決められていた手順を着々とこなしているような平然とした足どりで奥へ進んでゆき、

 おまえはというと、早く後へ続くよう促すレティシアの手招きに躊躇している暇もなく、ただこの異様な成り行きをそっくり受け入れて、雨上がりの路地裏のように湿った階段を降りた先に見える、まるで蟻の巣のように縦横に張りめぐらされた坑道のなかを、篝火に誘われる蛾のように灯火の動く方へと付き従うほかなく、

 ゆっくり傾斜してゆくその道の一筋をかがんだ姿勢で這うようにすすんでゆくと、左右の壁面にはちょうど人体をそっくり収めることのできるほどの縦や横の窪みが無数に穿たれており、そこに並べられた包んだ布の淵から干からび切った手足や白い骨が覗いているのを目にしたとき、腰にぶら下げられた私の脳裏にふと、妻を連れ戻しに冥界へ向かったかのオルフェウスの神話がよみがえり、


 よもやおまえは、二度とは戻れぬ死の世界へと足を踏み出しているのではないか


 そんな疑念が湧きおこり、ところが山小屋で父と暮らすどちらかといえば引っ込み思案で可憐なレティシアはというと、まるで冥界そのもののような薄気味悪い光景に毫も怯むことなく、ずんずんと足を速めるばかりで、もしかするとこれは罠に嵌められたのではないか、あの猟師シリウスは一角の人物であったとしても、クルスなぞという気味の悪い代物をむやみにありがたがり、肉親の情を蔑ろに考えているあげくに、隠れてこのような場所に男を連れ込もうとしているこの娘こそは何ものともしれぬ魔性の女ではないか、そんな魔性の女であればシリウスの本当の娘を知らぬうちにとり殺して、当人になりすますことも簡単ではないかと、次々と想念が浮かんでは、不覚にもその正体を見破ることのできなかった自分の不明を恥じ、あたら若い命を抜き取られ、怪しげな祭壇に犠牲として捧げられる運命におまえを送ろうとしているのではないかと不安に陥るのだった。


 数多の人びとが何ごとかを唱える声々が近づいてくるにつれ、

 ますます不安は大きく膨らんでゆく


 すると、出し抜けにぶつかったそこにひらけていたのは大きな空間で、偶然に出来上がった天然の洞にしては大きすぎるようにも思われ、長い年月のうちにひとの手が入り少しずつ拡張された空間であることは確かなようで、ところが、狡知の罠にかかって迷い込んだ男を犠牲に奉げるような祭壇らしきものはどこにも見当たらず、おまえの代わりに冷汗をかきっぱなしの私は思わず拍子抜けしてしまい、

 貴賎もろもろの老若男女たちが思い思いの場所に腰かけ、聖句のような不可解な文句を口々に唱和する声が木霊するのが聞こえ、その奥には、燭に照らし出された壇上に古ぼけた書物を手にしわがれた声で説法をつづける白髪頭の老人がぽつんと腰かけているだけで、その男を取り巻くように人びとの輪は幾重にも広がっており、

 レティシアはおまえをともなってその輪の外れに腰を下ろすと、十字架を取り出して両手にしかと握りしめ、まわりの老若男女の口から音曲のように規則ただしくもれ出す声にあわせて斉唱に加わり、おまえはというと、不安げに周囲をぐるりと見回しながら老若男女のどの手にもあのクルス=十字架が大切に握られていることに大きく眼を見開き、自分の懐からクルスを取り出してはふるえる両手で掲げ、しみじみと穴の開くほど見つめ、これを肌身離さず身に着けていればいつか必ず再会できるといった姉の言葉を噛みしめながら、淡い期待に胸を躍らせているのかもしれなかった。

 ふと口を閉ざした長老の窪んだ目が、この座に集まった人びとの顔をすべて確かめようとでもいうように首を伸ばすおまえの姿に差し向けられたとき、レティシアは待ちかまえていたようにしずしずと進み出て、おまえを壇のまえに送り出し、このひとは生き別れた姉の行方を捜しているのですとひと言付け加え、長老は、白く伸びた髭を撫でながらつぶらな眼を細めると、おまえのがっしりした幅広の双肩から剣を下げた足腰までをざっと見下ろし、その眼に汚れのないのを確かめると、


 互いに求め続ける心さえあれば、

 いつか神の許でふたたび再会することができるだろう


 長老は優しげにそう頷くのだった。そしてクルスを取り出すと、姉にまつわる事情のあれこれを訥々とした話しぶりで語り終えたおまえに歩み寄り、この礼拝所ではそれにあたる女人は残念ながら心当たりがないが、国の内外に広がるこのわれわれの仲間の筋を辿ってゆけば、見つけ出すのはそうむずかしいことではないかもしれぬと言い、そして姉を見つけ出したあとにはいったいどうするつもりなのかと静かにおまえに問いかけるのだった。

 すると、突としておまえは憤怒に燃えたぎる形相を浮かべ、冷や汗をかくばかりで冷たく腰にぶら下がる私をだしぬけに引き抜くと高々と頭上にかかげ、母や姉を奪い、不幸に追い込んだ賊に復讐をするのだと叫ぶと、沈黙の一瞬の後に満座はたちまちざわめき立って、女のすすり泣く声や悲嘆の叫びが洞のなかにこだまし出し、いったいこの一団はクルスを崇めるほかに何をよすがに集まっている人々であるのか、この景色から察するに帝国に仇なす者たちとはとても見えず、はっきりしていることは自分はあくまで異教徒であり、よそ者にすぎず、姉の信じていた教えについて何ひとつ知らなかったことは明白で、まさしくレティシアの言うとおり、クルスのあらわす意味すら理解していない、おまえはいまそんな己の姿を恥じながら、振り上げた剣である私を降ろすこともできず、燭に照らされた巨像のように立ちすくんだままで、

 すると、復讐はならぬという厳かな一声が洞のなかに響き、汝の敵のために私は祈るだろう、と長老の穏やかなしわがれ声がおまえの耳に届き、つづいて同じ声がしめやかに語る、すべてのものは神が創りたもうたものであり、神は完全な存在であるがゆえに、その被造物はみな善であり、神は悪を創りたまわず、ためにすべての生きとし生けるものには等しく救いが用意されてあり、それは神の愛の光が地上の万物に平等に注がれているからだと真理が口にされ、そう締め括られると、

 ざわめきから一転し鎮まった一座も、レティシアがそこにいることさえ忘れ、もちろん長老の言葉の意味もなにも合点がいかないことだらけなのにも関わらず、おまえはがっくりと膝をついてうな垂れ、腰に下げた私を冷たい床に力まかせに叩きつけながら、人目も憚らずに号泣しており、

 一本の燭が燃え尽き、それに継ぎ足す油を求めてひとりの信者が外へ出て行ったと同じころ、長老は近くの者にそれとなく所作で示しながら、目前に倒れ伏した男を抱き起こしてレティシアの座る席の傍まで送らせると、きょうは新しい一人の仲間が加わったことを心静かに歓迎したいと一言頷き、ここは正式に洗礼を受けた信者であるか否かを問わず、教えに耳を傾けるものであれば何ぴとに対しても門戸を開き、糊口をしのぐための生業の貴賎を問わないことはもちろん、富めるものも貧しきものもひとしく主の御許にあると、皺だらけの顔のなかに爛々と小さな目を輝かせ、

 一座の顔をひとわたり見渡すとひと欠片のパンと葡萄酒をなみなみと湛えたテラコッタ製の壷を取り出して、これは主なるイエスの血と肉である、と唱えると満座は水を打ったような静謐に包まれ、ついで主の死と復活について長老がもの静かな口調でゆるゆると語り出すと、おまえは生まれて初めて、肌身離さず身につけているクルスの意味するところを知り、教義の精髄の端緒にふれ、

 これまで教えに触れる機会がなく、無知と止むを得ない境遇のなさしめるところであったにもせよ、ひとの命を奪うことによって己の日々の糧を得る暮らしを続けてきたことに戦慄すると同時に、思えば居酒屋で乱闘を起こした日からきょうまで、不思議な巡り合わせを経由してここまで辿りついたことへの感謝と驚嘆と、人知の窺い知れない神の恩寵のようなものを予感し、クルスにしたがって歩んでゆけば必ずや母や姉と再会できるという確信が、青銅の盾のように、ますます強固に打ち固められるのを感じて、沸き起こる歓喜はその表情をも生き生きと蘇らせ、

 すると壇上の長老はまるでおまえの人生の一部始終を閲し終えたかのように満足げに頷き、莞爾とした笑顔を差し向け、主がみずからの予言にしたがって十字架に掛けられ天の父の下に帰られてからはや数十年が経ちと、いつものように教えの歴史から説き始めながら語り出す声はどこまでも柔らかで、

 われ等のような小さな教団を含め、エルサレムから始まったささやかな伝道は地中海の国々を経巡ってついに帝国の首都にまで達し、この数十年間いく度かの大波のような試練を乗り越え、こうして市外の一角にささやかな礼拝の場を持つことがなったいま、ふたたび教えを求める者たちの数は日増しにふえて、さざ波のように都の隅々にまで広がりつつある、だがそれはただちに教義が世にひろく行われるようになったおかげであると手放しに喜んでよいものであろうか、と一息ついで足下に対座する者たちをぐるりと見回して問いかけると、そこにあるのは、

 インシュラの煉瓦を積み上げる力仕事に日がな一日明け暮れたあげく、その稼ぎをすっかり親方に持っていかれた男の消沈した顔や、

 いつかはお大尽に拾われて妾になることを夢見つつ、夜ごとに別々の男の臥所から叩き出されて路上で寝起きを繰り返す若い娘、

 あるいは辺境警備の軍団にやっと一人前になったばかりの一人息子を取られ、半年後に軍団から送られてきた一通の便りをまえに茫然となり、明日のパンのために畑に鋤を入れる力も失せた老夫婦の白髪頭など、

 地上に広がる世界そのものである帝国の都に日々暮らしながら、皇帝の力と栄光と、そのおこぼれに浴しながら奢侈と繁栄に浮かれさわぐ市民たちの陰にかくれ、あまた林立しローマを守護する神殿に祀られた神々から見はなされた者たちの、すなわちローマの栄光からこぼれ落ちた者たちの顔であり、

 いつの間にかおまえの脳裏には、森の洞窟のそばで火を焚きながらシリウスと語り合った夜のことが思い出され、うち続く蛮族たちとの戦いの果てに北へ西へ属州は拡大の一途を遂げ、そこから流れ込む富によってローマは大きくなり、大勢の奴隷たちに囲まれ労働からも自由になった市民は気ままで安逸な暮らしを享受するようになったが、それは見せかけのものに過ぎず、むしろ奢侈と放縦の暮らしぶりが板に付くにしたがって、人心は乱れに乱れ、徳は限りない退行を見せ、己もまた安逸懶惰な暮らしを良しとしそこに安住したために、妻をあのような不幸な目に遭わせることにもなったのだと、

 そう語気を荒げる猟師の言葉は、いま長老の説法とも相まってひしとおまえの身に迫るものがあり、ついで長老が二、三度咳払いをしたあと再び口を開き、今や生業や家を失い浮浪の徒として路頭をさまよう者たちや、重い病を患い牛馬のように主人に見捨てられた奴隷たち、世を恨み人として生まれたことを悲嘆する声は巷にあふれているが、そのような者たちにとって教えはまさに福音となり、われ等はそれを伝える救いの家とならねばならぬ、という締めくくりの言葉を述べたとき、おまえは姉のクルスにまつわるあの言葉、教場の髭づらの教師のいった言葉がまた脳裏に浮かんで、


 いつかクルスを崇める者が帝国に仇をなすと言われたことがあるが、

 それはいったいどういう意味なのか

 

 そう長老に問いかけると、しずかに俯いて長い髭を撫でながら、おのれを愛するように隣人を愛せよという教えは、けして他人との諍いを望むものではないと答え、あくまで国を平定し治めるローマ皇帝あっての教えであり、いずれ貴族や元老院議員のうちにも信者となるものの数が増えてゆけば、教えの有力な守護者ともなり、古い伝統を蔑ろにする邪教という評判もしだいに払拭されるにちがいなく、それまで忍苦してゆめ帝国に敵することだけは避けねばならぬと、なだめるように忍従の哲学を説き、

 おまえはというと、その意図をおおよそ了解し得たような、老人の深い皺に刻まれた年輪から発したであろうその含蓄ある言葉の大意をしかと飲み込むに至ったような神妙な顔つきで、片膝を立てて跪拝するばかりだった。

 私はすっかり意気をそがれてしまい、こんな稚拙極まりない、市中を流れる下水道の溝よりも底の浅い説教にまんまと回心させられるような、おまえはそこまでの人間であったかとひどく落胆し、またも力の思想を無下に否定され、剣としての面目を失ったまま無用の長物として腰の鞘のなかで小さく縮こまっているより仕方がなく、

 クルスなぞという薄気味の悪い代物を崇めたてまつる一団と交わり、人にも剣にも毒でしかないこんな場所へ我らを誘ったあの娘の横顔をちらりと盗み見ると、教義に没入し忘我の境に彷徨うあまり眼を潤ませているかと思いきや、その眼差しは形ばかり長老の壇上を向いてはいても、どこか地平線の果てでも透かし見ているような茫洋とした面持ちで座っており、その深い憂いに閉ざされた灰色の瞳のなかにいったい何が映じているものか判然とせず、

 ただ一心に祈りを捧げるレティシアの、粗末な頭巾で覆った隙間から覗く、揺らめく火影を受けてほんのりと赤みがさす雪白の細面はおそらく、あの遠い日に別れた母と姉の優しい面影を思い起こさせたのかもしれず、言葉を失って娘に見とれているおまえの顔は、かつて闘技場で倒した相手の血飛沫の痕跡も憤怒の形相もすっかり消え失せ、もはや戦士らしからぬ平安の色に染まっていた。

 帰りましょう、と瞳の持ち主はひとこと言い、父はローマから逃げているのだわと顔を背けたまま独り言のように呟くと、娘はおまえの腕をとっておもむろに立ち上がり、それと時を同じくして信者たちもまた次々と席を立ちながら、礼拝の後に催されるささやかな宴の仕度にいそがしく立ち働きはじめ、先ほどと打って変わり、充満しはじめた陽気な気分の中、行き交う人びとのけしきをよそ目に、浮かれ騒ぐ老若男女の賑わいをすり抜けるように、ふたりは坑道を辿って出口を目指し、

 その帰り道、東雲の空の下を急ぎながら、市場へ買い物に出かけた際に見かけた筵の上の物乞いの姿、つぶれた目や折れ曲がった手足をわざと見せつけるように喜捨をもとめる貧者や、路上で行き倒れにあったまま蝿がたかり、蛆に貪り食われるがままに捨て置かれる者、そうした者たちについてレティシアは止めどもなく語りつづけながら、そんな世の現実に目を瞑り、森の奥にこもって狩人で生計を立てようという父の生き方は畢竟、きらびやかな光の下にある表のローマに背を向けるあまり、人びとの慟哭の闇に沈んでゆく裏のローマの現実を是としつつしかも、それに加担しようとする卑怯な行いではないのか、そう訴え、このまま父のそばで暮らすことにはとても耐えられそうにないと、これまでにない激しい調子で心情を吐露するのだった。


