乾杯ループ

詩ノ花

第1話 乾杯ループ

「かんぱ〜〜い!」

 古臭い大衆居酒屋。タバコの煙で黄ばんだ壁。木板に手書きのメニュー。少し煙たい店内の空気。狭い掘りごたつのテーブルで、周囲の喧騒を断ち切るように、十人ほどの男女が一斉に声を上げた。手に持ったジョッキやグラスをぶつけ合い、キンッと音が鳴り、なみなみに注がれたビールを喉へ流し込んでいく。

 見慣れた光景。大学三年生の高木時弥は、いつものようにサークルの仲間たちと飲み会を繰り返していた。周りに合わせるように、時弥もジョッキを前に出し、目の前にあるグラスたちにぶつけていく。ふと時弥が正面を見ると、普段の飲み会では見かけない女子と目が合った。

 キンッという音が鳴り、グラスのぶつかる振動を感じたその刹那にも満たない一瞬、時弥の身体は硬直した。まるで、時が止まったように、その一瞬が長い時間に感じられた。彼女の周りを光が差し、うるさいはずの居酒屋の喧騒が消え、その世界には自分と彼女以外いなくなってしまったような感覚。


 一目惚れだった。


 はじめまして、そう声を出そうとする時弥の意識に対して、突然の恋の衝撃についていけない声帯は完全に閉じてしまっていた。

「あっ」

 意識と声帯の攻防の末、僅かに漏れ出た情けない一文字がより事態を深刻にさせる。

「えっ?」

 目の前の彼女も一文字で応戦。何か言わねばと考えれば考えるほど、時弥の脳みそはただひたすらに回転を続けるだけのポンコツに成り下がっていた。彼女の後ろで店員が何か喋りながら料理を運んできたのが見えたが、そこに構う余裕もなく黙っていると、彼女が先に口を開いた。

「お会いしたことありましたか?」

 時弥はおどおどしつつも、助かったと安堵しながら答えた。

「いや、初対面です。すいません」

 彼女の問いかけは、一言目から目の前で動揺している男に対しての牽制としては妥当だった。それよりも、突如として水分の一滴すら残さず、カラカラに干からびてしまったこの喉をなんとかしないと、時弥は恋のはじまりをみすみす失ってしまうと思った。時弥は手元にあるビールをグビグビと流し込み、勇気を振り絞って会話を続けた。

「今日は初めて、ですよね?見かけない方だったので」

「友達が誘ってくれて、ちょうど暇だったから来てみたんです。でも、知ってる人が全然いないからちょっと緊張しちゃって」

 彼女は少し固い表情でそう言いながら、反対側のテーブルの隅に目をやった。時弥もつられてその方向へ視線を動かすと、今回の飲み会の幹事と楽しそうに話す金髪ショートヘアの女の子がいた。

「あの子がその友達?」

「はい。飲み会を企画してくれた人と仲がいいみたいで」

「そうみたいですね。二人はうちのサークルに入るんですか?」

 時弥は自身の表情筋がおそらく仕事をしていないと理解しながらも、にやにやと緩んだ顔で問いかけた。

「う〜ん。今日はとりあえず来てみただけっていう感じで。でも友達はあの感じだから入るのかな」

 再び幹事と友達のほうに目をやりながら話す彼女。友達の女の子がチャラそうな幹事に連れ出されるのを心配しているのか、はたまた幹事の男に気があるのか、時弥はそんなことを考えながらテーブルの隅を向く彼女を見つめる。二重のぱっちりした目にすらっと伸びた鼻筋、長い黒髪からのぞく小さな耳まで、時弥は吸い寄せられるように彼女に引き込まれていた。彼女が顔をこちらに向き直そうとしたので、時弥は現状できうる最大限のすまし顔を作り、会話を続けた。

「最初ですし、そうですよね。僕としては入ってくれたら嬉しいけど、とりあえず名前聞くとこから始めてもいい?」

「あはっそうですよね、すみません。水川飛織って言います。よろしくお願いします」

 ペコっと頭を下げながらそう答えた彼女の、弾けるような笑顔に身体中の全意識を持っていかれた時弥は、喉をゴクリと鳴らした。一目惚れとは恐ろしいものだ。あまりの可愛さに叫び出したいくらいの感情が、一瞬の間に全身から湧き上がってくる。そんな高なる感情を必死で押し殺して、時弥も応える。

