第3話 王太子の登場と、上手くいかない婚約

 あの日をきっかけに、私はシライヤと学園裏で待ち合わせるようになった。顔を合わせる回数が増えるたびに、彼の人間性に惹かれていく。間違いなく彼は、イイオトコだ。


「余計な事かとも思ったのだが、良ければこれを使ってくれ」


 その日シライヤが差し出して来たのは、一冊のノート。私はこのアイテムを知っている。だが、あえて知らぬフリをして尋ね返した。


「これは何ですか?」

「次の試験に備えて、当たりそうな所や間違いやすい所を書き出しておいた。少しでも貴女の役に立つと良いのだが」


 シライヤとの勉強イベントをこなすと手に入る、山勘ノートだ。これを手に入れると、プレイヤーの学力がぐっと上がる。そして、シライヤからの好感度も上がった事を示す。


 ゲームでも、それを受け取るか受け取らないかは選択できる。あえて受け取らずに、シライヤからの好感度を上げず、バッドエンドを回避する方法もあるのだ。その場合は、学力を上げるのにかなり苦労するので、攻略が難しくなってしまうが。


 私はその山勘ノートを、大切に受け取った。既に私の気持ちは決まっているからだ。


「ありがたく使わせて頂きます。一度、貴方様の勉強法を見てみたいと思っていたのです。とても嬉しいです」

「良かった。勉強法を見たいと言うなら、今度図書室で授業の復習でもしようか」

「はい。是非お願いします。図書室だけでなく、良ければルドラン子爵家へご招待させて頂けませんか?」

「貴女の……家に?しかし、それでは誤解を……」

「実は本日、ブルック公爵家宛へ、わたくしの釣書を送らせて頂きました。シライヤ・ブルック様と何度かお話しさせて頂き、好感を感じているというお手紙と共に」

「俺に……?」


 ハッと息を呑むようにした彼は、顔を真っ赤にして、やがて瞳を潤ませた。そして視線を落とす。健気に涙を隠そうとするシライヤは、本当に可愛らしい。泣き顔を見せてくれたって良いのに。慰めてあげたい。できれば婚約者として。


「それは、ご両親も……承知の上で?」

「もちろんでございます。釣書をお送りしただけですので、受けるか受けないかは、貴方様のお気持ち次第ですが……」

「必ず受ける!」


 喰い気味に返され、その勢いでシライヤは一歩私へ近づいた。彼との距離が近くなって、胸がドキドキと高鳴ってしまう。もっと近づいてくれても良かったのに、彼は失敗をしてしまったとでも言うように、気まずい顔をして身を引いた。


「すまない……。嬉しくて…、その。驚かせただろう」

「いえ、嬉しいです。ふふ、積極的な貴方様も素敵ですよ」


 思わず笑いが漏れながら言えば、シライヤは落ち込ませた表情を止めて、嬉しそうに眉を下げた微笑みを返した。


「少し気が早くはありますが、シライヤ様とお呼びしても?」

「もちろん、構わない。では、俺も貴女をシンシア嬢と……」

「呼び捨てで構いません」

「それなら、貴女も俺をシライヤと呼んでくれ」

「はい。シライヤ。これから末永くよろしくお願い致します」

「俺の方こそ、どうか末永く…隣にいて欲しい。よろしく、シンシア」


 彼の人生で初めて、心を分ける人間になれた事が嬉しい。ゲームのヒロインのように、使い捨てなんて酷い事はしない。私は彼を一生大切にしたい。


 その日初めて、私達は階段に並んで腰掛けた。




 学園裏の逢い引きを終え、上機嫌でシライヤの山勘ノートを胸に抱えて廊下を歩いていると、桃色の髪の女が立ちはだかって来た。


「あら、エディエリーのエリーの方」

「は?何その呼び方!?」


 そうなると、私はシライヤシンシアのシンシアの方となる訳か。うん、長いけどゴロは良い。


「じゃなくて、あんた、エディに何かした訳!?なんでエディが学園に来ないのよ!」

「あぁ、そういえば、あの人来てないわね。おかげで平和だわ」

「そういえばって、あんたが何かしたんじゃないの!?そもそも、婚約破棄って何!?それは卒業パーティーでやるやつでしょ!?なんでこんな早くイベントが起こってるのよ!」

