第3話 河川敷バーベキュー

 四月六日午前八時四十分。大学三年目のオリエンテーションの日。水川飛織は同級生の椎名雫とともに新海山学園大学のキャンパス内を歩いていた。新一年生と思われる初々しい姿の生徒たちがキョロキョロしながら往来するキャンパス内を、なんの迷いもなく進んでいく二人。外広場の中央に佇む桜の木はまだ蕾すら咲いていない。雫が口を開いた。

「新入生たくさんいるね〜」

 飛織はそれに答える。

「そうだね。なんかたいして歳変わらないのに、一年生だなってわかるの不思議」

「たしかに〜なんか初々しさあるよね〜。一年の時、先輩がもうおばさんとかって自虐してた気持ちわかるかも・・・」

「あはは、でも私は雫が一年生って言われても信じるかもな〜」

「えぇ〜。てかなんかお腹痛い」

 他愛もない会話を続けながら、経済学部の教室が多く集まる第四号棟に入っていく。棟内に入るやいなや雫が言った。

「やばい、やっぱりお腹痛いからトイレ行ってくる。先教室行ってていいよ!」

 雫は早口でそう言って、足早に一階の隅っこにある女子トイレに駆け込んでいった。飛織は雫に言われたとおり先に行こうと思い、エレベーターの前に立ってボタンを押した。エレベーターが一階に着き、飛織は乗り込んだ。三階のボタンを押し、扉を閉めようとした時、エレベーターの外から声がした。

「すみませ〜ん!」

 飛織がその声を聞いて扉を開けたまま待つと、一人の男が何やら大きい段ボールを両手に抱えたまま駆け込んできた。

「ありがとうございます」

 低めの渋い声でそう言った男をよく見てみると、百八十センチはありそうな高身長に、はっきりとした目鼻立ちの端正な顔が段ボールの上から覗き込み、ニコッと笑顔を見せた。飛織は少し呆気にとられたが、すぐに正面を向き直り言った。

「何階ですか?」

「三階です」

 同じ階だとわかり、飛織はすぐに閉のボタンを押した。すると、男は再び話し始めた。

「一年生じゃないですよね?」

 飛織は先程の雫との会話を思い出し、少し安堵しつつ答えた。

「はい。三年です」

「やっぱり。なんか迷いがなかったから。俺も同じ三年で、経営学部の藤原貴寛です」

 貴寛はにこやかな笑顔のまま自己紹介した。エレベーター内で知らない人からここまで話しかけられた経験がなかった飛織は、突然の自己紹介に少し戸惑いながら答えた。

「は、はぁ。私は経済の水川飛織です」

「よろしく飛織ちゃん。って言っても教授のところに荷物届けに来ただけなんだけど」

 貴寛がそういったところで、エレベーターは三階に到着した。

「じゃあ、またどっかで会ったらよろしく〜」

 エレベーターを出るとすぐに貴寛はそう言って、飛織の目的の教室がある方へ走り去っていった。あっという間に自己紹介し、タメ口になり、名前を呼んで消えていった貴寛についていけなかった飛織は呆然としたまま同じ方向へ歩き出した。

 教室の後方の扉から中に入ると、後方の座席はほとんど埋まっていた。飛織は通路を教室の前方へ進んでいき、教室の中央より少し前くらいの場所で止まり、最も廊下側の座席に座った。隣の席にカバンを置き、雫の席を確保すると、カバンから筆記用具とノートを出して前方を見た。すると、黒板の前で貴寛がオリエンテーションを担当する教授と何やら話し込んでいるのが見えた。先程まで持っていた段ボールは教授の机の上に置いてある。貴寛が何者なのかぼーっと考えていると、周りの女子たちがヒソヒソと話し始めたのが聞こえてきた。

「ねぇ、教授と話してる人かっこよくない?」

「本当だ〜やばい、超かっこいいじゃん」

「やばいよね!身長高いし〜」

「めっちゃイケメン〜」

「経済の先輩とかかな〜?」

 飛織は女子たちの黄色い声を聞き、改めてその端正な顔立ちを遠目から見る。確かにかっこいい。それを認めると同時にエレベーターでの会話を思い出す。コミュケーション能力も高そうだし、教授と仲良さそうにしていると言うことは成績も良いのだと思った。貴寛は前方の扉から教室を出て、廊下をエレベーターの方へ歩いて行く。廊下側の壁は下部以外ガラス張りのため、教室内の女子たちも廊下を歩く貴寛を見ながらキャッキャとはしゃいでいる。飛織は一年生の時に一度とある恋を諦めてから、そういう乙女チックなこととは無縁な大学生活を送っていた。ああいう人と恋愛したら楽しいのかな、いや、大変そうだな。そんなことを考えながら、前方側から近づいてくる貴寛を飛織も眺めていた。ちょうど飛織の隣を通り過ぎる時、座る飛織と貴寛はガラスの窓越しに目が合った。貴寛はその瞬間、綺麗に並んだ歯を見せてニコッと微笑み、腰のあたりで軽く手を振るジェスチャーをした。飛織はドキッと動揺し、恥ずかしそうに目をそらした。