「こちらこそよろしく水川さん。俺は高木時弥です。普通にトキヤとか、仲良い奴はタカトキって呼んでる奴もいるかな」

 時弥は飛織に見惚れたまま、ボケっとした声と引き攣った笑顔で当たり障りのない会話を絞り出す。敬語に紛れてタメ口を使う、少しでも打ち解けたい時弥にとってのギリギリの足掻きだった。時弥は相変わらず乾き切っている喉を潤そうと、目は前を向いたままに手探りで自分のジョッキを掴もうとした。

 

 ガタンッ


「あっ」

 情けない時弥の声とともに今掴もうとした中ジョッキが横たえた。流れだす生ビール。まずいと気が付いたのも束の間、金色に輝く液体は卓上の小皿やグラスををかき分けて、びちゃびちゃと正面に座る飛織の膝元に降り注いだ。

「きゃっ」

 飛織は咄嗟に声を上げ、それに気づいた周りの仲間たちもこちらを見た。時弥にはそんな周囲の視線に構う余裕はなかった。さーっと血の気が引いて真っ青になった表情のまま、時弥は瞬発的に体を動かした。

「ごめんっ、まじでごめん!今おしぼりもらうからっ、これとりあえず使って——————」

 時弥は飛織の顔を見ることができないまま、目を伏せて口と手を動かす。焦燥と罪悪感に駆られながら、バタバタと手元のおしぼりを手渡し、周りのおしぼりで流れ落ちるビールをせき止める。

「おいおい〜、もう酔ってんのか〜!早いって〜」

「飛織ちゃん大丈夫?」

「すみませ〜〜ん、ちょっとおしぼり〜〜!」

 そんな時弥の内心とは裏腹に、周りの仲間たちが手慣れた様子で、時弥には罵声を、飛織には心配の声をかけ、店員を呼び止める。こんなことは飲み会の場ではよくあることで、普段であれば笑いながら軽口を叩き、そのあたりの酒を一気飲みして終了しているはずだ。しかし当然、今の時弥にそんな余裕はなかった。時弥が恐る恐る飛織のほうに目をやると、明らかに表情を曇らせ、濡れてしまった真っ白なスカートをおしぼりで拭いていた。よりにもよって純白に輝くスカート。染み込んだ金色の液体に侵されたスカートが元通りにならないことは一目瞭然だった。


—————終わった。完全に終わった。


 時弥の脳内は真っ白に、ゆっくりと沈んでいった。ものの数分後にはテーブルの上は元通りになり、新しい中ジョッキが運ばれてきた。

「おら〜届いたぞ〜、飲め飲め!」

 落ち込んだ表情の飛織から目を逸らし、ただぼうっと絶望の淵で座り込んでいた時弥はその声でおもむろに立ち上がった。周囲に煽られたことよりも、自分自身が今日のことなど忘れてしまいたい一心で、なみなみのビールを一気に飲み干した。

「すみませんでした!」

 時弥はそう叫びながら、飲んだ勢いのまま直角に腰を折り曲げて頭を下げた。ゆっくりと頭を上げながら正面に目をやると、引きつった作り笑顔で会釈をする飛織が見えた。この日最後の記憶となったであろうこの最悪な光景が、時弥の目の奥のレンズに焼きついた瞬間、時弥はこの数分の一目惚れが、静かに幕を下ろしたのだと悟った。






                  *






 早朝六時二十分、時弥は普段よりも二時間近く早い路線バスに乗り、自身が通う新海山学園大学へと向かっていた。今日は夏休み前の期末試験最終日で、二つの試験が残されている。九時から行われる科目の試験は事前に配られたプリントから出題されるとあらかじめ知っていた時弥は、直前に試験勉強を詰め込むことに決めていた。昨日は午後からのもう一つの科目の勉強に時間を割き、こうして今睡眠時間を削って朝早いバスに乗っているのだ。とはいえ、明日から夏休みが始まるという高揚感はあった。時弥は清々しい気持ちで車窓を流れる景色を眺めていた。早起きもたまにはいいなんて呆けていると、隣に空いていた席に見慣れた顔が座った。

