土蜘蛛

三上 宥

本文


 山嶽さんがくの晩は一層冷たく、霧深く、いくら夜目が利こうとも集落に辿り着くことすらあたわず。一度獣道を外れたなら暗闇の樹海に這うむくろをいくつも見ることになるだろう。その朽ちたうろからは無念が溢れ出で、それは霧と交わりながら、負を纏わせる様に漂う。もしもまよ過客かかくが虚と目を合わせたならば、瞳は同じ恐怖と失望に濡れそぼち、やがて死魔に囚われてしまうのだという。

 ある満月の夜に此のを征く者がいた。しゃなりしゃなりとり出づ毎に、深沓ふかぐつ泥濘ぬかるみを掻き進み、揺れる露先つゆさきから凛々と鈴の音が零れる。霧の分子にまで侵食した淡光が、美しい白練しろねり狩衣かりぎぬを打ち照らし、同じ色にわれた繊細な装飾がその僅かな凹凸おうとつに影を落としていた。あまりに異質と見える出で立ちに、森は立ち入ることを拒絶するが如く一陣の風すら嵐と成し、無数の葉の囁きの重なりは咆哮となって聴覚を支配する。鈴が比例して、けたたましく鳴り響いていた。

「嗚呼、」

 思わず漏れ出た吐息はひどくいた。自明、当腰あてごしの真中に据える左掌ひだりては石英の嵌められた小手に守られており、これ又大切に握りこまれた団扇うちわが、何者ともつかぬ顔貌がんぼうを輪郭ごと覆っているのである。それはみどりに鈍く光るようにも見える。どんなにみちが荒れ果てていようとも、ついぞ決して秘事ひめごとから離すことはなかった。進めば進む程に袖は空に泳ぎ、泥濘は更に粘度を増して地の下へ引き摺り込もうと足にしがみつく。しかし、団扇の狩衣は歩み続ける。


 辿り着いたるは山嶽も中腹の、本来の意義を失う程に腐った東屋あずまやであった。ここから集落までの途程みちのりは僅かであるはずだが、光明を指すはずの天満月あまみつづきは分厚い雲に覆われ、すっかり見通しが消え失せてしまった。そんなことに迷うことなく団扇の狩衣が東屋に踏み入ると、散乱した細かい枝端が折れ、乾いた音が鳴る。目測通りであった。そこにはかたわらの闇にも負けぬ、漆黒に色取られた枝葉の燃えかすがある。手頃な石に囲われて、この異常を前に、人間の営みを感じさせた。

 狩衣がおもむろに膝を折り袖をまさぐると、丁寧に取り出したのは式神を人型ひとがたの一種であった。今にも吹き飛んでしまいそうな可憐な和紙が手元を離れても宙に揺蕩たゆたうまま、何かを待っている。空いた右手が次に取り出したるは、左の小手に仕舞われた燧石ひうちいしまじないが込められているのか、団扇と同じ鈍い翠をたたえている。これを石英に叩きつけると、幾度と朱が飛び散った。そして、囁く。見つからぬように。

「夜行他行急急如律令」

 途端に世界は止まったかのようだった。一寸の沈黙の後に、征先をくらます霧に風穴が開き、一陣の風は怒りを収め、やがて月影が現れた。動き出した刻の中で人型が自然の摂理に沿ってひらひらと舞い落ちていく。だが、これを治めた張本人といえば、柱の下に身を隠し、暫く蹲っていた。震えながら、小さく小さく、何かの呪いを何度も何度も唱え続けている。唱えるというより、微細に空気を揺らしているといったほうがいい。団扇の狩衣は、神を使役しながら、神をおそれているのだ。


 また皓皓こうこうと照らされた途をしゃなりしゃなり歩き出すと、獣道はいつの間にかちゃんと踏みしめられた登山道となっている。そして遠くから狼煙のろしを上げて、集落は過客をいざなっていた。

 先程までの険しさとは裏腹に、そこは長閑のどかであった。板を打ち付けるだけの簡易的な小屋が並び、中には古式ゆかしい竪穴式住居も垣間見える。雨上がりに焚火の跡のいぶる香りが一つ二つと上り、鼻腔を刺激する。一体あの嵐をどう凌いだというのだろうか、集落には動揺など感じられなかった。