「え、今手振ったよね?」

「めっちゃかっこよかった〜」

「あの子知り合いなのかな〜いいな〜」

 複数の声と一緒に視線が自分に集まるの感じて、飛織は頬を赤らめて顔を伏せた。悔しい、と飛織は思った。こういった気持ちになるのは久しぶりだった。

 その後、トイレから戻った雫が隣に座り、今日から始まる三年目の大学生活についてのオリエンテーションを受けた。


 それから一週間後、飛織は一人でキャンパス内を歩いていた。この時期は各自自分の受けたい講義に目星をつけ、第一回目の講義を受けてみたのち、実際に受講するかどうかを判断する期間だ。必修科目や選択科目はほとんど決まっているが、それ以外の自由科目をどれにするか決めかねていた飛織は、気になる講義をいくつか受講していた。雫は最低限の単位だけでいいと言って、自由科目はほとんど取らないことにしたそうだ。そのため飛織は一人でこうして講義を受けまくっている。飛織は【考古学Ⅲ】という講義を受けるために、第五号棟の二階にある教室に来た。教室は広い割に教室内には二十人もいないようで、開始時間まであと五分少々あるとはいえ、人気がありそうには見えなかった。しかし、飛織は考古学という分野に少し興味を持っていたため前向きだった。きっかけは”アドベンチャーワールド”という一つの映画シリーズだった。黄金を求めて遺跡を冒険するSFアクション映画で、飛織は三年生に上がる前にそのシリーズを一気見した。この講義に足を運んだのは、映画で見た古代遺跡や古代文字の謎に惹かれたという単純な理由からだった。

 飛織は教室の中央あたりの席に腰を下ろし、我ながら子供じみた理由で来てしまったと少し後悔しながら、教授が来るのを待った。すると、後ろから低く落ち着いたトーンの声が聞こえた。

「あれ?飛織ちゃん?」

 飛織が声のした方へ振り向くと、そこには貴寛が立っていた。飛織は咄嗟に返事をした。

「あ、うん。貴寛くん・・・でしたっけ」

「そうそう。覚えててくれたんだ。てか敬語!学年一緒じゃん」

 貴寛は相変わらず、軽い空気感で話しを続けてくる。

「考古学、飛織ちゃんも興味あるの?」

「う〜ん少し、映画の影響っていう子供っぽい理由なんだけどね・・・」

「映画?めっちゃいいじゃん。全然子供っぽくないよ。そういうとこからくる興味ってすごい大事だと思う。自分の知らない自分が見つかったりするかもしれないしさ」

 恥ずかしい気持ちで少し照れながら言った飛織に対し、貴寛は一切笑わず、真剣な眼差しでそう答えた。飛織は、直前まで自分を卑下していた分、なんとなく認めてもらえたような気分になり素直に感謝の気持ちが湧いた。

「そんなふうに言ってくれると思わなかった。ありがとう。ちなみに貴寛くんは?」

 飛織がそう尋ねると、貴寛は笑いながら答えた。

「俺は先輩に単位取るの楽だって聞いたから。俺の方がよっぽど子供っぽいだろ」

「そんなことないよ。大学生にとってはそういうの大事だしね。私も今いいこと聞いたって思ったもん」

「まじ?なんか嬉しいな。とりあえずって気持ちできたけど、飛織ちゃんいるなら受けようかな」

 飛織は照れ笑いをしながら、心の中で考古学の受講を決めていた。自分では認めたくない気持ちがまだあったが、飛織は貴寛に惹かれ始めていた。

 二人はは一緒に考古学Ⅲの講義を受けた後、流れのままに貴寛と大学近くのカフェに来ていた。レジでアイスコーヒーを注文し、奥の受取カウンターでグラスとストローを受け取ると、先に待っている貴寛の正面に座った。

「じゃあ、乾杯」

 貴寛はそう言って、アイスココアの入ったグラスを持ち上げた。

「乾杯」

 飛織は少し笑いながら、軽くグラスをぶつけた。


キンっ 


 グラスとグラスがぶつかって、音が鳴る。同時に、中に入った氷がカランと崩れる。その音に思わず今が夏なんじゃないかという気持ちになる。実際はまだまだ肌寒く、ギリギリ春という気温だ。飛織はコーヒーを一口飲んで言った。

