私は愛に正直に生きるのです

 ニアに駆け落ちを提案され、メガラの心は激しく吹き荒れていた。


「お嬢様、今朝も仮病ですか?」


 キノが不躾に尋ねてくる。


「いいえ、今朝は大丈夫よ」


 メガラはキノを見つめた。キノから小言をもらうことも今朝で最後だと思うと、不思議とキノが愛おしく思えた。


「ねえキノ……今まで本当にありがとうね」

「なんですかいきなり、明日嫁ぐみたいなこと急に言わないでください。朝食をお持ちしますから、しっかりお目覚めになってくださいね」


 キノが姿を消すと、メガラの目から涙が零れた。


「ああキノ……いつも私を心配してくれた。でも私、自分に正直になるの。許してね」


 その日の日中は生きた心地がしなかった。今まで育ってきた伯爵家を出て新たな生活が始まると思うと希望が胸に溢れると共に、二度と戻って来れない我が家が愛おしくて仕方なかった。


「この庭とも今日でお別れ……この食堂とも今日でお別れ……」


 夕餉の時間に父母と向き合った。父であるアルゲンターヴィス伯は何事もなかったように食事を進めていた。


「どうしたメグ、何か私の顔についているかね」

「いえ、別に……」


 つい父の顔を眺めてしまったことで、メガラは今夜ここを離れることに未練があるのではと迷う心を捨てきれないでいた。


 毎晩のように就寝したふりをして、部屋にひとりになるとメガラは隠してある庶民の服を着て、鞄に身の回りのものを詰め始めた。小さな鞄にはメガラの私物はほとんど入らなかった。


「さようなら、櫛。さようなら、指貫。さようなら、香水瓶」


 これからの生活に必要だと思うものだけを持っていかなければならない。メガラは迷いに迷って、僅かな私物を選び抜いた。思い出の詰まったものを置いていくことは忍びなかったが、この別れが自分を強くするとメガラは自分に言い聞かせる。最後に、誕生日に母から送られた伯爵家の紋章を象ったブローチを手に取った。


「これは、持って行けない。さようなら、父様、母様」


 メガラはブローチをアクセサリー入れの一番底に仕舞い込んだ。逃避行の決意はメガラの中で固まっていた。


***


 鞄を持ってニアの店に行くと、店は閉められていた。構わず扉を開けると、中には旅行の支度をしたニアがいた。


「よかった、来てくれたんだね」


 ニアはメガラを前にして、まずメガラを抱きしめた。


「ええ、私、あなたについていくって決めたの。今から出発するの?」

「それなら、もう少し時間が経ってからにしよう。夜の闇に紛れて、姿を眩ますんだ」


 メガラはニアの言葉をかみしめる。ニアはメガラをカウンターではなく店の長椅子に座らせ、その隣に腰を下ろした。ニアはメガラから離れようとしなかった。その体温にすっかりメガラは溶けてしまいそうだった。


「ああ……駆け落ちなんて、小説の世界の話だと思っていました」

「小説、か。君は小説が好きなのかい?」

「ええ。いつも読んでいました。小説が私を自由にしてくれるの」


 メガラは自分の読んでいる小説の話をした。ニアはメガラの話を嬉しそうに聞いていた。


「貴方は否定なさらないのね、小説なんてって」

「小説を否定する人なんているのかい?」

「みんなよ。お父様もお母様もお姉様も、侍女まで私から小説を取り上げようとするの」

「それはひどいね。君は皆から愛されていないんだ」


 ニアの言葉に、メガラはこの駆け落ちが間違いでないことを確信した。


「落ち着いたら、好きなだけ小説を買ってあげる。僕は小説を読む女の人が好きだよ」

「本当? 嬉しいわ」


 メガラはそのままニアの腕に身を任せた。このまま口づけ出来そうなほど顔と顔が近づいていた。


「ニア」

「なんだい?」


 貴方の顔に触れたい、とメガラは言おうとした。しかし、それは駆け落ちが成功してからにしようと思った。


「いえ、まだ出発はしないのかしら?」

「そうだね、そろそろ行ってみようか……」


 ニアは帽子を深く被った。メガラはこれからどうなるのかと不安で仕方なかったが、ニアの手を握ると勇気が湧いてくるようだった。


***


 夜霧の中、メガラはニアに手を引かれて暗い街をひたすら歩いた。人通りはなく、ガス灯のほのかな灯りがわずかに道を照らすだけだった。


「ニア、怖いわ……」

「大丈夫、僕がついているよ」


 ニアに導かれて、メガラの知らない場所へ来た。ニアは隠してあった馬車にメガラを乗せると、どこかへ向かって走り出した。


「お父様、お母様。わがままな娘でごめんなさい」


 人知れず父母に謝罪の言葉を述べる。生まれ育った街を離れることで身を引き裂かれそうな悲しみもあった。


「でも私は幸せになります」


 未練を断ち切るように、メガラはニアとの幸せな生活を思い描いた。ぼんやりしているうちに馬車はどこかへ着いた。


「ここで一度休もうか」


ニアに促されて馬車から降りると、そこは街から離れた森の中だった。人気のない小屋に通され、メガラはあることに思い至った。


「ニア……」


 これから始まる逃避行と、森の中の小屋に愛し合う男女が2人。メガラの心は爆発しそうなほど高鳴った。


「ありがとうメグ、ここまで来てくれて」


 ニアはメガラをきつく抱きしめた。小屋の中は暗く、ニアの顔がよく見えなかった。そのほうがいいと、メガラはニアに抱きついた。


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