第5話 プロポーズと元婚約者
「わたくしが洗って差し上げたかったのに……」
「止めてくれ、シンシア……」
すっかり洗われて綺麗になったシライヤは、現在ルドラン子爵家にある屋敷の一室で、清潔なベッドに埋まっている。彼の健康状態を調べる医者は既に引き上げた後で、事情聴取の騎士団は明日来る予定だ。
「それより、シンシア。ご両親にご挨拶をしなければ……。こんな事態に、大事な娘さんを巻き込んで、こうしてベッドまで用意して貰って……」
「シライヤ、それについては、少なくとも今日一日は考えないでください。両親も、明日までシライヤに顔を見せないようにすると言っていました。貴方の事を嫌ってでは無く、体調を慮っての事です。ゆっくり休んでください」
「そうか……。すまない。ありがとう」
それと、この後は私へのお説教タイムがあるので、シライヤと話す時間が無いというのも理由の一つだ。
シライヤ奪還作戦は、私が個人的に行った事だったのだから。そう、個人的にだ。殿下は何も関与していない。ただたまたま、居合わせたというだけの話。
「本当はわたくしも、引き上げた方がよろしいと思いますが。……あと少しだけ、いてはいけませんか?」
「いてくれ、シンシア。俺の方から頼む。ずっと君の声が聞きたかった。もう、こうして話せないのかと、恐ろしかった」
「シライヤ……」
添い寝でもするように彼の隣に寝そべって、キラキラと輝く銀髪を撫でる。
「大丈夫ですよ、シライヤ。貴方がどこにいたって、わたくしが助けに行きます」
「……格好いいな、シンシアは。だけど、どうやったんだ。屋根裏の扉をこじ開けた騎士達は、近衛騎士だったろう?たとえ王太子殿下だろうと、公爵の屋敷を勝手に捜索する事は許されない。俺への虐待が明らかになった所で、同情の色を見せる貴族は少ない。それよりも、貴族の屋敷を予告も無く捜索した事を、批難する声が大きくなるだろう。今回の事で殿下から派閥が離れれば、王太子の地位も危うくなる。殿下がそれを認識していないはずは……」
「大丈夫なのです。シライヤ。だって、王太子殿下はミツバチの大群から逃げていただけなのですから」
私の言葉に、シライヤの目が大きく開く。きょとんとした顔は、あどけなくて可愛らしい。
「ミツバチの……、大群から?そんな、都合の良い理由……」
「近衛騎士や、公爵家の使用人。証人は、沢山いますから。それに、王太子殿下は今回の事で、四大公爵のうち、二つの公爵家から絶対的な支持を得る事になります。そうなれば、殿下の地位は盤石なものとなり、王位を継ぐ日まで継承権争いに煩わされる事は無いでしょう」
「二つ?婚約者の生家であるグリディモア公爵家は解るが、あともう一つは?」
「もちろん、ブルック公爵家ですよ」
シライヤの形の良い眉が、片方ずつ高さを変えた。彼の色々な表情を見られて楽しいが、この後は更に顔色を変えるだろう。
「それは……、父を脅すのか?」
「いいえ、近衛騎士団に捕縛され、王国騎士団に引き渡された以上、現ブルック公爵の断罪は免れません。親族への虐待だけでは少し弱かったのですが、ブルック公爵は殿下へ虚偽の発言をしました。すみやかに公爵の地位を剥奪され、直系から順に次の公爵が選ばれる事になります。ついでに、ブルック公爵夫人も監禁と暴力に荷担していたと見做されましたので、既に騎士団が捕縛しました。ゆえに、夫人が代理公爵を務める事はありません。爵位はまず長男へ。しかし彼はすぐに実力不足を指摘され、その後調査官が入り、ブルック公爵家の当主は貴方になります。シライヤ」
「……は、…え?」
理解にしばらく時間をかけたシライヤは、ベッドから蒼白な顔で飛び起きた。
「冗談だろう!?俺が公爵!?そんな、ありえな……」
「ありえなくありません。シライヤはブルック公爵家の三男として、正式に貴族名鑑に登録されていますし、正当な直系の血筋を持っています」
「俺だってすぐに実力不足だとして、後継者から外される。そうなれば、親戚から相応しい者が選ばれて……」