 気が付くと、二人は地下墓地の出入り口からほど近い丘の上で

 東の空を仰ぎ見ながら、クルスを握る手を共に携え、

 夜明けを待ちながら佇んでいる


 おまえはいまローマの城壁を眺め見ながら、そのなかで絶えず繰り返されているに違いない悲喜交々の悲劇や、いまとなっては嘆かわしく懺悔の対象としか思われない己の過去の暮らしぶりに思いを馳せ、闘技場で血を流し合った記憶も、路地をさまよい歩いた夜のことも、血に纏わるあれこれの思い出をすべてあの城壁のなかへ閉じ込め封印してしまいたいという思いに駆られる一方で、

 遠い星々を仰ぎながら、森を捨てて信仰に生きる将来を思い描いているに違いないレティシアと手を携え、これまでにスブラ街で出会ったことのあるような、つまり山と積まれた金貨に目が眩み進んで男のまえに身をはだける女や、家庭にあっては暴君にすぎない亭主の権勢だけを後ろ盾に、大勢の奴隷の男娼を侍らせながら夜もすがら豪奢な宴を催す有徳の婦人といった女たちと、この娘とは天と地ほども隔たっていることに改めて思いを深くし、月明かりの下で目を凝らしおまえはいつまでもレティシアの仄白い横顔をじっと見詰め、

 いつしか猛るような激しい復讐の念や母や姉との再会を求める熱情は、潮の引くように穏やかに安らいでゆく一方で、深夜ひとしれず出航する一艘の小船のように、ふたりは引いては寄せる波に翻弄されつつ丘の斜面をいつまでも転がりつづけ、

 草叢の陰で正午を迎えたとき、私はというと、朝露でしどけなく濡れた衣服を引っかけてある樹木の下でぼんやり陽光を愉しみつつ、十字に折り重なってすやすや寝息を立てるふたりを冷かしながら、柄にもなくその門出を祝福するような殊勝な気持ちになり、若者よ、朝日が輝いているうちに花を摘め、なぞとどこかで聞き覚えた警句を鼻歌まじりに弄しつつ、草の葉をよじ登って飛び発つ天道虫の数を数えていた。



 おまえが束の間の安息を休らう夜、

 女神が私のもとを訪れ二度目の恩寵を与えたまう

 

 あれ以来、おまえはもう私を腰に携えて野山を駆けめぐることもなくなってしまった。

 長老とクルスの教えに誑しこまれたあげく、剣という考えを忌避するに至ったのか、あるいはあの娘にすっかり心奪われたおかげで忘れ去ってしまったのか、それは分からない。

 おまえはきょうも日がな一日小屋の奥に閉じこもったまま、レティシアから借り受けた書物の写しにかかりきりで、もはや獣じみた奇声や叫び声を発する代わりに、古いギリシアの古賢の言葉やラテン語で記された聖句のあれこれをときに朗々とした調子で小屋中に鳴り響かせることもあるくらいで、あまりの変貌ぶりにあのシリウスも腰を抜かすほどおどろく反面、もはや無闇に生き物の命を奪ったり剣をとろうとしないおまえの様子をまるで慈父のような眼差しでそっと見守るようになり、

 私はというと今宵もまた、ものの役に立たぬ長物として部屋の壁に立てかけられたまま、夕餉の仕度にいそがしいレティシアのあやつる台所包丁をじっと羨望の眼で眺めているだけだ。


 ところがその夜、微睡んだ私の目蓋のうえに月光がゆっくりと通り過ぎていったかと思うと、蒼白い光を放つその面に胡麻粒ほどの黒点が現われ、それは次第に大きさを増してゆくかとみるまに、たちまち大鷲の姿となって戸口に舞い降り、二つの頭を怪しく動かして部屋を見渡したとたん、私はたちまち鋭い爪にむずと掴まれ、星屑瞬く大空へと拉し去られていたのだった。

 そして羽ばたきが急に速度を速め、ぐんぐんと高度を増してゆくと突然、星々に満たされた漆黒の闇を突き抜けて、まばゆいばかりに光が乱反射する空間へと投げ出され、目がくらみ眠りに落ちるように意識の薄れてゆくなかで、私の脳裏にあざやかな情景が怒涛のように雪崩れこみ、

 この都を上空から見はるかす広大な景色が視界に現れるや、とたんにそれは急降下してテラコッタの屋根やごてごてと人で賑わう路地へと絞り込まれてゆき、やがてどこかで見たような小人物の頭上をかすめたとたん、その思念までもがなぜか私の意識へと送られてくる仕儀となり、

 その人物というのは誰あらぬマリウスという青年で、ある日の朝、酔っ払いや娼婦の群れを払い除けながら、いつにも増して機嫌が悪くいらいらとしがちに見えるのは、なにも起き掛けにトガを着せる役目の奴隷の手元が狂い布地に足元をすくわれて横転した失態のせいではなく、朝っぱらから街のあちこちをさまよい歩き、劇場の入り口で得意の竪琴をうるさくかき鳴らしては門番に叩き出され、下手な歌に咽喉をつまらせ市場の近くを徘徊しながら女の姿を物色した挙句にいそいそと逃げ出されてしまったせいでもなく、いずれにせよ、屋敷をうろうろしている手ごろな奴隷を呼びつけて、腹いせにさしたる理由もなく鞭打ちの刑を食らわせて悦に入れば済むような事態でないことだけは確かなようだった。


 レティシアに手ひどく拒絶の意志を示された上、

 その父親に思いがけず恥をかかされ、

 屈辱感は冷めない怒りとなってマリウスを悩ませる


 あの日から通りすがりの婦人に密かに視線を走らせるたびに思い出すのは、レティシアの流れるような栗色の髪と澄んだ瞳、しかし謎めいた暗い陰影をたたえて蠱惑的なさまは、アフロディテもかくやと思われるほどで世の月並みな女人とは比べものにならず、思い起こすたびに顔を緩ませてはご機嫌取りの役目を賜っている奴隷たちを気味悪がらせ、かき鳴らす竪琴の音程もいつにも増して狂いがちとなり、

 それにしてもこのマリウスという小心者、あの事件のあとも暇にまかせて趣味の尾行は欠かさず毎日おこなう律儀さだけは感心するばかりで、先方がこちらをてんで馬鹿にしているおかげでまるで警戒を強めるふうがないのが幸いしたのかどうか、いまに至るまで発覚の憂き目に遭うことがなかったのはこの男にとってはやはり幸運というべきなのもしれず、

 かの山小屋に逃亡奴隷らしき怪しい若い男を匿っている事実のみならず、その奴隷の男をつれて邪教徒の隠れ家とおぼしき地下の墓所へ出入りしていることまで突き止め、しかしそれにしてもレティシアがこの筋骨隆々とした逃亡奴隷とふたり手を取り合って森を抜け出し夜の丘陵を疾駆してゆくところを眼にしたときのマリウスの心中は如何ばかりか、ただがっくりと膝を突きうなだれてふたりが消えゆく丘の向こうを茫然とながめているばかりで、

 この邪教徒どもはいったい如何なる信仰を持つものなのか、冥界への入り口を思わせるかの隠れ家では、もしやウェヌスの女神などはるかに凌ぐ淫蕩獣行の邪神を崇めたてまつり、ローマ文明の恩恵に浴さぬ蛮族すら蒼ざめるほどの酒池肉林の乱行が昼夜分かたず行われているのではないかと、あらぬ妄想を逞しくするのだった。

 しかしマリウスが森に住む狩人の娘に気が狂わんばかりの御執心だという噂はいつの間にかスブラ街の路地の奥また奥にある、崩れかけたインシュラの立て込む私娼窟の片隅にまで拡がり、

 これはそこに頻々と出入りする家中の奴隷のひとりから漏れ出したことにちがいなく、げんに主人不在の折、仕事の合間に柱の陰にかくれては奴隷たちが自分をせせら笑う現場を押さえたと見るや、怒髪天を突く憤怒の形相を浮かべると家中の奴隷を残らず呼び出し互いに鞭打つように怒鳴りつけ、ために手の空いた奴隷がひとりもいないという仕儀になったのも当然のなりゆきで、互いに鞭打ちながら阿鼻叫喚さんざめく家中をあとに、護衛につく奴隷もなければ駕籠をかく奴隷も連れず、マリウスはひとり市中の喧騒のなかへ駆け出してゆくのだった。


 そぞろ歩きの末にたどり着いた先はほかでもない公共浴場で、

 俗気を洗い流そうと発起し、図書館に向かい

 先哲の箴言に救いを求める


 浴場の館内に併設された図書館は、湯上がりの客がちらほらと見えるだけで閑散としており、しかもギリシア語、ラテン語を問わずに贅沢に蒐集された古今の名著を紐解いて教養の充実に努めるよりも、だらしなく涎を垂らして午睡の最中という人士が椅子を並べていびきをかいている体たらくで、そんな座席の隙間をあちこち通り抜けながら、マリウスは己にまつわる下世話なうわさの数々と奴隷たちの嘲笑を思い出して陰々たる気分になり、偉大な名著に触れて巷の俗気を払おうとやってきたのに何たることぞと、殊勝な心を起こして手にとった一冊の項をめくるのだった。

 思えば、マリウスは幼少のみぎりから乳母や美しい奴隷の女たちにかしずかれて育ったせいか、年頃になって家中の女ではない外の娘たちとはじめて出会い、街を歩いて気に入った娘に声をかけるや否や、怪訝な面持ちで相手が足ばやに逃げていった出来事の理由がいまもって分からず、鏡を見て髪をさまざまに撫で付けてみても、俗な芝居小屋に出入りしては女人をかどわかす甘言の数々をまめにパピルスの切れ端にしたためても一向に娘たちの態度が変わる様子がなく、

 家に帰ってみれば、いつも通りの至れり尽くせりの大歓待を受けながら、その待遇になんの疑問も覚えることなく無愛想な主人面をもって応えるだけで、さて女の気持ちというのは測りがたいものよ、と嘆息しながら、ティレシアスと蛇の逸話を記した項に目を落すのだった。

 男女いづれの方が性愛の喜びが大きいのか疑問を持ったユピテル神が、博識をもって知られたティレシアスに、汝はなにゆえに男女両性を具有するようになったのかと問い訊ねたとき、ティレシアスが答えて曰く、数年まえのある日、森の中で交接していた二匹の蛇を激しく杖で殴打したところ、男であった自分はたちまち女の身体となって数年が過ぎ、女としての生活を堪能したのちにふたたびあの蛇と遭遇し、また杖でしたたか打擲したところ、元の男の身体に戻ることができたといい、

 それを読んだマリウスは、これこそ女心を知る早道ではないかと合点したはいいものの、ふだん書など読んだこともないマリウスは蛇の寓意を読み解こうともせず、背中をひと押ししてくれる一句を探して手当たりしだいに書を漁り、項をめくって関連する書物を紐解いても謎は容易には解けず、かえって眼に飛び込んでくる句はどれもこれもおのれを嘲笑うがごとき辛辣な言葉に満ち満ちているように思われ、心に響く句など、そうやすやすと見付かるはずもないこともまた当然といえば当然であり、

 慣れない考え事にはすぐに疲れてしまい、淫靡な空想をかき立てる古の神話についての書を拾い読みするのにも厭きると、今ぞ飲むべし、自由の足もて、なぞという偶然眼にした一句を都合よく自分に当てはめては、これをよすがに湯上がりの飲酒を楽しみにしつつ、書など投げ捨てて飛び込んださきの湯船のなかで、いい気分に汗を流しながらつい聞き流せない大事な話にぶつかったのもマリウスの幸運といえば幸運に違いないのだった。


 霞立ち込める湯船の奥から口々に、

 おれも出場することに決めたぞ、おれもおれも、

 と先手を競って声高に名乗りをあげる声


 釣られて近づいてゆくと、身分卑しき奴隷と思しき男たち幾人か、湯船の縁に腰かけながら気勢をあげている最中で、その話というのは文字どおり雲をつかむような空事では案外ないらしく、マリウスがついその輪のなかに裸身を乗り出して聞き耳を立てると男の一人のいうには、なんでも剣闘や戦車競争には飽き足らなくなったかの遊蕩好きの皇帝が、音曲、体育、騎馬を総合的に組み合わせたこれまでにない新機軸の祭典を開催するとのうわさで、

 剣闘や戦車競争のごとき危険な種目にはつい二の足を踏んでも、間口の広い競技ならわれも腕に覚えありわれもわれも、と市民殺到の兆しありとの由、むろん優勝のあかつきにはローマ名物パンと見世物の看板にもとらず、けちなことの嫌いな皇帝陛下が各部門太っ腹に賞金は出し惜しみしないとのふれこみで、

 湯船のなかに浮かれさわぐ男たちの熱気につり込まれて、つい慎みもなく身を乗り出しはしたものの、いやこの世知辛い世の中にそうそううまい話の転がっているはずもないと正気に返ったのは日々安穏とあそび暮らすだけのこの男とも思われず、

 じつは浴場につい足が向いて向かってしまうまで、マリウスの頭の片隅に浮きつ沈みちらついていたのは、レティシアにふられた腹いせに山小屋に隠れ住まう逃亡奴隷と邪教徒の隠れ家の件について、街のあちこちにあらぬ風評を流すという邪な考えにほかならず、

 当初の目的に立ち返るという不埒な志を起こすと男たちの話の輪から離れ、湯から出ようと立ちあがりかけたとき、ふと湯煙の向うにきらりと光るふたつの目を認めると、するすると水面をおよぐ蛇のようにこちらに近づき、旦那、と声をかけたのはまさしく蛇のように赤い目をらんらんと輝かせた男で、瞬きひとつせず、舌をちょろちょろ器用にころがしながら、旦那さっきの話にえらく興味をそそられていたようだが、と弁舌巧みに取り入ろうとするのを、もしやさっきのティレシアスの逸話の教えるごとく、この男の頭に一発食らわせれば男と女が入れ替わり、女人の考えも手に取るように分かるようになるかもしれないと身を乗り出そうとしたが、マリウスはそれをかたい決意のもとに押しとどめ、

 いやさっきは下賎どもの与太話についつい釣り込まれはしたが詮無い話でそれよりも、とシリウスの山小屋に逃亡奴隷の隠れ住まうこと娘レティシアと男が邪教徒の隠れ家へ夜な夜な通いつめている件につきすらすら立て板に水のごとく語り終えると、そんなことよりも旦那、と蛇のような男はいっこう耳をかたむける様子もなく、皇帝の祭典には剣闘や戦車競争のみならず、音曲や詩吟の部門もあるといい、旦那のような文化的なお方には人殺しよりもそっちがよくお似合いで、とわざとらしく持ち上げられてもマリウスにそれに気付くほどの度量があるはずもなく、

 しかし顔はみるまに高潮し心臓は早鐘を打つように高まり、たちまちそいつだと叫んで湯船から駆けあがり往来へ飛び出したというのも、祭典に詩人として出場しようという考えが突然ひらめいたからにほかならず、アルキメデスのひそみに倣った高尚なる振る舞いというよりも、家の財産にぶらさがってふらふら遊んでいる自分もこの大会に出場して賞金を手にすればきっとレティシアも見なおすにちがいないとの見通し甘い思いつき、レティシア恋しの果ての痴愚に発するものにほかならず、