「ココアって、なんか意外だね」

「そう?甘いの好きなんだよ」

「可愛いとこあるんだね。渋そうな感じなのに」

 意外なことを言う貴寛に軽口を叩く飛織。飛織はまだ知り合ったばかりの貴寛と気軽に話す自分自身に少し驚いていた。

「仲良い奴にはよくからかわれるよ。それより、考古学の講義、結構面白かったよな?」

「うん。思ったよりフランクな感じだったし、映画紹介とかもあるみたいだから楽しめそう」

「よかった。飛織ちゃんも受ける気満々みたいで」

 貴寛は無意識だろうが、たくさんの女子がこの笑顔とサラッと言うセリフに落とされてきたのだろう。天性の人たらしなんだろうな、と飛織は貴寛に感心していた。二人がしばらく会話を続けていると、男女三人組が何やらこちら側を指さして近づいてくるのが見えた。飛織は貴寛の知り合いだろうとすぐに察したが、なんとなく今の状況を気まずく感じた。

「貴寛じゃん。何してんの〜」

 近づいてきた男子が貴寛に話しかけた。

「見たらわかるだろ。友達と喋ってんの」

 先程までに比べてワントーンさらに低い声で貴寛は答えた。すると、次は茶髪をくるくると巻いた可愛らしい女子が反応した。

「いや、冷た!てか、めっちゃ可愛いね〜ごめんね急に声かけて」

「あ、大丈夫ですよ」

 飛織の方に会釈して、笑いながらそう言う女子に飛織は愛想笑いを浮かべて答えた。するともう一人の黒髪のボブカットの女子が少し遠くから声を出した。

「こっち席空いてるよ〜」

「今行く〜」

 その呼び声に答えて、茶髪の女子と男子も離れていった。三人が少し離れたところで貴寛が言った。

「いきなりごめんな。あいつらみんな友達みたいに話すとこあるからさ。びっくりしたよな」

「ううん、全然大丈夫だよ。でもちょっと人見知りしちゃった〜」

 少し固まってしまってた表情を緩めて、思わず笑いながら飛織がそう答えると、貴寛の表情が一瞬固まったように見えた。直後に、少し戸惑った様子で貴寛は言った。

「あ、ははは。普通そうだよな〜」

「でも、可愛い子たちだったね。経営学部の友達?」

「そうそう。いや〜飛織ちゃんの方がよっぽど可愛い気が・・・」

 飛織が平静に続けていると、気まずそうに貴寛がそう言いかけた。

「はいはい、お世辞ありがとね〜」

 飛織は貴寛の調子のいい発言に軽く返した。

 その後一時間ほどしたところで、飛織は用事があるからと言ってカフェを後にした。貴寛はまた考古学で会おうと言って、先程の三人がいる席の方へ移動した。飛織は、仲の良さそうな三人に対する貴寛と自分の前の貴寛のギャップに少し壁を感じながらも、来週の考古学を楽しみにしてしまっていた。飛織は久しぶりの、自らの胸の高鳴りを抑えるように、胸に手を当てて帰路についた。











「おはよう。早いね」

 飛織が座って携帯を触っていると、聞き慣れた声がした。

「おはよう。今日は一つ前の講義が早く終わったからさ」

 飛織は振り返ってにこやかに答えた。考古学の授業が始まるまだ二十分も前だったので、教室内にはまだ二人しかいないようだった。

「そっか、飛織ちゃんは一限も受けてるんだっけ」

「そうだよ。貴寛くんも今日早いね。いつも遅刻ギリギリのくせに」

「ギリギリ間に合ってるからいいんだよ。今日は俺も用事あって早く学校きてたからさ」

 飛織は貴寛に対してかなりフランクに軽口を叩けるようになっていた。週に一回、考古学の講義で会うようになって二ヶ月以上が経っており、それだけ飛織は貴寛に心を許し始めていた。そんな飛織には一つの懸念があった。貴寛はいつも軽快な調子で話しかけてくれるのだが、仲の良い友人と話しているのを見かけるときはいつももう少し落ち着いた雰囲気なのだ。飛織は、軽快な様子で話すのは他所行きの貴寛だと感じて、自分に対して依然、心を許していないのではないかと悩んでいた。悩み、と言うよりは気になって仕方ないと言う感覚。飛織は自分でも認めざるを得ないほど、貴寛に対して恋心を抱いていた。