「シライヤが、実力不足と判断される事はありません。学園での成績に加えて、貴方は既に公爵領の経営に携わっているのですから」
私の断言に、シライヤはもう一度驚きを見せた。
「どうして、それを……」
「シライヤが学園へ登校しなくなって、わたくしはブルック公爵家のあらゆる事を調べました。そうして、ブルック公爵家が携わる書類の筆跡に違和感がある事に気づいたのです。現公爵と、公爵の補佐をしている長男の書類は、どちらも同じ筆跡であったのですから。そしてそれは、シライヤが私へ贈ってくれた、あのノートの筆跡と一致します。これは既に王城の筆跡鑑定へ提出しているので、時期を見て結果が公表される手筈となっています。そうなれば、長男に領地経営の能力は無く、虐待により無理矢理働かされていた三男には能力があると調査官の報告が上がります。最終的な決定を下すのは陛下ですが、調査官の報告が無視される事はまずありえません。シライヤが公爵となる未来は、既に決定事項なのです」
魂でも抜けてしまったように、シライヤは呆然とシーツの上に座り込んでいた。
私がシライヤの筆跡で書かれた、ブルック公爵のサイン入りの提出書類を見つけた時、どれだけ嬉しかったか。シライヤが生きている事が確実になった事、そして、彼がすぐに殺されるような事は無いだろうという事が解ったのだから。一度怠ける事を覚えたブルック公爵が、シライヤという優秀な働き手を手放すはずは無い。彼は欲望に忠実な男なのだ。
そしてそれは図らずも、シライヤの監禁場所を示す手がかりにもなった。王太子殿下が作成した、本日中に提出を求める急な報告書をブルック公爵家へ送れば、書き上げられた書類は公爵家から直接早馬に預けられた。もちろん、シライヤの筆跡の物が。
シライヤの居場所さえ解れば、後はミツバチ作戦が遂行されるだけ。
ルドラン子爵領の名産物である蜂蜜。その蜂蜜を作るミツバチの養蜂箱を王太子殿下の仰々しい馬車の後ろに隠した。
養蜂箱の中で警戒音を出されてしまうと、ブルック公爵に先に気づかれてしまう可能性もある為、ミツバチ達は我が領の天然資源である炭酸ガスで眠らせる。温厚なミツバチとはいえ、過度な警戒心を与えれば、人を襲う確率も上がる為に、これは必要な事。殿下を本当に危険な目に遭わせる訳には、いかないのだから。
殿下は、「1度くらい刺されてみても良い」とか、わんぱく小僧のような事を言っていたが、それは無視しておいた。
ガスの量を調節して、ミツバチ達をベストのタイミングで覚醒させる程度の事、ルドラン子爵領の養蜂家ならお手の物なのだ。実際にガスを使って、ミツバチの捕獲や分蜂を行うのは、彼らの通常業務の一つなのだから。
ちなみに、ミツバチが現れる度に殿下を真っ先に護っていたのは、近衛に扮した我が領の養蜂家である。「お嬢の為なら一肌脱ぎますぜ」と言ってくれる、気概のある筋肉質な養蜂家だ。近衛の制服がなかなか似合っていた。お嬢というのは、私の事だ。
室内に現れたミツバチは、私のスカートに縫い付けられたリボンの中に閉じ込めておいたもの。例の養蜂家が、全て終わった後に外へ逃がしておいたと言っていたので、今頃はブルック公爵の屋敷で花壇を見つけて、花蜜を集めている所だろうか。養蜂箱は、ミツバチ達が帰った後の夜に回収され、ルドラン子爵領へ戻ってくる。大役を務めてくれたミツバチ達に、美味しい花壇を沢山作ってあげたい。
養蜂家の彼への礼は何が良いだろうか。報酬と別に、プロテイン一生分とか……。確かゲームのアイテムにプロテインがあったので、どこかには売っているはず。
「だが……、俺が公爵になれば、ルドラン女子爵の婿にはなれない。そんなのは、とても受け入れられない。君と結婚できないなんて、絶対に嫌だ」
私がしばしの考えに耽っている間、シライヤは混乱する頭をなんとか整理したようで、呆然とするのを止めて意思強くそう言った。
「はい、わたくしも嫌です。ですので、わたくしはブルック公爵夫人となり、お父様には引退予定を先に伸ばして頂きます。シライヤとわたくしは、子供を二人以上つくり、それぞれに公爵家と子爵家を継がせるというのが、現段階での理想となります」