 蛇の男にうっかり語った内容のあれこれは逆上せあがったマリウスの頭のどこを叩いても湯煙の向うに茫と消えうせたまま戻らない相談であるのは明らかで、かたや蛇のような男はといえば、裸で往来へ飛び出していった愚かな若者の身につけていた品々を人目も憚らずごそごそと脱衣所で物色しつつ、哲学者然とした微笑を浮かべてほくそ笑み、腋の下で蝮を飼っているのはむしろおまえの方ではないかと深遠な言葉をその場へ残すと、片足の悪い男とは思われない敏捷さで人ごみのあいだを泳ぐようにすり抜けながら、いくつもの大通りを駆けめぐり路地の陰にひそみ、己の塒にふさわしい、都の底の底にある澱んだ暗がりのなかへ消えてゆくのだった。



 木々はそよぎ鳥は歌う、夢幻めく清澄な朝

 何ごともなかったかのように私は

 懈怠の観察者として夢想に耽る


 一番鶏のけたたましい声で目を覚ました私は、気がつくといつもの朝と変わらず持ち主にも忘れられた無用の長物として壁に立てかけられている。鳥の姿はその痕跡すらなく、私の身体にもなんら獣くさい臭いは染み付いておらず、蚤が歩いたほどの狂いもない壁の位置に、昨日と寸分たがわぬ姿勢で立てかけられたままだ。まるで薬草の強い毒気にあてられたように頭痛が治まらないのは、語るだけで身の毛のよだつ恐ろしい夢でも見たせいなのか、だがその不快な印象もすぐに消え失せてしまった。

 そんな私をよそ目に、剣を忘れたおまえはというと、夜遅くまで手習いに励んだ疲れのせいか昼過ぎまで起きてくる気配はなく、シリウスは朝餉の支度に竈にかかりきりのレティシアを待ちあぐねつつ、今朝も弓矢の手入れに余念がない様子で、弦を張り替えてはきりりと引き締めて弾力を試し、しかしその目のうちには、いつもの朝のようにその日に射るべき獲物の姿をはっきり捉えている鋭い眼光は認められず、曇りがちな眼差しはどこか遠い雲の果てでも透かし見ているようで、

 夕べ、歓楽におぼれ遊興に酔い痴れる街の暮らしを遠ざけて久しいシリウスが、めずらしく酒を飲ませる店へひとりで立ち寄る気になったのは、しばらくぶりに仕留めた滋養たっぷりの山猪の肉に、市場でたいそう高値がついたからというのではなく、あるいは近く催されるという祭典の準備に色めき立つ人びとのようすや市場の活況にわけもなく心が浮き立ったというのでもなく、往来をゆく人びとの間を縫ううちにどうも気にかかる一語がしきりと耳に飛び込んできたからで、

 その立ち寄った店の奥の席へひとり腰掛け、無花果を肴に葡萄酒をひっかけていると、まだ日も落ちきらないころおいから酒の臭いをぷんぷんさせた微酔機嫌の男たちの一団がふらりと雪崩れ込み、背後のテーブルに陣取ると、はじめのうちはとうてい縁のありそうもない元老院議員の汚職をめぐる裏話のあれこれや、高名な抒情詩人の愛人問題にまつわる醜聞に花を咲かせ、興奮気味にあたり憚りなく哄笑する声が聞こえてくるばかりだったが、

 やがて一人が声をひそめると、周囲を気にしながら深刻な調子でぼそぼそと秘密の会合を始めだしたのはただならぬ気配で、耳をそばだて聞き入って見ると、例の鳴り物入りの祭典の準備とやらでいま帝都が未曾有の好況に沸き立っているのはみなが知るとおりだが、その裏では都の浄化と称して役人どもは流民や貧民の排除に乗り出し、ここしばらくは鳴りをひそめていた異教徒狩りも再び行われるのではないかとの噂があるという話で、

 そんなあれやこれやの出来事を漫然と思い浮かべながら、シリウスはレティシアの運んできたパンもろくに咽を通らず窓の外へ視線を投げると、図らずも永く逗留することになってしまったおまえの身の振りや娘の身辺のことなどを思い見ているうちに、ごとりと匙をスープの中に取り落としてしまい、

 なにか考え事でもあるのというレティシアの問いかけに正面から答えることもなく、真正面から話題を切り出すこともできずに、おまえ近ごろ、あのマリウスという青年からまたちょっかいを出されているなどということはないのかと、あたふたしながら、まんざらお為ごかしでもない問いをもって返答したのはやはり失敗だったに違いなく、

 娘はさらりとそれを言下に否定すると、さっさと朝食の皿を片付けてしまい、おまえの待つ奥の部屋へと小走りに駆け出して行くのだった。

 そういえばいつか、あの男を担ぎこんで山狩りの兵士を追い返してからもう何度目の満月を迎えることになったのか、幸いあれから異教徒狩りの追っ手が迫るということもなく、マリウスの一件からもかなりの時が経ったとはいえ特に危ない目に遭ったということもなく、平穏無事に日々を暮らせたおかげで却って警戒心が緩んでしまったことを悔やむとともに、もしも今後、役人の追及の手が身辺に伸びてくるようなことがあれば、自分はレティシアを守ってやることができるのだろうかと、そんな思いが始終シリウスの頭を堂々巡りし、百発百中の腕を持つ弓の名手もこの日は、放つ矢ことごとく的を逸れて虚しく空を切るばかりだった。


 まどろみ深い夕陽の中

 アルテミスの女神にそっぽを向かれたまま

 猟師は帰路を急ぐ

 

 だがシリウスの不安にも関わらず、山小屋の周囲はいつもと変わらぬ静寂に包まれ、手ずから葺いた粗末な板葺きの屋根が、いよいよ没しようとする陽をまだら模様に浴びて小麦色に輝いており、レティシアはそんな落日の景色のなかで、娘らしい溌剌とした気をさかんに振りまきながら、踊るように干し物を取り込んでいる最中で、

 聞こえる音はといえば、古巣に帰ろうと空を渡る烏や山鳩の声が遠近に響いてくるほかは、おまえが裏手で薪割りに奮闘する物音がこだまするのみで、森や木々はゆるゆると落日のまどろみの中に没しつつあり、

 きょうが昨日の繰り返しであるように、明日もまた今日と同じような穏やかな日々がつづき、何ごとも変わりなくあらゆる事々が平坦に過ぎてゆくような毎日こそが円満な人生というものであり、昼間の心配事はすべて妄想の生んだとり越し苦労にすぎないのではないか、そんな満ち足りた錯覚につい陥りそうになりながら、いささか拍子抜けしつつもシリウスは、ほっと肩を撫で下ろすのだった。


 シリウスはその夜、

 こっそり寝室に入ると赤子のような娘の寝姿を見て安堵する


 もう一人前といってよい歳にまで大過なく育ち、異教信仰とはいえ確乎としたおのれの思想を抱くほどにその精神も熟し、早くに母親を失いながら父親の手ひとつでよくぞここまで育ってくれたと、まずはひとしおの喜びを噛み締め、乳飲み子のころと変わらぬ薔薇色の頬を人差し指で撫でながらひとしれず笑みを漏らし、そうはいってもやはり世間知らずのひとり娘には違いなく、広い世の中で通用する智恵も、おのれの身を守る術もじゅうぶん身につけているとはいえず、まだまだ父たる者の務めは終わっていないことを改めて己自身に言い聞かせ、

 しかし、薔薇のように頬をかがやかせる娘の寝顔がシリウスを安らかな気分にしたのは、夜更けになってむっくり起き出し父の寝息を確かめるように忍び足で戸口を出てゆく娘の足音を、偶然耳にするまでのことで、夜ごと狩りに疲れ果てて帰り、泥のようにぐっすり眠り込んでしまうシリウスはこのようなことは思いもかけず、とっさに声をかけて咎めることも、いきなり大声で叱り飛ばすことも忘れてしまい、だがどうしても胸騒ぎを抑えることができず、追うようにこっそり床を抜け出すのだった。

 そうして、足音のみならず心臓の鼓動までひそませるほどの心配りであとを追い、いくつかの谷を渡り森を抜けて城壁の近くまでやってくると、低い灌木のつづく物陰にふっと娘の姿が消えるのを認め、するとあたりの闇のなかにぽつぽつとあらわれた人影もレティシアに続いて姿を消し、シリウスもまたその人の列にまぎれていつのまにか薄ぐらい坑道のなかを進んでおり、その産道のように曲がりくねった通路の左右には灯火がほそぼそと焚かれ、

 ひえびえと冷気の漂うなかをもぐらの行列のように這い進む人影についてゆくと、左右の壁面の窪みには、いつの時代のものともしれぬ古の信者たちの襤褸をまとった彫像が立ち、あるいは横臥した格好で生者たちを出迎えるように脇にひかえており、しかしそれらの手足が枯れ枝のように細く目の落ち窪みも尋常ではないありさまに気づいたシリウスは、ぞっと身の毛がよだち目を背けてしまい、

 娘が異教の教えを奉じていたのは知っていたが、それが屍を弔うことなくこのようなかたちで人目に曝す邪教とまではつゆ考えたことはなく、入信の儀式のさいに嬰児を殺してその血をすするの、十字架に架けられたロバの頭を崇拝する邪教であるだの、そんな巷の風聞を耳にすることはあっても、興味本位の悪意ある噂にすぎないと決めつけていた自分自身の、父としての不明を恥じいるばかりで、われに返ると娘を追って視線を巡らせたが、いつのまにかその姿はともし火に照らされ交錯する生者と死者との影のゆらめきのなかで見失ってしまい、

 時の流れは限りなく緩慢に引き延ばされ、うねうねと続く坑道はどこまで進んでも果てが見えず、意識が朦朧としかけ途絶えがちになったとき、とたんに眼前に広い空間がひらけ、そこは地下に幾重にも張り巡らされた坑道がひとつに交わる大きな広間で、その奥に腰かける指導者とおぼしき年老いた男をとりまいて数十人が群れあつまりなにやら討議の最中のようであり、シリウスはつねに二、三人が固まってうごく人影のあとに続いて紛れ込むように隅のほうに腰を下ろし、とり交わされる聞き慣れない言葉の数々にじっと耳を傾けていたが、

 ふと天井の岩肌から沁み落ちる雨垂れがぽつぽつ聞こえるほどの沈黙が訪れたかと思うと、長老は潤んだ目で一座のひとびとを見渡し、すると広間に通じる通路からひとりの男が、数人の信者たちに付き添われて長老の前まで連れてこられるのが目に入り、その場にどっかりと腰を下ろしたまま俯いているばかりで、

 付き添いの信者が、この男が墓を壊し信者たちの遺体に火をかけようとした張本人だと訴えるのにも顔色を変えず、ところが急に顔を上げて一座を睥睨したかと思うと気のふれたように高笑いを始め、天国も救いもあるものかと挑むような目付きで長老をきっとにらんで、復活など大嘘ではないかと威勢よく叫ぶとまた肩を落とし、

 するとしばし目を閉じていた長老がきっと男に目を据えて、なぜあのような振る舞いに出たのかと静かな口調で詰問するのだった。


 人間は死ねばそれで終わりで、

 死後の生など戯言に過ぎず、

 命が助かりたければこのような教えは捨ててしまうべきだ


 男がほとんど吐き捨てるようにそう言い切ると、だが長老は驚くようすもなく何故そう思うのかと穏やかに問いかけ、男のいうには数十年前のローマの大火とネロ帝の弾圧のあった時分、信者たちはいよいよ予言された世の終わりと審判の日が近づき、神の国の実現が間近に迫ったことを大いに喜び期待したが、しかし主が再臨することもなく、使徒は殉教こそが勝利である説いて、その言葉にしたがい多くの信者たちが炎のなかに身を投げた、教えが本当であればこんなぶざまなことが起こるはずがないではないかと勝ち誇ったように言い放ち、

 さらに続けて、主が死後に生き返ったという信者たちの証言そのものが大嘘であり、それならば魂は肉体の死後に天上の王国において救われるというのも根拠がないではないか、だいたいが主は十字架にかかるまえに天国は地上において築かれると言いはしなかったか、その地上の神の国とやらがいつまで経っても到来する見込みがないから、弟子たちのだれかが来世なぞという世迷いごとをでっち上げたと考えるのが自然ではないかと畳みかけ、霊魂も来世もないとすれば、死者の弔いなど生者の慢心の行為にほかならず、遺骸もただの塵芥にひとしいとなれば、火をつけても誰に咎められる謂れはないではないかと開き直り、

 夜ごとに宴会を催して乱痴気騒ぎに興じている金持ちや貴族どもを見ろといい、死後に快楽はないという古くからの格言どおり、かれらは来世などないことをみな承知だから現世を存分に楽しんでいるではないか、市井の貧民たちにしてもあるかないか分からぬ来世での救いを当てにするよりも、目に見えるもの、すなわち皇帝陛下があり難くも下賜なされる今日のパンと見世物に夢中ではないかと、そう大見得を切って座りこみ、

 じっと穏やかな態度を崩さずに耳を傾けていた長老も、信徒たちと長く話をし過ぎたのが障ったのか、苦しげに咳き込むのを周囲に支えられながら、なぜおまえは目に見えるものしか信じようとしないのかと男に問いかけ、人が永遠の生命を得ることができるのは、死後三日目にしてよみがえった主の復活という事実に裏付けられており、それは弟子たちが認め証言したことでもあるのだと言い、可視の光しか見ることのできない自分の目ではなく、神と信仰を通じてこの真実に目を向けるのだ、そうすることで初めて主が十字架において払った犠牲の意味も感得することが出来、それをどうしても拒むということならば、おまえはもう信徒たる資格を失っていると言えようと呻くようにつぶやき、

 すると男は、一度は信じようとは思ったが、目のまえで病苦に喘いで死んでゆく家族の顔を見ると、つくづく今日の飯の種にもならぬ信仰なぞにうつつを抜かしていた己の愚かさが身に沁み、永遠の命などあっても犬にくれてやりたくなる、犠牲というが、これ以上なにを犠牲に捧げればよいのか、そう吐きつけると憤怒の形相で立ち上がり、

 周りの信者たちがその後を追いかけようとするのを、長老は身ぶりで制止しながらふかく溜め息をついて、無理に引き止めたところで、あの男の心中ではもう善天使と悪天使の争いに決着がついており、身内に置いておくことはかえって我々のうちに悪の種と災いを呼び込むことにしかならぬだろうと言い、おそらく弾圧が迫っているのは事実であろうが、力づくで潰しにかかるよりも先に、さまざまな手を使ってわれらの間に疑惑と不信の種子を撒こうとするに違いなく、あの男もそんな篭絡の一手にかかった犠牲者であるかもしれず、あるいはそうでないかもしれず、だれを責めても詮無いことなのだと諭し、

 主も言われたように隣人愛こそが平和の要であり、敵をすら愛せるほどでなければ真の愛とは言えず、それを全うできないとなれば、いさぎよく肉の身体を脱ぎ捨て、この地上の生を放擲する道はしかあるまい、改めてそう繰り返すばかりで、

 居ならぶ信徒たちの顔色をうかがい見れば、ともし火のゆらめく炎に煽られながら、いつかその火の中で焼かれることを熱望し、至高天をめざして狂おしい叫びを上げんばかりの恍惚境に入り、地上への未練を断ち切り来世への希望にすべてを託す、もはや殉教以外に道はないとする諦念の色に染まってゆくのだった。


 岩陰でやりとりを窺い見ていた

 シリウスは、その内容を半分も理解することができない


 そのとき、シリウスの脳裏を駆けめぐったのは、語り伝えられるネロ帝の治世に起こった異教徒の大弾圧であったに違いなく、ローマ市中の大半を焼き尽くした大火の濡れ衣を着せられた信徒たちが大勢、街道沿いで十字架にかけられ火刑に処され、夜の街を煌々と照らしたという逸話は、信徒ならぬ市民のあいだにも恐怖の記憶とともに語り伝えられており、