「ふ〜ん。サークルの用事とか?」

 飛織が聞くと、貴寛は答えた。

「なんか、経営の奴らが経済の子達も集めて合同でバーベキューしようってノリになっててさ。その作戦会議的な?」

「バーベキュー?夏の話?」

 いくら六月とはいえ、まだまだバーベキューというには寒い時期だったため、飛織は先の話だと思った。

「いや、今月の話。飛織ちゃん経済だし、参加する?」

 貴寛は微笑みながら言った。

「う〜ん、考えとくね」

 飛織は、貴寛のいるイベントに参加したい気持ちと他の友人たちの中で圧倒されてしまう不安とに挟まれていた。迷った末の回答だった。

「わかった。多分大人数のやつになりそうだし、気が向いたらいつでも連絡して」

 貴寛はそう言って微笑んだ。

 その後、二人は他愛のない会話を時折挟みながら、黙々と講義を受けた。二人は講義が終わるとすぐに、いつものように解散した。飛織は経済学部の必修科目の講義を受けるため、第二号棟へ向かう。飛織は一度建物の外へ出て、キャンパス内を歩いていると、後ろからいきなり誰かに抱きつかれた。誰かと言っても、飛織にはすぐにそれが雫であるとわかった。

「やっほ〜飛織〜」

 雫はかなり浮かれた様子だった。雫はその小さな体で飛織の背中に抱きついたまま言った。

「ねえねえ聞いて!今日ね、一目惚れしちゃった!」

 飛織は、背中でその言葉を聞いた瞬間、驚きのあまりその場で硬直した。大きく目を見開いて、これまでの雫との思い出を走馬灯のように思い出した。

 雫は高校二年生の時、当時の彼氏から半年以上にわたって暴力を受けていた。依存状態とは恐ろしいもので、浮気され、殴られても、雫はその男から離れられなくなっていた。そんな状態の雫をなんとか救い出した飛織は、それから雫をずっとそばで見守ってきた。雫は極度の男性不振になり、男性と会話をできるようになるまで丸二年かかった。大学に入学して半年ほど経ったころ、雫はようやく男性とも会話できるようになり始めたが、男性に恋をするなんていうことはもっと未来の話だと、飛織は思っていた。

 飛織は一年生の時に好きな人ができた。しかしその人には恋人がいて、飛織はその恋を諦めた。その時も飛織は、雫を差し置いて自分が恋をすることに対して少しの罪悪感を感じていた。そんな罪悪感が、飛織が恋を諦める理由の一つになったことは事実だった。今、飛織が貴寛に恋し始めたこのタイミングで、雫も誰かに恋をし始めたのだとしたら、飛織にとってこれは何よりも嬉しい報告だった。長年、見守り続けてきた親友が自らのトラウマを克服して、誰かに恋したこと。飛織自身が、罪悪感を感じずに恋できること。そんな複雑で喜ばしい感情が、刹那の間に、飛織の脳内を駆け巡った。

「飛織?聞いてた?」

 雫の言葉で飛織はハッと我に返った。

「うん!一目惚れ?本当に?」

 飛織は色んな感情を押し殺して再確認しながら、再び歩き出した。

「本当だよ!今朝ね、珍しく早起きできたから、早く来て図書館で勉強しようと思ったんだ」

 歩きながら雫は楽しそうに話し始めた。飛織はうんうんと相槌を打ちながら雫の話を聞いた。

「それで、今日天気めっちゃ良いじゃん?だから図書館やめて、中庭テラスに行ったの。そしたら、まだ全然一限の時間なのに先客のグループがいて。そのグループからちょっと離れたところに座って勉強してたんだ。なんか楽しそうに話してたからチラッとそっち見たら、いたの」

 飛織は優しい笑顔で聞いた。

「いたって、誰が?」

「運命の人が!とにかくかっこよくて、背も高くて。しかも途中で、なんかすごい大きな木の作品をキツそうに運んでる男の人が廊下歩いてて、みんなただ見てたけど、その人は手伝いに行ったの!」

「こんなかっこよくて、しかも優しいって、感動しちゃって、なんかわからないけど、好き!ってなった!」

 雫は本当に楽しそうな様子で、一目惚れの相手との出会いを語った。飛織はその姿を見て、心から嬉しい気持ちになった。高校の頃の、いつも心も体もボロボロだった雫の姿を思い出して、飛織は思わず目を潤ませた。話している様子を見る限り、冗談のようなことではなく、ちゃんとその人を好きになったという様子だった。

「本当に、良かったね。雫がまた男の子を好きになれるなんて、私感動しちゃう」

 飛織が泣きそうになっているのを見て、雫もふと冷静になったのか、瞳を潤ませて飛織の右腕に抱きついた。

「うん。私もびっくり。ずっと飛織が一緒にいてくれたおかげだよ。たぶん、男性不振完治です!」

 雫はそう言って満面の笑みを見せた。飛織もそれに答えるように笑って、二人はニコニコしながら目的の教室まで歩き続けた。側から見ればただの一目惚れ。相手が誰かもわからない。そんな状態で泣くほど盛り上がっている女二人組は異様な光景に写っているかもしれない。それでも二人は周りに気をかける余裕もなく、泣きながら笑って歩いていた。


 教室に着いて着席し、飛織は冷静さを取り戻していた。

「とはいえ、どうするのさこれから。その人のこと何もわかってないんでしょ?」

「と、思うじゃん?私の耳の良さ舐めないでよね〜」

 雫は自信たっぷりにそう言って、飛織が困惑しているのを尻目に続けた。

「この地獄耳で話してる内容聞こえちゃってさ〜。なんか経営学部と経済学部合同でやるバーベキューイベントの会議みたいなのしてたんだよね。だから、なんとかしてそれに参加しようかなって思ってる!」

 飛織の背筋を冷たい悪寒がなぞった。全身に鳥肌が立ち、動悸が少しづつ早くなるのを感じながら、飛織は固まった。その表情を見て雫が尋ねる。

「どうしたの?大丈夫?」

 よっぽどひどい顔をしていたらしい。雫が心配そうな顔で覗き込んでいる。飛織は固まった口角を無理矢理引っ張りあげ、激しい動悸に気づかれないようにゆっくり答えた。

「え?ごめんなんか変だった?めっちゃいいじゃんバーベキュー」

 雫は安心したように笑って言った。

「でしょ!今月末にやるみたいに言ってたから、なんとかして参加しよ!」

「本当に地獄耳だね」

 飛織は必死に作り笑いを浮かべながら会話を続けた。そして、通常通り講義が始まった。

 飛織は講義の間ずっと、貴寛のことを考えていた。今朝考古学の授業前に貴寛から聞いた話と辻褄が合いすぎている。時間帯もそうだが、バーベキューの企画会議をあちらこちらでしているとは思えない。何より、飛織は高身長でルックスもよく、困っている人を手助けする人と言われて、無意識に貴寛みたいな人だなと思っていた。飛織は、雫の好きになった相手が貴寛だと直感的に確信していた。

 そして、それが正しいとして、自身がどうするべきなのかを考えていた。飛織にとっても久しぶりの恋であることは間違いなく、簡単に忘れられるような軽い想いでもなかった。しかし、雫にとってはおよそ四年ぶりの恋で、男性不振を乗り越えた最初の恋。飛織はたった九十分の講義の間に、決意を固めていた。

 飛織は、これまでどんなことよりも雫の幸せを願ってきた。それは今も変わらない気持ちだった。何よりも、飛織は身をもって貴寛の良いところを知っていた。雫に好きな人ができたとしたら、その相手が一体どんな男性なのか、再び雫が深く傷つくような人ではないか、飛織はひどく心配しただろう。その点、その相手が貴寛なのであれば、飛織は心から安心できた。貴寛なら大丈夫だと思えた。理由はそれだけで十分だった。自分が少し我慢して、二人が付き合えるように応援する。それだけで雫の笑顔を見続けられるのならば、喜んで我慢しよう。飛織はそう決意していた。

 講義が終わり、飛織はいつものように雫と電車に乗っていた。水曜日はこの講義が終わると二人で街中までいき、スタバでおしゃべりするのがお決まりになっていた。何も話さずとも、雫はそこへ向かうと思っているだろう。

「雫、さっきの一目惚れした人ってさ、名前とかはわからないの?」

「テラスだったし、そんなに全部聞こえてたわけじゃないからさ〜。でもタカって聞こえたよような気がしたんだよね」

 雫は笑顔でそう答えた。飛織はそれを聞いて、ますます心が沈んでいくのを感じた。確信はあったが、これで完全に確定してしまった。飛織は平静を保ちながら続けた。

「なるほどね〜。ねぇ、なんかちょっと体調悪いかもだから、今日はこのまま帰ってもいい?」

 飛織がたまらずそう言うと、雫が心配そうな顔をして言った。

「やっぱり?なんかちょっと顔色悪い気がしてたんだ。帰って早く寝たほうがいいよ〜。一人で帰れそう?」

「うん。大丈夫。ありがとうね」

「ううん。気にしないで!私こそ舞いあがっちゃってた。明日休むなら言ってね、出席カード出しとくよ」

 飛織はそんな雫を見て少し胸が苦しくなり、一言頷いて目を閉じた。少しして雫の最寄駅に到着し、一言だけ言葉を交わして雫は降りて行った。電車の外から手を振る雫に、飛織も作り笑いを浮かべて手を振った。扉が閉まり、電車が動き出す。雫の姿が見えなくなったところで、飛織は耐えきれず涙を零した。周囲の乗客に見られないように顔を伏せ、声を出さないように堪えながら、地下を走る電車の中で飛織は泣いた。