「待ってくれ、それだとシンシアは女子爵になれないじゃないか。ずっと当主になる事を目指してきたんだろう?」
「当主を目指したのではありません。大事な子爵領を、この手で護りたかっただけです。それは公爵夫人となっても叶える事が可能ですし、父の助けは積極的に行っていくつもりです。むしろ両親には委任状を書いて頂き、わたくしが領地経営をしても良いと考えています。親孝行に、楽をさせてあげたいですしね」
「では……、本当に俺が公爵に……」
「王太子派のグリディモア公爵家とは連携を取れますし、私とルドラン子爵家もシライヤを支えます。既に公爵領の業務をこなしているシライヤであれば、現場の混乱も無く迎え入れられるでしょう。問題は一つもありません。シライヤ、不遇の時代は終わったのです。今まで一人で、よく頑張りましたね」
ベッドから起き上がってしまったシライヤを引き寄せ、再び彼を横にならせた。今日は休ませる為に、あまり多くを話さない事も考えたが、憂いを取り除いた方が眠れるかもしれないと思ったのだ。どちらに転ぶかは、賭けでしか無いが。
「……公爵領の業務は、学園入学前から押しつけられていたんだ」
ぽそりと話すシライヤの言葉。慰めの言葉を挟もうかと思ったが、彼がまだ話したそうにしていたので、静かに頷くだけにした。
「大変ではあったが、嫌では無かった。やっと公爵家で、俺が必要とされた気がして。家族に、大切にして貰えるのでは無いかと思って。しかし、家族が俺へ向ける態度は変わらず、むしろ悪化したようにも見えた。学園に入学した後は、優秀な成績を修めれば、父が俺を誇ってくれるのでは無いかと努力した。だが、父が俺を顧みる事は一度も無く、シンシアとの婚約まで認めて貰えない事に限界を感じて、初めて父に声を荒らげて抗議した。だがそれで父の怒りを買い、鎖に繋がれて、服まで取り上げられた。己の立場を自覚しろと言われ、いずれ戸籍も抜き、一生奴隷として働かせてやると言われた」
聞きながら、奥歯を噛みしめてしまう。シライヤの悔しさが伝わるようで。
それとも、私自身が悔しく感じているのだろうか。愛しい人を、長年苦しめていた事を知ったのだから。最初の婚約の時、エディではなく、シライヤを選んでいたら何か変わっただろうか。そのチャンスはあったのに、掴まなかった事が悔しい。
「こんな扱いをするくらいなら、何故俺をブルック公爵家へ迎えたのか。少なからず親子の情を感じてくれたからでは無いのかと尋ねた。だが、父は一笑して言った。俺を息子として迎えれば、お気に入りの美しいメイドは逃げ出さないと思ったと。しかしメイドは迷うこと無く子を置いて逃げだし、お前はとんだ期待外れだったと。父に認めて貰おうなんて、始めから無駄な努力だったんだ。そんなにずっと前から、俺は父に失望されていたんだから」
「あんな男に認められる必要はありません。あの男は、シライヤの父親として失格です。シライヤの家族を名乗るのも烏滸がましい。貴方の家族は、わたくしです。他の者など認めない」
「そうだな……。認めてやらないのは、こちらの方。もはや父親だとは思わない。俺は俺の家族を護る為に、彼等を人生から切り捨てる」
「その調子です、シライヤ」
シライヤの頭を胸に抱えるようにして抱きしめると、彼は恥ずかしがる事も無く身を寄せて抱き返してくる。
「君に愛されて幸せだ、シンシア。俺はこんなに幸せ者で良いのか」
「こんなものではありませんよ。もっと幸せにしてさしあげます。楽しみにしていてください、シライヤ」
やがてシライヤの、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「やあ、未来の公爵夫人!お会いできて光栄だ!遠乗りでも行くか?自慢の馬を紹介しよう!はっはっは!」
事件からしばらく経った日、使いがあり早朝の図書室へ行くと、いつもの席で王太子殿下が大げさな程の笑みと両腕を広げる仕草で出迎えてくれた。
