心霊部屋。
心霊部屋。そんな標識を掲げた教室の前に、僕は立っていた。
東頭高校B棟二階。その片隅に、人知れず心霊部屋はある。正確に言うと、そこは心霊部屋などという胡散臭さに満ちた暗室などでは決してなく、元を正せばごく普通の心霊部だ。
否、心霊部だった。
そう、心霊部は既に廃部になっている。だから、いまこうして、壁にはみ出すほど大きく、おそらくは油性ペンを使ったのであろうその真っ黒な「屋」という字に、誰も反応しないのだ。
心霊部の標識は筆記体で正しく表記されているのに、屋の字だけ乱雑で明らかに手書きだ。違和感が表面に出すぎてて、むしろ違和感を覚えない。
嘘。めっちゃ覚える。なんだこれ? 壁だろうと角だろうとお構いなしだ。遠慮のEの字も見られない。慮るという言葉の真逆を行っている。
昨日はこんなのはなかった。記憶力の乏しい僕、すなわち介添臣だが、ここまでインパクトの大きい事柄はそう簡単に忘れたりはしない。いやまぁ、これレベルのインパクトの強い出来事が過去にあったのかと聞かれても、生直言葉に詰まってしまうけれど。
とにかく、こんな大層なイタズラをした奴は誰なんだろう? 今の子供は、特に高校生くらいにもなると、こういうイタズラのボーダーラインってものをしっかり理解しているはずだから、こんな全校集会が開かれるほどのイタズラは、よほどの酔狂でも無い限りしないものなんだけれど。
ふむふむ。今の時代でもそんな前時代的な悪行を働く人間が未だ存在しているとは。感心感心。関心を持ってしまうな。
干渉してみようかな? おそらくこれを書いた人間はこの学校の誰かだろうから、今からこの現場を余すところなくさながら鑑識のごとく調査して、恋愛相談室の相談役たる僕の手腕を発揮させてみるのも、良い暇つぶしになるかもしれない。
そう思って、もしかしたら中に誰かいる可能性に気づき、僕は引き戸に手を掛けた。
右手に力を必要最低限の分だけ込め、引き戸の向かうべき方向へと導こうとした、その瞬間。
ふと、疑問に思った。
今日、何月何日だっけ?
思い出せない。いや、思い出せそうだけれど、もう喉まで出かかってきているけれど、なぜそんなことを気にするのかを思い出せない。
今日が何月何日、何年だからと言って、なんなんだ?
心霊部、心霊部屋。
なんだか、本当になんだか、さっぱりわからないのだけれど、とにかく、なにか引っ掛かっているせいで、この引き戸を開けるのに、ひどく抵抗を僕は覚えた。
なんなんだ? この、抵抗感は……? 開けてはならない。そんな風に、過去の僕が語り掛けてくるみたいだ。
過去……? 昔に何かあったっけ?
結局、その右手は、ひとりでに離れてしまった。
後日談。今回は比較的長丁場な調査だった。
ことの顛末を語るには、二年前に遡る必要がある。
二年前。僕は心霊部の顧問を務めていた。二、三人、部員がいるだけで、心霊部らしいといえばらしいのだが、ほとんどが幽霊部員。そのころからすでに仕事を干され気味だった僕は、暇なときに部室に訪れ、適当な本を読んだり、雑な考え事をして一日を終えるという到底教師とは思えない自堕落な日々を送っていた。
時々、数週間に一度くらいの割合で、部員が遊びにくる。その時は、ボードゲームをしたり、恋愛相談に乗ってあげたりもした。
こんな地味な部活で、いつ廃部になるかもわからなかったが、それでもその時は楽しかった。
安息と言ってもいい。なんの気負いもなく、つつましく過ごせていた。
けれどそんな安息は、一人の新入部員によって滅ぼされる。
虚居 凪沙。二年生から転入してきた女子生徒である。
虚居は、成績は普通だが、代わりに容姿端麗という絶世の美女と呼ぶにふさわしい女子生徒だ。品性もあり、嫌味なところも少なく、人当たりもよい。完全無欠でない所も魅力の一つだ。
僕もしっかり顔を覚えているし、どんな性格だったかも正確に記憶している。
まぁ、調べてて、名前が出てきてようやく思い出したのだけれど。
その虚居 凪沙が、ある日心霊部に入部してきたのだ。
スポーツが特別得意というわけでもなかったが、しかし彼女ならどこでも上手くやっていけるだけの才覚はある。
だがなぜか、彼女は心霊部を選んだ。
この点については、調査もむなしく、未だ不明だ。確固たる理由らしい理由は、まったくもって挙げられていない。
人の気持ちなど、どこにも書いていない。心の中でさえ、願いの中でさえ。
書いてあることなど、表されていることなど、見えているものなど。
すべてが真実ではないのだから。
そして、その日から、心霊部は変わった。
ほとんど顔を見せなかった部員も戻ってきて心霊部はかつてない活気を見せるようになった。
今思うと、実におかしな話だ。たかが新入部員一人のために、一度も部活に来なかった生徒すらもやってくるのは奇妙としか言いようがない。
その点についても不明だ。彼ら彼女らは何故戻ってきたのだろう?