 自宅に着いた飛織は、ベッドに倒れ込むように横になり、ボーッと天井を眺めていた。目元を赤くしたまま貴寛の姿を思い浮かべる。再び涙が込み上げてきて、今度は声もこらえずわんわんと泣いた。今日はもう泣こう。そして泣くのはそれで最後にしよう。飛織は心の中でそう決意しながら、しばらく泣き続けた。











 六月二十六日正午。照りつける太陽の日差しに目を細めながら、飛織は富野川河川敷の大広場で缶チューハイを運んでいた。スーパーで購入したのであろう段ボールにパンパンに詰まった缶チューハイを、氷水の張った子供用プールのなかに移していく。まだ六月だというのに今日の気温は三十度近いらしい。冷えた氷水を触って暑くなった身体を冷ます。ふと顔を上げると、少し離れたところで男子たちがタープテントをせっせと設営している。

 経営学部と経済学部合同のバーベキューは、無事快晴のなか開催され、総勢六十人越えの人数が集まる大イベントとなった。企画したのは経営学部の中心である、貴寛をはじめとした複数人のグループだ。雫が貴寛に一目惚れして数日後、経済学部の掲示板にバーベキューイベントのポスターが貼り出された。参加できるかどうかと不安そうに話していた雫の心配は杞憂に終わり、ポスターに載っていたアドレスに雫が参加申し込みをして、当日を迎えた。

 そして飛織は一つの問題を抱えていた。飛織は雫に対して、貴寛のことを知らないという素振りを見せてしまったのだ。自分のことは諦めて雫の恋を応援するにしても、知らないふりをする必要はなかったのだが、飛織は自らが思っていたよりも冷静になりきれていなかった。飛織はこの問題を、貴寛にも会うこの場でどう解決するか悩んでいた。すると、雫が近くに来て話し始めた。

「ねえ〜あの人だよ!かっこよくない?」

 雫はテント設営をしている貴寛を指差してそう言った。飛織はとっさに答える。

「へ、へえ〜。確かにかっこいいね」

「でしょ?でもどうやって話しかけよ〜。緊張する・・・」

 飛織の動揺に雫は気づいていない様子で、不安そうに貴寛を見つめている。

「そうだよね。でもどっかでチャンスあるだろうから、勇気出すしかないよ!」

 励ますように言うが、そもそも飛織は貴寛と知り合いなのだから、友達を紹介すると言って会わせるだけでよかったはずだ。ややこしいことにしてしまったと心の中で後悔していると、遠くの貴寛がこちらを向き、目があったような気がした。飛織は咄嗟に目を逸らした。こちらに来られても困ると思った飛織は、貴寛に背を向けたまま買い出し班の車の方へ歩き出した。雫がついてきていないのに気がついて後ろを振り返ると、貴寛はもう作業に戻っており、雫はそんな貴寛を遠くから見つめたまま固まっていた。飛織はそんな光景を眺めながら、自分の踏み出した茨の道を想像しては心の中で嘆いた。

 準備が一通り終わったところで、全員に飲み物が手渡され、いよいよ乾杯と言う流れになった。六十人を超える参加者が一箇所に集められて、大きく円を描くように広がった。貴寛の友達らしき男の子が中央に移動して乾杯の音頭を始めた。貴寛は左斜め向かいくらいのところにいて、飛織が見ると目が合った。飛織は再び目を逸らす。逸らすついでに隣の雫を見ると、雫は自分の目が合っているように感じたのか、照れて少し顔を下に向けながら貴寛の方を見つめている。いや、そもそも目があっているのは自分じゃなく本当に雫かもしれないと気づいて恥ずかしくなる。目線なんてはっきりわからないくらいの距離なのだ。全く聞いていなかった音頭に気を取りなおすと、周囲の皆が手に持った缶や瓶を上に持ち上げた。

「かんぱ〜い!!」

 その声に全員が続いて声を出す。数が多いためか自然と皆は飲み物を天高く突き上げて乾杯が行われた。すぐに数人ずつのグループが形成されて、談笑を始めた。貴寛はバーベキューコンロの方へ行き、テキパキと食材を焼き始めた。その様子を見た飛織は、意外と貴寛と話す時間は長くないかもしれないと思った。雫をチラリと見ると、おどおどしながら貴寛を目で追っている。再び貴寛を見ると、すでに数人の男女グループが貴寛の周りに集まり始めていた。よくよく考えれば貴寛は主催グループというだけじゃなく、学部を問わない人気者なのだと改めて気付かされる。雫と同様に貴寛目当てで参加している女子がいても何らおかしくないのだ。飛織は一度冷静になり、経済学部の友人たちが集まる場所へ移動した。

