鉛玉と獣

第1話

 鬱蒼と茂る広葉樹の梢を高らかな銃声が貫いた。

 藤村佐一はジープ車のブレーキを思い切り踏み込むと、車体から飛び出るように駆け出した。降り積もる枯れ葉を踏みながら、間に合えと心で何度も唱える。

 佐一の息は一向に上がらず、森林を裂くようなその姿は差し詰め猛獣といったところか。


 先ほどの銃声を思い出しながら大木を目印に右折する。程なくして岩石の露出する開けた場所が現れた。

 木々に遮られないそこには月光が降り注ぎ、さながらスポットに照らされる大舞台である。

 深緑の壇上には5人の男が点々と立っていて、中央には白いワンピースを着た女が倒れていた。


 佐一は息を呑んだ。

 露わになった彼女の胸元は赤く染まっていて、新鮮な血液がドクドクと溢れ出ているからだ。


「よう、サイチ。間に合わなかったな」


 女の傍らに立つ男が佐一に向けてそう言った。

 黒いジャンパーを着る彼はフードを目深に被っていて、無精ひげに覆われた口元からは黄ばんだ歯を覗かせていた。佐一が獰猛なトラであれば、彼は狡猾なハイエナといったところか。


「城嶋、てめえ……!」


 砕けそうなくらい歯を食いしばりながら、佐一は憎悪を口にした。

 我を忘れた彼は、既に自分が膝を屈めて臨戦態勢に入っていることを自覚していない。佐一は理性ではなく本能によって闘争を行ない、そして制していた。


「いいぜ、やってみろよ。そのためにこっちは5人で来てんだ」


 嘲笑を吐き捨てる城嶋へ、佐一は真っ直ぐに飛びこんでいた――その刹那、方々で銃を構える音がした。

 撃てない、と佐一は直感する。自分を囲むように陣取る彼らは、誤射を恐れて引き金は引けないはずだ。

 唯一弾道上に味方がいないのは、城嶋唯一人。


 故に佐一は左へ一歩大きく踏み込んだ。

 ズレた重心のあった座標を、城嶋の放った弾丸が突き抜けた。火薬の匂い、城嶋の舌打ち、誰かが息を呑む音。周囲の音声から独立しているかのように、佐一は一切の無音であった。

 静謐のまましなやかに距離を詰め、城嶋まではすんでの距離……!


 素早く腰からナイフを抜き、髭だらけの顎から額へ斜めに切り裂いた。鮮血を迸らせて城嶋が大きくのけぞる。追撃を加えんとする憎悪を必死に押し殺して態勢を整える。

 ひと呼吸置いて身を屈めた佐一の頭上を、何発もの銃弾が通り抜けた。

 残敵の位置を確認しながら、逆手に持ったナイフで城嶋の胴体に突き立てる。硬直した城嶋の体躯を盾にすると同時、幾重もの弾丸が襲い掛かってきた。


 動かなくなった城嶋を左手で抱えながら、足元の石を一つ拾い上げる。体勢を変えずに狙える角度の敵を察知し、手首を捻らせて石を投げた。

 鈍い音がした同時に駆け出す。敵のいない方へ闇雲に走り茂みの向こうへ飛び込んだ。


 視界から逃れたからといって、そこは安全地帯ではない。防弾の頼りにするには植物はあまりに心許ないからだ。

 佐一はそれを織り込み済みだった。元より攻勢を弱めるつもりなどなかった。

 自身の姿を探して繰り返し首を振る敵の姿を、佐一は横目に観測する。最短距離で詰められる位置を把握すると、迷わずに飛び出してナイフを振るった。


 肉を感触と共に生温かい生き血が顔に付着した。切っ先が捉えたのは横腹だったので、素早く前腹部を狙って再び突き刺す。

 倒れた男は銃を取り落としたので、拾い上げると同時に別の敵へ銃口を向ける。ようやく訪れた一泊間。それでも、呼吸を乱されているのは佐一ではなく男たちの方であった。


 視線、重心、足先、銃口。

 あらゆる部分の微妙な向きが、幾重もの可能性を秘めるフェイトンになり得る。

 残弾数を見られていないので佐一は一発も無駄にできない。慎重に敵の動きを制しながら、局面を打開する一手を考える。


 逃げるためではない。女――リミが生きている僅かな可能性に賭けて、彼女を救い出す為だ。

 リミの存在を知覚したとき、熟考の余地などないと思った。


 迷わず敵の1人を狙って引き金を引く。逸れた弾丸は人体を打ち抜くこと叶わなかったが、全員を怯ませるには十分であった。

 視界の隅でリミの姿を捉える。鮮血は止まらず、大きな血だまりをじわじわと広げている。微かに痙攣していた。


 佐一の全身がカッと熱くなった。


 抑え切れない激情に身を呑み込まれ、ふくらはぎの血管が激しく波打つ。瞬発力にものを言わせた飛び出しに、誰も反応し得ない。

 獰猛なスプリントによって一気に間合いを詰めると、佐一は敵のこめかみを拳銃で殴りつけた。骨の砕ける軽やかな音が響くのも構わず、何度も何度も重ねて殴る。

 声もなく倒れる敵を見下ろす佐一の、その頬を銃弾が霞めた。音速の殺意が頬を裂き、顎に血液が滴る。

 おもむろに振り返ると、銃口から煙を吐き出させる男と目が合った。


 ヒッ、と短い悲鳴がした。猛獣に睨まれた憐れな小動物。

 小径の銃を携えたところで絶対的な強弱は覆らない。

 ましてや、怒れる獣など。


 もはや勝敗を述べる必要はないであろう。


 数秒の後、森林の中のとある空間では四人の男が倒れ伏していた。加えて白く儚く散った1人の女と、傍らに膝を突いて打ちひしがれる男。

 藤村佐一の慟哭は月夜へ高く吸い込まれ、誰の耳にも届くことはない。


 やがて血と涙に顔を濡らしながら、固く冷たいリミを抱きかかえてジープ車へと戻るのだった。




 佐一がアンダーグラウンドの闇へ身を落としたのは、わずか7歳のときであった。

 莫大な負債を抱えていた両親は幼子を残して首を吊り、取り立てがアパートメントを訪れたときには立ち尽くす佐一の姿しかなかった。


「あーあー簡単に死にやがって。ガキに悪いと思わねえのかねえ」


 うんざりと言い放つ取り立ての男の、口調、言葉、表情、髪、服、そしてオーラ。

 彼のまとう全てが両親を殺したのだと気付いたとき、佐一は咄嗟に男の手首へ噛みついたのだ。


 ここで佐一が殴り殺されていた未来もあったのだろうが、取り立ては小物ではなかった。

 幼子の中に眠る凶悪な性質を見抜いた彼は、鋭い才能を育て上げて己がものにしようと目論んだのだ。

 聡明な彼の唯一の誤算は、その才能があまりに猛々しく誰にも飼いならし得ないものであったこと。


 佐一が15の齢に、彼は殺戮の師を手に掛けた。

 身寄りを失った子供、と見なすにはあまりに鋭く血塗られ過ぎている。同じ世界に生きる者は佐一を我が物にせんとし、またある者は排除せんとした。

 動機は千差万別であれど、末路は決まって惨たらしい死であった。


 刃を振るうことで金品や食糧を奪い生き延び続ける佐一は、もはや他に生きる術を知らなかった。

 いつ命を落とすともしれない拙い歩みも、己が罪の咎に違いない。


 幼い頃より罪の意識を罪で押しとどめる彼に、一筋の光が舞い降りたのは18の頃。

 半島からやって来た密輸団を手に掛け、廃倉庫で蟹を貪っていたときだった。ハツラツとした女の声が降り注いだのだ。


「きみ、こんなところで何してるの?」


 自身を目にした者は誰であろうと消す。

 断るのも馬鹿馬鹿しい当然の戒律に従おうと、彼は刀身を煌めかせてナイフを突き出した。

 刺殺の瞬間、人間は恐怖か驚愕か虚無を浮かべる。

 弱い者は死への恐怖に顔を強張らせ、強い者は自らの死に驚く。虚無を浮かべる者は、強いて言えば佐一が最も嫌悪する人格であった。


 しかしそのときの女はいずれにも該当しなかった。

 刀身が真っ直ぐに突き出され我が身を抉らんとするその瞬間にも、佐一への怪訝と憐憫を絶やさなかったのだ。

 倒れた彼女に止血処理を施し闇医者の拠点へ送り届けたのは、佐一が密かに欲していた全てを一挙に与えられたからだった。


 彼女の名を知ることになったのは翌週のこと。

 岩石の突き出る海岸で再会したのだった。


「ありがとうね、少年。私を助けてくれたんでしょ?」


 ただの女が一体どうやって荒れ地を乗り越えてここまで辿り着いたのか。

 佐一の疑問は、柔肌に刻み込まれた生々しい傷によって解消された。


「それを言いにわざわざここへ?」

「ううん。他にもあるんだけど、隣いい?」

「好きにしろ」


 腰を下ろして佐一に身を寄せる彼女はリミと名乗った。

 高校生のときに密輸に誘拐されて以来、首領の愛人として生きていたらしい。自らが手を下す場面はなかったが、人間が人間を殺し、虐げ、凌辱する場面を幾度となく目にしたという。

 リミは自分の身の上は話す一方で、佐一の経緯を聞こうとはしなかった。


「私、もう身寄りがないの」


 リミは言った。岸壁に波が衝突して大きな音を轟かせた。


「身寄り?」

「行くところがないってことよ。何年経ったかも分からないもん。お父さんもお母さんも私のこと忘れてるよ」

「奇遇だな。半分くらいは」

「ねえ、私たち一緒に暮らさない?」

「なんでそんなことしなきゃならん」

「あなたも身寄りがないんでしょ?」


 当然のことをさもし気に告げるリミを、それでも佐一が邪険にしなかった理由は言うまでもない。

 久方ぶり、いや、佐一にとってほとんど初めてである家族は得も言われぬ感触を与えた。


「俺は真っ当に生きていない」


 ある夜、佐一はベッドに横たわりながら言った。


「いつか全てが返ってくるに決まっている。それが恐い」

「驚いた。佐一に怖いものがあるなんて」

「俺は何人も敵に回して、何人も殺した。殺した誰かのために別の敵が現れた、そいつもまた殺す。そうするとまたそいつのために新しい敵が現れる。これはもう、終わらないんだろう」


 隣で横たわるリミの指先が佐一の手に触れた。小さな温もりを逃さぬように、その指をギュッと握った。


「直に次の敵が現れる。リミが巻き込まれるのが恐い」


 シミだらけの天井を見つめて言う佐一に、リミはそっと口付けをして胸に抱いた。


「大丈夫だよ」

「なんで分かる」

「君が助けてくれるからさ」


 躊躇いのないリミの言葉に、佐一は胸を詰まらせた。

 自分以外のために何かを成し遂げ続けなけねばならぬという新鮮な使命感。息苦しくはない、むしろ温かい心地で満たされるばかりである。


「助けに来てね、佐一」

「間に合えばな」


 無論、佐一は間に合わせるつもりであった。

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鉛玉と獣 @ZUMAXZUMAZUMA

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