「婚約破棄じゃなくて、婚約の解消よ。一応は、穏便に話し合いですませたもの。あ、そっか。卒業パーティーよりずっと前に婚約を解消してしまったから、あの人の学費を工面してくれる人がいなくなっちゃったのね。じゃあ、自主退学にでもなるのかしら」

「退学!?なにそれ!そんなの困る……。待って、話が通じてるって事は、あんたも転生者な訳!?」

「まあ、迂闊にそんな事を言って。正気を疑われたら、修道院へ送られてしまうわよ」

「やっぱり!あんたも!」


 人の気配が無いので、あっさりと認めてやる。とはいえ、明確にそうだと言う事は避けるが。彼女が人前で転生だのなんだのと言ってくれれば、本当に修道院送りにするのも容易いだろう。そうする為には、私も転生者だとヒロインに気づかせておいた方が口を滑らせやすい。

 願わくば、彼女も私もこれ以上関わらず、お互いの幸せを追い求める事が最良ではあるが。馬鹿だから言っても無駄そう。


「え…っ、ちょっと待って。それってシライヤの山勘ノート!?なんであんたが!」

「なんでも何も、シライヤから贈って貰ったのよ。私は彼に許可されて呼び捨てにしているけれど、貴女はブルック公爵令息と呼んでちょうだい。それがこの世界での、貴族のマナーよ」


 善意半分、私のシライヤを呼び捨てにする事への怒り半分で言うと、ヒロインは意地の悪そうな顔で笑う。可愛い顔立ちなのに、よくそんな顔芸ができるな。


「やだぁ。あんたもしかして、王太子ルート狙ってんの?ヒロインでも無いくせに。悪役令嬢がそんなの、身の程知らずにも程があるって。無理ゲーすぎ!」

「不敬な事を言ってはいけないわ。王太子殿下には、相応しい婚約者がいらっしゃるのだから。私はただ、シライヤと仲良くさせて頂いているだけよ」

「はぁ…?え、まさかあんた、ヤンデレ好き?うわぁ。信じらんない。シライヤがヒロインに何をするか知ってんでしょ?無理心中なんて最悪。キモすぎ、ありえない。私が王太子ルート選ばなかったのだって、シライヤと知り合いたくないからだもん。あんた趣味悪すぎ」


 さて、シライヤは本当にヤンデレになるだろうか?今の私が、彼を手酷く突き放すような真似をすれば、もしかしたら。だが、私にその予定は無い。それよりも、長年虐げられてきた彼の心のケアをしてあげたい。


「不敬な事を言ってはいけないと、もう一度忠告してあげるわ。シライヤを呼び捨てにするのも、王太子殿下の個人的な事に踏み入るような発言も、今すぐに改めた方が良い。もちろん、転生だのとおかしな事を言うのもね。修道院に行きたくはないでしょう?」

「脅してる訳?ヒロインが修道院に行くなんてエンディング無いわよ。悪役令嬢のあんたなら、行くかもしれないけどね」

「一応、親切で言ってあげてるんだけどね。話が以上なら、私は行くわ。今更我が家が、ドリス伯爵令息の学費を出して、学園に呼び戻してあげるなんてできない事くらい、貴女でも解るでしょ。さようなら」


 話は終わったと、彼女の横を通り抜けるが、ガッシリと肩を掴まれてしまう。けっこう握力あるな。


「待ちなさいよ!だったら、そのノート私に寄越しなさい!攻略に学力が必要な、宰相の息子ルート行くから!それがあれば楽勝よ!」


 ふざけんな。シライヤが私の為に作ってくれたノートを、他の女に渡すわけないだろ。


「馬鹿ねえ。ノートがあるだけじゃ、学力は上がらないわ。この現実世界では、実際に勉強をしないといけないのよ。それとも貴女……、シライヤの好感度を上げたいの?ふふ、泳ぎは得意な方なのかしら?」

「……うっ」


 悪役令嬢顔の私が、こうして含みのある笑い方をして言えば、さぞ迫力がある事だろう。ヒロインは自分の末路を想像したのか、ひるんで手を引っ込めた。


「今度こそさようなら。どうぞ、貴女はご勝手に幸せになってちょうだいね。私と関わらない所で」


 悔しそうに顔を歪めていたヒロインだが、私の後を追いかけては来なかった。


 これで彼女との縁も切れると良いのだが。



 翌日、私とシライヤは早速図書室へ向かった。学園の図書室には、学習用のスペースとして観葉植物等で簡易的に区切られている部屋があり、そこでは多少の私語が許される。学生同士で自主学習をする時には、一般的に使われている部屋だ。

 完全な個室ではない為に、性別の違う友人同士でも入りやすい。


 早朝の時間を狙って来た為に、図書室の利用者はかなり少ない。私達は四人掛け程度の小さな丸い机に腰を落ち着かせて、教材を開いた。


「え?まだ、公爵様からお話が無いのですか?」

「あぁ……。俺宛に連絡が届いていないか尋ねてもみたんだが、何も無いと」

「おかしいですね。釣書は我が家の使用人が直接お届けに上がったので、昨日のうちに届いているはずなのですが」


 自然な流れで婚約の話になったが、おかしな事に、公爵家ではまだ私の釣書が届いたという事になっていなかった。


「……父はお忙しい方だから。特に、俺の事に関する事で、時間を割きたくはないのだろう。……すまない、シンシアとルドラン子爵家には迷惑をかけるが」

「いえ、迷惑だなんて。そうですね、あまりに音沙汰が無いようでしたら、公爵様へ父と共に面会のお約束を打診いたしますわ。子爵家からの面会希望は恐れ多くもありますが、内容がわたくし達の婚約の事であれば、不敬にも当たらないでしょう」

「そうして貰えると助かる。ありがとう、面倒をかけて申し訳無い」

「面倒な事は、ありませんわ。シライヤとの婚約の為ですもの。どのような努力も、惜しみません」

「シンシア……。俺は君に出会えて、幸せ者だな」

「わたくしもですよ、シライヤ。早く正式な婚約者になりたいですね」


「あぁ」とシライヤが答えるのと同時に、私達は机の下で指先を絡めた。もっと先の関係まで進んでしまいたいが、婚約者でもない今はこれが限界だろう。


 それにしても、釣書を無視されるとは思わなかった。シライヤにはまだ伝えていないが、彼を花婿修行として我が家へ迎える用意もある事、それに伴い彼の学費や生活費をこちらで工面しても良い事まで記してあるのだ。

 シライヤを厄介者扱いするブルック公爵家ならば、すぐにでも彼をルドラン子爵家へ預けるだろうと予想していた。当てが外れたようだ。何かおかしな事にならなければ良いのだが。


「そういえば、シライヤに頂いたノートを拝見いたしました。驚く程に解りやすくて、間違って記憶していた所にも気づく事ができました。凄いです、シライヤ。人に教える才能があるのでは?」

「そんな、才能だなんて。けれど、シンシアとの未来を考える前は、教師になる道も考えていたんだ。目指して学んだ事が、役立ったのかもしれないな。シンシアの助けになれて良かったよ」

「教師のシライヤも、きっと素敵でしょうね。将来は共に領地経営をして頂く事になりますが、経営に余裕があれば、臨時講師のお役目くらいならできるのでは?夢を諦める必要は、無いかもしれませんよ」

「卒業後の生計を立てる為に目指していただけだったんだが、シンシアに素敵だと言って貰えるなら、そうしてみるのも悪く無さそうだな。楽しめると思う」

「ふふ。ええ、きっとシライヤなら、素敵な先生になります」


 ゲームでは、平民上がりのヒロインを、王太子妃候補に押し上げるまでの事をやってのけたシライヤだ。きっと教育者としての才能があるのだろう。無理をして教師になる必要は無いが、楽しめそうならやって欲しい。それは、彼の自信の一つになるだろうから。傷ついた心の支えは、一つでも多い方が良いのだ。


「そんなに教えるのが上手いなら、少し相談に乗って貰えないだろうか」


 涼やかな声が唐突に私達へかけられた。この豪華声優ボイスには、聞き覚えがある。声の主はきっと。


「王太子殿下」


 先に気づいたシライヤがそう言いながら席を立ち、私も一息遅れて立ち上がった。学園内である為に、長い口上は控えて、簡易的な礼の形を執るだけにとどめる。


「ありがとう。楽にしてくれ」


 殿下の許しが出て、私達はそろって顔を上げた。


 メインルートの攻略対象。名を呼ぶ機会等無いだろうが、彼の名はアデルバード・アラン・エルゼリア。私達の暮らすエルゼリア王国の第一王子で、王太子殿下だ。


 金髪に青い瞳の典型的な容姿である、解りやすい程の王子キャラ。作品の中で一番の美形に描かれていた彼は、こうして現実に目の前にしても、目がくらむ程の美しさがある。

 今の私にとって、一番魅力的なのはシライヤである事に変わりは無いが。


「盗み聞くつもりでは無かったのだが、たまたま耳に入ってね。シライヤ・ブルック公爵令息は、成績が優秀であるだけでなく、人に教えるのも上手いのかな」

「騒がしい所をお見せいたしました。ルドラン子爵令嬢が、私を良く評価してくださいましたが、殿下のお耳に入れる程の功績はございません。私の教えが上手いというより、彼女自身が優秀なのでしょう」

「ああ、次期ルドラン女子爵として、彼女の才覚には目を見張るものがあると聞いている。では、その優秀なルドラン子爵令嬢は、ブルック公爵令息をどう評価しているのか聞かせて貰えるか?」


 高位貴族の一員であるシライヤがいる手前、私が王太子殿下に対して言葉を発する事は無いだろうと考えていたが、直接尋ねられたのならば答えない訳にはいかない。


「はい殿下。お褒めに与り光栄です。ご質問にお答えいたします。ブルック公爵令息には、教育者としての能力が有ると考えます。彼の教えは解りやすく的確です」

「そうか、先程ノートの事を話していなかったか?無理にとは言わないが、私もそれを見せて貰う事はできるかな」

「彼の同意があれば。いかがでしょうか、シライヤ」

「もちろん、構わない」


 一応尋ねる形は取っているが、殿下が見たいと仰るなら、余程の理由が無い限りお断りはできない。シライヤもすぐに了承した。何も後ろめたい事は無いのだから、ためらう必要も無いだろう。


「これが話題に上がったノートでございます。殿下」

「ありがとう、借りるよ」


 折り目一つつけないように大事にしているノートだ。渡す時に多少の緊張はあったが、王太子殿下は丁寧に開いて扱ってくれた。パラパラとめくるだけの箇所もあれば、じっくりと読み込む箇所もある。そうして最後のページまで見切った殿下はノートを閉じ、何かを考えるように少しの沈黙を作った。


「なるほど、これは確かに素晴らしい。私についてくれる王宮勤めの教師達もけして劣っている訳ではないが、彼等に尋ねても理解できなかった所を理解する事ができた。シライヤ・ブルック公爵令息に、このような才能があったとは知らなかったよ」


 殿下に率直な賛辞を贈られ、シライヤは緊張するように肩をすくめたが、頬がほんのりと赤い。そうして、少し震える声が続けられた。

「勿体ないお言葉です……」


 私に続き、王太子殿下という高貴な人間にまで努力を認められた。傷つけられてきた彼の自己肯定感は、今ようやく報われて癒やしの時を迎えている。表情は取り繕われているが、私にはシライヤの喜びがひしひしと伝わる気がした。


「どうだろうか。私も君達の自主学習に、たまに参加させて貰えないか?ブルック公爵令息には教えを請う事の方が多いだろうから、心ばかりになるが謝礼も考えている」


 と、王太子殿下の続けられた言葉に、穏やかな喜びを抱いていたはずのシライヤの顔が強張った。私も驚きを隠せない。シライヤには本当に能力があるとは思うが、まだ学生の身。王太子殿下に指導して謝礼を貰うのは、なんというか、いきなり出世しすぎ?


「お待ちください…っ、私のような者ではお役目に不適格です」

「このノートを見る限り、そうは思わないな。正直な所、藁にも縋る思いでね。私に足りない学力を、一刻も早く補いたい。試せる事は全て試したいんだ」

「そのように仰いますが、殿下は成績上位者の一人ではありませんか。学力が足りぬ等という事は無いように感じられますが」

「いや、足りないんだ。今のままでは駄目だ。足りていない。何もかも」

「そんな…、しかし」


 さっきまでの喜びはどこへやら。今はすっかり困り果てたようにするシライヤと、何か思い詰めたように自分へ厳しい王太子殿下。どちらも引けずに、重い空気がただよっている。


 王太子殿下は、いったいどうしたというのだろうか。シライヤの言うとおり、殿下は成績上位者の一人。どの科目も、必ず10位以内に入る程に優秀だ。それだけ出来ていれば充分過ぎる。歴代の王族達と成績を比べても、遜色の無い実力だと思うのだが。まさかシライヤのように、トップを目指しているのだろうか?

 彼が王太子という特別な立場であったとしても、そんな必要は……。


 そこまで考えて、はたと王太子ルートの設定を思い出した。


 王太子は、優秀な婚約者に対して劣等感を抱いている。そのせいで婚約者との関係が悪くなる中、ヒロインという癒やしが現れて、王太子とヒロインの間に愛が生まれるのだ。


「言葉を挟んで、申し訳ありません。殿下は、成績において勝ちたい相手がいらっしゃるのでしょうか」


 高位貴族同士の会話に入り込む事へ、恐縮の姿勢を見せつつ尋ねれば、王太子殿下は図星を突かれたと言うように、ハッと驚いて気まずい顔をした。


「あぁ。いや……、勝ちたいという訳ではない。ただ、彼女よりも優れていなければ、きっと、呆れられてしまうから……」

「その彼女というのは、婚約者であらせられる、エステリーゼ・グリディモア公爵令嬢の事でお間違いありませんか?」

「なぜそこまで……。誰にも、その事は話していないはずだが」


 ゲームでプレイしたからです。とは言えないので「わたくし、優秀なので」と流して笑顔を見せておく。納得しきれないと言いたそうな王太子殿下の気持ちは無視して、そのまま言葉を続けた。


「確かに、グリディモア公爵令嬢は、シライヤに並ぶ程の成績優秀者でいらっしゃいます。ですが殿下。最近のグリディモア公爵令嬢は、顔色が悪いように思えませんか?殿下といらっしゃる時も、ずっと俯く事が多いのでは」

「それは……、私が不甲斐ないばかりに、彼女が呆れて……」

「いいえ、殿下。殿下を真にお慕いする、グリディモア公爵令嬢に限って、そのような事はあり得ません。どうか今一度、グリディモア公爵令嬢の置かれている状況に、目をお配りください。彼女はきっと、限界を迎えています」

「どういう事だ?何かを知っているのか?」

「わたくしの口からお話しするのは、はばかられます。殿下ご自身でお確かめになり、グリディモア公爵令嬢が胸の内をお話しくだされば、事態は良い方向へ進むかと」

「……話が見えない。君はいったい何を言って…」


 子爵令嬢ごときの言葉では、押しが弱いだろうか。王太子殿下は訝しむ表情を隠そうともせず、私を観察した。しかたない。それならば。


「もしそれで何の進展も無いようでしたら、シライヤが殿下の学びをサポートいたします」

「シンシア!?」


 シライヤが驚愕の声で私の名を呼ぶが、今だけは乗り越えるべき壁だと思って貰おう。万が一殿下の学習を指導する事になったとしても、それはシライヤの功績の一つになり、王太子との繋がりも持てるのだから、それほど悪い話でもないのだ。妾の子として貴族社会で蔑ろにされる彼は、むしろそのくらいの多大な功績があった方が、今後の為にも良いとも言える。その時は、私もシライヤに全力で協力しよう。


「……良いだろう。では、中間報告として、一週間後。再びこの図書室で、この時間。構わないか?」

「はい、殿下」


 シライヤは了承の言葉を発していないが、王太子殿下は振り返る事も無く颯爽として図書室を後にした。


「シンシア、どういう事なんだ?何か確証があっての言葉なのか?」

「シライヤ、勝手な真似をした事を謝罪いたします。どうしても承諾できないと言うなら、これは私が契約も無しに行った事、貴方には拒否する権利があります」

「いや、そういう事じゃ。そもそも、殿下にあのような事を言った以上、今更無かった事にはできない」

「シライヤは大丈夫ですよ。殿下は優秀な方です。シライヤへ確認をしなかったのは、殿下もこれが正式な契約でないことを理解しているから。学生の身分で、学園の図書室という場所で、私達の会話は冗談の話し合いにすぎません。もちろん、王族へ虚偽の発言をする事について、お咎めが無いという事はありません。けれど状況的に、私個人への罰で終わります」

「まさか!そんな事はさせない!シンシアの為なら、殿下の成績をトップに押し上げるくらいの事はやってみせる!教師役だろうと何だろうと、引き受けるさ!」


 声を大きくしながら、私へ歩を進めるシライヤ。普段であれば、必要以上に近づくと恥ずかしがって身を引くような人だというのに。


「ふふ、ありがとうございます、シライヤ。……ヤンデレキャラの熱意って素敵かも」


 前世共に、ヤンデレ設定にときめいた事は無かったはずだが、シライヤにここまで熱く想いをぶつけられるのは悪くない。むしろ良い。とても、可愛い人。


「…やん…で?なんだ?」

「あら、声に出てました?」


 私も、シライヤを前にすると迂闊になるのだろうか。気をつけなければ。


「東北にある遠い国の言葉で、愛情深い人という意味ですよ。ヤンデレは」

「そうなのか……?シンシアに、俺の気持ちが伝わっているなら、それは良い。しかし、殿下へ言った言葉の意味は?君の事が心配なんだ」

「詳しい話は、できません。たとえ将来の婚約者にもです。でもシライヤ、私は貴方と共に歩む未来を楽しみにしているんです。それを壊すような真似はしません」

「……解った。無理には聞かない。シンシアを信じたい」

「ありがとうございます。シライヤ。……なんだか愛しくなってしまいました。こっそり頬に、キスをしてしまいましょうか」


 辺りに人の気配は無いが、そっと耳打ちをしてキスを強請ると、シライヤは真っ赤になって私から遠く身を引いた。


「そ、それは、まだ早い!」


 初心な反応をするシライヤも、可愛らしくて仕方ない。早く婚約者になりたい。


 だが、愛らしい彼に手を出そうとした罰だろうか。その日屋敷へ帰宅すると、両親は難しい顔をして私を出迎えた。ブルック公爵家から、釣書の返事が届いたのだ。その返事には、公爵家の次男の釣書も添えられて。


 いわく、次男の婚約が整っていないというのに、三男の婚約者を先に決める訳にはいかない。

 いわく、次男は前からルドラン子爵令嬢に想いを寄せていた。

 いわく、三男は酷く手癖の悪い不出来な息子で、ルドラン子爵令嬢を騙している可能性がある。

 いわく、次男は紳士的で立派な自慢の息子である為、きっとルドラン子爵令嬢も気に入るだろう。


 大体はそんな内容だ。これは、起こって欲しくない事態が起こってしまった。ブルック公爵家は、シライヤではなく、次男を私にあてがいたがっている。


「お父様、お母様、シライヤ・ブルック公爵令息は、わたくしを騙すような事はしておりません」


 両親へ真っ直ぐに言い切ると、父がすぐに言葉を続けた。


「解っているよ、シンシア。彼が生まれのせいで、公爵家で冷遇されているというのは公然の秘密だ。以前は、社交界に未だ顔を出していないシライヤ君の、悪い噂が信じられている時もあったが、学園という公の場に出た彼の真面目な生活態度を見て、その噂は懐疑的な物となっている。それどころか、公爵家の長男と次男は乱暴な者達で、評判が良くない。シンシアの婿にその次男を選ぶだなんて、私達だって反対だとも」


「良かった……。信じてくださってありがとう」


 ホッと胸を撫で下ろしたが、両親の顔色は未だ暗いままだ。なるほど、二人の言いたい事は推測できる。二人が言いづらそうにしているなら、私から尋ねよう。


「公爵からの打診であれば、はね付けるような真似はできないという事ですね。私は必ず、公爵家次男との顔合わせをしなくてはならない」


 言った私に寄りそうように、母が隣に立って私の身体を抱きしめてくれた。


「ええ、その通りよ、シンシア。けれど、婚約は必ずお断りするわ。公爵家とて、無理に婚約を結ぶ事はできないのだから、安心してちょうだい。ただ、一度か二度、貴女は望まない男性と顔を突き合わせなくてはならない」


「承知しております。高位貴族の面子を潰さぬように動くのは、貴族の義務。公爵家からの打診を受け、お見合いはいたします。ただ、次男様との婚約をお断りした事で、ブルック公爵様の不興を買い、シライヤとの婚約を認めて頂けなくなるかもしれない不安が残ります」


 私達家族に、その後に続く会話は無かった。何も手立てが無いからだ。


 突然差した暗雲に、私達がその日顔色を晴らす事は無かった。


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