星の数【0~9】の人々を愛おしむ

朝吹

星の数【0~9】の人々を愛おしむ


 カクヨム作品の、約七割が、【星の数0~9】のゾーンにいる。

 わたしも、そこだ。

 二桁に乗るのは、折に触れて自主企画に細々と参加するからであって、それがなければ確実に【0~9】帯に沈んでいる。まさに星屑。


 七割。毎年12月~約二か月、開催される読者選考でこの層が最初の壁を突破をすることは、ほとんどないだろう。

 じりっじりっと刃先をこじ入れるようにして七割の中からも第一関門を抜けていく者もいるにはいるが、ひじょうに稀だ。


 交流先の数で決まるんでしょ?

 レビュー爆弾(通称、星爆)をやってお返しを集めた人が通過するんでしょ?


 読者選考についてはそんな批判的な声が上がる。事実、多くの書き手は平生から互いに星を送り合っている。

 固定の読者を大量に抱えた上位層は別として、星の数とは、返礼価格、オトモダチ価格なのだ。

 

 

 そういうものなのだな、と承知の上で、個人的には一作たりともいい加減な気持ちで書いたことはないし、星をもらえる時も、「評価してもらえるだけのものを創れて良かった」と云い切れる。だが、いかんせん作風が暗いため、ウェルカムなわりに、慢性的にわたしも一桁組だ。

 実感としてやや遊びをこめて書いたもののほうが、常よりはウケがいい。跳ねるほどではないが、比較的、見知らぬ人にも広く読んでもらえる。

 軽いこと、明るいこと。

 短いこと。

 平易な文章で読みやすいこと。

 これらが良いとされる。

 日記の切れ端のようなものが、あっという間に高い評価を受けるのを何度も目の当たりにするにつれて、星屑たちはだんだん諦めの境地になるのだろう、いよいよ目立たぬ処に沈んでゆく。

 

 軽いものが悪いというわけではない。小説未満の吐露、X(Twitter)の呟きのようなものであっても、気楽に投げ銭を入れたくなる間口の広さは、そこに何らかの人心を引き寄せるサインがちゃんとあるからだ。その魅力とは、『素直さ』のように想う。

 何重にも濾過して作り上げる小説とは異なり、嬉しければ嬉しい、辛ければ辛いと、心の内から率直に出てきたものは、多くの人の共感を呼ぶ。



 外の世界にいる人は単純にこう想うだろう。星の数0~9なんてよっぽど下手なのね。

 ところがその逆で、この七割の最底辺には、どきっとするほどの巧者が大量に埋もれている。

 小説を書ける人というのは、空を魚が飛ぶようなもので、明らかにその文章が他とは違う。巧いかどうか以前に、奥から何か立ち昇るものがある。

 もちろん単純に下手な人も大勢いるが、小説を書ける心を持っている人というのは巧拙に関係なく、冷えた大地の合間から覗くマグマのように、隠せないものなのだ。


 残念なことに、そのような「持っている」作品はwebでは完全に不利だということになっている。気楽に、短時間で、隙間時間にさっと読める、面白い海外ニュースのような作品がいちばん人気がある。もともと投稿サイトが立ち上がった当初から焦点がそちらに向いているのだ。

 星屑たちは場所をお借りしているだけで、文句があるのならば、外部の公募に応募すればよい。ここに居たっていつまでも、【星の数0~9】の沼に漬かったままで、自然に陽の目を見ることは、よほどの幸運に恵まれない限り、まず絶対にない。

 

 どれほど神経を削って小説を書いたところで、私たちの七割は日陰の雑草だ。

 読者選考においても普段から光があたっている人たちに順当に光があたって花が咲き、日陰にいる七割にはやはりその光は届かない。

 異世界Fジャンルは特殊なので除外するとしても、オトモダチ価格を持っている人の作品で、枠は次々と埋まる。


 けなしているわけではない。誰もがそのからくりを重々承知だからこそ舐めてかからない。精魂こめた作品を携えた彼らが目指すものはその先に待つ書籍化であって、一次はそこに到達するために何としても抜けなければならない最初の関所だというだけだ。厖大な数の作品が殺到する中、ここを抜けるために、オトモダチの力を借りるのだ。

