霧の中のあなたを
あば あばば
霧の中のあなたを
あの時、私たちは高校一年生だった。
修学旅行で訪れた高原は濃い霧に包まれて、景色がろくに見えなくて。文句を言う子たちもいたけれど、私は結構喜んでもいた。霧はどこか神秘的で、非日常の感じが好きだったから。
霧の中、さくさくと砂利を踏む自分の足音ばかり聞こえた。喋り合う同級生たちの声が遠かったのは、霧に吸われていたせいだろうか。いつも一緒の友達グループからはぐれてしまって、私は孤独だった。
「山中さん、そっち危ないよ」
ふと、すぐ近くで声をかけてくれた人がいた。
たしかに聞き覚えのある声。でも、顔と名前までは思い出せなくて。たぶん、隣のクラスの子。
「ありがと……」
「一緒、行く?」
そう言われて、はっきり返事もしないまま。自然と私たちは隣り合って歩き出した。
思い出せないのが恥ずかしくて、さっと盗み見るように顔を見る。霧にかすむ白い頬。私の視線に気づいて、すぐに微笑みを浮かべる。照れ隠しのように笑い返す私。話題は特になかった。
やがて、霧がいっそう濃くなった。
さすがに私も少し怖くなって、隣を歩く少女との距離がなるべく離れないようにした。向こうも同じように思ったのか、歩調を合わせてくれるみたいだった。
「手、繋いでもいい?」
ふと思いついて、そう言った。今にして思うとあまりにも唐突で、不躾で、空気を読まない言葉だ。
けれど、その時はそれが自然に思えた。霧が作った非日常のせいで、どこか距離感がおかしくなっていたかもしれない。
相手は一瞬だけ迷ってから、小さくうなづいた。
手を少し横に伸ばすと、するりと手の平が滑ってきて、もうひとつと重なった。
冷たい手だった。でも力を入れすぎないように、優しくしているのも感じた。
「寒いね、ここ」
「うん」
どちらがどちらを言ったのか覚えていない。でも、そんな話をした。
歩いていくうちに、霧はどんどん濃くなった。ほとんど周りが見えないくらい。手を繋いでおいてよかったと思った。
不安になったのは、それからすぐ後。霧は一向に晴れず、周りに他の生徒たちの気配がしなくなった。
本当に正しい道を歩いてるんだろうか? このまま遭難したりしない?
口に出してしまうと本当になりそうで、言い出せなかった。繋いだ手はしっかりしていて、それだけが安心できた。
「……ねえ」
急に、彼女が言った。
「少し、こっちを見ないでね」
私は返事ができなかった。理由が分からなくて。
頭にはお化粧でも直すのかな、なんて支離滅裂な発想が浮かんだ。そんなわけない。でも、他に何も浮かばなかった。ただ言われた通り、彼女の方を見ないようにして歩き続けた。
だんだん、あたりが薄暗くなった。まだ午後の早い時間のはずなのに。
不安が焦燥に変わって、私は手をぎゅっと握った。そうすると相手も様子を見るように、少しずつ握る力を強くした。顔を見られない分、その小さな感触での対話が嬉しかった。冷たかった手は私の温度がうつって、ほんのり温かくなっていた。
「まだ、見ちゃダメ?」
手の温度を感じながら、私は言った。
怖かったのだ。そこに誰もいないのではないか。私はやっぱり一人なんじゃないかと。
「……まだ」
彼女の声はかすれていた。まるでどこか遠くから聞こえるみたいに。
足下がふらついて、自分が何を踏みしめて歩いているのかわからなかった。ここはどこなのだろう。いつのまに、道を外れたのだろう。みんなはどこへ行ったのだろう。私はどこへ向かっている? 霧の奥には何も見えない。
……隣を歩くこの少女は、誰だった?
「離さないで」
すがるような声が聞こえた。今度は奇妙なほどにはっきりと。
私は知らないままでいるのが怖かった。自分の隣に何がいるのか。このまま、手を繋いでいていいのか。
そして私は、顔だけ前を向いたまま、薄目で隣を見た。
見てしまった。見るべきだったのか、そうでなかったのか。今も私にはわからない。
それを――
霧の中にうっすらと見えたもののことを、詳しくここには書けない。
理解できないものだから。してはいけないものだから。
ただ、無数の、黒いものが渦を巻いていて、
そこにはいくつもの目があって、それが……いくつかは前を見て、いくつかは周りを見て、
そして残りは、
残りは、全部が私を見ていた。
「お願い」
黒い渦は私のすぐ隣の空間へと収束して、わずかな形あるものを生え出させていた。
それが……私の握りしめる細い少女の手だった。
「もう少しだから」
私は声も出せずに立ちすくんだ。他にできることもなかった。
霧の中で私はなすすべもなく、この何かに食べられてしまうのだろうと思った。あるいは全身の寒気が示すように、食べられるよりももっと恐ろしくおぞましい、理解の及ばない行為の生贄になるのだろうと。
「どうか……離さないで」
霧の中、少女の声はまた続いた。
お互いだけを見つめながら、ただ時間が過ぎていった。
恐れていたようなことはまだ起こらないようだった。
私は最初ただ怖くて手を離せなかったのだけれど、だんだんよくわからなくなった。
周囲を包む霧は暗く、赤くなり、この手を離すのは握っているのと同じぐらい恐ろしい気がした。
そのうち、握った手が少しだけ前に引っ張られた。
私はその誘導に従って、一歩ずつ踏み出した。もう隣は見なかった。
ただ握りしめた手の平を信じた。聞こえた声の響きを。
……それからどうやって霧の外へ出ていたのか、覚えていない。
ただ一歩ずつ導かれるままに歩くうちに、同級生たちの笑い声が聞こえて、周りが明るくなっていた。
隣には誰もいなかった。
「山中さん」
声をかけられて、振り向くと同級生の一人が笑っていた。
「さっき、ぼうっとしてたね。大丈夫?」
「うん……なんか、白昼夢でも見てたみたい」
それにしては鮮明すぎるとわかっていたけど、説明できないのはわかっていたから言わずにいた。相手は首を傾げつつ、霧の晴れた高原の向こうを指さした。
「みんなもっと先にいるよ。一緒、行く?」
「うん。あの……ちょっと、変なお願いしていいかな」
「どうしたの」
「手、繋いでもらいたいんだ。まだちょっと、目まいがして」
そう言うと彼女は心配しながら喜んで手を差し出してくれた。
私はそれを握って、光の中を歩き出したのだった。
あれからもう十年になる。
その日のことがきっかけで、私は手を握ってくれた同級生と付き合うことになった。高校生の時にできた恋人なんて長続きしないと思ってたけど、不思議と付かず離れずのまま、今日まで関係は続いてる。
恋愛は不思議だ。霧の中で見たあの幻ほどでないけれど。
毎日同じ部屋で、寝起きをともにしているのに、今でも彼女が神秘的な未知の存在に思えるのだから。
「おかえり。今日、遅かったね」
「うん、残業続きでちょっとしんどい……辞めよっかな、この仕事」
「本気なら、止めないよ。明日、一緒に考えよう」
重なる手の感触。冷たくて、温かい。
「とりあえず、お風呂入ってきたら」
「わかった。先、寝てて」
……本当は分かってる。彼女が誰なのか。
瞳の奥を覗く時。その向こうに感じる果てのない渦。私を飲み込む光と闇。
でも――
「ね」
「ん?」
「手を握ってて」
「いいよ」
「……離さないでね」
離さないよ、と答えると彼女はいつも「ありがとう」と言って眠るのだ。
(おわり)
霧の中のあなたを あば あばば @ababaababaabaaba
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます