スズメバチ事件 のらくら文芸部企画もの

棚霧書生

スズメバチ事件

名刺、ねこまんま、一酸化炭素


 刑事をやめた。花形の捜査一課の仕事を捨てるのはもったいないと引きとめる人もいたけれど、バディの乾さんが殉職したことが自分の中でどうしても消化しきれないと返せば、もう誰も引き下がってくることはなかった。

 今日は秋風が冷たい。退職してから数日経ち、俺はなにをするでもなく近所をぶらぶらと散歩していた。まさか自分が無職になる日がくるなんて思いもせず、これからのことはまだなにも考えていない。今、一番やりたいことといえば乾さんの墓参りくらいだ。それが済んだら先のことをまたぼちぼち考えようと思う、今日のうちはとりあえず家に帰って温かい鍋が食べたい。

 安売りスーパーに寄って野菜を買って帰ろう。大根と白菜、旬のきのこを入れるのもいいかもしれない。

「すみません! そこのお兄さん!」

「……はい?」

 俺が鍋について思いを馳せていたところ、俺よりひと回りほど体の小さい男が突然話しかけてきた。

「そこのコインパーキングに車を停めてたんですけど、手持ちが万札しかなくて自動精算機に入らないんです……。近くにコンビニとかないですかね?」

「ああ、なるほど。それなら……」

 俺の目的地でもある安売りスーパーで菓子でも買えば、札が崩れてちょうどいいだろうと男に場所を教えてやろうとした。だが、バチバチッ……! という音と体に走った痛みで俺は体勢を崩した。視線を下に落とすと男はスタンガンを俺の腹部に押し当てている。

「なにをッ!?」

「ゲームは始まったばかりだよ。な~に途中退場しようとしてんの、ネコくん?」

 ニヤニヤと弧を描く男の口元。そこで俺の意識はふっつりと切れた。


 寒さで目が冷める。カチコチに固まった体にうっかり床で寝てしまったのだったかと疑問を抱いたのは一瞬で、気絶前のことを瞬時に思い出す。

 現在は硬くて冷たいコンクリートの床に直に転がされ、手足は縛られていてまともに身動きがとれない。誘拐されたと結論づけるのは簡単だった。

 床も壁も天井もコンクリート。四角い部屋の中央に俺はいて、正面には扉がひとつだけある。無機質な部屋の中で変わったものといえば、ペット用の給餌皿が置いてあるのと扉のうえにモニターが設置されていることだろうか。

 とにかくここから出なくては。一人暮らしで職場を辞めたばかりの今の俺には失踪したことに気がついてくれる同僚や知人はいない。

「くっ、開かない……」

 縛られた足でぴょんぴょん移動し、後ろ手でドアノブを握って開けようと試みてはみたが、当然というか扉には鍵がかけられていた。

「クソがッ!」

 苛立ちまぎれに扉を叩く。疲れと寒さで気が滅入っている。呼吸するたびに恐怖が増幅していくような感覚。それは誘拐されていることに対してにもあるが、さっき後ろ向きになって扉を開けようとしたときに見つけてしまったものの存在が大きい。

 扉と反対側の壁に寄せて置かれているアレは、火鉢だ。

 火が爆ぜるような音は今のところ聞いていないから、きっとまだ火はつけられてはいない。しかし、こんな密閉空間でアレで炭など燃やされれば一酸化炭素中毒でそう時間もかからずにお陀仏である。

 プツッ……、電子機器に電源が入った小さな音が部屋に響く。

「あー、テステス、ネコくーん聞こえますぅ?」

「なにが目的だ、金か情報か、なぜ俺の名前を知っている! 答えろ卑劣な誘拐犯!」

 矢継ぎ早に質問を投げつける。しかし、誘拐犯の男はベッと舌を出しただけで回答はしない。

「うへぇ、めっちゃ高圧的……。もう少しビビろうよぉ、死んじゃうかもなんだからさ。まったくもう……バディってやっぱ似るのかな、イヌくんもおんなじような態度だったしぃ」

「イヌくん……乾さんのことか!? お前が乾さんをッ……!」

「ああ、はいはい。キャンキャン鳴くのはやめてよね」

 誘拐犯がなにかのスイッチを押した。すると後ろの火鉢からカチッと音がする。まさか、遠隔で火をつけられるのか。

「やめろ……出せッ、早く出せッ!」

「寒いだろうからその火鉢で暖まりなよ。僕からのオ・モ・テ・ナ・シ!」

「ふざけるなッ! 死んじまうだろうが!!」

「えー、気に入らないの? じゃあ僕を楽しませてくれたらそこから出してあげてもいいよ」

「楽しませる?」

 男の薄ら笑いに嫌な予感しかしない。

「僕ねぇ、動物がご飯食べてるところを見るのが好きなんだぁ」

 床の給餌皿には白米が盛られ、そのうえから鰹節がかけられている。これはそのために置いてあったというのか。悪趣味極まりない。

「ネコくんは名前がネコだから、ねこまんまを用意してあげたよ! さあ、食べて食べて!」

 ここで死ぬわけにはいかない。奴の言うことに従えばその場しのぎでも命はつながる。だがしかし、手を使えない今、床のねこまんまを食べるには皿に顔をつっこみまるで本物の犬猫のような食べ姿を晒さなくてはならない。プライドがせめぎあう。

「クソックソックソッ!」

「アハハハハハ! 食事中にクソとか言っちゃだめでしょ」

 俺はなりふりかまわず、ねこまんまを食べた。ここから出たら、絶対にあの男を捕まえてやると心に決めて。

「ちゃんとゼーンブ食べるんだよ。そしたら、ヒントをあげるからね」

「はぁ……はぁ……」

 なんだか頭が重い。それに眠たい。俺はこんな無様な格好のまま死ぬのか。

 舌先になにか触れる。少し硬くて薄っぺらい、食べものではなさそうだった。最後の力を振り絞り、舌で残った白米をすくいとる。ねこまんまの下に名刺のようなものが隠されていた。

『連続殺人犯 すずめばち』

 やたらにポップなフォントで書かれたその名称に俺は覚えがあった。忘れるわけがなかった。

「うふふ、僕を捕まえにきて」

 乾さんと追っていた最後の事件、スズメバチ事件。その犯人が再び動き出したのだ。


終わり

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