 だから、誰も悪くない。

 いや、悪いだろう。

 【0~9】の人間は今まで何していたのだ。なぜ星をもらえるような努力をしなかった。

 自らは何も動かないくせに、一年をかけて小まめに名を売り顔を出し、隅々にまで足跡を残し、多くの作品に星をつけてコメントを入れて、『必勝法』を参考に、攻略ゲームをするかのように入念に準備をしてきた人々がその努力が実って手難く最初の関門を突破をするのを指を咥えて眺めながら、「ずるい」と云っているようなものではないか。


 【0~9の星屑】に対して、哀切ともいうべき愛しさを、わたしは覚える。

 7割にも達するこれらの底辺の星屑さんたちは、そんなことをやりたくないのだ。そんなことをやりたくないという、ぐずつく抵抗を世俗のことわりに対して抱いているからこそ彼らを小説という架空世界に没入させ、作品を書かせているのだ。お返し目当ての連発レビューが絶えないのはそれに着実な効果があるからで、シビアなほどに『返報性の法則』がはたらいている世界において、星を配らなければ星は戻って来ないと幾ら説かれても、彼らは一歩たりとも自陣から出てこない。

 彼らの多くは、こういうスタンスなのだ。


 交流はしんどい。

 心から良いと想う作品以外には、星をつけたくない。


 しかも、その心から良いと想う作品の基準が、世界の名作レベルに、非現実的にばか高い。その気高き、芸術の殉教者のような、自らの信じる感性を磨き上げて媚びのない彼らの姿は、研ぎ澄まされた鋭い剣のようにわたしの眼には映る。真剣に小説に取り組んでいるのは彼らも同じなのだ。


 性格が甘いわたしなどは、どなたの作品を眼にしても、

「こんなにいっぱい書くの、大変だったよね」

 園児の遠足をみる老人のごとくに胸が詰まってホロリときてしまい、皿に盛られたものならば何でも美味しいという認知症のように、かなり緩く過ごしているが、そんな軟弱な態度を経てしても、数えられるほどの星しか得ることが出来ないという、実に情けない中途半端さだ。

 【0~9】の人々の姿は、風の中をゆく孤狼のように、峻厳に、そして痛ましく眼に映る。彼らの抱えている怖ろしいほどの孤独と諦念、そして世渡りの拙さと弱さは、笹の葉で指先を切るのに似て、ざくりと痛い。

 


 企業とは、どれほど美辞麗句を並べ立てていても、利益を追求している。それが良い物を世に生み出すことと合致していると良いのだが、継承されてきた大工の技よりはパネルを組み立てるだけの家の方が、また、職人の逸品よりは間に合わせの均一価格商品がもてはやされるこの時代において、売り出されていく主力商品の傾向は、十代の頃のわたしが親しんでいたような、少し年上の登場人物たちと共に冒険し、少しだけ難解な世界に憧れを抱いて胸をとどろかせていたものとは同じラノベであっても全く違ってしまっている。

 軽いこと。

 明るいこと。

 楽しいこと。

 辛い時に明るい作品を読んだってまったく心は晴れないが、なぜか「暗い時代の今だからこそ」という枕詞をつけて、異世界に逃避するぱっかーんと明るいラノベが順繰りに書籍化していくようだ。


 多くの方は書き手同士で星を贈り合ってカクヨムコンの最初の関所を抜けていく。そんな、新作を出すたびに軽々とたくさんの星を手にする人たちの裏で、底の底、井戸の底で、何年経っても、星0~9の一桁組は、日蔭のまま、ほとんど光が当たらない仕組みになっている。


 わたしはこの七割の、一桁の星しか持たない人たちのことが(実質的にわたしもこの層にいる)、いじらしく、愛おしく、哀しくてならない。

 書いても書いても、長篇を完結しても誰にも読まれることはない。それでも、倦まず弛まず書き続けている彼らは、それだけの芯の強さと、書きたい小説があるから、そうしている。小説の方から、書いてくれ、出してくれと、彼らを呼ぶのだ。

 決して下手ではない。駄作でもない。

 大手の公募の最終選考に残るかもしれないような、そのまま書店に並んでもいいような作品だって、たくさん眠っている。

 たまさかその一つが、ふしぎな跳ね方をして、星の数が一定数を超えたあたりから突然ブーストがかかり、人気作になったりもするが、あんな現象は奇跡的な確率だ。


 物書きは孤独で、頭を使う。

 少し疲れて重たい溜息をつきたくなる時に、誰かがコメントを入れてくれたり、レビューを寄せてくれると、一気に回復して元気が出る。

 自分がそうなのだから、他の人もきっとそうだろう。

 そう想い、ユーザーは好意の返報性という善意の輪の中で、励まし合い、精進しあって、仲良くなっていく。

 これがなければ創作活動の愉しみも半減だと云えるほど、交流は楽しい。


 では、一桁しか星をもたない人々は、なぜ同じようにそうしないのだろうか。


 野武士のような剣士が実際にいて、狎れ合いなど不要とばかりに過去スパッと斬られてしまったことがあるのだが、「こんな鋭角的な人が今でもいたのか」と愕きのあまり苦笑が洩れた。