 そんな過去の悲劇の様相を、どうしても自分の娘と結びつけて考えることができず、あるいはそうすることを頭のほうで拒否しているような具合で、しかし周章狼狽したり、名状しがたい恐怖に煽られて叫び声を上げることもなく、いままさにこの場所に紛れ込んでいるという己の危険な立場も忘れながら、視線はレティシアの姿を求めて信者たちの頭上を行ったり来たりするばかりで、

 すると信者たちは口々に、むしろ進んで縛に就こうではないか、主が再臨されることはなくとも、もとより主に二度もわれらのために犠牲となってもらうわけにはゆかず、この生身は捨てたつもりで、獄のなかでどのような責め苦を受けようとも堂々と主を讃える歌をうたいながら教えに殉じようではないか、そう叫びながら各々クルスを取り出し、どの顔も歓喜の色に染まり、胸をうち震わせながらむせび泣くありさまで、

 シリウスはもはや正気を失ったとしか見えない信者たちをまえに、こんなところから早くレティシアを救い出さねばならないと、人込みを縫うように娘の姿を探し駆けずり回り、だがどこを捜してもそれらしき影は見当たらず、入り口近くまでは確かに見失わないように後をつけていたはずだがと途中の経路をふり返ってみても埒があかず、

 そうこうするうちにも、信者たちが聖句を唱和する声はしだいに大きく堂のなかに響き渡り、四方に木霊し、この世ならぬ幽冥界のような様相を呈してきたとき、シリウスの心に、ここは天国へ救われることを望む人びとが集まる礼拝所と見えながら、じつは地獄の入り口なのではないかと疑義がわき起こり、漠とした恐怖にかき立てられ、すると先ほど長老に毒を吐きながら去っていった元信徒のことが脳裏をよぎり、

 天国も地獄もひとえに人の心のなかにあるものだという考えが腑に落ち、主とやらが十字架で死んだ後に復活したなどということがあるものか、そんなことは弟子のでっちあげに決まっており、それを根拠にする来世の救いなど到底信じられる話ではなく、はやくレティシアを邪教の迷妄から解き放ってやらねばならぬ、この者たちはおそらく地上での生活に見切りをつけたあげく死を望んでいるだけなのだ、それも苦痛を感じるよりは恍惚境のさなかに生涯を終えたいがために天国という幻にすがる卑怯者の集まりではないのか、そんな思いを強くするのだった。

 そのとき、信者たちの唱和する声がはたと止んだかと思うと、ひとりの男がすっくと立ち上がり、杖のひと振りで大海を割ったかの預言者のように悠然とした足取りで長老のまえに歩み出ると、自分はかつて人の命を奪うことを生業としていたことがあるが、その相手が生き返るところは一度も見たことがなく、殺した相手の怨霊にとり憑かれて夜も眠れぬほど苦しんだこともなく、永遠の生命という考えや主の復活についても長老の説明にあった以上の証拠は知らぬと告白し、

 やがて静寂からざわめきに徐々に移行しつつある周囲の物音などまるで耳に入らないように、死んで生き返ったものがいないとなれば死後の魂の行方など知りようもなく、したがって来世での救済というものがあるのかどうかも分からないが、たとえ来世が否定されたとしても、主のいうところの、地上に実現される神の国というのはあり得るのではないかと言い、どうしていままでそれに気が付かなかったのか、地上の国を支配する者どもからこそこそ逃げ回り、ひたすら主の再臨を待ちくたびれるばかりの日々をこれからも送ろうというのか、と続け、主の言われた地上の王国、それは来るべき主の再臨のために信徒たちが準備するべきものでもなく、つまり、いつになるかわからぬ主の訪れを待つまでもなく、


 われわれがこの地上にただちに実現するべき

 王国のことではないか


 控えめな口調で、そういいながら一座をぐるりと見回したとき、シリウスがあっと声を呑んで眼を見ひらいたのは、その男が山小屋に長逗留しているあの逃亡奴隷の男と瓜二つであり、山中で狼の襲撃からシリウスを守った男に間違いはなく、すなわち、その男というがおまえだという事実に驚いたからに相違なかった。

 すっかり聴衆の耳目を奪いとられてしまい、ただの老いぼれのように狼狽える長老をよそに、おまえが滔々と長い説教をやってのけるのを眺めながら、私はいつしか誇らしげに目を細めている。

 そして、いまや父娘の感傷に溺れるあまり、なす術もなく立ち尽くすしかない男の腰の鞘に納まりながら、いつしかおまえの名演説に聞き惚れ、あわよくばその供をし、許されるなら昔のように存分に腕を振るって持ち主に尽くしてみたいという、そんな欲望がむくむくと頭をもたげてくるのだった。

 しかしシリウスはといえば、何ゆえにおまえがここにいるのかということも合点がゆかないまま、ただこみ上がってくる激しい不愉快の念に顔をゆがませながら拳をにぎり締めているだけで、長老やおまえのもとへ駆け寄ってレティシアの居所を聞き出そうと激しく問い詰めるということも泣く、わけも分からず大声で叫び出すこともなく、すっかり色を失ったまま群衆のなかに佇んでいるばかりだった。

 灯火に揺れる信徒たちの影を見回していると、さきの男の言葉に勢い付いたものか、それまで一枚岩だった信徒たちの間にとたんにざわめきが立ち、それが一枚岩に亀裂を走らせるように徐々に拡がってゆき、男や女の浅黒い顔にみるみる血の気がさし生気がよみがえり、いつの間にか殉教一色に傾いていた空気もきれいに一掃されてしまい、

 そもそも何ゆえにわれら信徒はユダヤの教会からも正式な一派と認められることもなく反対に差別の憂き目に遭い、こうして何の保護もないまま地下に集会を持たねばならないのか、座のあちこちからそんな非難めいた声が次々にあがり、われらの教えは決して人びとに危害をもたらすものではないのに邪教と罵られ元老院から布教の許しを得られないばかりか迫害の憂き目に遭わねばならないのはどういうわけか、と最後に立ちあがった若者から悲痛な訴えがあがると、

 長老はまた薄ぐらい洞のなかで信徒たちの顔を見まわしながらため息をつき、それは皇帝や元老院がわれらの教えを恐れているからにほかならぬとつぶやき、

 かれら地上の国の支配者たちは、己のために人間やほかの自然物から偽りの神々を作り出し、犠牲を捧げてそれらを礼拝してきたのであり、そうして生まれたギリシアの古い神々を継承し、征服地からあらたな神々がもたらされるたびに受け入れてきたローマが、なにゆえにわれらの信仰に怯えるのか、

 それはわれらの教えがただひとつの神と神の子の存在だけを崇めるからであり、この国はかたちの上で皇帝崇拝の手続きさえ踏めば異教の神を認める態度を採りつづけてきたが、そうは言っても地上の国であるこの帝国は、皇帝こそが絶対神として崇拝されるべきであると考えており、主以外に神を認めないわれらの教義そのものを、国の土台をゆるがす危険な教えであると見做しているからであろう、と静かに付け加え、

 そして長いあいだ燭の炎のゆらぎを見つめていたかと思うと、おもむろにおまえの方をふり向き、地上の王国、と押し殺した声でつぶやいたとたん、咳き込んで肩を大きく揺らし、

 主は人の生身を身にまとっていたとき、私はエルサレムの王となるためにきたのではないと言われたことを知っているかと問いかけ、その背後の岩壁に大きくうつり出る影はさながら心中の揺れと響き合うかのようにゆらめき、ゆえに主の力によって天上から導きの糸が垂れるまでは、地上に王国を築くことはかなわぬことなのだと答え、暗い天上の壁をふり仰ぎ、いつかその日が訪れるまで敵をすら愛する寛容の心でじっと待ち続けねばならぬと言い添え、それではどこか帝国の外れの辺境の地に逃れ、そこで教えを広める手立てもあるのではないかという声には、蛮族の住む未開の地を除いてはこの世界のどこにも皇帝の威光のとどかぬ地はないのだと、かぶりを振ってみせた。


 もはや地上の世界には、われらが生きて歩く道はない


 そう俯きかげんにいう長老の顔が、灯りのせいではなく暗く翳ったと同じく、取り巻く信徒たちのあいだに、おおという嘆きの声とざわめきとが小波のように広がり、幽かに希望を見たかのようだった一座の面持ちはふたたび、現世の放擲という暗色に染められてゆくのだった。


 そのとき、坑道の奥から慌てふためき息を切らせて駆け込んで来たのは信徒のひとりの中年男で、そのまくし立てるような報告によれば、明後日に予定されている皇帝の祭典には異教徒の娘が生贄に奉げられるとのもっぱらの噂であり、あらたに出されたパラティウム宮からの布告によると、異教徒であっても仲間を密告したものはその罪を許した上で報奨金を給付するとの話で、これは信徒のあいだの絆を絶つ懐柔策にほかならず、もしかするとすでに役人の息のかかった者が信徒を装ってこの礼拝所に紛れ込んでいる恐れもあるとのことで、

 そんな知らせがたった今もたらされたというだけで、この場のあちこちに不審の眼差しが兆しはじめ、頭巾越しにお互いを盗み見るような視線が泳ぎ出すありさまで、これでは地下にひそんでまで保ってきた信徒の団結など保てる話ではなく、

 シリウスは冷ややかに鼻で笑いながら、こんな信用のならぬ連中の巣窟からはやく娘を救い出さなければとレティシアを探して周囲を見まわしたもののどこにもその姿は見えず、さきの男の語った布告の内容がとたんに脳裏によみがえって鼓動は早鐘のように打ちはじめ、どこの馬の骨か間諜かと嫌疑がかかるのも恐れずに、居ならぶ男や女の肩を押し退けながらまえへ進み出ると、

 ただ額に皺を寄せて立ちすくむばかりの長老と、その傍らに立つ若者をまえに立ちはだかると、おまえたちいったい娘をどうするつもりなのか、どこへ隠したのだと喚くなり崩れるように倒れて床を拳でむなしく叩き続け、そんな父親の姿をただ呆然と見下ろす長老はというとひたすら十字を切るばかりで、信者たちはそのありさまを空虚な眼差しで眺めつつ、殉教への意志と結束はしだいに弱まる一方、彷徨える羊の群れを率いてくれるあらたな牧童の姿でも捜し求めるように視線を泳がせるしかなく、シリウスはますます深い失意の淵に追い込まれるのだった。


 そのとき、おまえはその父の手をとり、

 自分が行こうと歩み出る


 おまえはシリウスの手を引いて抱き起こすと、そこに寄りつどう一同の顔を見まわし、

 いままで言いそびれていたが、じつは自分は元剣闘士の逃亡奴隷であり、クルスを形見にくれた母と姉の消息を尋ねるためにレティシアに伴われてここへ通うようになったが、望みは達することができずにいまに至り、みずから洗礼を受けることを躊躇っていたのは、闘技場での試合で大勢の人びとの命を奪い血に染んだこの手が、赦しを請い、洗い清めるにはあまりに罪深すぎるからだと告白し、

 すると一座はふたたび、水を打ったような静寂のなかに包まれ、

 自分はクルスの思想を知った今、もはや剣の力を振るうことを是としないが、正式な洗礼を受けていない身であれば汝殺すなかれという戒律にふれたとて咎められるものではない、おまえはそう言い、そしていつかの山中でのシリウスの言葉、人殺しの道具を身に帯びるものはそれを我が身を守るというぎりぎりの立場に置かれるまではけして使ってはならぬ、さもなくば武器の魔に魅入られ魂まで支配されるという戒めを思い起こし、思わずシリウスの方を見やると、

 憔悴した父は面を上げ、何ごとかを言おうとしたが言葉にならず、しかし強いて訊ねることもなく、それからふたりはしばらくの間、無言の会話をとり交わしながら向かい合っていたが、やがてシリウスは娘をおまえに委ねると呟くと、腰にぶら下げた私を鞘ごと外して戴冠式さながらにそっと差し出し、そのようすに満場の注意が注がれるのを、私は誇らしげに見守るのだった。


 エルサレムの王になるつもりはないという主の言葉を忘れたのか

 地上の王国のために人を殺すというのか


 洞のなかを疾駆するおまえは、ただひたすらに光そそぐ出口を目指し、鋼を打つようなおのれの足音と、離れても追いかけてくるそんな長老の声を聞き捨てながら、私は平和をもたらすために来たのではない、剣をもたらすために来たのだという主の言葉を引いて長老に投げ返してやり、だがおれは地上の王国のために剣を振るうのでもない、かといって復讐のために剣を振るうのでもないのだと、そう心のなかで叫ぶとともに、レティシアがいまにも火刑台に括り付けられ、そこに油をまき火を点けようとする男の姿がありありと脳裏に浮かび上がり、その輩の咽笛に短剣を突き立てて、その血を浴び、レティシアをいますぐにかき抱きたいという欲望がとつとして火柱を吹き上げるのだった。

 心おどる爽快な気分となった私は、そんな一途なおまえを鼓舞し、復讐のためであれなんであれ、心ゆくまでに存分に剣を振るうことをためらうなと励まし、おまえの腰に揺られ、おまえとともに洞のなかを駆け抜けながら人馬一体のケンタウロスもかくやという勢いで出口へ向かって駆け上ってゆき、

 いつしか暗い前方の景色のかなた、乳白の朝霧が立ち込める向こうに白々と曙光が差しはじめ、眩いばかりの光を放って北極星のように方角を指し示し、万物がおなじ日輪の光の下にあって、相食み闘争し、生滅をくりかえす世界、すなわち地上の入り口が、急な階段を見上げるおまえのまえに、ぐんぐんと高度を上げて昇り出す日輪のように待ち受けていた。



 酷薄なる陽光はじりじりと迫って地に蠢くものたちの咽喉を焼き、

 泉の代わりに血を渇仰する男や女に媚をふりまきながら

 狂熱と懈怠の一日があけそめる

 

 水兵たちの張った天幕の下では、売り子が呼び声を張り上げ、松の実やナツメヤシ、素焼の器に入った果汁や蜂蜜を塗って焼き上げたパンを配りながら観覧席を順々に巡りあるき、人びとが先をあらそって求めるのも眼中にないシリウスは、日が高く昇り競技が進むにつれて熱狂の度を強めてゆく群集の熱気とはうらはらに額に脂汗をにじませるばかりで、この途方もない大きさの擂り鉢の内側を右往左往しながら一向に目標にたどり着きそうもない足取りはふら付くばかりだった。

 それというのも先夜、ただ祈るばかりで他になす術のない信徒たちの一団を地下に見捨てて飛び出しては来たものの、確かな手がかりと思われるのは異教徒の娘が生贄に供されるという噂のこの催し物しか考えようがなく、しかし居ても立ってもいられずここまでやってきたとはいえ、皇帝の主催する催し物でこれだけの群集に囲まれていては手も足も出せず、しかも見渡す限りの視界を埋め尽くすものたちが皆、自分の娘が残酷な見世物に供されるのを楽しみに待ち構えている連中であると思うと胸が裂けるようであり、