「おう、はやいね〜」

 にやついた表情で話しかけてきたのは、同じ学科の親友である野田和寿だ。

「カズこそめずらしいじゃん」

 時弥が応えると、和寿は渋そうな表情を浮かべて話した。

「いや〜今日のテストまだ手付けてなくてさ。この二時間が勝負だわ」

「それは俺も一緒だよ」

 時弥も同意する。

「てか、今日試験終わったら飲みに行かない?」

 唐突な和寿の提案に時弥は感心した。同じことを提案するつもりだったからだ。しかし同時に、時弥の頭に嫌な記憶がよみがえる。

「あ〜、どうしようかな」

 渋い顔で時弥が答えると、和寿はからかうように笑って当時を振り返った。

「ハハハ、こないだの飲み会のタカトキはやばかったもんな〜。記憶残ってんの?」

 およそ三週間前のあの飲み会。人生最大の一目惚れがビールによって一瞬で崩れ去った飲み会。
あの後、時弥は飛織に一言の謝りを入れ、気まずい空気に耐えきれず席を移動した。それからは、声をかけることもかけられることもなく、ただ一心不乱に酒を飲み続けた。そして、念願叶った時弥は、大勢からの呆れたまなざしに晒されながら、その日の記憶を飛ばすことに成功した。それでも飛織への想いと、最後に見せた苦い顔だけは今でも脳裏に焼きついたまま、決して消え去ることはなかった。

「いや〜なんも覚えてないわ。今日は学科の奴らだけ?」

 時弥は飛織への想いを隠したまま、まるで気にしていないという素振りで会話を続けた。すると、和寿は淡々とした顔で答えた。

「いや、結構大勢集まるらしくてさ。ほら、こないだお前がビールぶっかけた女の子とかも来るらしいよ。覚えてないかもしれんけど、可愛い子だったからみんな誘ってるみたいだよ」

 時弥は目を大きく見開いて、口をぽかんと開けたまま一言つぶやいた。

「まじで・・・?」

「まじだよ、さすがにそのことは覚えてるのか。今日飲み会来てもう一回謝れよ」

 和寿は笑いながら言っているが、この男が軽薄なように見えて律儀な男だと時弥は知っていた。自然と時弥は頷いていた。せっかくのチャンス。この間のことをしっかりと謝って、あわよくばスカートを弁償するためにデートに誘えたりしないだろうか。邪な願望を胸に抱きつつ、参加する意思を伝えた時弥は、大学に到着するまでの時間を謝罪のイメージトレーニングに費やしたのだった。

 

 大学に到着した時弥は、和寿とともに真っ直ぐに図書館へと向かった。新海山学園大学のキャンパスはそこまで広くはないが、第一から第八号棟もの校舎が建っており、図書室はその中でも比較的最近改築された第三号棟内にある。キャンパス内はまだ早朝のためか人はまばらだったが、図書室に入ると、同じ考えであろう学生たちが机に座ってせっせと試験勉強に精を出していた。空いている席に座り、かき集めたレジュメを取り出す。

「タカトキ、それの四、九、十二、十三回のレジュメくれ」

 顔の前で手を合わせて渋そうな顔を浮かべる和寿。

「どうしようかな〜、結構大変だったんだよな、これ全部集めるの」

 わざとらしい顔で答える時弥。こちらもそれなりの対価と引き換えに集めたレジュメだ。タダでやるわけにはいかない。

「今日の一次会、奢ります」

「カズ、お前ってやつは本当に話がわかるやつだな・・・のった」

「よっしゃ」

 いつも通りのくだらないやりとりではあるが、大学生にとって命よりも大切なのが単位だ。たとえ親友相手であってもこれくらいの取引は当然のことだった。和寿はレジュメを受け取ると、コピー機のある売店の方へと歩いていった。このタイミング、同じような学生たちがコピー機に群がっているに違いない。時弥は、早く戻ってきてくれよと願いながら、第一回のレジュメに目を通し始めた。

