世にも短期な物語

そうざ

The Shortest Story in the World

 待ち時間用に図書館で借りたショートショート集を捲ったものの、ほんの三ページ目の三行目辺りでいつもの苛々が始まってしまった。

 貧乏揺すりが起きる。歯軋りが止められない。眼が充血しているのが判る。

 ぱらぱらと先を捲ると、まだ数ページも続いている事が判り、本を閉じて思わず椅子に叩き付けた。周囲の目が集まっても苛立ちは変わらない。

 ショートショートの定義は色々だが、短い事が売りである筈だ。文庫本の一ページ当たりの文字換算が六百字前後だとすると、例えば三ページで完結しても良い訳だ。それを何ページもだらだらと紙資源を無駄使いして売れっ子作家でございと鯱張しゃっちょこばられたら腹が立つというものだ。

時巻ときまきさぁん、診察室へどうぞぉ」


 血圧計を腕から解きながら医師が言う。

「ストレスは万病の元、大敵ですよ」

 毎回の同じ指摘に、耳に何個の胼胝たこが出来ているか知れない。

「この年齢としまで読書でストレスを解消して来た人間ですからね、めるに止められません」

「読むのは短いお話だけにしたんですよね?」

「それでもまだ長い。もっと短いのを探す事にしますよ」

「やれやれ、活字中毒の治療が必要ですかねぇ」

 医師は笑ったが、私は笑えない。


 子供の頃はもっと素直な読者だった。本の厚さなど気にせず、はらはらどきどきしながら時間を忘れて物語を愉しんでいたものだ。

 学校の昼休みも放課後も図書室が居場所だったし、休日も町の図書館こそが行楽地だった。至って金の掛からない子供だったと思う。因みに、漫画には興味が湧かなかった。文字だけで想像を掻き立てられるのが何よりも好きだった。

 良縁には恵まれなかったが、良本には恵まれた人生だと思う。私がこれまでに読んだ傑作を集めるだけで大きな図書館が建つのではないだろうか。


 そんな私と本との蜜月に不穏な影が差し始めたのは、いつだったろう。良好だった視力が老眼の洗礼を受けた頃だったのか、記憶は定かではない。

 兎に角、長尺の物語を受け付けなくなった。先ず、複数巻に亘る作品に手が伸びなくなった。次に、背表紙の厚みが一センチを超える作品に目も呉れなくなった。

 年を取ってこらえ性がなくなった、集中力が散漫になったとの説明は容易たやすいが、どうにも納得が行かない。

 人生の残された時間に、後どれだけの表紙を開く事が出来るのか。それを考えると、一つの長い物語に労力を費やすのは割りに合わない、と意識せざる合理的判断が駆動しているのかも知れない。

 昨今はタイムパフォーマンスとやらで、ながら視聴だの倍速再生だのが流行っているらしい。速読という技もあるが、読書好きの中に、結末さえ判れば良い、粗筋を読めば充分などという不埒な人間は居ないと、それだけは信じたいものだ。


 私は健康診断を終えたその足でまた図書館に立ち寄った。

 借りたばかりの本を返却し、館内の静寂に総身を解放しようとすると、途端に紙を捲る耳障りな音が聞こえ始めた。

 日がな一日、新聞閲覧スペースを占拠しているのは決まって年配者だ。今の世の中、そこまで新聞好きが多いとも思えない。人生の終盤を持て余した彼等の姿を見る度に、私は餓鬼道の亡者を連想してしまう。こうは成りたくないものだと思ってしまう。

 また、書架の谷間を徘徊しながらこんな事も考える。この世の中には主義主張を吐き出したい人間がこんなに存在するのか。物を書いて金を得、名声を得、世の支持を得たいという人間がこんなに存在するのか。

 それにしても、とも思う。こんなに多くの本が必要だろうか。似たような本が沢山あるだろうし、取るに足らない、愚にも付かない本も掃いて捨てる程あるだろう。

 こうも考える。本はこんなに分厚くなければならないのか、もっと簡潔に書けるのではないのか、原稿料は執筆枚数で換算されているのか。

 そんなこんなが気になり、私はまたしても苛々が募るのだった。


 人影疎らな書架に身を潜め、目に付いた適当なタイトルに指を滑らせ、ぱらぱらと捲ってはまた戻す。それは地味に足腰に来る不毛な作業だった。

「俳句やら川柳を眺めてるのが無難か……」

 愚痴が思わず独り言になって出る。

「どんな書籍をお探しですか?」

 傍らにエプロンを着けた女性が居た。職員らしい。私の振る舞いが目に止まったのだろう。

「なるべく短い物語を探してるんですが……勿論、面白い奴を」

「でしたら、こちらへ」

 仄かな照明の下、陰影のない色白の顔が私を誘導する。無駄のない足運びは、茶運び人形を連想させた。

 書架の角を何度も折れ、奥の奥へ進むと、そこに昇降機が待っていた。閉架書庫へ向かうのだろうか。一般利用者を気軽に案内しても良いのだろうか。

「こちらでございます」

 扉が開くと、眼前にもう書架があった。まるで昇降機の扉がそのまま書架の扉にもなっているかのようだった。

 見ると、どの本の背表紙にも何も記されていない。タイトル名も作者名もないつるんとした白い表面は、職員の顔に似ていた。

「全て持ち出し禁止なので、ここでご覧下さい」

 職員の声以外は、周囲から音と言う音が消えている。理想的な読書環境とも言えるが、自分の耳を疑いたくなる程だった。

「お勧めの一冊なんて……ありますか?」

「短い物語をご希望でしたね」

「えぇ、短ければ短い程」

「でしたら、ご随意ずいいに」

 私は言われるがままに適当な一冊に指を掛けた。果たして表紙も裏表紙も白紙だった。厚みは一センチに満たないが、それでも何十枚かの紙が束ねられている。であるからには、或る程度の文字数を予想してしまう。

 老眼鏡を掛け、いつもの癖で先ずぱらぱらと数ページを捲る。

 白紙だった。

 そのままページを捲り続けたが、最後まで何も記されていなかった。

「悪い冗談はめて――」

 もう誰も居なかった。

 不図ふと、脳裏に文字が焼き付いている事に気付いた。まるで太陽を直視した後の残像のようだった。

 もう一度、本を捲った。何も印刷されていない。もう一回、最初から――何もない。そんな筈はない。

 薄暗い照明が更に照度を落として行く。全てが闇に溶ける直前、何もなかったページの片隅にたった一文字、『死』と浮かび上がった。

 短い物語が終わった。

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