 真昼の太陽に蒸し返されて、頭はつい茫となり目は霞んで、解放奴隷や身分の低い者たちの席である最上階から、皇帝や元老院議員たちの席である最下階の手前の仕切りまで、階段を踏み外して通路をまっさかさまに、転がり落ちてゆくうちに朦朧とした意識に浮かんだのは、この闘技場は蟻地獄の巣のようなもので、観客たちは嬉々としてその出し物に夢中になっているうちに、知らず斜面を転がり落ちて己もその餌食になってしまう運命に気づかない蟻のようなものではないかという考えだった。


 退廃堕落の都を軽蔑して閑居していたつもりが、

 己も畢竟一匹の蟻に過ぎなかったのか


 そう悟ったとたん、がんと鉄棒に頭を打ちつけたような衝撃とともに意識は闇に途絶え、しかし投網剣闘士とアフリカ属州から連れてこられた豹とのたたかいに釘付けになっている観客たちの声援は、そんな物音などまるで蜜蜂の羽音のように呑み込み消し去ってしまい、

 帝国の各地から届けられ、ずらりと並べられた珍味の数々に舌鼓を打つ最中の皇帝だけがただひとり、一瞬のあいだ首を傾げると側近の者に耳打ちをし、なにか異常な物音がしなかったかと訊くと、剣闘士の剣と盾とが打ち合う音でしょうとの答えに、はて豹とのたたかいに剣が打ち合う音がするものだろうかと不審の眼差しを向けたものの、すぐに上機嫌に戻って皿に向き直り、もぐもぐとだらしなく二重顎を動かし始めたのは、ちょうど午前中に催された前座に当たる詩と音楽の部門と、その表彰式が済んだばかりの余韻が覚めやらないせいに違いなく、

 その形ばかりの栄誉が帝国の繁栄と偉大な先祖の業績をたたえる皇帝自身の手になる作、すなわちローマの栄光は千代に八千代に日干し煉瓦が大理石となりてオリーブが実るまでという下手な歌と詩に当然のように与えられたことにご満悦の体を隠しもせず、ほかの出場者の面々もまた莞爾とした笑みを浮かべて皇帝の名を連呼しながら退場し、

 それを称えていっせいに立ち上がった観衆たちのどよめきと、勇ましく鳴りひびいて退場者を送り出す楽隊の演奏の織り成す賑わいのなかで、会場から呼ばれもせずに席にひとり鎮座したまま震え上がっているのはあのマリウスという青年に間違いなく、血の気の失せた蒼白い顔を上げるとふらふら立ち上がり、互いに抱き合い浮かれ騒ぐ人びとに道々ぶつかって罵声を浴びせられながらようやく出口の門にたどり着き、寂しく帰路について未練がましく後をふり返ると、白亜に輝く闘技場の周囲にぐるりと設えられたアーチの中から、神々や英雄をかたどった像が嘲弄するかのような視線を返すばかりだった。


 芸術の偶像たちは、

 青年の美と創造への狂熱をただ嘲笑うのみ


 像は、賞金を得てレティシアをふり向かせる虚しい夢も潰え果てたマリウスを、アポロンとの音楽試合に敗れたマルシュアスのように生皮を剥がれなかっただけでもありがたく思え、そんな痛罵を浴びせでもするかのように冷たく見下ろし、そういえばここ暫らくの間、殊勝にもひたすら祭典出場のための詩吟と竪琴の練習にばかり明け暮れていたおかげで、レティシアの姿もつい見かけなかったことに思い至り、

 すると通りかかったタベルナの壁に貼られたパピルスの張り紙に目が留まったとたん、わなわなと手が震え石畳にへたり込むと一挙に真実を悟り、つまり己の出場のことで頭がいっぱいで夜遊びや乱痴気騒ぎに出かけることもなくなっていたことが裏目に出て、街の噂にもさっぱり疎くなっていたことが判明し、やおら立ち上がってパピルスを引き剥がしレティシア、レティシアと連呼しながら前後の足の運びもそぞろに行き違えがちにふらつくありさまで、

 そのとき馬の蹄鉄を踏む音があわただしく近づいたのに顔を上げると、左右を衛兵に守られた一行のなかに、後手に縛られ猿轡をかませられた娘がうつ伏せに馬上にくくり付けられたまま騎兵に連れていかれるさまが目に入り、しかしマリウスはただ呆けたように口をぱっくり開け放ったまま、駆けよって衛兵の槍の交差するまえに腰を抜かすことも、囃し立てる声々と人込みのなかでその名を叫ぶこともできず、ただ馬上の娘が去りゆくさまを見送るばかりでなす術もなく路上に立ちすくみ、そういってもレティシアのほうでも道端で途方に暮れるそんな小心な男には一瞥もくれず、声をあげることもなく刑場に牽かれてゆく徒刑人のように、マリウスがたった後にした門のなかに消えてゆくばかりで、

 すると唐突にいつかの林檎の木の下での出来事が脳裏にあざやかによみがえり、シリウスの放った矢が蛇の頭を見事に貫いた出来事を思い出して、蛇はいつのまにか大浴場で出会った気味の悪い男の顔へと変わってゆき、その生え際のつるりと後退した額と蒼じろい顔色はやがてさっき遠くから仰ぎ見た皇帝の面影とも重なり合って、千代に八千代に、とつぶやき、親の資産の上にあぐらをかき、力ずく財産ずくで娘をものにしようとした己の傲慢さの招いた顛末に思わず笑いが込み上げ、

 ふと図書館で読んだティレシアスの一節を思い起こすと、いまこそあの蛇のような顔のいかがわしい男を探し出しその頭をしこたま殴りつけ、あのレティシアと成り代わってしまいたいと心の底から後悔と慙愧の念が押し寄せ、石畳に頭をなんども打ちつけ号泣していたが、気がつくとマリウスは娘の名を大声で叫びながら、流血と興奮とを求めて我さきに闘技場へ殺到する人びとの流れに押し流され、つい後にしたばかりの門をくぐり、熱気渦巻くひとの群れの渦に呑み込まれていった。


 皿を半分ほど平らげると手を休め、

 側近のものを呼び付けては不満そうに顔をしかめる皇帝


 どうも食がこれ以上進まないのは料理の出来に問題があるのではないか、いつもなら吐いてもなお食べたくなるほどの絶品の数々が目白押しに並んでいるものだが、今度の新しい料理人は確かそちの推挙したものではなかったかと指を拭きながら訊ねると、側近はたちまち青くなってはぐらかしの口実を探し、傍に控える奴隷たちになにやら耳打ちをすると、にこやかに揉み手をしつつ、それよりも今日の目玉となる新競技がはじまる前に陛下のお好きな幕間の出し物もあり、それをご覧になれば定めし食もお進みになることでしょうと慇懃に答え、

 新しい牡牛の皿を奴隷の給仕が運んでくるのが見えたときには、闘技場の中央には鳥かごのような形の檻がでんと座って、その釣鐘型のてっぺんには荒縄が括り付けられ起重機の先と連動されており、裸の奴隷たちが棒を押し始めると仕掛けが回り出し、軋みを上げながら動力が伝わってゆくと釣鐘状の檻がぐいと垂直に引き上げられて、そこに現われたのは襤褸をまとった男女数人の姿で、おそらくはこの祭典のため帝都の浄化を口実に路地から狩り集められてきた貧民たちに違いなく、四方に轟くような咆哮が響き渡ったかと思うと五、六頭の虎がしなやかに踊り込んでするどい爪を立て、皮膚を破り骨を断つ音がばりばりと聞こえるあいだ、飽き飽きした顔で退屈げに頬杖をつく観覧席とはうらはらに、満足そうに肉をほおばり葡萄酒の杯をかたむける皇帝の姿があるばかりだった。

 側近の男が通路の陰に身を潜めた弓兵に合図をすると、びょうと唸りを上げて飛んだ二三の矢が起重機を回す奴隷たちの背中を次々と射抜いて、がらがらと音を立てて落下した檻は夢中で餌にむしゃぶり付いている虎どもをそっくり閉じ込めてしまい、その捕われの獣と犠牲となった遺骸を乗せた台車が宴のあとの皿のように楽屋裏へ引かれてゆくころには、皇帝も一皿をぺろりと平らげてしまっており、

 しかしそんなありふれた午後の景色の、人びとの眠たげな頬を打ったのは、いまようやく新競技の始まりを告げようとするラッパ台のけたたましい合図で、

 場内いちめんに濛々と土埃が舞い立ち、蹄鉄と車輪を曳く金属質の音が高らかに鳴り響いたかと思うと、総立ちになった観衆からどっと出迎えの大歓声が沸き起こると同じく、


 おのおの虎と獅子の旗竿を立てた数騎ずつのチャリオット騎兵が

 軽やかな足取りで入場して技場をぐるりひと巡りする


 虎と獅子それぞれの陣に分かれて双方にらみあい、猛獣を囲った檻が各陣の奥に配置されると、その両陣営あらそうところに颯爽と駆け込んだのは荒縄で縛りあげた異教徒の娘を肩にかつぐ一騎で、娘を天高く放り投げると風のように走り抜けてゆき、娘はくるくると宙を舞いしたたか地面へたたき付けられるかと思えば……どうも新競技とはこの娘を双方の騎兵で奪い合ったあげく、相手の陣営を突破して奥にひかえる猛獣の檻に投げこんだほうを勝利者とする約束とみえ、観覧席がにわかにどよめいたかと思うと虎の陣に属する一騎がたちまち娘の身体をさらりと掬い上げて駆け出したかと見るまに、そこに疾風のごとく躍りこんだ獅子の陣の騎兵に体当たりを食らって横ざまに転倒し、ふたたび宙に舞いあがった娘のからだをまた別の虎の陣の騎兵がはっしと受け止めたのはみごとな技で、馬が駆ければ娘も飛びちがえて宙を舞う丁々発止のあらそいに人びとみな手に汗にぎって夢心地になるばかりで、

 肉が冷えるのも忘れて放心のていの皇帝の傍では、側近の男が得意満面の笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えつつ、邪教徒の娘への見せしめが犯罪人どもへの刑罰と同じでは興も冷めるでしょう、そこでどうです、チャリオットによる騎馬戦とゲルマニアの蛮族のあいだで大層人気のあるという遊戯とを合わせ、この日のために特別に考案させました新競技のご感想は、と語って胸を張るのだった。


 トガの裾が肉汁でべたべたに汚れているのも構わず、

 皇帝は上の空の生返事を返すばかり


 一方で食欲なんぞとは縁の切れたような青ざめた顔をぶら下げて客席の手すりを右往左往しながら、競技の成り行きを注視することも目を背けて会場を後にすることもできず、頭をかきむしりよろめいているのはあのマリウスで、あたり総立ちになってどよめきに包まれるたびに、ああレティシアと弱々しく呻き声を上げるばかり、

 すると隣からぬっと逞しい腕が伸びて咽笛をぐいとつかまれ、窒息する野鼠のような声を上げるも周囲の歓声に呑み込まれ、いまレティシアと言ったなという野太い声に驚いてふり向くと、頭から血を流して憤怒の形相で睨みつけているのはあのシリウスという娘の父親で、こんなところへぬけぬけと現われて娘が辱めを受けているのを見物している貴様はどういう了見なのか、恥を知れと大喝するや否やマリウスを蹴たおして馬乗りになり、しどろもどろに弁解の辞を口先までのぼせかけの相手に、娘に懸想してふられた腹いせに、役人に密告したのもおまえだろう、失せろと叫んだとたん、逆に胸ぐらを吊り上げられて突っ放されれば、密告なぞだれがするものか、おまえこそ娘が生贄にされるというのに呑気に見物に出かけてくるとは父親の資格にも欠ける大悪党だと罵ると、なにを、と獲れたての蛸のように双方からみ合いもつれ合って、ぽかりぽかりと相手を殴り付けながら通路の階段をごろごろ転がってゆき、

 しかしいつの間にか会場はしんと静まり返ってふたりが罵り合う声だけが響くのを不審に思い、ふたりの男は立ち上がって、皆がいっせいに注視している視線の先を追ってみれば、娘を肩に担いだ獅子の騎兵が迫る敵騎を横ざまに蹴散らしながらぐんぐんと自陣の檻へと突進し、荒縄を引いた奴隷の動きに応じて檻の入り口が開いて、まさに娘が赤々と開いた野獣の口へ投げ込まれようというとき、突としてチャリオットの片輪が外れて騎兵が転倒したかと思うと濛々と土煙が立ち込め、後には追ってきた虎の騎兵たちに踏みしだかれた戦車と乗り手の残骸がぶちまけられた野菜くずのように無残な姿を晒しているばかりで、檻のなかの獅子はというと相変わらず空腹に耐えずに哀れな咆哮を上げ、

 ところが乗り手を失ったはずの馬は忽然と姿を消したように見えながら、向かい側の虎の陣の檻へ向かって悠々と駆け出しており、肩には件の娘を担ぎ、堂々と虎の旗竿を立てているからには、伏兵として現われた味方にほかならず、


 これも皇帝陛下のお墨付きの味な演出のひとつと合点して、

 虎の騎兵たちが大勢護衛に追いかけてゆく


 乗り手は虎の陣の手前で急に馬を止めたかと思うと身を翻して旗竿を引き抜き、だしぬけに味方の騎兵の車輪にえいと突き刺せば、勢いよく前方の空に投げ出された乗り手は頭から檻に突っ込んでゆき、凄まじい音響ともに大破した残骸は続けざまにチャリオットを巻き込んで、土煙の退いた後に残されたのは人馬ことごとく打ち捨てられた戦場のあとの無残な光景にほかならず、

 たった一騎残された獅子の騎兵はあまりの出来事に事態を呑み込むことができず放心のていで、もはや競技が継続されているものかどうかすら判断できずに馬を持て余している一方、両陣営のチャリオット騎兵をことごとく薙ぎ倒したあげく、娘を見事な技で奪い取った乗り手はというと、それとは離れた位置にいて悠然と馬を闊歩させているありさまだった。

 すると獅子の騎兵が突として猛り狂ったような嘶きを上げると、正体不明の一騎めがけて猛然と駆け出しており、ところが相手も避けるどころか真正面から全力疾走の構えを見せつつ、二騎がぶち当たるかと見るまに大きく宙に身を躍らせたのは、足手まといな戦車や車輪を持たない乗り手の馬のほうで、そのとき観覧席からとどろくような歓声が沸き起こったかと思うと、一騎がみごとな着地を見せて悠々と草を食むような余裕の仕草を見せている後に、騎手を失ったチャリオットが目くら滅法に駆け出してゆくまぬけな姿を晒し、兜をたち割られ、脳天にまで三日月形の切込みが入った遺骸がひとつ、行き倒れの牛のようにごろりと転がって血を流しているのだった。

 皇帝は思わず身を乗り出して葡萄酒の杯を取り落とし、足下にしゃがみ込んだ奴隷が汚れを拭き取ろうと奮闘するのも気に留めず、側近の男を呼び寄せて、なかなか面白い見世物であったが、ちとルールが簡単すぎるのではないか、一人の英雄が悪党どもをことごとく打ち倒す筋書きであれば、虎と獅子などと二陣営に分ける必要などないではないかと訊くと、つとめて平静を装っていた男の顔はみるみる憤怒の朱色に染まってゆき、

 しかしここで己の失態を明らかにしたところでなんら得をすることもないという算がただちに働くと、如何なる異常事態を差し招いたのか覚めた目で検討する余裕をたちまち取り戻し、するとなかなかの上機嫌と見える皇帝は、あの馬に乗った者を近くへ呼ぶように命じ、