今日は始めから警備員が入り口に立っていたので、人払いは既にされているようだ。
「上機嫌ですね、殿下」
挨拶の礼を取る暇も無い。殿下に手を取られ、甲へキスの真似をされた。
「これが、喜ばずにいられるか?もはや私を脅かす、王位継承権保有者は存在しない。エステリーゼも随分と安堵していた。最近の彼女は顔色が良い。グリディモア公爵も、エステリーゼへの完璧主義は改めたよ。そんな事をせずとも、私が王太子の地位を追い落とされる可能性は無くなったのだから。後はただ、私が彼女を尊重し愛し、愚かな振る舞いをしなければ全てが上手くいく」
今日も椅子を引いて貰ったので、その席へ着く。目の前の席へ着いた殿下は、私を真っ直ぐと見つめるが、冷たさは無いように思った。人払いのすんだ図書室で、外向きの態度を止めている彼が、私をにこやかに見つめるという事は、価値のある人間として繰り上げられたのだろう。
「感謝しているよ、シンシア嬢。少し前まで、私は危うく愚かな考えを実行する所だった」
「愚かな考えですか?」
「そうだ。エステリーゼを私から解放してやりたいが為に、女を雇って不貞を犯したように見せかけ、完全なる私の有責で婚約を解消するつもりだった。王太子の地位どころか、王族としての立場も捨てる覚悟でな」
どこかで聞いた話だ。ゲームでヒロインと愛を育んだのは、まさかその為だろうか。ヒロインが王太子と婚約した所で、ゲームはハッピーエンドとして終わるが、その後彼が廃嫡の運びとなったかどうかは、プレイヤーには解らない。
「グリディモア公爵令嬢様を、愛していらっしゃるのですね」
「当たり前だ。幼き頃に婚約したあの日から、私は一度だって、エステリーゼへの愛を手放した事など無い。だが、エステリーゼからは好かれていないのだろうと考えていた。特に最近の彼女は、私と顔を合わせても、辛そうに下を向くばかりで、何を言っても、何をしても、笑顔を見せてくれなかった。私を厭っているからとばかり思っていたが、私もまだまだ視野が狭いな」
「お二人のわだかまりが解けました事を、臣下の一人として嬉しく思います」
「ありがとう。それで、シライヤの方はどうなった。いつ学園へ戻る」
「いましばらくは、療養期間を。次に学園の皆様にお会いする時、彼は王国史上初の学生公爵となりますので、完璧に仕上げようかと」
「なるほど、楽しみだ。制服が少々大きいように思っていたしな」
「それが、ここ数日でシライヤの身長が急激に伸び始めましたので、サイズは丁度良くなるかもしれません。新調はいたしますが」
「それは良い。ブルック公爵として、少しでも箔がつくのは歓迎だ。私の有力支持者として、相応しく整えてやってくれ」
「はい、殿下」
「あぁ、それと。プライベートに限り、名を呼ぶことを許可する。シライヤにも、学園で再会した時に伝えよう」
言いながら、殿下は席から立ち上がった。私も慌てて立ち上がるが、彼は話が終わったとでも言うように、スタスタと出口へ向かう。学習スペースを抜ける前に私へ振り返ると、言葉を続けた。
「二人には積極的に、私の支持者であるアピールをして貰うぞ。ようは、学園で取り巻きとして振る舞えという事だ。友人のいる、学生生活というのも悪く無い。楽しみだな、シンシア嬢」
そういえば、殿下は私をいつの間にか名前で呼んでいるな。ニッと白い歯を見せて笑う殿下へ、カーテシーをする。
「全て、アデルバード殿下のご随意のままに」
私の応えに満足したのか、彼は颯爽と図書室を出て行った。警備員も自然な様子で散っていく。
随分と緊張する友人ができたものだ。
少し気疲れしながら教室に戻ったが、クラスメイトの視線が一斉にこちらへ向く。勘の鋭い者達や、情報筋を持っている貴族家の子息達は、既に事態に気づきつつあるようで、私へ声をかけたそうにしていた。殿下が故意に噂を広めていそうでもある。
私へ話しかけたい生徒に女生徒が加わった分、令息達の婚約希望だけの時よりも熱烈かもしれない。
「あ、あの~、ルドラン子爵令嬢、ブルック公爵家の御三男様と婚約なさる予定ですの?」