新入部員故の目新しさというわけか? それとも彼女の美貌目当て?
こういうのもなんだが、心霊部の部員たちは軒並みうだつのあがらないパッとしない者ばかりの集団だ。
だからこそ不思議だ。あの部員たちが、他人になびくなど、考えられない。
けれど、事実は予想とは大きく異なっていた。
その後、虚居と男女の関係になる部員が、増えた。
そう、増えた、のだ。増えたというか、全員がそういう関係になった。男女は問わず、学年も、容姿や性格にいたるまでだ。
驚くべきことに、当時の僕はそういう事になっていたのをまったく知らなかった。顧問として失格かもしれない――――いや、どう考えても失格だ。最近調べてようやく判明した衝撃の事実というわけなのだ。いやはや、本当にこればっかりは驚いた。シャッポを脱がざるを得ない。
はたから見ていた僕は、なんだか仲がよくていいなぁ、なんてのんきな事を、構われなくなった寂しさと共に感じていたというものだ。
生徒というのは、先生に対して異常な隠蔽能力を発揮するものだな。
で、そうなったらもう、レールは終点まで伸びていくというものだ。
オチも見えてきてだろう。そう、心霊部はその男女関係がもつれにもつれて崩壊した。
きっかけは、僕がたまたま当番をサボっていた日の事だ。
問題の虚居が、何故か突然、恋愛話を持ちかけてきたらしい。
その場にいる全員と付き合っている虚居が、だ。
それはもう、空気は最悪だ。だれもかれもが、妙に恥じらって、話が一向に進展しない。当たり前だ。部員全員は、虚居が皆と付き合っているなど、知りもしないのだから。
火蓋を切ったのは、ある一人の男子生徒だ。
彼は、そこでチャンスだと思ったのだろう。今、この部室にいる部員全員に、自分が虚居と付き合っている事を周知させるチャンスだと。
そして彼は鼻高々に、宣言した。
実は、僕は虚居と付き合っているんだ! と。
その後は波乱万丈だ。口論、つかみ合い、暴力、の順で部員同士が暴れまわった。
皮肉なことに、この争いには男女は問わず、学年も、容姿や性格にいたるまで無差別に参加した。その場にいなかった僕と、虚居を除いて。
むごいもみ合いだったという。最初は胸倉を掴んだり、つき飛ばしたりしていただけだったものが、最終的には、拳での殴り合い、部室のパイプ椅子を投げつける、といった度を逸したものに変わっていった。
その間、虚居は、口論が発展して、皆周りが見えなくなったところで部室から姿を消したのだという。何をしていたのかまでは分からないが、しかし、事件の発端でもある虚居が姿を消すというのだから、きっと事態の鎮静を図って、僕を探しに行ったのだろう。
僕も最初にその事実を知ったときはそう思っていた。
しかし、それは違った。当時、僕はなにをすることなく学校近辺を歩き回っており、見つけ出そうと思えば見つけ出せたはずだ。……いや難しいか? 校内に居ない時点で無理かもしれない。
いやいや、問題は僕じゃなくてその時彼女がしていた行動だ。これは今までとは違ってきちんと調査の結果がある。
いくつかの証言、当時の監視カメラの映像を基にした彼女の行動記録。
口論が発展してきた頃合い、彼女は部室から歩いて出てくる。その足並みに焦りはない。
ゆっくりと散歩をするように歩き、階段を優雅に下り、校外へ出て、コンビニに寄った後、帰宅した。
帰宅した。家に、帰った。それからまた学校にもどることもなかった。その日、彼女は、自分が原因で起こった騒乱を放置し、家に帰ったのだ。
自分は無事なまま。