 狩衣が暫く様子を伺っていると、鈴の音に引き寄せられたのだろう、人々がだんだんとむらがってくる。過客のただならぬ様相に、歓迎という雰囲気は微塵もない。足音もなく、言葉もなく、感情の無い雙眸そうぼうがぞろぞろ増えていく。とうとう逃げ場が無くなる頃、地の底から湧いたような、しわがれた声が沈黙を切り裂いた。

宵時よいどきに人間が来るとは思わなんだ。妖怪のたぐいか」

集落の長であろう老人は声音とは反対に、飄々とした笑みを浮かべていた。発された言葉を皮切りに野次馬は散り散りになり、各々の家屋に戻っていくが、その無感情な視線だけは団扇より外れていない。

「蜘蛛はいるか、蜘蛛はいるか」

ようやく狩衣が口を開くと、とても顔を覆うものがあるとは思えぬ程澄んだ声が通った。しかも、その出処はおよそ口の位置からとは思えぬ、まるで全身から発されたかと感じられる響きであった。

ほ、ほ、ほ、と堪え切れずわらいながら、老人は冗談交じりに答える。

「蜘蛛などおらぬ、お前が蜘蛛ではないのか。貴族が斯様かよういなかに来るわけがない」

「里では疫病が流行っている。私はこの地に結界を張るために来たのだ」

「そうか、それは有難き事だ。この夜更けでは里に下りることもできぬ。泊って行ってください、拙家せっかではございますがな……」

老人は、今度はくつくつと喉を鳴らすと背を向けて歩き出した。杖の土を掘る音のする度、鈴の音が尾を引いた。


 老人の家は一際大きく、板を張っただけの小屋といえども少しのことで倒壊することはない程度に補強された、頑丈な造りに見えた。床座ゆかざに通されると、湿気にゆるんだむしろの柔らかな質感が、懸け路に痛めつけられた足裏を包み込む。

「さあ、お座りください」

老人は相変わらず皺だらけの顔に笑みを張り付けていた。その骨に皮が張っただけの手には、さかずきが握られている。

粗酒そしゅでは貴族様のお口には合いませんかな」

「気遣いはいらぬ。私は直ぐ火を奉げに征く」

民間にも酒造が解禁されて久しいが、普通、鄙に酒など下るはずがない。そんな貴重な御饗みあえを受け入れることなく、団扇の狩衣は胡坐をかいた。そして袂から札を取り出すと、震える声で、小さく真言を唱えた。

おん阿毘羅あびら吽欠うんけん蘇婆訶そわか、唵阿毘羅吽欠蘇婆訶、唵阿毘羅吽欠蘇婆訶…」

「ほお、貴方は陰陽師か」

最後に右手をかざすと、札にはひとりでに呪文が浮かび上がった。老人の物珍しげな視線を尻目に狩衣は立ち上がり、凛と余韻を残して、護符を壁に当てる。それは吸い付くように、そこにあるのが自然と言わんばかりにぴったりと貼りついた。

「一宿のれいだ。呪いと侮るな、わざわいは消えるだろう」

「これは奇妙なものを見た…」

およそ信じ難い現実を前に老人は目を丸くした。この団扇の狩衣が神秘を今ここに産み出したのだ。狩衣がその手を震わせながらすっと立ち上がると、

「では、私は鬼門を封じに参る」

と場を制した。老人はまた笑みを張り付けて、外まで狩衣の背を見送りに行った。鈴の音が遠のいていくのをよく聴くと、その柔和な顔を苦々しくしかめる。そうして床座へ駆け戻ると、壁にへばりつく忌々しき護符を破り捨ててしまった。


 集落のうしとらには悪臭が立ち込めていた。野晒しの遺体が積み重なり、肉はところどころ腐り落ちている。どす黒く風化した門の隙間から、ひゅうと音を立てて風が吹き込み、あからさまにどんよりとした負の気が躰に染み渡っていくのがわかった。これ程ない不浄が邪気を殊更ことさら呼び寄せているのだ。狩衣が右腕を大きく振って、一際大きく鈴を鳴らす。そして、蒼白い人差し指と中指をぴんと伸ばし、ゆったりと五芒星を描いた。

おん剣婆けんばや蘇婆訶そわか、唵剣婆蘇婆訶…」

真言を絶え間なく繰り返しながら、右手は燧石を取り出すとそれを石英に打ち付けた。朱が弾ける。打ち付ける。弾ける度、朱は稲妻のように姿を変えていった。火の粉が指貫さしぬきを滑り落ち、土の上で悶えている。団扇の翠が強さを増している。その頃を見計らって、たもとから人型をはらりと落とすと、それは一寸いっすんの間もなく大きく燃え上がった。徐々に不浄が焼きはらわれていく。