 およそ二十分後、和寿が席に戻るなりすぐに口を開いた。

「マジサンキュ〜。コピー機のとこでこないだの雫ちゃんに会ってさ、たまたまさっき借りたレジュメの一部欲しかったらしくてコピーあげちゃった」

 雫ちゃん、その名を聞いてもピンとこなかった時弥は、レジュメを読みながら聞き返した。

「雫ちゃんって?誰だっけ」

「あ〜覚えてないか。お前がビールぶっかけた子の友達の、金髪ショートの子だよ。椎名雫ちゃんだったかな」

 時弥はそれを聞いてすぐに、飛織が話しながら視線を向けていた女の子を思い出した。

「あぁ、あの子か。俺、その子と喋ってた?」

「最後の方、幹事の藤原くんと三人で盛り上がってただろ。マジで覚えてないんだな」

 和寿は再びクスクスと笑いながら話したが、その光景を全く覚えていなかった時弥にしてみれば、それは笑いごとではなかった。記憶がないのはわかっていたが、こうもはっきりと、自分の知らない自分が誰かと会話をしていた事実を突きつけられると、急に恐ろしくなる。意気消沈している時弥に和寿が追い討ちをかけた。

「てか、あの二人はあの日初めてタカトキと飲んだわけじゃん?だからあれが普段のタカトキだと思ってるってことだよな。ウケる」

 時弥は横目で和寿を睨みつけたが、何も反論できなかった。

「はぁ、マジであの飲み会やり直したいな」

 ため息をつきながらそう答えた時弥は、スマホで時間を確認してレジュメに向き直った。切り替えるしかない。とりあえずは今日の飲み会でなんとか印象を回復させよう。時弥は決意を固めて試験勉強を続けた。






                   *






 時弥が腕時計を確認すると、針は十八時五十分を指していた。今日の会場である居酒屋に時間通り到着した時弥は、少しだけ気合いを入れ直して中に入った。前回とは別の店で、宴会用の大部屋がいくつも用意されている大きめの居酒屋だ。コスパが良いためこの辺りの大学生はだいたいここで大人数の飲み会をする。この居酒屋が会場だったことで、今回の参加人数がおそらく三十人以上であることは容易に想像できた。店員に案内され、店の奥にある大広間へと歩いていく。ふすまを開けると、すでに十数人の友人たちが掘りごたつの席に座って、わいわいと話し込んでいた。時弥がどこに座ろうかと悩みながらそろそろと近づいていくと、奥のほうに座っていた和寿が手を振った。和寿が隣を指さしたので、時弥はそこへ歩み寄った。和寿の近くには幹事の藤原貴寛と金髪ショートの椎名雫がおり、二人は時弥を見ると軽く手を振って笑った。カズが言っていたことが真実だと目の当たりにして苦笑いを浮かべつつ、時弥は座布団に腰を下ろした。時弥はすぐに、正面に座っているのが飛織だと気づいた。瞬間的に脈拍が速くなるのを感じたが、当の飛織は後ろを向いて誰かと話している。時弥は平静を装いながら隣の和寿に声をかけた。

「おつかれ。今日かなり人数多いんじゃない?久々だよね、こっちの席」

「そうなんだよ。試験期間でみんな我慢してたんだろうな」


 他愛ない会話をしながら、ふと正面に目をやると、飛織はこちら側に向き直っており、貴寛と雫の三人で楽しそうに話をしている。この三週間の間に仲良くなったのかもしれない。

 時弥はまた会えたことによる嬉しさと仲良く話している貴寛への羨ましさが共存する複雑な感情に身を包み、飛織に声をかけるタイミングを見計らっていた。
 そうこうしているうちに少しずつ人数が集まってくると、貴寛が立ち上がり、店員のほうに歩いて行った。その様子を目で追っているような気がする飛織を見ながら、時弥はここぞとばかりに声をかけた。

「久しぶり。覚えてるかな。あの時は本当にすみませんでした」

 謝る時弥に対し、飛織はにっこりした顔で答えた。

「あ、お久しぶりです。全然!気にしないでください。私こそ、この間は気まずい感じにしちゃってごめんなさい」

 先ほどまで貴寛に見せていた笑顔とは比べるまでもないほどの愛想笑いを浮かべ、よそよしい敬語で飛織は答えた。時弥はその表情に沈痛しながらも、自分に大きな被害を与えた者に対して笑顔で謝る飛織にますます強く惹かれた。罪悪感に駆られる時弥は、再度謝罪した。