「素敵ですわよね、不遇のご令息との大恋愛だったのでしょう?」
「まぁ、聞きたいわ!小説か舞台のようなロマンス!そうだわ、よろしければ、我が家でお茶会でも……」
覚えているぞ、ご令嬢達。エディの取り巻きをして、私を悪し様に言っていた事を。
「お誘いどうもありがとう。けれどご存じの通り、今は身の回りが慌ただしくて……。勝手に何かをお話しする事もできませんし……」
「困りましたわね」と苦笑を返せば、彼女達は大慌てで「それはそうですわ!」「無理を言ってごめんなさい」「また機会があれば是非」と取り繕う。王太子殿下に名を呼ぶ許可を頂いた事を知ったら、卒倒するかもしれない。
平民と仕事をする事が多く、社交界に疎い子爵令嬢くらい、虐めても構わないと思っていたのだろうが、とんだ誤算だった訳だ。
とはいえ、シライヤの妻となり高位貴族となる品位を損ねてはならない。やりすぎは禁物だが、これからもチクチクくらいの仕返しはしてやろう。
次はこちらの番だと言わんばかりに令息達が近づいて来たが、授業が始まってくれたおかげで助かった。未だに婚約者を狙っている者達はいる。自分なら上手くやれるかもしれないと、自信のある令息は特に。シライヤの評価が正しく浸透していないのが原因だろう。彼が尊い学生公爵だと知らしめれば、私を横取りしてやろうと妄想を抱く令息達を蹴散らせる。あと少しの我慢だ。
シライヤは、今もルドラン子爵の屋敷にいる。私が日々全力をかけて仕上げた彼を見て、学園の者達が圧倒される日が楽しみだ。令嬢達に粉をかけられるかもしれないが、シライヤが私を裏切るはずが無い。私はただ安心して、彼を着飾れば良い。
シライヤ程にできる事は無いだろうが、未来の公爵夫人として、授業へも意気込みを見せた一日だった。
「早くシライヤの所に帰りたい」
そんな言葉を漏らしてしまうのは、少し張り切りすぎたせいだ。授業を頑張りすぎたか、今更懐いてこようとする下心を隠せない学園の者達をいなすのに疲れたのか、降って湧いた高位貴族への仲間入りによる緊張の気疲れか。
くたびれながら帰宅の馬車へと向かって、学園の廊下を歩いている時、突然腕を強く引かれて驚いた。
「シンシア!会いたかった!ずっと会えなくて、寂しかったよね!僕達は愛し合っていたから!」
あ、くそ、油断した。
ルドラン子爵家に磨かれて甘やかされていた時よりは、幾分煌びやかさを無くしたエディ。こうやって見ると、まったく磨かれる事が無かったシライヤがあれ程魅力的だったのは、持ち前の美しさのせいか。
だからと言ってエディが劣った人間とは判断できないが、彼の人間性を見てきた限り、やはり彼はどうしようもない。という事で、冷たく接してやる事に罪悪感は無いのだ。
「平民になられた方が、わたくしの腕を掴むなんて、凄い度胸があるのね。騎士団に突き出される前に、お離しになった方がよろしくてよ」
ニコリと笑いかける微笑みは、何もエディへ好感を持っているからでは無いのだが、彼はそのまま受け取るかもしれない。
エディはドリス伯爵家から、既に除名されている。不名誉で能力の無いオバカな次男を、家名に連ねておく必要は無いと判断されたのだ。そして、そうする事で、ルドラン子爵家への返還金を少しばかり減らす事もできる。エディ個人の出費に関して、彼が借金を背負う事になるのだが、彼に返済能力は無いので、ルドラン子爵家が損をするだけだ。ドリス伯爵家の信用も落ちるが、既に名誉は無く、必死に金を掻き集めているような暮らしでは、気にしている余裕も無いのだろう。
「そんな冷たい事を言うなんて!本当に怒ってるんだね……。そうだね、僕がシンシアに冷たくしたんだから、怒るのも当然だ。大好きな僕に冷たい態度をされて、傷ついたんだよね」
「どうやって、ここまで入っていらしたのかしら。そういえば、退学されたはずの方の荷物がいつまでもあるようでしたし、片付けに?それでしたら、やはり問題を起こすのはお勧めしませんわ。元学生としての信頼で足を踏み入れる事を許されているというのに、信頼を裏切るような真似をすれば、二度と復学できませんわよ」