 ところが、ようよう間合いを詰めてくる男の顔が明瞭になるにつれ、側近の男はたちまち青ざめ、新競技の披露という手柄を台無しにされた怒りは別の憤りに取って代わられ、というのは男の顔がどこかで見たパピルスの人相書きと瓜二つであり、

 しかし何ゆえに逃亡奴隷の男が危険を冒してここへ舞い戻ってきたのか合点がいかないとはいえ、あの馬上の男はいったい何者かと、しきりと問う皇帝にしかじかと答えると、見間違えではないのかと再三念を押す皇帝に、ユピテルに誓って間違いありませぬと確約するや、皇帝が弛んだ右腕を振り上げて合図をすると、通路の袖や楽隊に紛れていた警護の兵がぞろぞろと駆け出して弓矢を構え、その馬上の男を狙ってきりきりと弦を引き絞りはじめ、

 そのとき誤って発射された一矢を男がとっさに引き抜いた短剣ではね退けると、皇帝は頬を紅潮させながら己の意志に逆らうものへの断固たる態度をもって立ち上がり、右手を高々と振り上げて親指を下へ向け、すなわち死を表わす身振りを数万の観衆に向かって指し示すのだった。


 ところが、二本目の矢はいつまで待っても発射される気配はない


 しんと静まり返った観覧席は徐々にざわめき始め、さざ波のように声は次第に大きく強く拡がってゆき、会場ことごとく総立ちになって拒絶と不満を表わす言葉を連呼しながら、数万の群集が足踏みする響きは地鳴りのごとく、地を揺るがしとどろくばかりに響き渡り、その怒りの眼差しがことごとく誰に向けられているものか、明瞭過ぎるほどに明瞭である事実に打ちのめされながらも皇帝は支配者としての威厳を崩さず、臣民の期待に応えようと両腕を大きく広げ、全世界を包み込む寛大な態度を身をもって示そうと努めつつ、

 傍にかしずく側近の男を睨みつけると、あの馬上の男が逃亡奴隷であるというのはそちの見間違いではないのか、と言い、民衆はそちを嘘つきだと言っているぞと付け加え、小声でささやくように、民衆の支持あってのローマ皇帝でありそれを失えばどうなるのか、余がカリグラ帝やネロ帝の末路を知らぬとでも思ったかと、駄目押しのひと言をいい捨てると苦りきった面持ちで席を立ち、警護の兵に引き上げるよう指示を与え、青ざめた顔で取りすがる太鼓持の側近を見捨てて歩き出し、

 ところが群集はといえば、つい先ほどまで怒りの矛先を向けていた皇帝の姿がバルコニーから消えたことなどどこ吹く風という景色で、とたんに沸き起こった拍手と声援は、退場する君主を称え見送るために奉げられたものとは到底思えず、

 つまり漲る観衆の歓呼の叫びは、闘技場の出口へ向かって揚々と引き上げつつある馬上の男とレティシアとに向けられているのは明らかであり、色とりどりに染め上げられたパピルスの帯が雨後の虹のように乱れ飛ぶさなか、あらたな英雄の誕生と凱旋を祝賀する万雷の拍手はいつまでも鳴り止まず、先ほどまで興奮に目を血走らせていた観衆はたがいに向き合い抱擁しあいながら、歓喜の涙にむせぶ者のうちには、あのシリウスとマリウスの喜び合う姿もあり、

 しかし、古の時代にマグヌスを打ち破ったシーザーのごとき熱烈な歓呼の声に見送られながら門前の長蛇の列をくぐり抜けるころには、凱旋するおまえの心には早々と隙間風が吹き込んで、戦のあとの余熱を冷まし、レティシアを奪い返した喜びもほんの束の間の安息を与えたに過ぎず、気が付くとおまえは群集の歓呼に応える手を下ろして取り出したクルスをまじまじと見詰めており、果たしてこれでよかったのかと問いかけ、ふたたび血に染まった両の手を見詰めながら、これでもう長老たちと会うこともないだろうと思い、皆との別れも近いことを感じて愛惜の念が欲しいままに心を領するばかりで、

 そんなおまえを気遣うように、主の御加護があったのよと囁くレティシアの声もまた、心の芯を青銅のように冷ましてゆく理性によって否定の刻印を捺され、民衆の歓呼の声はしだいに大きく、力強く、街道中に響き渡り、馬上のふたりを押し流しながら奔流のようにどこまでも流れあふれ返り、やがて思いもかけない淵へとおまえの考えを導いてしまい、つまり自分たちの命を救ったのは、剣の力でもなければ信仰の力でもないのではないか、あのときどれほど神に祈りを捧げようとも、剣技の妙が神業の域に達していようとも、果たして皇帝の冷酷な意志を挫くには十分であったのかという疑念がふつふつと湧き起こり、

 ますます膨らんでゆく疑念と気まぐれな民衆の声援とに押し潰されそうになりながら、おまえは人目を憚らず叫び出しそうになり、闘技場に集まったあれだけの数の民衆、貴族や元老院議員たちだけではなく日ごろ国の圧政下で食うや食わずのその日暮らしに明け暮れている者たちが、あれだけの数と力とを持ちながら、何ゆえにパンと娯楽のために人としての誇りを投げ捨てて易々と残酷な見世物に夢中になれるのか、何ゆえに自らの安泰と引き換えに敬虔な人びとを猛獣の檻や火のなかに投げ込んでも平気でいられるのか、何ゆえに忍従の徳だけに縋りついて平穏無事な生活を送ろうとするのか、何ゆえに同胞のために手を携え、圧制の頚木を絶つためにともに歩き出そうとしないのか、


 どうして地上の王国のために立ち上がらないのか


 怒りとも諦念ともつかない正体不明の感情を必死で押さえつけ、なぜ、と激しくその問いを手のうちのクルスにぶつけても何の答えも返ってくることはなく、金属に彫り付けられた聖者の顔は、主の再臨を待ちくたびれた人びとの顔のように磨耗した無表情な面をみせて鈍く光るだけで、レティシアの笑顔ほどにも、かつて地下墓所で長老の語った言葉ほどにも、何の啓示も与えてはくれず、道々を行くたびに声援に応えて手を振ることにも疲れを覚えながら、つらつら思うに、闘技場へ出かけるものたちは畢竟、愛することよりも血を好み、聖歌の響きよりも断末魔の絶叫を好む皇帝たちの共犯者にすぎないのではないか、あの闘技場に設えられた観覧席の仕切りが示しているように、力で統治する皇帝と、元老院議員たちと、貴族や平民、奴隷といった身分の仕切りが人びとを隔てる世がつづく限り、主の下で人は平等であるという長老たちの教えはとうてい受け入れられるはずもなく、

 そんな世の中がつづく中で、人びとの祈念がついに天に届き、主がふたたび地上に姿を現すのはいつのことになるのか見当もつかず、地上の王国の実現は遠のくばかりか実現すらとうてい不可能であるようにさえ思え、もしも主が、全能の創造主というものがあるのならば、強者はその力を欲しいままに行使し、弱者はその足下に跪拝して踏みにじられ貪り食われるまま、一片の慈悲も与えられぬ世の道理をよしとされるのはなぜなのか、地上の悲惨を見捨てたまま、ただ沈黙を守っているのはどうしてなのかという問いに答える声はなく、

 黙しつづける天にかわり、こんな世を覆す力も勇気もない自分が、いったい何に勝ったといえるのだとクルスを力のかぎり握り締めたとき、おまえは出しぬけに私を引き抜くと、天を仰いで獣のような雄叫びを上げており、

 すると、さきほどまでおまえに賞賛を浴びせて止まなかったひとの列が一気に乱れ、まるで蜘蛛の子を散らすように散開してゆき、ところが群集はというと、絶叫したおまえの奇行に恐れおののいて逃げ出したのではなく、その証しに人びとの指差すさきを見上げれば、いつのまにか黒雲が妖しく群がりはじめて蒼穹をあまねく覆い隠し、真昼の太陽をいずこへか連れ去ってしまい、夜のような漆黒の闇のかなたから飛来した一羽の鳥が、羽ばたきながら白昼の暗闇を周回しつつ、四つの目を煌めかせたかと思うと街道沿いのプラタナスの頂にすっと舞い降りたのだった。


 双頭の鷲がプラタナスの頂からおまえを見下ろしている


 鳥は枝に腰を据えると、大きく翼を拡げ、いかにも鳥らしい仕草で羽繕いに精を出すということもしなければ、首を羽の中に丸め込んで卵のような姿勢で眠るということもなく、その代わりにふたつの頭をそれぞれ天と地に振り向けながら、じつに鳥らしからぬ不気味な声で人語をつぶやきはじめ、だがその意味するところは、互いの首が話す別々の言葉によって打ち消されてしまい、ひとつの意味というものに収束されるということがなく、ただその地上へ向けられた夜光虫のように光るふたつの目だけが、確実におまえの方へと向けられているのだった。

 とたんに気を失ってしまったレティシアを抱きかかえながら、この奇怪な鳥をはじめて目にするはずのおまえは、恐れおののくということもなければ、荘厳神聖さすら感じられるこのあやかしの鳥に魅せられるということもなく、その発する言葉に必死で耳を傾けようともせず、

 それは俗界を離れて超絶をめざす意志の言葉であり、地上に這いつくばり懸命に生きるものたちを軽侮する言葉のようでもあり、あるいはそうでなくとも、神話の英雄などとは一生縁のないままに、市井に朽ち果ててゆく人びとをひとつに結び合わせ、道を指し示すような言葉でもなければ、志潰え果てて行き倒れになった者に手向ける碑文にふさわしい言葉でもないことはたしかだった。


 鷲は頂から身を躍らせ、鋭い爪をむき出しにしておまえ目がけて滑空する


 おまえは私を鞘からすばやく抜き去ると、白刃が一閃瞬いたとみるまに、かの化鳥の爪が頬をかすめて去ったあとをふり返り見れば、ほとばしるように血の雨が降り注ぎ、胴からはなれた鷲の首がひとつ、兎かなにかの、取り落とした獲物のように地に落下していくのが見え、鳥はというと半身を鮮血の朱に染め上げながら、ともに生きた片割れを喪った哀切この上ない一声を残してかなたへ飛び去りつつあり、

 そのとき、にわかに急襲してきた夕立がおまえの血に染んだ衣服を荒々しく洗い清めると、天の閃きとともに轟音と稲光が走り、眼前のプラタナスの樹が真っ二つに裂けるのを目の当たりにしたおまえは、私をあらためてまじまじと凝視し、ひょっとすると剣こそがすべての災いの大もとではないかとつぶやいてまた鞘に納め、昏々と眠りつづけるレティシアを抱きかかえながら、もう二度とはこの剣を血に染めないことを己の心に誓うのだった。



 万物を照射して止まない太陽は

 不在の神の愛に代わり

 生者らを励ます滋養の光をたっぷりと降りそそぐ


 いよいよ無用の長物となり果てた私は、陽も射さない台所の奥の壁に錆びた包丁といっしょにぶら下がり、午睡のたびにおまえと過ごした心躍る殺戮の日々の想い出に耽っている。あれからそう何日も経ったわけでもないというのに、こうして日の出と日没のあいだを思索で埋めて無聊を慰めるだけの日々を過ごすうちに、おまえとの蜜月の日々もまた遠いものになってしまった。

 あれ以来、おまえの孤軍奮闘の働きもあってか役人の追及の手もめっきり緩んだにもかかわらず、長老たちの地下の礼拝所はというと、人目を避けてあちこちを転々としているとやら、さっぱり噂にも聞かなくなってしまい、こっそり礼拝所に行くこともなくなったレティシアはその代わり、時おり街へ出かけては親に捨てられた子どもたちをおおぜい預かっている信徒のひとりの屋敷に出入り、読み書きを教えたり、伝え聞いたところをまめに記録しておいた聖人の物語を語って聞かせ、また寄付を募っては家を失い路上で寝起きをする人のために炊き出しに精を出すなど、あのような出来事のあととは思われぬ活動ぶりで、それでもレティシアはクルスへの信仰を捨てることはなく、あの騒動でみごとおまえに救出されてからというものかえって信心を深める結果となってしまい、

 おまえにも手伝わせて家の中に小さいながらも祭壇をこしらえ、毎日の礼拝を欠かさずにいるのには私もしきりと感心するばかりで、しかしそんな一人娘はシリウスには依然として心配の種であり続け、あのとき、いったいどんな不届きな奴輩がおまえを連れ去ったのだと父がどれほど執拗に尋ねても、どこかよそよそしい態度は以前と変わりなく、市場へ買い物に出た帰りに路地の暗がりから躍り出てきた男たちにいきなり目隠しをされて皮袋に詰め込まれ、気が付いたときには馬の上に括り付けられていたと答えるばかりで、相手の容貌などははっきりせず、あの道楽者のマリウスでないことだけははっきり断言したのは特に庇い立てしているようすでもなく、しかし忌まわしい事件のことなど早く忘れてこれまで通りの平穏無事な暮らしが一日でも永く続くことを祈りながら、シリウスはきょうも狩りへ出かけてゆくのだった。


 聖句と礼拝の毎日が、

 束の間の団欒の日々を安息の色に染め上げてゆく


 そんな父の思いとは裏腹にレティシアが家を出て教団へ加わることを密かに願っていることは、おまえだけが知っており、入れ込んでいた礼拝所通いをやめてしまったのも、もしかすると父を安心させておき、街の信者の家へ孤児の世話に出かけるついでに渡りを付け、ひそかに家を出る準備に奔走しているのかもしれず、おまえもそのことに気付きながら、シリウスには一言も漏らさず秘密を守り、

 そうしてますます敬虔な信徒になってゆくレティシアを見ていると、私にもいささかの心境の変化が訪れたようで、殺傷の道具としての己に自己否定を迫るあの奇態な十字架に、あれほど憎悪と嫉妬を覚えていたというのに、今ではどういうわけか同じ金属のよしみということもあるのか親しみまで感じるようになったのには驚く限りで、もっともこれは、あの闘技場の一件でおまえに力を与えてレティシアの命を救ったのはクルスではなく私だと自負するところから来る余裕によるものかもしれなかった。

 しかしレティシアがいつも唱える聖句を聞いていると、「よき言葉は悪しき剣に勝る」という古い諺を思い出してつい首肯してしまい、その意味するところについて日がな一日思いを巡らせ、剣を唾棄すべきものとして早々と答えを出してしまったおまえの意見に半分は同意しながら、所詮は命を奪うものでしかない私が何ゆえにこの世に生まれ、存在しているのかについていくら考えても答えは出ず、もしも主がふたたび地上に降り、神の国が実現して地上の暴力がことごとく払拭された暁には、すべての剣を没収して溶鉱炉に投げ込んでしまい、十字架に鋳なおして家々に配りたいなどと他愛もないおまえとの談笑に興じるレティシアを見ていると、やはりこの娘はシリウスの言うように亡き母親の血を濃く受け継いでいるにちがいなく、できればこんな山奥でじっとしているよりは長老の教団に加わるなり、外の広い世界へ出してやりたいと私も思うようになったのは意外な成り行きだった。

 ところで、おまえはというと、あれから私にはまったく手も触れようともせず、日課になっていた仕事でもある鶏を潰すことにも難色を示し出し、果ては台所の包丁すら忌避し出すありさまで、しかし他方、クルスの信仰に対しても一歩引いた態度を示すようになり、ひと目に付かないところで懐からそっとクルスを取り出して考えに耽っていることはあっても、レティシアのように祭壇に祈りを捧げることはなく、ともすれば丘の上に登っては遠い景色に目を細めているばかりで、もしかするとこの山小屋に長逗留しすぎたことを後悔し、山小屋で暮らすこの父娘との暮らしをあとに、出立の日の段取りについて思いを巡らせているのかも知れず、

