その声は熟れた果実より甘くて
翌日、メガラは昨夜の甘いひとときに酔いしれていた。
(ニア……また会いたい。私の名前を呼んでほしい)
「何ですかお嬢様、朝からため息ばかりついて」
「ああキノ。あなたにはわからないことよ」
キノは忍び歩きの後、他の用事を言いつけられたためにさっさといなくなってしまった。その後メガラはずっと外国語の勉強ばかりさせられていた。相変わらずキノも父であるアルゲンターヴィス伯爵もつまらないことをするとメガラは呆れていた。
(はやく夜にならないかしら。そうすれば、またニアに会えるのに)
メガラはキノを置いて伯爵家自慢の庭を歩き始めた。朝露を浴びた花々が輝いて見え、小鳥のさえずりが素晴らしい音色に思える。
「お嬢様、おはようございます」
庭師の男が立ち上がって丁寧に挨拶をする。
(ああ、ニア……あなたの心はどこにあるの? はやく私の心を捕まえて抱きしめて)
心ここにあらずのメガラは庭の花を一輪摘むと、花びらをいたずらにむしる。
「ああ、この花びらをはやくニアにも見せてあげたい……」
メガラは花びらを散らしながら歩いて行った。庭師の男はその後を丁寧に掃き清めた。
***
その夜もメガラはこっそり屋敷を抜け出すとニアの店へ走った。ニアはいらっしゃいメグ、とメガラに笑いかける。
「ねえニア、あなたはどこの生まれなの?」
昨日と同じものを出され、カウンターでメガラは尋ねた。
「生まれも育ちもずっとこの街ですよ」
「それじゃあそれじゃあ、好きな花は?」
「花ですか、そうですね……メグに似合う花なら何でも」
いたずらっぽく笑うニアを見て、メガラは胸の中がいっぱいになるような気分になる。
「そんな……照れてしまうわ」
ニアは店内を見る。今日はメガラの他に客はいないようだった。それを確認すると、開いている店のドアをニアは閉じた。
「え、もうお店閉めちゃうの?」
「店なんかどうでもいいんだ、メグと一緒に過ごす時間の方が大事さ」
部屋の中でニアと2人きりになったことで、メグの心臓は早鐘よりもはやく鳴り響いた。ニアはカウンター越しではなく、メガラの隣の椅子に腰掛けた。
「ねえ、ニアは私のどこが好きなの?」
「そうだね……」
ニアはメガラの全身をじろりと見渡した。その視線に貫かれ、メガラは一瞬息が出来ないほどに胸が苦しくなった。
「その透き通った泉のような瞳に、絹のような金色の髪。そして、女神のささやきのような美しい声、かな……」
それはメガラが愛読している小説の主人公の特徴と同じだった。美しい深窓の令嬢が命を助けてくれた庶民階級の男と禁断の恋に落ちるという、悲しい話だった。
「そ、そんな、私が……私は、そんなに美しい人ではありません……」
「いや、君は美しい。初めて見たときから、僕は君のことで胸がいっぱいだったよ」
ニアはそっとメガラの腰を抱いた。父親以外の男性に触られるのが初めてのメガラは突然のことに頭が真っ白になった。
「どうしたのメグ? 顔が真っ赤だ、具合でも悪いのかい?」
ニアの手がメガラの額を捕らえた。大きくて力強い男の手がメガラの目の前に飛び込んでくる。
「そ、そうみたい……今夜はもう帰ろうかしら……」
気が動転したメガラは逃げるように店を後にした。
(どうして、どうしてなの! どうしてニアは、こんなに私に優しいの!?)
まるで熱病に冒されたように火照る頬を押さえて、メガラは夜の街を駆け抜けた。
***
屋敷まで戻ってくると、メガラは夜空に祈った。メガラは恋心の他に、良心の呵責にも苦しめられるようになっていた。
「ニアは私のことが好きなの……だけど、私はニアとは結ばれない運命。ただのメグなんて嘘をついている私は、なんて愚かしいのかしら」
メガラは自身の出自を呪った。
「だって私はアルゲンターヴィス伯爵家の娘。いつかはどこかの貴族に嫁がされる身の上」
メガラの中でニアへの思いが止めどなく膨らんでいた。しかし、その恋が報われないこともメガラはよく知っていた。
「正直に言いましょう、もう隠し通せない。私の本名を知れば、ニアもきっとわかってくれるはずよ」
夜の風に髪がなびいた。それが伯爵令嬢としての運命を物語っているようで、メガラの瞳からひとしずくの想いが溢れた。
「しょせん、私は籠の鳥なのです。ひととき、甘い夢を見れて楽しかった」
星々にこれまでの思いと、これからの決意をメガラは語った。
「これでおしまいにしましょう、ニア……」
その夜はニアのことを考えるだけで涙が溢れ、メガラはいつまでも寝付くことができなかった。
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