ご自慢のお綺麗な顔を使って、裕福な人間に媚びを売れば、学費を出して貰えるかもしれない。学費さえ払えるなら、再入学は新入学よりずっと簡単なのだから、それを目指せば良いのに。平民とはいえ、学園の卒業資格を持っていれば、どれだけ楽に金を稼げる事か。
「それだよ、シンシア!僕を退学させるなんて、ちょっとやりすぎだよ?冷たくされて怒っているからなんて理由で、僕との婚約まで解消して……。あの後、本当に大変だったんだ。ドリス伯爵家から勘当されて、領内の作業現場で働くように言われて。あんな酷い場所、僕が働く所じゃないのに。爪だって割れてしまったし、ろくに風呂にも入れない。香油だって、あれから一度も塗ってないんだ。肌が乾燥して痒くて、もうボロボロだよ。僕にこれだけ痛い目を見せたんだから、十分だろう?我が儘は止めてくれ、シンシア」
「何が十分なのか解りませんし、我が儘を通した覚えもありませんわ。返還金は全額支払われておりませんので、その作業現場とやらで励んでくださいね。二度目ですが、腕を離してくださる?人が集まってきたようですけれど、今全力逃亡すれば、この事も有耶無耶にできるかもしれませんよ」
他にも馬車へ向かう生徒達が通りがかり、みな何事だろうと立ち止まって行く。ギャラリーが増えれば、学園の職員へ報告に向かう生徒も現れるだろう。あ、今一人、走って行った。
「ああもう、話が通じない。君は本当に頑固だし我が儘だ。作業現場の同僚が言っていたけど、パートナーを虐めて愛する人間がいるらしい。サディストって言うんだ。君はそれだよ。僕を虐めて愛しているつもりだろうけど、そんなんじゃ僕は愛を感じないからね。夫婦になるなら、そういう所は直して貰わないと」
「いいえ、わたくしは愛する夫を甘やかしたいタイプですけれど、貴方には関係の無い事ですわね。せっかく学園にいらしたのですから、わたくしに構うのではなく、エリー嬢の所へ行ってさしあげたら?探しておりましてよ。三度目ですが、腕を離しなさい」
仕方の無い子でも見るような視線を私へ向けていたエディだったが、ハッとして何かを納得したように「ああ!」と叫んだ。
「そういうことか!君は勘違いしてるんだね、シンシア!違うよ!エリーとは何でも無いんだ!確かに親しい友人だけど、彼女と恋人になる気なんか少しも無い!僕はシンシアの恋人で、婚約者で、将来の夫なんだから!」
そう言えば、私が喜ぶとでも思っているように、大きく廊下に響く声で言うエディ。ここまでの騒ぎを起こして、その作業現場とやらには戻れないかもしれない。返済に期待していた訳では無いが、この男を選んだせいで、ルドラン子爵家へ損をさせた事をつくづく悔やむ。
そろそろ警備の者が到着するだろうかと、辺りを見回そうとした時、私の腕を掴むエディの腕が、大きな手に掴み上げられた。
「い゙だだだだだっ゙!?」
エディの顔が一気に真っ青になり、私の腕が解放される。エディの反応を見る限り、とても強い力で掴み上げられているようだ。そして、エディの腕を掴み上げているのは、ぐんと身長の伸びた銀髪の美しい男。
「シンシアの恋人で、婚約者で、将来の夫は、俺だけだ。馬鹿げた事をもう一度口にすれば、海に沈めて話せなくしてやろう」
やっぱり、海に沈めるって発想はあるんだ。
「シライヤ!どうしてここに?」
私が驚きの声をあげると、エディを投げ捨てるようにしたシライヤが、私の手を取って不安気な顔を向けてくる。
「正式に公爵の地位を賜った。披露目はまだ先になるが、いち早くシンシアに伝えたくて、迎えに来たんだ。馬車で待とうと思っていたが、シンシアが元婚約者に迫られていると聞いて、待ってなどいられず、学園の中まで……。すまない、学園に戻る日取りはもう少し後にしようと、シンシアに言われていたのに。言いつけを守れなかった」
悪いことをしてしまった犬のように、シュンとして私を見つめるシライヤ。身体は逞しくなり、ルドラン子爵家で美しく整えられた姿は迫力を感じさせるのに、私に対しては甘えたいさかりの子供のような顔を見せる。
