四、今日から我の往く道見たりと

 薄日の下に漂う雨上がりの湿気、雑木林の翳り。岩の向こうに流れる水はだくとして、淵は、静かに佇んでいる。


 はらり、水面に落ちた葉の向こう、川縁かわべりで寄り添う二人。れんは、京之介の胸に顔を埋めて震えている。

「寒いか」

 京之介はいた。れんはこたえない。肩を抱く手に力を込めると、着物から水が絞れる。着崩れた後ろ襟から覗く白い肌に、濡れた黒髪が張り付いている。

 手を添えて顔を上げさせれば、その目には、涙。

「なぜ、死なせてくれなかったのですか」

 唇は藤色に透けてしどけなく、白魚の指は京之介の胸倉を掻く。

「生まれ変わって添い遂げようと、言ってくれたではありませぬか」

「無論、そのつもりだ。しかし、なってしまっては。日と場所を改める他あるまい」

 頬を撫でる京之介を、れんの虚ろな目が素通りする。

「兄上は、死ぬのが怖いのでしょう」

「まさか」

「では、その手でれんをくびってくださいませ。しているうちに」

 れんは京之介に抱きついた。腰に腕を回し、口を吸う。柔らかく温い求めに応じれば、京之介は否応無しにみなぎる。


(恐れてはいない)

 京之介はれんの首を手で包む。先刻、化け物がした喉笛の形を確かめる。

けちがついたから仕切り直すだけだ)

 指は鎖骨を滑り降りていく。ぴくり、れんの身体は一瞬強張ったが、唇と舌の動きは激しさを増す。京之介は袷の中に手を入れようとした。その時。

 れんはぱっと身体を離した。

「れんは、先に参ります……」

 握りしめた脇差しが白い腹を翻す。京之介は自分の腰を確かめるが遅い。

 れんに目を戻せば既に、刃を喉に向けていた。

「待て!」

 京之介の叫び空しく、刃がれんの喉を裂く。


 華咲く血潮に濡れる表情穏やかに、京之介の腕の中でれんは事切れた。早く早くと責付せっつくように、薄く開いた唇が横たわっていた。


 * * * * *


 山、といえば谷。

 流れる川は少しの雨でもぶち切れて、付近の百姓を困らせる。若い侍が村外れに居着いた頃からである。


「背川様のお怒りじゃ」

「おかしいと思ったら祠が壊されておった」

「あの気味の悪い若造の仕業か。疫病神め」


 村人が噂する侍の名は、京之介。身を寄せた荒屋あばらやは、骨の折れた障子、腐りかけた柱、屋根には穴。落ち窪んだ眼窩はくうに向き、食うや食わずでやつれた頬はぶつくさと念仏を唱えている。


「今度川が暴れたら、村はもうたねえ」

「早いとこ疫病神を退治しねえと」

「しかし相手はお武家様だぞ」

「構うものか、余所者だ」


 あれから何日経ったか、京之介は数えていない。なぜまだ死ねずにいるのかは、っている。

 今際いまわきわのれんの顔を思い出す。吹き出す血の温かさは今でも肌に絡み付いて、後を追えばが待っていると知らせる。

 起きていれば苛まれ寝れば夢にまで顕れる女の情は最早、怨念。

 霧散を念じて終日ひねもす、柔肌を思い出して慰みに耽る。

 今日も何度目かの果て、雨音に耳を傾けていると、戸口に人の集まる気配がした。

「おい、お侍さんよ」

 蓑笠姿の村人が一人、土間に踏み入る。

「お前様、淵に行ったな?」

 京之介は無言。目を合わせようともしない。鍬や鋤を手にした者たちが続き、京之介を囲んだ。

 

 その日、川縁には小さな塚が立った。仔細を語る村人はいない。雨は止んだ。


 夜。墨のような雲が切れ、月の光が塚に射す。落ちた影の形は人、透き通るその姿は京之介。

 青白い顔で刀を抜けば、透けた軀に色が乗る。

「れんよ、俺は彼岸へ渡れぬらしい」

 髷が解け、髪が下りた。

「淵へ」

 開いた口から覗く、火のような舌──。


〈了〉



◆◇◆◇◆

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Joe Jan Jack @Joe_Jan_Jack

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