第2話 缶チューハイ

 時弥は珍しく一次会で飲み会を切り上げて、帰路についていた。半分以上のメンバーは二次会へと向かったが、時弥には、できる限り早く一人になって今の状況を整理する時間が必要だった。飛織も二次会に向かう様子だったので、それだけが心残りだった。

 飛織と乾杯するたびに最初の乾杯にループする。自身に降りかかったこの不思議現象の正体が判明したとはいえ、わかっていないことはまだまだ多い。訳もわからず自然と動かす足だけが早くなっていく。夏の夜の歓楽街は人通りが多い。一次会で抜けたこともあり、この街の夜はこれからだと言わんばかりの人の多さだ。夜とは思えぬほど明るく輝く雑居ビル群を、すれ違う人混みをかわしながらスタスタと抜けていく。地下鉄道の入り口を駆け降りて、自宅方面の改札をくぐる。時弥はちょうど到着した列車内に乗り込んで、空いている席に腰を下ろした。最寄り駅までは約二十分程で着くため、普段この区間で眠りについたりはしないのだが、気づくと時弥はうとうとと居眠りしてしまっていた。

 最寄り駅に到着したアナウンスが鳴り、時弥はなんとか目を覚まし、いそいそと列車を出た。その後も、まるで何かに取り憑かれたように足早に、自宅までの道を一直線に歩いた。

 自宅に到着した時弥は、真っ直ぐに机に向かい新品のノートとボールペンを取り出した。

「よし」

一言呟いて気合いを入れ直した時弥は、現状わかっていることをまとめ始めた。



● 七月八日に参加した飲み会で水川飛織と出会う。


● 飛織と乾杯すると、初めての乾杯直後にタイムリープする。


● タイムリープしているのは、おそらく自分だけ。


● タイムリープが起こるのは、飛織との乾杯だけ。


● 原因は不明。




【一周目】 七月八日、飲み会で飛織のスカートを汚し、酔い潰れて帰宅。(おそらく酔い潰れていたことで、締めの乾杯はできなかった)


      七月二十九日、期末試験終了後の打ち上げで、最初に乾杯してループ。


【二周目】 七月八日、飲み会を平常に終え、締めの乾杯でループ。


【三周目】 七月八日、ループ直後に再度乾杯してすぐにループ。


【四周目】 七月八日、ループしていることに気づき、確認のため乾杯してループ。


【五周目】 七月八日、飲み会を平常に終え、飛織と乾杯しないように注意して帰宅。





「ふう〜」

 大きく息を吐きながら、両腕を上に振り上げて体を伸ばす。椅子の背もたれにどっしりともたれながら、走り書きしたノートを持ち上げて見つめる。


———————タイムリープ。


 時弥は心の中でそうつぶやいた。映画が好きな時弥にとってそれは、とても身近でありがちな現象だった。SFの世界では。これが夢でないことは疑いようがなく、自身が経験した全ての出来事がそれを現実だと証明していた。このタイムリープに気づくまで時弥は、スマートフォンで日付を確認するという単純なことを怠っていた。どれだけ目を擦っても、今日が七月八日であることに間違いはなかった。飛織のスカートを汚し、罪悪感に塗れたまま最悪の恋の始まりと終わりを経験した三週間の日々は文字通り、無かったことになっていた。時弥の心中は複雑だった。自身に降りかかった人智を超えた現象に戸惑う一方で、最悪の出来事が消えてなくなった安心感。

 時弥は天井を見つめ、飛織を始めて見た瞬間のことを思い出していた。まるで、時が止まったように、その一瞬が長い時間に感じられた。飛織の周りを光が差し、うるさいはずの居酒屋の喧騒が消え、その世界に自分と飛織以外いなくなってしまったような感覚。時弥は、ただ衝撃的なほどの一目惚れが起こした錯覚だと思っていたが、あの瞬間に何か超常的なことが起こったのだとしたら、納得がいくような気がした。今思えば、明らかに普通の感覚ではなかったのだ。だからといってこの超常現象が起こる原因も、抜け出し方も全く分からないのだが。一目惚れというのは奇跡的で神秘的だというが、これはあまりにも奇跡が過ぎるだろう、と神に問いかける。時弥はゆっくりと立ち上がり、ベッドに横たえた。

 その瞬間、時弥の全身に途方もない疲労感がずんとのしかかった。考えればわかる単純なことだ。七月二十九日は試験勉強のため早朝から夜まで活動し、七月八日へとタイムリープしてさらに数回飲み会を繰り返した、その間時弥は一睡もしていない。実際の時間と体感した時間が違いすぎる。時弥はこれ以上考える気力もなくなり、そのまますうっと、深い眠りに落ちた。


 翌朝、時弥はいつもより早い時間に目を覚ました。アラームをかけない日に限って早起きができるのはなぜなのだろうか。どうでもいいことを考えながら、ベッドから起き上がり、寝ぼけ眼で愛用の電気ケトルに水を入れていく。お湯が沸くのを待ちながら、マグカップにインスタントコーヒーの粉を振り入れ、机におきっぱなしにしていたスマホを手に取る。スマホの電源を入れた瞬間、時弥は歓喜した。ロック画面に映し出されたのは、水川飛織の名前だった。

「今日はありがとう。また今度飲もうね」

 名前だけじゃなく短いメッセージ通知もロック画面に映し出されている。時弥は慌ててメッセージアプリを開き、既読を付けないように内容を改めて確認する。そのメッセージは昨日の夜中に送られていた。帰宅してからすぐに寝てしまったため気が付かなかったのだ。昨日のうちに返信できなかったのを悔やむ思いもあったが、飛織のほうからメッセージを送ってくれたことの喜びが圧倒的だった。時弥は早く返信をしなければと、トーク画面を開いてメッセージを打ち込んだ。

——————「こちらこそありがとう!昨日は疲れてすぐ寝てた(笑)また飲みましょう!」

 一度飲み会を一緒にした程度の微妙な距離感にありがちな、タメ口と敬語が入り混じった、ありきたりなメッセージを時弥はうきうきと送信した。

 時弥は数分間、既読がつくのを待っていたが、すぐに諦めてスマホを閉じた。返信までに時間が経ってしまっているし、今はまだ朝の七時。大学生の休日にしては早い時間であり、まだ寝ているだろうと推測したからだ。沸いたお湯を先ほどのマグカップに注ぎ入れ、出来上がったコーヒーを一口飲んで、どうやって彼女との関係を進展させるかを考えていた。

 五週目の現在、時弥は飛織のスカートを汚していないし、飲み会中もかなり長く会話を交わすことが出来た。連絡先を交換し、メッセージを送ってもらえるほどだ。一週目に比べ、かなり順調な関係といえるだろう。そのことに気づいた時、時弥の頭には卑怯ともいえるこのタイムリープの使い方が浮かんでしまっていた。

 飛織との関係を深めていく過程で、嫌われてしまったり、振り向いてもらえなかったり、告白に失敗したとしてもこのループを使えばやり直せる。飛織の好きなものや趣味、好きなタイプをあらかじめ知った状態で、あたかも偶然のように、運命を演出することだってできるのではないか。飛織と乾杯さえできれば、何度だって。時弥は思わず唾を飲み込んだ。

 このループから抜け出す方法は一つはっきりしている。もう二度と飛織と会わなければ、乾杯することもなく、このループの中に閉じ込められることもないだろう。でもそれはつまり、この恋を諦めるということだ。

 時弥は、それが自分自身の中にない選択肢だとわかっていた。時弥にとって一目惚れというのは初めてだったが、こんな状況になっても諦められないほどの感情がすでに胸の中には芽生えていた。たとえ卑怯だとしても、この「乾杯ループ」で、全力で飛織を振り向かせる。時弥は半ば自分に言い聞かせるようにそう決意した。そして、少し冷めてしまったコーヒーをゆっくりと口に運び、その苦みを深く味わった。






                  *





 

「今日は急に誘ったのにありがとうね」

「全然いいよ、それで相談って?」

「二週間前の飲み会で、私と一緒に来た金髪のショートヘアの女の子、覚えてる?」

「あぁ、覚えてるよ。たしか、雫ちゃんだっけ」

「そうそう。雫が貴寛くんに気があるみたいでさ。協力してほしいって言われてて」

「なるほどな〜。でも、なんで俺?」

「飲み会の時、貴寛くんと話してたの見たから、仲良いのかなと思って。違った?」

 そういうことか、と時弥は思った。

 七月十六日、土曜日。乾杯ループの八週目で迎えたこの日、時弥は飛織とともにセントラルパーク沿いにある一軒のカフェに来ていた。八週目の飲み会で、実際に時弥は貴寛と話す時間を増やした。貴寛がどんな人間なのか気になったというシンプルな理由からだ。同じサークルに入ってはいたが、なんとなく自分とは違う世界の住人なのだと一線を引き、これまで深く関わろうとしてこなかった。しかし、一週目の時、夜風に当たってタバコを吸う貴寛を見て、時弥は無意識に元恋人の姿を重ねていた。未練があるわけではない。しかしそれ以降、これまでとは異なる親近感のようなものを感じてしまったことは事実だった。

「う〜ん。そこまで親密なわけでもないんだけどね。飲み会に誘うくらいならできると思うよ」

 時弥がそう答えると、飛織は続けた。

「二人さえ良ければ、四人で飲み会しない?」

 時弥にしてみれば願ったり叶ったりの提案だった。思わず頬が緩みそうになるのを抑えながら答えた。

「もちろん。じゃあ貴寛のことは俺が誘っておくよ。ちなみにいつがいい?」

「それが、雫ができれば早くって駄々こねててさ〜。ちょうど一週間後の金曜日とかどうかな・・・?」

 飛織は申し訳なさそうな顔で言った。おそらく試験期間が始まる直前というのを気にしているのだろう。しかし、時弥にとって試験はなんの弊害にもならない。時弥は今回の期末試験を一度受けているからだ。短期的な記憶力に自信がある時弥は、すでに全ての試験でどの部分が出題されたかをレジュメにまとめていた。

「今回の試験はたまたま自信あるから、俺は大丈夫だよ。貴寛は優秀だから絶対大丈夫だろうね」

「本当?よかった〜」

 時弥が答えると、ホッとした表情を浮かべて飛織はそう言った。飛織はその直後、少し目を伏せて寂しそうな表情を見せた。

「でもこれくらいのことならメッセージで言ってくれてもよかったのに」

 時弥はその表情の変化に戸惑いながらも、ただの疑問と少しだけ期待をはらんだ質問を投げかけた。

「ううん、お願いする立場だから、ちゃんと直接言いたかったの。てことで、お礼にここのお代は私に出させてね」

 ニコッと笑顔で飛織はそう言った。時弥はもしかすると飛織が自分に多少の好意を抱いて、直接会う形をとったのではないかという僅かな希望を抱いていた。哀れな妄想が簡単に打ち砕かれた時弥だったが、全く異なる感情を抱いていた。いつでもメッセージができる今の時代、お願いごとを会って直接伝えたいという飛織の誠実な姿勢。時弥にとってこの恋が、ただの一目惚れではなくなった瞬間だった。友達想いで誠実、そしてこの笑顔だ。時弥は呆然としてしまいそうになるのを堪えて会話を続けた。

「いやいや、これくらいいいよ。それより、この間の映画の話だけどさ」

「あ、うん!時弥くんも洋画好きなんだったよね!周りに話せる人いないから嬉しい〜」

「そうそう!マジでテンション上がったよ。一番好きな映画は、”Yes, I am”ってやつなんだけどわかる?」

「え?それ私も一番好きな映画なんだけど!」

 それもそのはず、時弥は乾杯ループによってすでに共通の趣味を把握していた。時弥が洋画を好きなのは事実だったが、一番好きな映画は違った。とはいえその映画は観たことがあるものだったし、好みのジャンルであることも間違いではなかった。時弥はそれを「一番好きな映画」にすることにしたのだ。

「まじ!?サスペンス系の映画が特に好きでさ!その中で一番面白いと思うんだよね」

 時弥は自分自身の白々しい演技に少しばかり嫌悪しつつ、飛織の反応を見た。

「そうなの?SFとかファンタジーとかじゃなくて?」

 飛織は首を傾げて、時弥が本当に好きな映画ジャンルを言い当てた。時弥は一瞬焦ったが、よく考えてみればこの年代の男はそっちの方が自然なのかと思い、動揺を隠しきれずに答えた。

「そ、そうだね、もちろんそっちのジャンルも好きだよ。でもやっぱり一番はサスペンス系かな」

「そうなんだ〜。でもそっか、じゃあ本当に好きなの同じだね!”Yes, I am”のさ———————」


 時弥と飛織はその後も映画の話で盛り上がり、一時間ほど話した後で解散することとなった。

「じゃあ、飲み会のことはまた連絡する。多分来てくれると思うからそのつもりでね」

「わかったよ。今日は本当にありがとね。楽しかった!またね」

 飛織はまるで天使と見間違うような輝きの笑顔で、時弥の心をぎゅうっと握りしめたまま歩き去っていった。時弥は余韻に浸りながら、少しの間後ろ姿を眺め続けた。その後、腕時計で時刻がまだ十五時頃だったのを確認すると、飛織とは反対方向に歩き出した。

 目的もなくセントラルパーク内を歩きながら、時弥は未だ余韻に浸っていた。カフェで軽いお茶をしただけ。それでも時弥にとっては初デートの後のような高揚感に包まれていた。舞い上がる気持ちにつられて頬が緩むのを必死に抑え、視界に入ったベンチに腰をかけた。目の前には大きな噴水があり、控えめな勢いで水が吹き出している。噴水の周りでは数人の小さい子供が上半身裸で走りまわり、母親と思われる女性たちがその近くで談笑している。セーラー服を着た女子高生の二人組、缶コーヒーを片手に持つスーツ姿のサラリーマン、観光客と思しきブロンドヘアの外国人グループ、たくさんの人たちが噴水を囲むベンチに座り、そして立ち去っていく。この場所は駅前通りとセントラルパークが交差する。最も人が入り乱れる場所だ。休日の昼下がりとなれば、多くの人たちが様々な理由でこの場所を訪れるのだろう。時弥が少しの間ぼーっと人間観察に興じていると、ポケットの中のスマートフォンが振動した。ポケットから取り出して、メッセージアプリを開くと、そこには藤原貴寛の名前があった。

「行けるよ。やるなあ(笑)」

 そこには、飲み会に対する返事と、男女四人の飲み会を取り付けたことに対する冗談まじりの賞賛であろう一言が添えられていた。

——————やるなあと言われても、君のバーターなんだよなぁ。

 時弥は皮肉たっぷりの自虐心を掻き立てながら、メッセージを打ち込み、送信した。

「たまたま流れで決まったんだよ(笑)じゃあ、詳細はまた連絡する」

「了解。楽しみにしてるな〜」

 貴寛からすぐに返信が届き、やりとりはすぐに終了した。その後、時弥は飛織とのトーク画面を開き、貴寛が参加できることを報告した。返信はすぐにはなかったが、時弥はよし、と口に出して呟き、ベンチから立ち上がった。八週目があまりにも順調に進んでいることに満足して、時弥はショッピング街の方へ向けて歩き出した。











「—————ということで、乾杯!」

 七月二十二日、金曜日。四人での飲み会が始まり、時弥は慣れない音頭をとっていた。四人の持つジョッキが今にもぶつかるという瞬間、時弥はジョッキをテーブルに置き、手を離した。

「あ!ごめん。さっき携帯をトイレに忘れてきたかも。ちょっと見てくるから先飲んでて!」

 時弥はそう言って、トイレに向かって走った。少し不自然だっただろうか。ひとまずはこれで飛織との乾杯を避けられたが、少人数の飲み会ともなると常に気を張っていなければいけない。うっかり乾杯してしまえば、乾杯ループが起こってしまう。時弥は先の不安を感じつつ、トイレの前でポケットから携帯を取り出し、すぐに席へ戻った。

「悪い悪い、あったわ〜」

 時弥は白々しく言いながら、ジョッキを持ちあげ、乾杯し直す空気になる前にぐびぐびとビールを飲んだ。少し不自然な様子はあるかもしれないが、まさか乾杯を避けているとは誰も思わないだろう。三人の反応が特に変ではないことを確認して、ジョッキをテーブルに置いた。時弥がジョッキを持つ手に気を取られていると、正面に座る貴寛が時弥のほうを見て話し始めた。

「今日は呼んでくれてありがとう。意外なメンツで驚いたよ」

「確かにそうだね。ノリで飲みに行こうって話になって、試験前でも大丈夫そうなのは貴寛かなと思ってさ」

 時弥は横に座る飛織に目線をやりながら、へたくそな嘘でごまかす。

「そうなの。でもたまには少人数もいいでしょ?」

 飛織がそれに合わせるように答えると、貴寛の隣に座る雫が少し焦った様子で続けた。

「だ、だよね!大人数だと誰かひとりとは深く話せないしね!」

 雫のわかりやすい視線に気づいているのかいないのか、いまいち素が見えない貴寛は、落ち着いた調子で微笑えみ、答えた。

「たしかにそうだ。じゃあ今日はゆっくり三人の話聞かせてもらうかな」

「俺が一番話聞きたいのは貴寛なんだけど」

 時弥がこう言ったのは、雫のためでもあったが、同時に本心でもあった。一周目の時、期末試験後の打ち上げでは貴寛と雫、そして飛織も含めた三人が仲良さげにしていた。飛織はその時、妙に貴寛に視線を奪われていたように見えた。飛織は雫の応援をしているようだが、もし仮に飛織も貴寛を好きなのだとしたら、一体貴寛はどんな男なのだろう。モテる奴だというのは知っているし、最初の飲み会でも話はしたが、まだまだ謎に包まれた男だ。

「でも確かに、俺と時弥って飲み会でよく会ってるのにちゃんと話したことないよな」

「そうなんだ!てっきりすごい仲良しなんだと思ってた!」

 笑いながら言った貴寛に続いて、雫が驚いたように言った。

「仲悪いわけじゃないんだけどね。学部が違うからかな、サークルの飲み会でしか会ったことないよね」

 時弥が少し気まずそうにそう言うと、貴寛の同意して答えた。

「そうだな。サークル以外で会うのは今日が初だな」

「意外だよね。サークルの人たちってもっとみんな遊んでるのかと思ってた」

「うちのサークルって数人の仲良いグループがたくさん集まってるって感じだから、サークルで集まる時以外は結構それぞれのグループで遊んでるよな」

 飛織の疑問に貴寛が答えた。実際、その通りだと時弥も感じていた。

「貴寛は普段誰と仲良いの?」

 時弥が質問し、貴寛が答えた。

「竹田、山口、佐伯あたりかな。同じ学部だし」

「経営学部メンツだね」

 時弥はそう言いながら、貴寛が挙げた三人のうち二人が女子だったことが気になり、雫の方を見た。雫は苦笑しながらへぇ〜と相槌をしている。

「そういえば、ここ三人はいつから仲良いの?」

 時弥は話を変えるついでに、気になっていたことを投げかけた。

「三ヶ月くらい前に飛織がーーーーー」

「ちょっと前に私と雫が参加したバーベキューでたまたま貴寛くんと知り合ったんだよね!」

 貴寛が答えようとしていたところを遮る形で飛織が口を挟んだ。飛織は少し焦っている様子で、チラチラと雫の方を見ている。雫は貴寛の口から出た女子二人のことで頭がいっぱいなのか、グラスを両手で持ちながらぼーっとカルーアミルクを飲んでいた。視線が集まっていることに気づいた雫はハッとした顔で言った。

「そ、そうそう!まだちょっと寒かったのに河川敷でやったんだよね」

「へぇ〜。うちのサークルじゃないよね、なんの集まり?」

 時弥は飛織の言いかけたことが気になっていたが、空気を読んでそのことには触れずに会話を続けた。

「あれは経営学部と法学部の仲良いやつが合同で、一番早いバーベキューやろうぜってノリで始まったような気がするわ」

 貴寛が淡々と答えた。

「やっぱ文系はそういうノリあっていいね」

 時弥は単純な羨ましさからそう言った。すると、飛織が続いた。

「時弥くんは工学部だったっけ。理系と文系ってやっぱり雰囲気違うの?」

「そうだよ。理系はやっぱり男ばっかだし、そういう男女混合のイベントみたいなのはあまりないからなぁ」

「そういうもんかぁ」

 時弥が飛織と会話を楽しんでいると、雫が口を開いた。

「てか、時弥くんて理系だったんだね。見えなかったよ〜」

「カズも一緒だよ、あいつの方がよっぽど理系に見えないでしょ」

 時弥は和寿の風貌を思い浮かべ、微笑しながら答えた。それもそのはず、和寿の見た目は、なんというか、ラッパーだ。見るからにヒップホップという感じ。両腕にはタトゥーが入っているし、服装もストリート系で、たまに常人には考えられない奇抜な髪型になることもある。三人が納得したような顔で笑っている中、そんなことを考えていると、次は飛織が口を挟むように言った。

「雫、人を見た目で判断しちゃダメでしょ?」

「あ、そうだよね。ごめんね」

 雫は申し訳なそうにそう言った。時弥は、二人のやりとりを見て、まるで姉妹みたいだなと思い、笑いながら答えた。

「大丈夫だよ。実際、理系のイメージ通りな感じのやつも多いしな〜。俺も一年の時はそうだったと思うよ」

「確かに時弥はかっこよくなったよな〜」

 貴寛がそう言った。貴寛レベルのイケメンに言われると皮肉に聞こえてしまうのが可哀想なところだ。いや、そう思うのは無意識に貴寛への劣等感を感じているからかもしれない。時弥はそんなふうに考えながら答えた。

「マジで?貴寛に言われるとなんか嬉しいな」

「なんかきっかけとかあるのか?」

 貴寛から唐突に投げかけられた質問が、時弥の記憶を呼び起こした。時弥が服装や髪型、そういうものに気を遣うようになったのは元カノによる影響が大きかった。時弥にとっては忘れたい記憶であり、飛織がいる場でその話を持ち出したくはなかった。

「いや〜やっぱり貴寛みたいにモテたくてさ、ところで貴寛って今彼女とかいるの?」

 冗談がちに作り笑いをしながら時弥は聞き返した。話を変えるための咄嗟の質問だったが、場の空気がピシッと固まるのを感じた。雫と飛織がこちらを見てなんともいえない顔をしている。自分のした質問の責任の重さに気づいた時弥は、固唾を飲んで貴寛の答えに耳を傾けた。

「俺?俺はいないよ。というか、付き合ったことはあるんだけどさ、ちゃんと恋愛したことがないんだよな〜たぶん」

 時弥がその答えにホッとしていると、雫たちも同じように胸を撫で下ろしていた。いつかは聞かなければいけなかったことだし、結果として雫にとって悪い方に転ばなかったのは確かだった。すると、雫が口を開いた。

「そうなんだ!てっきり、山口さんか佐伯さんとかと付き合ってるのかと思ってたよ〜。そっかぁ」

 時弥が安心したように話す雫を見て、貴寛が雫の気持ちに気づくのではないかとヒヤヒヤしていると、飛織が言った。

「ちゃんと恋したことがないって、どういうこと?」

 貴寛が答える。

「う〜ん。人をすごく好きになったことがない、っていうのか。良い奴だなとか面白いなとか可愛いなとかは思うんだけど、それが好きとは結びつかないみたいな感じかな」

「今まで付き合った人のことも?」

「そうだな。申し訳ないけど、そうだったと思う。悪いやつだよな」

 飛織からの鋭い質問に、珍しく自虐がちに貴寛がそう答えた。

「ううん。悪いとは思わないよ。自分の気持ちを知るために、経験しないとわからないこともあるよね」

「そう言ってくれると助かるよ。俺もそれで、あまり人と付き合わないようにしてるんだ」

 時弥は飛織と貴寛のやりとりを聞きながら、貴寛にも彼なりの悩みがあるんだなとしみじみと思いを馳せていた。同時に雫も真剣な眼差しで貴寛の言葉を噛み締めているようだった。恋人がいないことが分かったとはいえ、付き合うことの難易度はかなり上がったと思うが、雫は折れることのない眼差しと笑顔で貴寛に言った。

「じゃあ、いつか貴寛くんが本気で好きになれる人が現れるといいね!」

「あぁ。そうだな、ありがとう。てか、俺ばっか恥ずかしい話しちまった!他はどうなんだよ」

 その言葉でビクッとしたのは時弥だけではないようだった。飛織と雫もこの流れはまずいと思ったのか、貴寛以外の三人が少し動揺した様子で顔を見合わせた。その瞬間、大きな声が響いた。

「お待たせしました〜!焼き鳥盛り合わせで〜す!」

 店員が元気よく注文された料理を運んできて、テーブルに置いていった。

「美味しそ〜!食べよ食べよ!」

 雫が空気を変えるようにそう言い、その話はここで途切れることとなった。

 

 しばらく飲み会が続き、時弥はトイレに行くと言って席を立った。居酒屋のトイレはいつも混んでいて困る。時弥がそんなことを考えながら、ひとつしかない男子トイレの前で順番を待っていると、後ろから声をかけられた。

「お手洗い、混んでるね」

 後ろを振り返ると、飛織がいた。少し驚いて時弥が答える。

「そうだね〜。女の子は特にね」

「あ、私は大丈夫。雫を少し二人きりにしてあげたくて抜けてきただけだからさ」

 飛織はそう話したが、どこか物憂げな、悲しそうな微笑みを浮かべていた。時弥はその表情に困惑しながらも、一つの質問を投げかけた。

「そういえば、飛織ちゃんって貴寛と結構前から知り合いなの?」

 飛織は一瞬ハッとしたような表情をして、すぐに落ち着いて答えた。

「さっき聞いてたんだね。一応、三ヶ月前に知り合ってるよ。でも雫には言ってないの。だから知らないことにしておいてほしいな」

「うん、なんとなくそんな気はしたから言わないよ。でも、なんでかなって気になってさ」

 時弥は飛織の予想通りの答えを聞き、その理由を聞かずにはいられなかった。

「いや、特に理由はないよ。バーベキューの時、初対面みたいな感じになっちゃったからそういうことにしてるだけ」

「そっか、分かったよ」

「面倒かけてごめんね、ありがと」

 飛織は何かを隠しているような様子だったが、時弥はそれ以上は詮索しなかった。聞けばおそらく、自分自身も傷つくのではないかと直感的に感じたからだった。その直後に時弥のトイレの順番がきてじゃあと一言交わして別れた。

 

 その後も四人は順調に飲み会を進めた。その中で、時弥には一つだけ気がかりなことがあった。終始、飛織が愛想笑いを振りまいていたことだ。仲がいいはずの雫にも貴寛にも時弥に対しても何か壁を一枚感じるような振る舞いだった。時弥はそのことに疑問を感じつつも、なんとなく答えに到達してしまいそうで、あまり考えないようにしていた。あっという間に席時間が終わり、二軒目の居酒屋へ行こうということになった。会計をすまし、店の外に出たところで飛織が時弥の耳元で小さく囁いた。

「ねえ、コンビニに行くっていって、次の店まで二人にしてあげようよ」

 すぐに察して、時弥は無言で頷き、前を歩く二人に声をかけた。

「ごめん、俺ちょっとお金足りなそうだから、お金おろしにコンビニ行ってくるよ。先に次の店向かっててくれない?」

「あ、私も!水買いたいからコンビニ行く!」

 飛織が直後にそう言い、示し合わせたようなやり取りになってしまったが、雫もなんとなく察したのか貴寛が何か言いそうになる前に答えた。

「わかったよ!先に行って席空いてるか確認しておくね!」

 雫の言葉に貴寛も納得した様子で首を縦に振り、時弥と飛織は二人と別れた。

「じゃあ、私たちも行こっか」

 なんとなく寂しそうな顔でそう言う飛織に、時弥はある種の確信のようなものを得ていた。この核心に触れることで、時弥は自分を傷つけることになると分かっていた。それでも、目の前で悲しそうな顔を必死でこらえる飛織の話を聞きたくなってしまった。少しでも飛織の心を軽くしたいという思いで、時弥はその場に立ち止まったまま飛織に言った。

「飛織ちゃんも、貴寛のことが好きなんでしょ?」

 飛織は、目を丸くしていた。どうしてわかったのかと言いたげなふうに。少しの沈黙が続いたあと、飛織は口を開いた。

「どうして、そう思うの?」

「うん、今、泣きそうな顔してるからさ」

 時弥はそう答えた。飛織のことをずっと見ていたから、なんて恥ずかしいことは決して言えなかった。

「そんな顔してる?」

「してる、と思う。まぁ、それだけじゃないけどさ」

 そう言った時弥に観念した様子で言った。

「時弥くんはよく見てるね。はぁ〜バレちゃったか」

 時弥が黙って飛織を見ていると、飛織が悲しそうな表情で続けた。

「結構、しんどいね。あの二人にバレてなきゃいいんだけど」

「二人は気づいてないと思うよ。でも、いいの?これで」

「うん。あの子さ、前に悪い男にハマってた時期があって、それ以来男性不振気味だったんだ。だから、雫のあの感じ久しぶりなの。親友として、応援したい。貴寛くんは良い人だと思うから」

「そっか」

 時弥にはかける言葉が思いつかなかった。時弥自身が今感じている気持ちと同じように、飛織も恋を諦めようとしている。その辛さが身に染みてわかるからこそ、これ以上は何も言えなかった。

「とりあえず、コンビニ行こうか」

 時弥がそう言うと、彼女は頷き、二人は歩き出した。
 

 それから、時弥と飛織の間には沈黙が続いた。飛織はコンビニで水を買い、時弥は特に用もなく、外で待った。飛織がコンビニから出てきて二人は自然と歩き出し、長い沈黙のまま先に行った二人のいる店に向かう。足取りの重い時弥たちは、徒歩五分先のビルに着くのに十分くらいかけていた。時弥は気まずさみたいなものを感じることもなく、このわずかな時間でたくさんのことを考えていた。
 

 飛織を振り向かせるために、時弥は乾杯ループを利用してきた。飛織の気持ちなど考えずに。飛織には好きな人がいて、時弥がループする限り飛織の恋は実らない。時弥は自分のしていることが、とんでもない悪だと感じた。飛織の恋を実らせるために、乾杯ループを辞めようとも思った。しかし、時弥はすでに飛織の途方もないほど大きい優しさを知ってしまっていた。これまで七回のループをした世界で何度も、飛織の優しさに触れてきた。だからこそ、飛織は時弥の存在など関係なく、親友の好きな人に対して抱いた恋心を隠し通すだろうと分かっていた。時弥が飛織から離れてループを辞めたとしても、飛織は最後には必ず、雫と貴寛から離れて一人になろうとするだろう。それなら、時弥は続けるしかないと思った。罪悪感に苛まれ、自己嫌悪に陥ろうとも、必ず飛織を振り向かせ、幸せにするまで。