「いや、水川さんが謝ることじゃないよ。本当にごめんね。あのスカート、大丈夫・・・じゃなかったよね」

「え〜っと・・・」

 飛織は目線を上に向け、言葉を選ぶように少し間を開けてから答えた。

「あのスカートはもともとだいぶ古い物だったので、全然いいんです。飲み会にあんな白い服着てきた私もバカですよ」

 時弥はあの時の飛織の表情を思い出し、本当はお気に入りの洋服だったんだろうなと空想しながら、彼女の優しさを痛感する。弁償を理由にデートに誘おうなどと考えていた自分の浅はかさを恨んだ。よく見ると、今日の飛織は黒いスキニーパンツをはいていた。

 すると、貴寛が席に戻ってきた。飛織は、貴寛のほうを見ていた。

「では皆さん!テストお疲れさまでした!落とした単位のことは忘れて、今日は楽しみましょう!乾杯!」

「かんぱ〜〜〜い!」

 貴寛は今日も幹事のようだ。いつものように音頭を取り、皆がそれに続いた。飛織は嬉しそうな顔でカシスオレンジらしきお酒の入ったグラスを貴寛のジョッキにぶつける。時弥は恋の終わりを感じながら、飛織よりもへたくそな作り笑いでジョッキを持ち、飛織に一言、乾杯とつぶやいた。すると飛織もそれに応えて、乾杯ですと可愛らしく微笑む。儚い一目惚れに終わりを告げるように、キンッという音が耳に響き、飛織のグラスと時弥のジョッキがぶつかった。

 その瞬間、時弥の身体は硬直した。まるで、時が止まったように、その一瞬が長い時間に感じられた。飛織の周りを光が差し、うるさいはずの居酒屋の喧騒が消え、その世界に自分と飛織以外いなくなってしまったような感覚。

 

 —————世界がぐにゃりと歪んだ気がした。


 次の瞬間、時弥は違和感を覚えた。周りを見渡すと明らかに景色が変わっているのだ。斜め向かいにいたはずの貴寛は反対側の隅にいる。隣を見ると和寿はおらず、別の友人が座っている。三十人はゆうに超えていたはずの、大きな飲み会ではなく、座椅子に座り、目の前には十人がけのテーブルに枝豆の入った小皿が並んでいた。ここは、三週間前に飲み会をした居酒屋だ。時弥は正面を見た。飛織はそこに座っていた。相変わらず綺麗な顔をして。

「お待たせしました〜」

 時弥は何が起きたのか理解できないでいると、店員が料理の入った皿をお盆に乗せて飛織の後ろから現れた。飛織は立ち上がって自身の座っていた椅子をずらし、店員が皿を置きやすいように空間を開けた。時弥はそのふとした親切な行動を眺めながらも感心する余裕はなく、ただ動揺していた。その時、決定的な違和感を感じ、時弥にはすぐにその答えがわかった。飛織が立ち上がったことで飛び込んできた光景。飛織は、純白に輝く、真っ白なスカートを履いていたのだ。

 三週間前のあの日、時弥が駄目にしてしまったはずの真っ白なスカートが染みひとつなく綺麗に光っていた。脳の情報処理が追い付かない時弥はパニック状態になりつつあり、叫びだしたい気持ちを抑えようと強く意識を向ける。

「・・・あ?」

 抑えようとする意識と叫びだしたい声帯の攻防の末、僅かに漏れ出た一文字が事態をより明確に、不気味に変えてしまった。

「えっ」

 目の前の飛織が不安げな顔で言った。

「お会いしたことありましたか?」

 時弥は飛織の質問に考えを巡らせる余裕がなかった。

「え、知ってるけど・・・」

 時弥はただ聞かれたことに答えただけだった。しかし飛織の反応はあまりにも不自然だった。

「え?ごめんなさい、どこでお会いしましたっけ?」

 飛織は申し訳なさそうな顔でそう言った。

—————からかっているのか、実はスカートを汚されたことを根に持っていて何か壮大なドッキリを—————

 時弥はそんなふうにありそうもない思考を巡らせていたが、すぐに自らの可能性を否定した。突然服装が変わっていて、いる場所が変わっていて、席順どころか人数も明らかにおかしい状況。相変わらず、なにが起こったかわからない時弥は一度落ち着こうと席を離れることにした。

「ごめん、ちょっとトイレに行ってくる」

 飛織の質問を遮る形になってしまったが、それはもう時弥にはどうしようもなかった。時弥はトイレではなく、店の外へ向かった。

 外に出た時弥はまず大きく深呼吸をした。夏の心地よい夜風にあたり、頭を冷やす。少し冷静になったところで、スマートホンをテーブルに置き忘れたことに気づく。仕方ないと腕時計を確認すると、針は二十二時五分を指していた。