 肉や野菜を焼いているコンロが四つあり、参加者はそれぞれ何となく四箇所にバラけたままバーベキューは進んでいった。飛織と雫は貴寛とは違う場所でバーベキューを楽しんでおり、それなりに経営学部の初対面の人たちとの会話も弾んでいた。実際、雫はかなり可愛い顔立ちをしているし、天性のあざとさと独特の緩い空気を持っている。それゆえ中学時代は男子にかなりモテていた。男性不振もほとんど治っている今、雫はもはやモテる女子大生なのだ。それを証明するように飛織と雫のいる場所には初対面の男子たちがかなり集まっていた。少しの人見知りはまだあるが、こういう場に来ればすぐにたくさんの友達ができてしまうのが今の雫だ。飛織は安心した顔で雫を眺めながら、貴寛のいる方もチラチラと確認していた。その時、貴寛がグループを抜けて一人河川敷の上へ向かって歩き出すのが見えた。すぐに雫の方を見ると、男子や女子に囲まれて話している。チャンスと思った飛織は、貴寛の姿が河川敷から見えなくなったのを確認して、雫にトイレに行ってくると告げた。

 足早に貴寛の後を追いかけた飛織は、河川敷を登り切った先にある休憩スペースで貴寛に追いついた。貴寛はトイレの横にある喫煙スペースでタバコを吹かしていた。貴寛がタバコを吸う姿を初めて見た飛織は、そのあまりにも洗練された佇まいに心を引っ張られる。飛織自身はタバコを吸わないし、彼氏がタバコを吸っていたら嫌だなと思うタイプだった。指先でタバコを持ち、灰を落とす。ゆっくりと唇に近づけ、再びタバコをくわえてゆっくりと煙を吐き出す。一連の動作や表情、目線の行き先全てから色気を感じるその立ち姿に、飛織が思わず見惚れてしまっていると、貴寛が不意に顔を上げ、飛織に気づいた。貴寛は先程まで見惚れた動作とは打って変わり、焦った様子でタバコを灰入れに押し付けた。

「飛織ちゃん!」

 貴寛は火を消したタバコを廃入れの中に落として、飛織に手を振った。飛織が小走りで駆け寄ると、貴寛は右手の平を開いて体の前に突き出しながら言った。

「ストップストップ。タバコ嫌いでしょ?臭いからそっち行こう」

 貴寛は突き出した右手で少し離れたところのベンチを指さした。飛織はその場で止まって答えた。

「一個だけお願いがあって、すぐ戻るからここで大丈夫」

 飛織がそう言うと、貴寛は不思議そうな顔で答えた。

「お願い?何?」

「私と貴寛くん、今日が初対面ってことにしてくれない?」

 飛織は食い気味に、真面目な顔でそう言った。貴寛は想像もしないようなお願いだったからか、固まって面食らっている様子だ。貴寛が口を開きかけた時、それを遮るように飛織は続けた。

「いきなり変なこと言ってごめんね。でも、どうしてそうして欲しいのかも言えない。ただのお願いだから、嫌だったら断ってもいい。もしあとで話すタイミングがあったら、その時答えを教えて」

 貴寛は飛織が話終わるまで黙って聞いていた。飛織は貴寛の表情を見て、罪悪感と自分を偽る苦しさに胸が締め付けられた。耐えきれず、貴寛が何か言う前に飛織はトイレの方へ歩き出した。何も言わず固まる貴寛の横を通り過ぎる時、飛織は貴寛の方を見ることができなかった。精一杯気丈に振る舞ったままトイレへ入った飛織は、洗面台に手を着いて、ゆっくりと顔を上げて鏡を見た。

「ひどい顔」

 飛織は一人で呟き、その憔悴した様な自分の顔を眺めた。心の中で何度も覚悟をしてきた飛織だったが、いざ貴寛を前にして偽りの言葉を並べる行為はあまりにも辛いものだと悟った。飛織は長い深呼吸をして、背筋をピンとして立ち直した。

「よし」

 頬を両手でギュッと押し、決意を新たにした飛織は雫のところへ戻るためトイレを出た。貴寛はすでにそこにはいなかった。


 飛織が戻ると、先程までいた場所に雫の姿が見えなかった。辺りを見回すと雫は川のほとりで見知らぬ男女たちと会話を楽しんでいた。そこには貴寛の友人と思われる男女もおり、飛織は自分の助けがなくとも雫は大丈夫だと安心した。少し寂しい気持ちもあったが、自分のいないところで男の子と普通に会話する雫を見て嬉しさの方が優っていた。飛織は雫の元へ行くのをやめて、別の友人たちが集まっているところへ向かった。