 そんな事情にはさっぱり疎いシリウスは、あの日以来、おまえのことを娘の恩人であると敬愛の眼差しで見るようになり、あれだけレティシアに兄のように慕われるようになっても娘にはいっさい手を出す素振りがないことにさらに感心したと見え、

 土地や家財を処分したさいに、いつか入用になることもあるだろうと隠しておいた貯えのありかを久方ぶりに思い出すと、やがて娘といっしょになるに違いないおまえに財産のすべてを託してやろうとまで思い、ふたりが寝静まった頃にひそかに床板を外すと、甕の中にきらめく銀貨がずっしりと詰まっていることを確かめては、ひとり満足げにうなずくのだった。


 南十字座をとり巻く星々は人びとの虚しい希望のように明滅し、

 みる間に流星となり、天穹の端に消え落ちてゆく


 そんな夜も更けるころおい、いつものように台所の壁にぶら下がりながら、私はふと耳慣れない物音に目が覚めてしまい、寝付かれない時の習性としてまた物想う剣としての己の存在理由について思いを巡らせたりしていたのだが、どうも様子がおかしいことに、鶏小屋を狼や野犬が襲ったにしては騒ぎ立てる鳴き声や悲鳴が聞こえず、また家のだれかが床を出て小用に立ったのならすぐに気配で分かるはずだった。

 ところが、物音は三人の寝息とはまったく別に息を潜めながら、この山小屋の周囲をぐるりと一廻りしたかと思うと、月光を背にしながら中を窺うように人影が窓をよぎってゆき、暗闇にひびく足音はいつのまにか音もなく扉を潜り抜けて部屋のなかを堂々とのし歩いており、

 そのとき、出し抜けに娘の絶叫が小屋のなかを響き渡ると、ばたばたと駆けつける物音がして燭台に火が点され、見るとおまえの胸にしがみ付いて蒼ざめているレティシアのまえに、額がつるりと禿げ上がった、唇の薄い五十がらみの男が瞬きもせずに突っ立っており、瞬きもせずにじっとこちらを見詰めているその目はまるで蛇か蜥蜴のように釣りあがり冷たい光を放って、見るからにおぞましい風貌と悪党に特有の落ち着いた身のこなしはとても尋常のこそ泥とも思えなかったが、しかし不幸なことにその男は片足が悪いようで、小走りに逃げようとするうちに段差に足をとられて転び、シリウスとおまえが部屋の隅にじりじりと男を追い詰めてゆくと、もう逃げられぬと覚悟を決めたのか、どっかりとその場に腰を下ろし、なぜこんな森の奥の山小屋に忍び込んだのか、訊かれるまえに答えてやるわと終始、ふてぶてしい態度を隠そうともしないのだった。

 ある時、浴場へ出かけたところ、たまたまひとりの間の抜けた面の若者から、禁止されている異教の信徒である娘と逃亡奴隷の男とが、森の奥深くの山小屋にひそんでいるという噂を聞き、これは思いがけない銭の種になると踏んでさっそく、パラティウム宮へ赴いて密告に及んだところ、皇帝陛下の側近からは陛下はたいそうお喜びであらせられると褒められ、近く報償が与えられるとのことで、

 ところがつい先日、宮殿を訪れるとどういう風の吹き回しか、たちまち衛兵に縛り上げられて地下牢にぶち込まれ、激昂した役人からわけの分からぬ嫌疑をかけられ尋問され、さんざん鞭打ちを食らう羽目になり、額が擦り剥けんばかりに懇願したあげくようやく帰してもらうことができたが、本来なら命が助かっただけでも儲けものだと考えるはずが、どうにも腹が立って仕方がない、もしやあの若造にがせねたを掴まされたのではないかと訝っても詮無い話で、事の真偽よりも大事なのは金であり、貰えるはずだった報償の分にはとうてい及ばずとも、せめてその憂さ晴らしにありったけの金目の物を頂戴してやろうと思って忍び込んだのだ、

 そう悪びれもせずに言い放つ男の顔をとっくりと見ているおまえは、その忌まわしい容貌がどこか遠い記憶の底でざわめく微かな断片を呼び覚ますように思われ、神妙な面持ちで男に見入っており、

 ところが男はというと、そんなおまえには目もくれずに、顔を伏して震えているレティシアを嘗めるような目付きでねめ回すと、そういえば以前に下調べに忍び込んだときには見過ごしていたが、この娘はそのむかし会ったある女に驚くほどよく似ていると言って首をかしげ、

 自分はこれでも若いころは大勢の手下を束ねる盗賊の頭として鳴らした男で、村々を襲っては若い娘をさらい、その娘を山深い谷や砂漠のまん中にある辺鄙な集落に囲っては盗賊仲間の欲望の捌け口をつとめさせ、そうして生ませた赤子をこれもさらってきた男や女の手で手塩にかけて育てると、程よい年頃になったところで、こんどは娼婦や剣闘士として奴隷商人に売り飛ばすという商いが大いにあたって、やがてみずから隊商を営むほどになり、一財産を築き上げたこともあるのだ、そう男の話は恥知らずな昔語りへと際限なく傾いてゆき、

 はじめは新味も手伝って繁盛したそんな商売も、悪辣なやり口をそっくり模倣する商売敵がわんさと現われるやたちまち廃業に追い込まれ、気づいた時にはけちなこそ泥に逆戻りしたあげく、かつての仲間にもことごとく見捨てられてしまい、再起を図った都で新たに呼び集めた仲間は、スブラの塵溜めから這い出してきたような、喧嘩や物乞いはできても殺しや盗みのような高尚な仕事は初めての、そろいもそろって素人ばかりというありさまで、

 そんな吹き溜まりから自然と集まった仲間を引き連れて、盗人としての再起を賭けて勝負に出たのは、とある裕福な織物商の屋敷を白昼堂々と襲い、家人の騒がぬうちに素早く金品を掠め取り、脱兎のごとく逃げ去るという、駆け出しの盗賊団としてもどちらかといえば控えめな計画で、

 ところがとんだ見込み違いが起こったと気づいた時には遅く、かき集めの仲間に度胸を付けるために大胆な行動をけしかけたことが裏目に出てしまい、脅しつけて金品を略奪したらさっさと引き上げるはずが、気が付くと金切り声を上げた家中の奴隷を手下のひとりが短剣で一突きにしたのを皮切りに、初めての経験に血の昂ぶった者たちは次々と家人や奴隷たちを手にかけてしまい、ドムスの床にいちめん血の川が流れ、まるで倒れた彫像のように死体がごろごろと転がるようすは戦の神すら蒼ざめるほどで、

 だがこうなった以上は、なんぴとたりとも目撃者を残してはならぬと腹を決めると、たったひとり難を逃れて柱にしな垂れかかっている婦人を見付け、ぐいと襟を掴みあげ、胸を一気に短剣で貫き通したのだが、そのまぎわに見た女の相貌の美しさに思わず見蕩れてしまい、

 年はやや盛りを越えてその美も艶も下り坂に差しかかっているとはいえ、それまでにさらった数多の女とは滲み出る知性や品に格段の差があり、これは得がたい上玉だと悟っても、すでに致命傷を与えて息も絶えなんとする女をどうすることもできず、やむなく役人がやってくるまえに引き上げたが、こんな山奥に暮らしている猟師の娘とはいえ、そのときの女に実によく似ているものだとしきりに感嘆を漏らすのだった。


 ひたと歩み寄る運命の足音が、

 早鐘のように高鳴るふたりの鼓動を急き立てる


 すでに夜も更け、払暁の明かりも近づく刻限が迫り、この不逞な侵入者の感嘆と忍び笑いと夜烏の鳴く声のほかは聞こえる物音もなく、おまえはというと男の口から奴隷商人という言葉を耳にしたそのときから、まるでゴルゴンの光を浴びて石化でもしたかのように動けなくなり、瞬きもせずに爛々と輝く男の目をじっと見入るうちにいつしか遥か遠くなった記憶を遡行しながら、その断片を必至で繋ぎ合わせようと意識は混乱を極め、汗ばんだ片手にはいつの間にかあのクルスを握り締めており、出し抜けに森の奥の洞窟でシリウスと火を囲んで語り合った日のことが思い出され、求めればいつか会えるという長老の言葉が胸中に鳴り響いて鼓動がいやましにも高まり、

 すると気付かないうちに、いつの間に持ち出したのか、シリウスが弓矢をつがえて男に狙いを定め、腕に満身の力を籠めてきりきりと弦を引き絞っており、だが手は震えるばかりに、なかなか嚆矢の一矢を放とうとはせず、貴様のような下郎は獣と同じく弓矢にて屠られるのが似合いであり、人間並みに剣で命を絶たれる名誉に浴する資格などなく、苦痛もなしにあっさり冥府に送ってもらえることを期待するな、そう大喝するや、はじめて渾身の一矢を男に放つのだった。

 おまえはまるで、蛇にでも絡みつかれたように動けないまま、クルスの縁が呼び集めたくさぐさの事柄をひとつひとつ思い起こし、つくづく十字架に振り回され、いや導かれる人生だったことを悟り、母と姉の朧な思い出、レティシアとの出会い、長老の言葉とシリウスと語った事どもがなまなまと身に迫り、この世の悲惨を捨ておいたまま沈黙する主を罵った自分ではあったが、もしかすると運命を司りひとを導く神はこの天のどこかに実在しているのではないか、そんな気にもなり、

 しかしこの盗人の男から母と姉の行方について何事かを聞き出そうとしても、心はどうしても問い質さずにはおかないほど急いているのに、身体は石のように硬直して動かず、おまえの口は陸に上がった魚のようにぱくぱくと言葉にもならない言葉を吐き舌はのたうち続けるだけで、

 ところが男はというと、そんなおまえの横をすらりと身軽にすり抜け、シリウスの矢をいとも簡単にかわしてみせると、台所の奥へ駆け込んで私を手にとり得意満面に構えてみせ、平常心を失った猟師の弓矢にかかるような間抜けならば、血を血で洗うこの濁世をきょうまで生き延びてこられたはずもないと高笑いすると、抜き身の私をこれ見よがしにちらちらさせ、その悲憤慷慨ぶりを見るに、どうやらまんざら縁のない仲でもなかったようだがと、不敵な薄笑いを浮かべながら、

 その女を手にかけるつもりがなかったといえば言い訳に聞こえるが、だからといって今さら手を付いて詫びを入れる料簡などなく、それまで中途半端なちんぴらに過ぎなかった自分もあれ以来、正真正銘の悪党と開き直ったからこそ生き延びることができたのであり、下賤の生まれの男が、属州から奴隷として連れてこられた者の子孫が生きるためには罪を犯すことにためらいを持ってはいけないのだと弁明し、

 そもそも遠い辺境の地まで軍を送り、滅ぼした国々から力ずくで連れてきた者たちを奴隷としてこき使い、貴族然として優雅に暮らす市民どもみずからは美酒に酔い無為徒食の贅沢三昧に耽りながら奴隷同士の殺し合いに興じているその罪悪に比べれば、こんな奴隷上がりの小悪党が人殺しや強盗を働くことなど罪の内にも入らず、非を難じられるのは筋違いもいいところで、怨むならおれのような人間を生んだこのローマとその眷属を怨むがよい、そしてこんなつまらぬ悪党ひとりを葬ったところで、この退廃と欺瞞の帝国の続くかぎり、おれのような男は滅ぼしても滅ぼしてもこの世界のあちこちに絶えることがなく、罪に罪を塗り重ねながらこの世の終わりまで生きつづけるだろう、そう男が叫んだとたん、

 シリウスは悲痛な絶叫とともに矢を振り捨て、弓を大振りに構えると木刀で打ちかかるように男をめがけて突進してゆき、その姿はもはや獣を狩る猟師のそれではなく、理非を弁えた義人でもなく、ただ復讐の女神の力にすべてを委ねた男のそれであり、大振りの弓でしたたか男を打つと組み打ちの格好となって床を転げまわり、忘却の川を越えてもおまえの罪は消えることはない、そうアケロンの渡し守に言付けしておけと痛罵すると、弓を男の顎の下につがえ、総身の力をこめて締め上げるのだった。

 

 ところが二人は乱闘の際に燭を倒し、火が燃え広がるのに気付かない


 おまえはふと我に返ると、倒れた燭台から燃えひろがった炎がテーブルを焼き、壁を焼き、天井に移ろうとしているのを見、だが床にはそんなことにはお構いなしに怒声を張り上げながら組み合っている二人の男が転がりながら抜き差しならぬ争いを演じており、どんどん火勢を強める炎と呼応するかのように殺気がふたりの男を飲み込んでしまい、たち籠める黒煙はたちまち視界をさえぎってしまい、

 おまえは父を呼んで泣き叫びその中へ飛び込んでゆこうとするレティシアの手をにぎり引き留めると、まだ煙の回っていない奥の裏口へつづく廊下に向かって駆け出してゆき、すぐにそこへも火が回って轟々と凄まじい咆哮をあげる熱風が猛獣のように真っ赤な口を開けてふたりに襲いかかると、気を失ってしまったレティシアを抱きかかえ、鍵のかかった扉を力まかせに蹴破り、流れる溶岩のごとく赫々と焼けた丸太が燃え落ちるのを懸命に避けながら、無我夢中で小屋の外へと駆け出していった。

 炎は暁にさきがけて夜空を煌々と照らし、星々を天穹の端へと追い散らしながら昇りゆくまばゆい旭日の炎と合流し、留まるところをしらぬ炎と黒煙の勢いは、ふり返るとあの山小屋の全体をすっかり飲み込んでしまい、裏手の鶏小屋にも燃え移り家禽たちの短い命をいっきに炎の中に巻き込んでしまい、夜もすがら火葬堆のようにぶすぶすと燃え続けるのを、おまえは茫然と眺めているのだった。

 やがて山小屋がとどろく響きとともに崩れ落ち、かたちを失ってしまうと、この山小屋へ運び込まれてからの幾月かの想い出が、シリウスやその娘レティシアとの出会い、読み書きの手ほどきを受けた日々やクルスの意味を知ったこと、そうした諸々の出来事がすべてこの小さな小屋の中に詰まっていたのだという思いを深くし、

 だがそれに愛惜の念を覚える以上に、シリウスとあの盗賊の男とのあらそいの成否も、ふたりの安否も、あの男が母と姉の行方についてなにか知っているのではないかというおまえの疑問も、すべてを炎と煙のなかに置き去りにし灰の中に埋めてしまった運命に対して、あるいはそれをどうすることもできなかったおのれの力に対して、当て所のない憤怒が込み上げてくるのになす術もなく立ちすくむばかりで、

 なんというありさまなのか、と呻き声を漏らすと拳を突き上げて空を仰ぎ、もしも天のどこかに神というものがあるのならば、何ゆえに人間にかくも厳しい試練を与え、運命を弄び、気ままに喜びを与えてはかつそれを奪おうとするのか、神が全知全能であるというのであれば、何ゆえに救うべき人間と懲らしめるべき人間を取り違えるという錯誤を犯すことがあり得るのか、そうでないのなら神というものはいったい何をよりどころに善と悪を、生と死をかくも酷薄なまでに分かとうとするのか、そう吐きつけるとふり上げた拳を烈しく地に打ち下ろし、