 

 二軒目の居酒屋があるビルに到着し、エレベーターを待っていた時弥たちは相変わらず無言だった。エレベーターのランプが一階へと降りてくる。

 五階、四階、三階、二階。

 一階にエレベーターが着き、扉が開いた時。時弥は咄嗟に、無意識に、身体を動かした。飛織の腕をつかみ、後ろを向きながら時弥は言った。

「行くの、やめよう」


 後ろで同じようにエレベーターを待っていた中年カップルが驚いている。時弥は飛織の腕をぐいと強くひき、逆方向へ走り出した。

「え!ちょっと、どうしたの⁉︎」

 飛織は訳が分からない様子で、時弥に何かを言っている。時弥は無心で走り、先ほどはゆっくりと十分かけて歩いてきた道を三分ほどで走り抜けた。道行くカップルや、サラリーマン、キャッチの男たちの間をすり抜け、先と同じコンビニの前で時弥は止まった。 

 時弥が飛織の腕を離すと、ぜえぜえと息を吐きながら、飛織は言った。

「いきなりなんなの?何も言わないで走り出さないでよ!本当に、どうしたの?」

 飛織は初めこそ珍しく熱くなった様子で話したが、すぐに落ち着きを取り戻して、そう尋ねた。

「飛織の辛い顔を、これ以上見たくなかったんだ。あの二人が親密になるにつれて、二人を応援しようとするたびに、飛織は泣きそうな顔をしてるんだ」

 時弥は無意識に飛織のことを呼び捨てで呼んでいた。時弥がそう言うと、飛織は再び声を荒げて言った。

「そんなことない!ちゃんと隠してるよ!雫が変に気を遣わないように!私が我慢すれば全部うまくいくの!時弥に何がわかるの!」

 飛織も無意識に呼び捨てになっていた。時弥はそんなことに気づくこともできないまま、決心して答えた。

「わかるよ。俺は飛織が好きだから。同じなんだ。だから見てられなかった、自分を見ているみたいでさ」

 時弥がそう言うと、飛織は目を丸くして固まった。まっすぐに飛織の目を見る時弥から目を逸らし、下を向いた飛織は小さく言った。

「なんで、今そんな——————」

「ちょっと待ってて」

 時弥は飛織が言いかけた言葉を遮って、コンビニの中に向かった。時弥は、レモン味の缶チューハイを二缶買って飛び出し、一つを飛織に差し出しながら言った。

「はい。これ飲んで切り替えようぜ。あの二人は、ちょっとくらい遅れても大丈夫だよ」

 飛織は少し泣いたのか、赤くした目をこすりながらその缶チューハイを受け取った。

「さっき言ったこと本当だから。飛織が好きだ。飛織が自分の恋を諦めようとする限り、俺は絶対に飛織を諦めないから」

 時弥はなぜだか少し笑えてきて、飛織にそう宣言して微笑みかけた。飛織もつられて少し笑い、清々しい声で答えた。

「もう、分かったよ。ありがとう。でも、貴寛くんへの気持ちはこれからも隠し通すつもりだし、時弥の気持ちにも今は答えられない。ごめんなさい。でも嬉しかったよ」

 時弥はこの時お互いの呼び方に初めて気づいて嬉しくなったが、同時に、これからすることへの罪悪感と自己嫌悪を感じた。時弥はその暗い気持ちをを吹っ切るように、大きな声で言った。

「振られたか〜!酒飲むしかないね!お互い!てか、二人とも呼び捨てになってるし!」

 時弥が微笑みかけると、飛織もそれに答えるように愛想笑いではない、可愛らしい笑顔で答えた。

「本当じゃん!」

 二人は缶チューハイのふたを勢い良く開けた。


プシュッ


「じゃあ、乾杯」

 時弥はそう言いながら、胸の中で決意した。これがどんなに卑怯だとしても、もう止まれないんだ。缶チューハイがぶつかったとき、目の前の飛織が何かを言った。微笑みながら。その言葉が耳に届く前に時弥はループした。

「がんばれ」


 時弥は目の前の飛織に元気な声で言った。

「はじめまして!」

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