 時弥の記憶では、今日の飲み会は十九時開始だったはずで、始まりの乾杯をした直後にこの時間というのはありえないことだった。時弥はすぐに一つの可能性を捻り出した。自分は三週間前と同様に、酒を浴びるように飲み、今この状況に至るまでの記憶が飛んでいるのではないかという可能性だ。ここは二次会会場で、二次会に来たのが十人だけだったという状況。しかし、そんな考えもすぐに否定できてしまうほどの材料が揃っていることは明白だった。そこまで記憶をなくすほど酒を飲んだにしては、時弥の体調はすこぶる良かった。わざわざ全員が洋服を着替えに帰るはずもない。飛織がまるで初対面かのような質問をしてくることに関しても、和寿とは違うのだ。そんなくだらないドッキリを知り合ったばかりの飛織が仕掛けてくるだろうか。時弥は出口のない迷路をグルグルと回っているような感覚にうんざりしながらも、必死に頭を動かしていた。その時、後ろから声をかけられた。

「よう、どうしたいきなり外なんか出てさ」

 藤原貴寛だ。時弥は前回一緒に盛り上がったことも覚えておらず、貴寛とは飲み会で時々一緒になるくらいで特に親しく話したことはなかった。時弥はそんな貴寛の突然の登場に困惑した。

「藤原くんか。あーいや、ちょっと風に当たろうかなって」

 時弥は焦りを隠しながら、下手くそな言い訳をする。

「まだ飲み会始まったばかりだろ。てか、貴寛でいいよ。もう何回も一緒に飲んでるじゃん」

 そう言いながら貴寛はポケットからタバコを取り出し、慣れた手つきで火をつける。時弥は思わずその仕草に魅入ってしまいながら答えた。

「ハハ、たしかにね。なんか調子悪くてさ〜」

「そっか、無理すんなよ。でもほら、今日は新しい子二人きてるじゃん?最近知り合った子達でさ、馴染めるように上手くやってくれよ〜」

 ニヤリと口角を上げる貴寛。その言葉を聞いて、さすがだなと思った。時弥は元々、貴寛はチャラそうな見た目をしているが、周りによく気を配っている印象があった。高身長で整ったルックス、スマートにリーダー役をこなし、時に場を盛り上げ、時には落ち着いてミステリアスな空気も醸している。モテるのも頷ける。

「俺なんかに頼むことでもないだろ〜」

 ふと、飛織が貴寛に見せていた屈託のない笑顔を思い出す。時弥は愛想笑いしながらそう答えた。

「いやいや、いつも一番周り見えてるじゃん。時弥がいるときは輪に入れないやつとかがいないから、幹事としては楽なんだよ」


 冗談を言っているような様子は一切なく、急に真面目な顔で照れくさいことを言い出す貴寛。

「なんだよ急に。そんなふうに言われたの初めてだよ。まぁ、なんかありがと。でも今日はちょっと余裕ないかも」

 時弥は照れているのを隠して、ヘラヘラしながらそう答えた。貴寛は宙に煙を吐き出して黙っている。時弥はその独特な空気に耐えきれず続けて言った。

「じゃあ、落ち着いたから先戻るわ」

「おう、俺はこれ吸ったら行く」

 貴寛は再びタバコを口から離しゆっくりと白い煙を吐き出すと、タバコを持つ指を軽く伸ばして見せた。ゆらゆらと夜の空気に漂う煙とその仕草が時弥の記憶を軽く撫で、もはや思い出になりつつある一人の女性の姿と重なった。一瞬浮かんだ姿をすぐに消し、時弥は店内へと戻った。

 

 その後も飲み会は平常通り進んでいった。何事もおかしいことなど起こっていないように、皆楽しそうに酒を飲んでいる。立ち上がって踊りだす男、顔を赤らめながら隣の男に首をもたれる女、コールをかけながら人に酒を飲ませ、飲まされる男たち。時弥はもはや考えることを放棄し、ただ流れに身を任せるようにノリを合わせていた。そうしていると、初めの会話以降、言葉を交わしていなかった飛織が横に移動してきた。ずいぶんお酒を飲んだのか、頬をピンク色に染めて飛織は言った。