 それとも原罪を背負う人間の罪が十字架によって贖われたというのが大嘘であり、人間そのものが罪深い業を背負うものとして、未来永劫、罰を受けつづける存在だということなのか、心はそんな呪詛の言葉でいっぱいに満たされ、こんなことになるのなら、おのれの仇敵でもあるに違いないあの盗賊の男を小屋の外へ引きずり出し、シリウスを死なせてしまう代わりに、いっそこの自分が刺し違えればよかったものをと後悔の念が胸に迫ったとき、

 廃墟と化したかりそめの宿りを一望できる小高い丘の上を一陣の涼風が吹きすぎてゆき、ひとつの季節が終わり風があらたな芳香を運んできたこと、そしておまえ自身がまだ生きていることに忽然と気付かされ、父の死も知らず昏々と眠り続ける、レティシアの無辜そのものである健やかな寝顔を見つめると、乱れた髪をそっとなでおろしてやるのだった。



 女神の恩寵は私のもとを去り、

 月はただの光として万象を差別なく明るみに出す

 不在の正義に代わって、公正の光を降り注ぐ

 

 その日、レティシアが目覚めたのはもう夕暮れも近い刻限で、そのまま近くの洞窟でまんじりともしない一夜を明かし、しかし昨夜の出来事の全容についてはまだ知らせるべきべきではないとおまえは思い、その話題には触れずに、ただ火を囲んで出会う以前よりもっと昔の、子ども時代の他愛のない話などにとりとめもなく時間を費やし、

 おまえが幼いころ、荷車を引きながら行商にやってきた男から青く色を付けたひよこを母親にさんざんせがんで買ってもらい、ところが二日と生きることなく翌日には死んでしまい、無駄な買い物をしてはならないと父にひどく叱られたこと、川で遊んでいて溺れかけ、気が遠くなりながら冷たく暗い川底へ落ちてゆくとき、人の上半身に魚のような下半身を持った不思議な生き物の姿を見、気が付くと陸の上で仰向けになり不安げな友人たちの顔に囲まれていたこと、そんな話をすれば、

 レティシアもまだ街に住んでいたころ、シリウスが土産に買ってきてくれた、ロウソクの熱風を受けてゆっくり回りながらその灯りで星座の数々を周囲の壁に映し出すという凝った玩具がお気に入りだったという想い出を語り始め、ところがある日、ほんの弾みで燃え移った火がきっかけで危うく大事に至りそうになり、ここまで話すとレティシアはつづけるのを止めてしまい、ひとの一生なんて何がきっかけでどうなるか分からないわ、たとえ神様を信じていても、そうつぶやくと蒼ざめた顔を俯いて、そのまま押し黙ってしまい、

 おまえは火を吹き消すと横になるようにレティシアに奨め、自分の上着をそっと上にかけると、きょう一日の出来事を思い出すように星を見ながら、あした小屋の跡へ行ってみようと独り言のようにつぶやくのだった。


 翌朝、おまえたちが来てみると、小屋のあったはずの場所は何もかもが完膚なきまでに焼き尽くされ、部屋の隅にしつらえた小さな祭壇はおろか、丸木で組んだ厚い壁や屋台骨を支えるあの太い柱でさえも、建物を取り囲んでいた裏の小さな畑や鶏小屋に至るまでごとごとく燃え尽くし、一面の灰だけが白く砂浜のように輝いており、まるで落雷に遭った樹木から一円が小規模な山火事でまるごと消失したかのように、すっかり生き物の気配というものが消え失せてしまい、

 昨日までの出来事はじつは白昼夢にすぎないのではないか、たまたま山奥で行き会った娘とふたりで山火事の後に佇みながら、あれこれと空想に空想を重ねていただけなのではないか、そんな気にさえ囚われながらおまえは、頭上にぽっかり開いた空からめざましく差し込んでくる朝日を浴びて、茫然とたたずんでいるしかなく、レティシアはがっくりと肩を落として力なくその場にしゃがみ込み、

 しかし火が山全体に燃え広がって野鳥や鹿や山の獣たちの暮らしを根こそぎ奪うような暴虐に及ぶことはなかったことは、救いといえば救いであり、慰めといえばそう言えないことはなく、

 耳を澄ませてみれば、清冽な水の流れる渓谷や魚はねる小川から変わらぬせせらぎの音が清々と流れ、その水を飲み、さえずりながら木々のあいだを飛び移る鳥たちの求愛の歌声は遠近にこだまし合い、杣人が樹を伐り倒す健やかなひびきは、清澄な森の気を存分に振るわせながら山の中腹を駆けのぼってゆき、常世の春のような暖気は森に棲むすべての生き物の命を慈母のように暖かく包み込み、

 すなわち森は自然の浄福を寿ぎながら、幾千年の昔から変わることのない静寂を保ちつつ、いまもそこにひっそりと息づいているのだった。

 おまえは燃え尽きた灰のなかを検分するように、どこかにシリウスやあの盗人の男の亡き骸がないかと探し回り、しかしどこを捜しても骨のかけらひとつ見付けることができず、収穫といえば、浅くかき分けた灰の中に、まだ余熱を持ったまま鈍い光を反射するこの私を見つけただけであり、その近くをどれだけ探しても目ぼしいものを何も見つけることのできなかったおまえは、レティシアの方を向いても頭を振ってうな垂れるしかなく、

 しかしその私にしたところで、炎の中で格闘を演じていたあのふたりの行方について聞かれても、そのまま猛火にまかれて事切れてしまい、灰のなかに消えてしまったものか、なにかの弾みに外へ転げ出し、激しく争いながら谷底へでも転がり落ちてしまったものか、まるでそのときの記憶が抜け落ちてしまい判然とせず、もしもシリウスがディアナの森の祭司だったとすれば、あの盗賊の男がその命を奪いついに森の王の地位を我がものにしたのだと考えられないこともなく、しかしそのような地位には私はもはやなんの魅力も感じはせず、おまえがその空疎な地位に就くことを望むはずもなく、

 ただ悲痛な呪詛の言葉がおまえの心をいっぱいに満たし、慟哭の叫びへといざなう衝動におまえが身悶えして過ごしたあの夜にこそ、離れ離れになりながらもおまえと私は、これまでにもっとも強い紐帯で結ばれていたのではないか、そんな想いに駆られるのだった。


 忌まわしい夜の記憶が、男とひと振りの剣を懊悩と思弁の荒野へと誘う


 ところがそんな私の考えとは裏腹に、おまえは灰をかき集めると中央に小山のように寄せはじめ、しばらくそれを見ているだけだったレティシアも、やがて意を決したように立ち上がるとそれを手伝い、

こんもりと盛り上がった純白の灰の塚は、ふたりをそれなりに満足させたようにも見え、おまえはその灰の丘に歩み寄ると、万感の想いを込めるように拾い上げたばかりの私を見詰め、おもむろに目を瞑り、刃をくるりと地に向けると、さかしまにその小山に突き立てたのだった。

 森の奥にかつてあった小屋の焼け跡に、忽然と現われた灰の小山の山頂に突き立てられた場違いな剣、それがいまの私に与えられた位置であり、おまえがいったいどういうつもりでこんな処置を施したにせよ、数多の血を吸ってきた殺戮の道具である私に相応しいとは思えず、弔いの標などはとうてい柄ではなくただ困惑するばかりで、あの双頭の鷲の首を打ち落とした日を最後として、新たな血に染むことはなかったとはいえ、すべてを灰に帰したあの紅蓮の炎が、これまで数多くの魂を無慈悲に冥界へ送り込んできた私の罪を清め、贖ったとはとても思えなかった。

 

 ふたりは地に突き立てられた私のまえに跪くと、一心に祈りを捧げる


 レティシアはそんな私のところまでしっかりとした足取りで歩み寄ると、おまえの手を借りて片膝でしゃがみ込み、クルスを両手に目を閉じて祈りの言葉をつぶやき、おまえもそれに倣ってクルスを取り出し掲げると、まるで私をほんものの救い主であるかのように跪拝するのだった。

 だがふたりの顔には、敬虔な信徒の真摯な祈りであることを証する生真面目さと同時に、絶望に打ちひしがれた無神論者の悲歎が影を落とし、漏れ聞こえてくる言葉には、永遠の浄福を願う祈念というよりも、主の創造されたこの世界すべてに対する呪詛が込められているのではないかと疑うほどで、逆説的な信仰告白と受け止めるにはあまりにも悲愴にすぎる響きは、ますます苛烈さを増しながら朗々と不信の鎮魂歌を奏でつづけるのだった。


 神の子が十字架にかかり人類の罪を贖ったというのは嘘ではないのか。

 原罪を贖われることのない人間は、これからもこの先も、未来永劫、

 永遠の業苦に苦しまねばならないのではないか。

 主よ、不在の汝のためにこの世の命を投げ捨てた者の魂はどこへゆくのか。

 汝とともに不在の常闇のかなたへ消えてゆくのか。

 主よ、永久に来ることのない神の国にすべての希望を託しながら、

 不在の汝の再臨を待ちつづけて人生を徒費する者たちがいる。

 主よ、不在の汝に尽きせぬ愛を注ぎつづける者たちを憐れみたまえ。

 永遠に来ることのない神の王国に栄えあれ。

 ……


 私は罰を受けたのかもしれなかった。

 永遠とも思われるような静寂の中で、私は何者かに禁じられたかのように、もはやそこから動くことができないように思われた。まるで磔刑に処されたというあの男のように、人びとから唾を吐きかけられ、礫を投げられ、俗世から死へと追い立てられながら、救い主に祭り上げられ人びとの救済を一身に担わされたひとりの咎人のように……いったい、呪われることと崇められることとの間にどんな違いがあるというのか……そう、あの森の祭司も。人びとに呪われ、忌避され、追われ、殺され、あげくに跪拝の対象となる、それが神というものなのか?人びとの呪詛の声から逃げることもできず、祈念に対しては無為をもって応えるほかない、神とはそういうものだったのか?

 おまえたちがいくら私に祈りを捧げても、その声は主には届かない。

 主は姿を現さない。

 テュケーよ、汝はこの私に不在の主の代理人を務めよとでも命じるのか?一介の剣にすぎない私にはあまりに荷が重過ぎる話ではないか。それにテュケーよ、運命を司る汝はいったい、何者のしもべであるのか?

 私ができることはせめて、血を流した者たちのために、災厄を呼び込む剣である私を憎む者たちのために、共に祈りを捧げることだけだ。

 主の留守を預かるあいだ、あるいは……


 ふたりが十字架となった私に一心に祈りを捧げたあの日、私はもう以前のようにすっとわが身に染み入るようにおまえの心を理解できなくなっていることに気が付いた。

 あれからこの森をあとにしたおまえとレティシアが、どこへ向かいどんな暮らしをしたのか私は知らない。信仰の道を究めるために長老たちの教団を探す旅に出たのか、ふたりで地上の王国をみずから切り拓くために、更なる苦難を求めて危険な旅路へと乗り出していったのか、あるいは信仰をあきらめて世の片隅に沈潜し、市井で平々凡々たる静かな生涯を終えることになったのか、その委細について知る者はだれもいない。

 出立の朝、森をあとにするふたりに、たとえどんな旅であれ、おまえたちには新たな知見や道連れが待っているはずで、峨峨たる山々や田園の景色が長旅の疲れを癒してくれるだろう、そんなありきたりな言葉をはなむけに贈ったあの日から、私は二度とふたりに会うことはなかったのだから。

 確かなことがひとつあるとすれば、数え切れないほどの季節が巡って幾星霜の年月が過ぎ、この一帯もすっかり木々が生い茂って元の深々とした森に戻り、草莽があの悲劇のあとを跡形もなく覆い隠してしまったいまとなっても、主が再臨したという噂や、神の国が到来したの、地上の王国がどこかに築かれたという話は、時おり迷い込んだ旅人の口の端にすらさっぱり上らないということだ。

 その代わりに耳にする話はといえば、いつの頃からかクルスの旗を掲げた騎士の一団が現われて堂々と剣を振り上げ、弓矢をつがえ、激しく武を競いながら森や田園を荒らし、近ごろでは人里で狼藉を働くこともめずらしくないという信じがたい噂で、いつしか教義の異同をめぐる争いのなかで信仰の核心は失われ、聖杯を求める騎士たちの旅はみるみるうちに血を血で洗ういくさを呼び、しかしそんなこんなを巡る諸事情もこの古ぼけた剣にすぎない私の理解を超えたことで、

 皇帝の世はとうに過ぎ去り、それに代わる恐ろしい帝国が次々と興っては倒れ、その度にあちこちから王冠を手にして諸民を虐げる者たちがぞろぞろと現われては命の奪い合いに明け暮れ、時にはクルスを奉じる一団もその争いに加わりながら、世は混乱を極めるばかりで、神の国の到来や地上の王国の建設は人びとの儚い希望のなかに浮き沈みしつつ、やがて時間とともに朽ちて人びとから忘れられてゆくのだった。


 更なる歳月が過ぎ、

 朽ちた私は巨木の根元に寄り添いながら、

 いまも主の再臨を待ち続けている


 私は過ぎ去った遠い過去のできごとを想う。もしもこの私とおまえが出会うことがなければ、あの双頭の鷲とも出会うことがなければ、山小屋の一家の小さな幸福はだれに乱されることもなく末永く続いたのではないかと。そしていつか冥界でおまえたちと再会を果たしたときに、懺悔の言葉を探してうろたえおのれを責め苛む、そんな私自身の姿を思い浮かべる。

 私は不遜にも想像する。もしもこの山奥にホメロスのような吟遊詩人が迷い込み、この大樹のふもとで一息するようなことがあれば、おまえと私のこの物語を、うっかり漏らした逸話の数々をも含めて一晩に語り尽くしてしまい、世々歌い継がれる一篇の叙事詩に仕立てて欲しいと懇願する日のことを。

 だがそのような日は訪れることはなく、悠久の時間の中にあっては遠い過去がそうであるように未来もまた、己自身さえも儚い幻影にすぎないことを思い知らされるばかりだった。

 静かな深い森の奥の常闇のなかで、剣としてはもはや何の役にも立たない錆びた鉄の塊にすぎぬ私は、大木の根元に老いた身をあずけ、とこしえの刑罰に処された罪人のように風雨に打たれながら、地獄の車輪に括り付けられたあのイクシオンさながらの惨めな姿を晒している。来るはずのない迎えを、おまえとレティシアを、あの狩人と放蕩児マリウスを、頭をひとつ失った双頭の鷲を待ちながら。

 そして不在の神が訪れて、いつかその恩寵がこの永遠のいましめを解く日をただ心待ちに夢見ながら。


 夜が来て、月光が私を照らす。 

 歳月のうちに錆だらけの身体は古釘のようにねじまがり、

 もはや十字架としての役にも立たぬ、

 跪拝に値する威厳すら剥落してしまったただの鉄屑として、

 私は相変わらずここから星空を見上げている。

 いつかそう遠くない将来、あの首を落とした双頭の鷲が、

 不在の神の使者として現われ、

 私をむずとつかんで虚空の果てへ飛び去ってゆく

 そんな夢想にきょうも耽りながら


 そのときこそ私は、剣でもありクルスでもある私自身に、

 恩寵の言葉を投げかけるだろう。

 かつてないほど厳かな声で


 瞑目せよ、汝、幻影の剣よ、と。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瞑目せよ、汝、幻影の剣よ 宮脇無産人 @musanjin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