何も見なかったかのように、何も起こらなかったように。
自分がまるで、存在していないかのように。
怖い。その事実を知ったとき、僕は率直にそう思った。
人を、人と見ていない。自分と平等な存在などない。そんな風に他人をみているのだ。
当時の僕は、何があったのかさっぱりわからなかった。それもそのはず、誰も事件について語りたがらなかったからだ。
それも仕方がない事なのだろう。僕だって当事者だったらこんな痴話げんかを報告する気にはならない。
結局、学校側からの処分は無く、報告もされなかった。
そして、事件が起こった後、心霊部は事実上の廃部になった。部員はもう、誰一人来なくなり、そのうえ、部員全員が、退部届を持ってきたのだ。
虚居を除いて。
なぜか虚居だけは、人数不足で廃部を余儀なくされた心霊部に居座ったのだ。
ちなみに東頭高校は、人数不足で廃部になるまでの間に、二か月の猶予がある。その二か月間の間に、物を撤去したり、正式に校内の記録から抹消したりするのだ。その二ヶ月間は、まだ部活として活動が可能なのだ。
僕も、何かと作業しなければいけなかったので、部活動という名目で虚居と二人、片付けをしていた。
狭い室内に、二人きり、長時間。
ついに明日、心霊部は消滅する。そんな時に、虚居は突然僕に言い放ったのである。
『私、実は先生のこと好きなんですよねー。部活のことこんなにしちゃいましたけど、実は気を引くためだったり、なんて』
当時の僕は、それこそ笑って受け流していた。今でもきっと、同じようにするだろう。
だが、僕の当時の反応などはどうでもよくて、重要なのは、虚居が僕に対してそんなことを言ってのけた。それだけだ。
そして、続けるように彼女は言う。
『部活が無くなっちゃったら、多分先生とは会えなくなるんですよねー。先生、いっつもどこにいるかわかんないし。だから、二年後。卒業してるかもしれないですけど、二年後、ここで会ってくださいよ。お願いしますね』
翌年、虚居は死んだという報告を僕は受けた。
あまりに突然な出来事だった。
あれは、つまり、僕に向けた遺言だとでもいうのだろうか。だとしてもなぜ僕なのかという疑問は残るけれど。
では、心霊部屋の話に戻ろう。僕が部屋を開けることができなかった理由である。
彼女のいう二年後。それがつまりあの僕が落書きを見つけた日なのだ。
虚居は死んだ。けれど、僕は決して死の現場を目撃した訳ではないし、葬式が執り行われたかどうかも知らないのだ。
虚居は生きているのかもしれない。そんな疑問――――可能性が、存在しているのだ。
僕は無意識で、あの引き戸を開けなかったのだ。虚居に、会いたくなかったから。
そうして、心霊部屋。あれがもし、虚居が書いたものだとしたならば、どういう意味を持つのかと言えば、つまり――――
――――もうそこは、部活という団体ではなく、ただの部屋でしかない。
虚居は、確かに心霊部を崩壊に導いた主犯ではあったけれど、しかし思いいれこそあったのだろう。
もしくは、死んだという情報が一人歩きしたせいで、自分が幽霊であるという自虐なのかもしれないが。
無論、ただのイタズラだという可能性を、除外することはできない。
虚居は、まだそこにいるのだろうか?
今日も、昨日も、一昨日も。
だとしても、僕はその引き戸を開けることはしないだろう。
死んだ人間に会うのなんて、あの世で十分だ。
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