「さっきはごめんなさい、きっとどこかでお会いしてたんですよね。私、たまに忘れっぽくて・・・」

「いや、こちらこそごめん。俺の勘違いだったみたいだ」

 時弥は飛織に合わせることにした。実際、飛織が嘘をついているとは思えなかったし、今自分自身に起きていることが何かおかしいことだというのは明白だったからだ。


「そっか、そうだよね」
 

 飛織はなぜか切なそうな微笑みを浮かべてそう呟いた。時弥はそんな表情を怪訝に思い、ほんの一瞬飛織を見つめたまま固まった。

「あ、タメ口で喋っちゃった」

 飛織が続けてそう言ったので、時弥はすぐにハッとして答えた。

「いや、全然良いんだよ。同じ学年だよね?タメ口でいこうよ」

 そもそもこの場にいる全員が同じ学年だったため、同学年というのはわかっていた。時弥は敬語をやめるきっかけができてラッキーと軽く思いながら、一つ試したいことが浮かんだ。少し酔っている勢いもあり、時弥はそれをすぐに口に出した。

「てか、そのスカートすごい綺麗だね」

 飛織は特になんの動揺もせず、ただ赤く染まった口角を目一杯引き上げ、満面の笑顔で答えた。

「ほんと?コレ、お気に入りで、嬉しい」

 時弥にはすでに飛織に対する疑いなんてなかったが、未だ理解できないこの状況のヒントをこのスカートから拾おうというつもりだった。しかし、予想通りお気に入りのスカートだったことが判明し、時弥はひどく申し訳ない気持ちに包まれた。とはいえ、今目の前にあるのは汚れひとつない真っ白なスカート。飛織は汚されたスカートについては一切触れてこない様子。相変わらず意味不明な状況にミステリーを感じながら、自分に対する戒めと確認の意味を込めて時弥は言った。

「真っ白だから、お酒の場で汚さないように気をつけないとね」

 スカートを汚した張本人がまるで他人事のようにこんなことを言ってくれば、多少反応があるだろう。しかし、時弥の想像していた通り飛織は全く顔色を変えず、にこやかな表情のまま答えた。

「ほんとそうだよね。着ていく場所考える」

 時弥は自分のしたことが無かったことになっているこの状況に少し安堵していた。よくわからないが、ある意味、自分にとって都合の悪い事実がなくなったのだ。お酒が入っているせいもあり、飛織に対する想いの炎が再び燃え上がっていくのを感じた時弥は、チャンスを逃すまいと決意を固めた。

「もしよかったら——————」

 時弥がそう言いかけたとき、立ち上がった貴寛の大きな声が響いた。

「みんな〜!席の時間なので、一次会は一旦締めます!最後に全員で乾杯して終わりましょう!」

 その声に合わせて皆が同意の声を上げながら、各々のグラスを持ち始めたので、時弥も言いかけた言葉を飲み込んでジョッキを持った。隣の飛織を見ると、言いかけた言葉は聞こえていなかったのか、ワクワクしたような表情でグラスを持ち上げていた。

「それでは、かんぱーい!」


 貴寛の合図で、皆が手に持ったグラスを次々とぶつけていく。時弥も飛織にジョッキを差し出す。飛織もそれに気付いてグラスを突き出した。

 


 キンッ



 ジョッキとグラスがぶつかる音が耳に響く。異様なほどにはっきりと。ありえないほどの静寂に包まれて、立ち眩みに似た感覚。ぐらりと世界が傾くような感覚。真っ白なスカートが輝いて、目の前の飛織の姿がくっきりと焼き付く。あまりの眩しさに時弥は刹那に満たない瞬きをした。


 時弥が目をあけると、また同じ景色が繰り返していた。隣にいたはずの飛織の姿は消え、テーブルを挟んだ正面側に移動していた。先ほどまで真っ赤に染まっていた飛織の頬も白く強張り、時弥が動揺して目を丸くしているのに気づいて、不思議そうな顔をしている。時弥はさっきと同じことが起こったのだと直感的に分かった。分かったとはいえ、二度も繰り返すこの異常事態に平静を保てるほどの心の余裕はなかった。