 雫や貴寛のことばかり気にしていた飛織は、あまりバーベキューを楽しめていなかったと気が付き、紙皿を持ってたくさんの食材をもらっては勢いよく食べた。それに合わせて普段飲まない缶ビールもグビグビと飲んでいると、気づけばその食べっぷりと呑みっぷりを見た人たちが飛織を囲んで盛り上がっていた。

「飛織ちゃんめっちゃ飲むじゃん!」

「細いのにすごい食べるんだね!」

「飛織、そのお肉おいしい?」

「いいね〜俺も負けんぞ!」

 飛織は先程鏡に映った青白い表情とは真逆の、真っ赤な笑顔で笑っていた。踊り出す男子や女子の恋バナ、水の代わりにビールを入れて作る焼きそば。

「めっちゃ美味しい!」

 満面の笑顔で目を見開いて飛織がそう言うと、作った男子は大喜びではしゃぎ、周りもわらわらと焼きそばに群がる。誰かが取り出したトランプでインディアンポーカーが始まり、負けては飲んで、勝っては飲む。山手線ゲームにピンポンパンゲーム、飲み会でありがちなゲームで大盛り上がりするバーベキュー。気づけば飛織はその中心にいて、ただ陽気に笑っていた。

 珍しく酔っ払ってしまった飛織は、ふいに雫のことを思い出した。飛織はフラフラと複数人の集まりの中をかき分けて、川のほとりが見えるところに出た。盛り上がっているグループの外には、落ち着いて様子で会話する少数のグループやいい雰囲気の男女が転々としていた。同じ場所なのに、見えない壁で遮られている様に感じるほど空気の違う空間。見回すと、飛織の視界によく知る二人の男女が飛び込んだ。

 川に近いところで、雫と貴寛が二人座り込んで話していた。チラリと貴寛の奥に座っている雫の表情が見えた。楽しそうに笑っていた。手前側の貴寛の表情は見えない。きっと笑っている。よく知るあのキリッとした笑顔で。見えずとも分かるくらい、飛織には二人の周りが輝いて見えた。一瞬、泣きそうになる。すぐに堪えて、嬉しくもなる。飛織は雫の幸せを心から願った。すると、不意にこちらを見た雫と目が合った。その瞬間、雫は気づいて笑顔で飛織に手を振って、遠くから大声で言った。

「飛織〜!こっちこっち!」

 雫の視線で貴寛もこちらを見ている。表情をじっくりと確認する余裕はなく、飛織は少し顔を伏せた。咄嗟に動揺してしまったが、呼ばれたのに行かないのは不自然だと思い、雫の方へ歩き出した。二人の間で自分の名前は出たのか、それが気になって少し不安になりながら二人のところへ着く。

「あ、ど、どうしたの?」

 しどろもどろになりながらそう言う飛織。雫は笑顔で答えた。

「こちら、経営学部の貴寛くん!さっき話して仲良くなったんだ!」

 飛織は瞬時に自分の名前が出ていなかったのだと悟り、酔った勢いのまま白々しく言った。

「そうなんだ!初めまして!私は水川飛織です〜」

 貴寛は気まずそうな顔で答えた。

「あ、あぁ。初めまして。藤原貴寛です。二人は友達なの?」

「うん!飛織は中学からの私の一番の親友だよ。だから二人も仲良くしてくれたら嬉しいな」

 貴寛は飛織に向けて聞いた様子だったが、それに気づくはずもない雫がそう答えた。

「へぇ〜そうなんだ」

 貴寛がそう呟くと、雫が飛織に向かって言った。

「ていうか飛織、めっちゃ顔赤いよ!そんなに飲んだの?」

 そう言われて少し恥ずかしくなり、赤い頬をさらに赤くしながら飛織は答えた。

「うん。なんかすごい盛り上がっちゃって!私あっち戻るね!二人はゆっくり楽しんで!」

 飛織は元いた方向へ歩き出した。

「なんか飛織、珍しいね。わかったよ〜!」

 後ろから雫がそう声かけたので、一瞬振り返りニコッと笑って手を振った。その時、少し貴寛を見たが、相変わらず困ったような、何とも言えない表情をしていた。すると雫は、こっそり貴寛の影になるところで左手を立てて、ありがとうというサインを送ってきた。飛織はそれを見てハッとした。飛織は二人にしてあげようという気遣いからでなく、気まずさに耐えきれず離れただけだったからだ。自分の余裕のなさを痛感しつつ、飛織は心の中で全てを酔いのせいにして、目の前の子供用プールに手を突っ込んだ。キンと冷えた水で一瞬酔いが覚める。缶チューハイを取り上げ、雫と貴寛の方を見る。二人は楽しそうに笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

乾杯ループ 詩ノ花 @Utanohana_Kodai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