本当は既に完璧に仕上がっていたのだが、まだこの可愛くて愛しい男を独り占めしていたくて、学園への復学を遅らせていた。なるほど、確かに私は我が儘か。
「良いのです、シライヤ。迎えに来てくださって嬉しいです」
微笑んで返せば、シライヤはホッと安堵した顔を見せる。それにしても、誰がシライヤへ報告に……?あぁ、シライヤの後ろに殿下の子飼いの警備員が見える。早く、新ブルック公爵を知らしめろとのご命令か。
そっとシライヤの手から自分の手を離すと、恭しくカーテシーを披露する。
「正式にブルック公爵となられました事を、心よりお祝いいたします。シライヤ・ブルック公爵様」
シライヤが公爵の地位を賜ったと口にした時から、ザワザワとしていたギャラリーだったが、私がカーテシーをして口上を述べると、更に騒がしくなる。
「噂は本当だったのか!学生で公爵なんて、前代未聞だぞ!」
「まぁ…、あれが、本当にあの妾の子……?あんなに素敵な殿方だったかしら……」
「くそ…、本物の公爵が相手じゃ……。良い婿入り先だと思ったのに…」
「こうなるって知ってたら、私があの美しい貴公子と……」
聞こえる言葉は、後悔が多い。シライヤが学園の者達にどんな扱いを受けていたか、具体的には知らないが、軽んじられていた事は確かだろう。妾の子、いずれ平民になる男、制服の一つもろくに整えられない、望まれぬ子。
全てを見返してやった気分はどうだろう。まだ足りないというなら、品位は保ちつつ、仕返しに協力しても良い。
「ありがとう、シンシア・ルドラン子爵令嬢。顔を上げてくれ」
シライヤの許しで顔を上げ、彼を見つめると、灰色の瞳は私以外何も映していなかった。そして、すぐにシライヤの視線が低くなり、彼は私に片膝を突いて跪く。
「この時を待っていた。どうか俺と結婚して欲しい。シンシア」
私の手を取り、真似では無く本当に口づけるシライヤ。周りが違う色をおびて騒がしくなったように思うが、もはや私も他に意識を配る余裕が無い。心臓がドキドキと張り裂けそうだ。
私達はまだ婚約していなかった。貴族の婚約は家同士の契約。しかしブルック公爵が不在、または失脚すると解っている長男が公爵では、契約を結ぶにも色々とややこしい。シライヤが公爵位を継いでから、婚約しようと話し合っていたのだ。
シライヤが待ちきれなくて学園まで迎えに来たのも、おそらく私と早く婚約したかったから。
「はい、結婚いたします。末永くよろしくお願いいたします、シライヤ」
「シンシア!」
立ち上がる勢いのまま、私をギュウギュウと抱きしめるシライヤ。少し苦しいのは、我慢しよう。
正式な婚約は書類を介さなければならないが、これだけの衆人環視の中行われたプロポーズは、正式な婚約と同等の威力を持つだろう。
「……は?え?ま、待ってよ、何…?なんで!違うだろ!シンシアの婚約者は、ぼ――」
「取り押さえろ」
私を抱きしめたまま、シライヤの低い声が響く。現公爵閣下の命令だ。すぐに学園の警備員がエディを取り押さえた。まあ、殿下の子飼いの彼だが。まだシライヤが公爵になったと十分に通達されていない今、これだけ早く動けるのは彼だけだろう。
虫が潰れたような声を出して、床に押さえつけられたエディを見て、周囲に集まった学生達に恐怖の色がありありと乗る。シライヤの命令一つで、人が捕縛されるのだと、これでよく解った事だろう。二度とシライヤへ対して、馬鹿にするような態度は取れないはずだ。
そう考えると、エディは今とても良い働きをしてくれているな。
「家名を持たぬエディさん。わたくしを呼び捨てにするのは、いい加減に止めてくださるかしら。わたくしたちは、赤の他人になったのですから」
「そんな…っ、いやだっ、なんでこんな…っ」