 その時、不可思議なことが起こった。最初は狼の遠吠えと思ったが、それはだんだん大きくなり、近づいてくる。そしてやっと理解できた。集落中から苦悶くもんの声が湧いているのだということが。

「苦しい、苦しい…」

足踏みが地鳴りを起こし、阿鼻叫喚あびきょうかんが耳をつんざく。からだを崩さぬように狩衣は地に踏ん張ることしかできない。鈴がまた、けたたましく鳴り響いた。


「やはり蜘蛛であったか」

瞬く間に鎮座ちんざしていたのは、その顔を見上げなくてはならぬ位に厖大ぼうだいな蜘蛛であった。獅子の顔は般若の様相を呈し、八本の足はうごめき地を揺らし、細かな毛を怒りに任せ散らしまくっている。

「ぐるじい…久方振りの人間…ろう…」

大蜘蛛が前足を上げると、よりその巨体から放たれる邪気に気圧けおされた。どれくらい人間を喰らったのか、今にもはちきれそうに膨れた腹が目の前に広がる。そしてくらむ程の雄叫びをあげると、衝撃は波となって、狩衣の躰と脳を揺さぶった。浄化の炎が吹き消されるのと同時に、さっきまであったはずの集落は腐った樹海と化していく。足元にはいくつもしゃれこうべが転がっていった。大蜘蛛が悶え、大足を全て大暴れさせると、湿気を吸った土はかき回されて、砂煙となって視界を覆いつくすのだった。やがて、残るものは大怪物と、小さな狩衣だけとなった。

「喰ろう…喰ろう…」

 飢餓と憤怒で、大蜘蛛はもはや発狂していた。瞳は血走り真赤に染まっている。八本の足を順番に振り上げては振り下ろし、地面を揺らし続けた。一方、狩衣は浮世離れの冷静さを保っていた。足元に転がりたる幼子おさなごのしゃれこうべを拾い上げると、この無念が胸をいっぱいにするのだ。

「二度とこの地が人間に踏まれるときはない」

その言葉を聞き終わらずに、発狂した大蜘蛛は前足を振り上げて狩衣に叩きつけた。


静寂――


 撒きあがった土煙が落ち着くまで、大蜘蛛の前足は獲物を逃がすまいとその鋭利な爪先を地面に突き刺していた。

「人間風情が…」

真赤になった白目を剥いているにも関わらず、口許くちもとだけは飄々とした笑みが浮かべられている。なんとも異形いぎょうつらに垣間見えるのは、あの老人の面影であった。老人の正体とは滝のようなよだれを垂らして、人間を騙し、喰らいつくのをたのしんでいる、鬼畜だったのだ。もうもう待ちきれないと前足を持ち上げた、瞬間である。


 後に聞けば、その炎柱えんちゅうふもとの里からでもはっきり見える程綺麗に天に昇っていたのだという。未だかつて聞いたことのない悲鳴にも似た轟音と、立っていられない地震とともに。何百年という単位で怪奇に苦しめられた里の人々は手を合わせ、最後の最後、それが燃え尽きる瞬間まで、拝み続けていたのだと。

 狩衣はついに腰を抜かして、それでも這いつくばりながら、形代かたしろとなったしゃれこうべを丁重に地中に埋めていた。あの時遺体の山に見えていたものは、山嶽に眠る無念たちが形を成して、陰陽師にこの異常事態を伝えていたのだろう。仰向けに倒れこんだ狩衣に、一陣の風が吹いた。それは優しく団扇を撫で、震え続ける脚を労っている。いつの間に夜は明け、澄み切った濃い青空にあさひが昇っていた。

元柱固具がんちゅうこしん八隅八気はちぐうはつき五陽五神ごようごしん陽動二衝厳神おんみょうにしょうげんしん、害気を攘払ゆずりはらいし、四柱神を鎮護ちんごし、五神開衢ごしんかいえい、悪鬼をはらい、奇動霊光四隅きどうれいこうしぐう衝徹しょうてつし、元柱固具、安鎮あんちんを得んことを、慎みて五陽霊神に願い、奉る」

狩衣は息を切らして、朝を迎えられた安堵を噛みしめながら、震える声で呪いを唱え続けるのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

土蜘蛛 三上 宥 @silver51

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