 孤高の剣士が、キェェェエェエ! と裂帛の気合で斬ってくるのは構わない。構わないが、問題は、


 そうですか。


 ならば。


 こっちも同じように鯉口きって相手に斬りかかるのかといえば、こちらは別にそんなことをやりたくはないということで、まったくもって斬られ損だった。

 辻斬りに遭ったら一度くらいは、

「しからば御免」

 と、こちらからも骨まで断ってやりたいものだ。やらないが。

 書き手同士の狎れ合いは、現状、積極的に歓迎されている。

 二度と起き上がれないように内臓をぐりぐりして地面に串刺しにしてやろうか、などと、『武士の刀の代わりに筆を持ち、たとえ文豪であろうと下らぬ作品は斬り捨て御免』そんな野蛮と矜持のあった古き時代の文壇がそうであったような斬り合いがカクヨム内で横行しはじめたら、あちこちに死体が転がり、絶対にギスギスして収拾がつかなくなるだろうから、「なあなあ」でやる方がよほどよい。

 だから辻斬りしたい人は違う投稿サイトに行って斬るといい(※駄目です)。

 

 滅多なことでは星をばら撒かない。そんな七割にもなろうとする人々は、上記の剣士のように全員がよほどの偏屈者なのだろうか。

 そうではない。

 もともと物書きは、性格的には暗めで、内向的なものだ。繊細で神経の細い人が多い。

 星をもらったら星を返せばいい、星を投げたら先方からも返してくれる、たったそれだけのことでも、この人たちは、いちいち、深く悩む。

 悩む分だけ、神経がささくれ立って、へとへとに疲れていく。そんなことをやっていたら肝心の小説に集中できない。

 だから彼らはクローズドを選んだ、ただそれだけなのだ。


 この、0~9の人たちの層には、正しく作家の素質を持っている方がたくさん埋もれている。

 これがアスリートの話なら、「実力と才能がないからだ」で片付くのだが、物書きの性質として、星をばら撒き、あくせく名を売って、言葉は悪いが営業をするというのは、創作精神を裏切っているようで人によっては負荷が大きく、「やらない」人が多いのだ。それでこその七割だろう。


 無論これは、作品をちゃんと読んだ上でレビューをたくさん送る人を批難しているのではない。「良作に少しでも光をあててあげたい」そんな善意をもって、その人たちは労力を費やしている。行うのは、心やさしい人が多いように想う。


 日頃のその、地取りする刑事のような努力や、広い交流が実って、ざくざくと星を獲得し、応援の上昇気流を受けながら上位に登っていかれる方々の、その姿勢は尊く、偉い。

 また、拙作エッセイ『読み専の神さま』でも書いたが、順位や星の数にはまったく囚われることなく、コツコツと、底辺のゼロ評価の中から発掘することを趣味とする奇特な好事家がいることもある。

 しかし七割が、ほとんど読まれないままに、埋もれたままなのだ。



 ああ、わたしは【星の数0~9】の人たちが好きだ。

 なぜ読まれる努力をしないのか! そんなことを云える人は魂を簡単に売り飛ばせる人だろう。

 読んでもらえる努力をするのは大切なことだが、その行為の中に不純物が混じっていると自覚する時、星屑たちの心は簡単に破れてしまう。営業も交流も主軸ではない。その本質ではないことに神経を割くには、不器用で、文章の世界に真摯すぎ、厳しすぎるのだ。返礼目的の星爆レビューや、賞をねだる太宰治のごとき輩の「書籍化、書籍化」とわめくような振舞いを自らに許さないだけの慎みがかえって災いしてしまう。


 読者選考にかすりもしないであろう層にも、とても良い作品が沢山ある。

 雑草は花咲くことはない。風になびくその様は、誰にも読んでもらえない哀しみを堪えながら星の数一桁という惨めさに甘んじ、濃霧の中に揺れている。

 そんな灰色の雑草の汚さが、わたしは好きだ。



[了]

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