「おかしいですわね。貴方がおっしゃったのよ。援助金を盾に、ルドラン子爵家に脅され、無理矢理婚約を結ばされた。奴隷のような扱いだった。自由になりたいと。全て叶いましたでしょう?援助金は無かった事になり、返還して頂く事になりましたし、婚約も解消いたしました。ドリス伯爵様が、エディさんを除名されたのは与り知らぬ所ですけれど、これで家名も無く自由を謳歌できるではありませんか」
「ち、違うよ!こんなつもりじゃ無かった!ただ僕は、少しだけ自由に遊びたかっただけで!」
「ご自由になさったら?恋愛だって自由になったのですよ?エリー嬢……は、いらっしゃらないようですけど、そうね……、あぁ、そこのご令嬢がた、確か彼と親しくしていらしたでしょう?わたくし、お邪魔をして申し訳無かったと思っていたのですよ。今の彼には、婚約者がいらっしゃいませんし、どうぞ気兼ねなく親交を深めてはいかがかしら?」
まだ私を離したくないシライヤの腕に絡め取られたまま、かつてエディの取り巻きだった令嬢達に声をかける。彼女達はあわあわと溺れてでもいるように、息を引きつらせて狼狽えた。
「い、いえ!私は!そんな!婚約者もいますし!そうだわ、貴女が引き取ってさしあげればっ?」
「やだ!こっちに押しつけないでちょうだいよ!平民なんて嫌に決まってるでしょっ」
婚約者がいるのにエディへ色目を使っていたのもよく解らないが、平民が嫌だと言う彼女もおかしな話だ。だってエディを私から取り上げたら、彼は継ぐ爵位も無く平民になるのは決定なのだから。若い女学生達では、美しい男子学生に熱を上げるだけで、未来が見えていなかったという事なのだろう。
「え……、僕…、嫌がられてるの…?だ、だって…、あんなにカッコイイって……」
自分が令嬢達に嫌がられている事に気づいたエディは、床に押しつけられたまま愕然としていた。女の子にモテる事は、彼の自信の一つだったろうから、とてもショックを受けている事だろう。
「もう良い!それを連れて行け!目障りだ!」
シライヤの苛立った声が発せられ、エディはすぐに警備員に引き立てられた。
「やだ!いやだ!待って!シンシア!君に束縛されても良いから!こんな自由ならいらないよ!戻りたいんだ!元に戻りたい!いやだぁ!」
エディの力の限りの悲鳴は、ますます学生達を震え上がらせた。責任を押しつけ合っていた令嬢達など、たまらなくなったのか、不作法も忘れて廊下を走って逃げていく。
「怒っていますか?シライヤ」
「当たり前だ。本当の奴隷がどんなものかも知らないで勝手な事を。シンシアに甘やかされ、ルドラン子爵ご夫妻に可愛がられて、あんなに夢のような生活を脅しだと?許せない。自分がどれだけの幸運に恵まれていたのか、気づこうともしない」
シライヤは既に知っている。奴隷のような扱いも、自由の無い生活も。そして、ルドラン子爵家で、これでもかと甘やかされる生活も。かつてエディが受けていた猫可愛がりを、今はシライヤが受けている。
私達の一族は、愛する者を可愛がりたくて仕方なくなるようだ。私も両親に甘やかされて育ったが、同じくらい両親を甘やかしたいし、家族となる相手を可愛がり護りたい。それが、エディに悪影響だったのかもしれないとは脳裏によぎりつつ、シライヤならそうはならないだろうと思うと、やはりエディはどうでもいい。
「最初の婚約の時、わたくしがシライヤを選んでいれば、貴方に辛い思いをさせなかったのに。ごめんなさい、シライヤ」
シライヤを慰めるように、よしよしと頬を撫でると、シライヤは泣き出しそうに私を見つめた。
「違う。シンシアは、見つけてくれたじゃないか。学園裏で項垂れるだけだった俺を。愛している、シンシア。俺を見つけてくれてありがとう」
「……可愛い人」
呟くと、シライヤは急いたように私の身体を抱き上げた。
「早く帰ろう。愛しい婚約者に……、もっと甘やかされたい」
「ふふ、ええ。沢山甘えてくださいね、シライヤ」
少し駆け足で学園の廊下を進むと、生徒達は恐れるような顔をして道を空けた。もう安心だ。シライヤはこれ以上、誰にも傷つけられない。それはとても素晴らしい。
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