土蜘蛛
三上 宥
本文
ある満月の夜に此の
「嗚呼、」
思わず漏れ出た吐息はひどくくぐもっていた。自明、
辿り着いたるは山嶽も中腹の、本来の意義を失う程に腐った
狩衣が
「夜行他行急急如律令」
途端に世界は止まったかのようだった。一寸の沈黙の後に、征先を
また
先程までの険しさとは裏腹に、そこは
狩衣が暫く様子を伺っていると、鈴の音に引き寄せられたのだろう、人々がだんだんと
「
集落の長であろう老人は声音とは反対に、飄々とした笑みを浮かべていた。発された言葉を皮切りに野次馬は散り散りになり、各々の家屋に戻っていくが、その無感情な視線だけは団扇より外れていない。
「蜘蛛はいるか、蜘蛛はいるか」
ほ、ほ、ほ、と堪え切れず
「蜘蛛などおらぬ、お前が蜘蛛ではないのか。貴族が
「里では疫病が流行っている。私はこの地に結界を張るために来たのだ」
「そうか、それは有難き事だ。この夜更けでは里に下りることもできぬ。泊って行ってください、
老人は、今度はくつくつと喉を鳴らすと背を向けて歩き出した。杖の土を掘る音のする度、鈴の音が尾を引いた。
老人の家は一際大きく、板を張っただけの小屋といえども少しのことで倒壊することはない程度に補強された、頑丈な造りに見えた。
「さあ、お座りください」
老人は相変わらず皺だらけの顔に笑みを張り付けていた。その骨に皮が張っただけの手には、
「
「気遣いはいらぬ。私は直ぐ火を奉げに征く」
民間にも酒造が解禁されて久しいが、普通、鄙に酒など下るはずがない。そんな貴重な
「
「ほお、貴方は陰陽師か」
最後に右手を
「一宿の
「これは奇妙なものを見た…」
「では、私は鬼門を封じに参る」
と場を制した。老人はまた笑みを張り付けて、外まで狩衣の背を見送りに行った。鈴の音が遠のいていくのをよく聴くと、その柔和な顔を苦々しく
集落の
「
真言を絶え間なく繰り返しながら、右手は燧石を取り出すとそれを石英に打ち付けた。朱が弾ける。打ち付ける。弾ける度、朱は稲妻のように姿を変えていった。火の粉が
その時、不可思議なことが起こった。最初は狼の遠吠えと思ったが、それはだんだん大きくなり、近づいてくる。そしてやっと理解できた。集落中から
「苦しい、苦しい…」
足踏みが地鳴りを起こし、
「やはり蜘蛛であったか」
瞬く間に
「ぐるじい…久方振りの人間…
大蜘蛛が前足を上げると、よりその巨体から放たれる邪気に
「喰ろう…喰ろう…」
飢餓と憤怒で、大蜘蛛はもはや発狂していた。瞳は血走り真赤に染まっている。八本の足を順番に振り上げては振り下ろし、地面を揺らし続けた。一方、狩衣は浮世離れの冷静さを保っていた。足元に転がりたる
「二度とこの地が人間に踏まれるときはない」
その言葉を聞き終わらずに、発狂した大蜘蛛は前足を振り上げて狩衣に叩きつけた。
静寂――
撒きあがった土煙が落ち着くまで、大蜘蛛の前足は獲物を逃がすまいとその鋭利な爪先を地面に突き刺していた。
「人間風情が…」
真赤になった白目を剥いているにも関わらず、
後に聞けば、その
狩衣はついに腰を抜かして、それでも這いつくばりながら、
「
狩衣は息を切らして、朝を迎えられた安堵を噛みしめながら、震える声で呪いを唱え続けるのであった。
土蜘蛛 三上 宥 @silver51
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