「なんなんだよ・・・」

 時弥は周囲には聞こえるか聞こえないかくらいの声量でぼそりとそうつぶやいた。

「お待たせしました〜」

 飛織の後ろから店員が現れた。飛織は椅子をずらし店員が料理を置きやすいようにスペースをあける。時弥にとってその光景は、恐怖の対象でしかなかった。自分の身に何か大変なことが起こっているのではないかと恐ろしさに鳥肌が立つ。時弥は飛織の問いに冷静に答えることなど到底出来なかった。目を丸くしたまま黙りこくる時弥を見た飛織は怪訝な顔で再び口を開いた。

「お会いしたことありましたか?」

 その言葉を聞いた途端、時弥の全身に悪寒が走る。身体が恐怖に震え、一目惚れの相手だったはずの飛織の顔さえ恐ろしく感じてしまった。


 ガタンッ


 時弥は飛織から離れるように勢いよく後ろに身体を仰け反らせた。あたりをキョロキョロと見まわすと、皆がこちらを見て不思議そうな顔をしている。飛織も同様に困惑した表情を浮かべている。場がしらけたような雰囲気で、一秒ほどの静寂が流れた。その瞬間、時弥の口と体は条件反射のように動いた。

「あー悪い悪い!この子が知り合いかと思って驚いただけだよ!」

 自分が原因で場がしらけることは大学生にとって、非現実に巻き込まれるより怖いことのようだ。時弥は自分の変わり身様に驚きながらも、胸の動悸を鎮めようと深呼吸をした。隠しきれない焦燥にかられたまま時弥は続けて大きい声で言った。

「ごめんごめん、びっくりさせちゃって、はじめまして!もっかい乾杯しよう!」

 時弥は心の不安やしらけた雰囲気をかき消すように、無理に取り繕ったテンションで飛織にジョッキを差し出した。飛織は困惑したままの表情で、愛想笑いを浮かべながらグラスを突き出して言った。

「そ、そうですね。乾杯です」



 キンッ



「いや、驚かせてごめんね。もう酔ってんのかな〜。ハハハ」

 時弥は焦りを隠すように早口でそう話した。

「え?」

 飛織は困惑した顔をしている。時弥は内心で気づいていた。今、ジョッキをぶつけた瞬間に、あの立ち眩みのような感覚があったことに。ついさっき自分が仰け反ったときに大きく後ろに下がっていたはずの椅子に、今しっかりと背をもたれていることに。ハッとして腕時計を確認すると、針は二十二時を少し過ぎたあたりを指していた。相変わらず正面の飛織は困った顔をしていて、時弥はなぜかその表情を見ながら落ち着きを取り戻そうとしていた。ずっと、頭の奥のほうに追いやって考えようとしてこなかった一つの可能性が、急激に現実味を帯び、時弥はようやくその突飛な引き出しを開けることに決めた。

「ごめん、なんでもないんだ。俺は君と初対面で、話すのもこれが初めてだし、飲み会は今始まったところ、だよね」

「そ、そうですけど・・・」

 飛織は、おかしな人を見るような目で時弥を見る。周りに助けを求めるようにキョロキョロと頭を動かしている。

 時弥はこの不思議な現象が起こり始めてから、最も冷静に今の状況を分析していた。

「変な空気にしてごめん、仕切り直しってことでもう一回乾杯しない?」

 時弥はそう提案して、飛織に向けてジョッキを差し出した。飛織は愛想笑いを浮かべながら、渋々とグラスを持ち上げた。

「乾杯」

 時弥はある種の確信のようなものを抱きつつ、飛織の持つグラスにジョッキをぶつけた。



キンッ



「はじめまして、だよね?」

 時弥は笑顔でそう言った。飛織は答えた。

「はい、はじめましてです。初参加なのでちょっと緊張してます」

「そうだよね、みんな話しやすい奴らだから安心していいと思うよ。てか、同じ三年生だよね?タメ口でいこうよ」

「あ、そうです。じゃあお言葉に甘えて、よろしくね」

 飛織は少し安心したように笑顔を見せた。普通の笑顔を久しぶりに見た気がした。

「お待たせしました〜」

 店員が料理を持って現れる。

 時弥は見慣れた光景のなか、飛織との「はじめての会話」を淡々と続けながら、この現象に対するひとつの答えを得ていた。



——————そう、俺は、飛織と乾杯をするたびに、初めての乾杯の瞬間に戻っているんだ。

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