私に似合うお酒は何かしら

 その日、いちはやく就寝したフリをしたメガラは人気がないことを確認して、寝台の下から昼間キノが準備した平民の服を取り出した。


「もう私は伯爵令嬢なんかじゃないわ、ただのメガラよ」


 平民の装いをして周囲に気付かれぬようそっと屋敷を抜け出すと、一目散に例の酒場へ向かった。看板の出ている扉を開けると、中には昼間出会った美しい青年がいた。


「やあ、いらっしゃい……おや、君は昼間の子猫ちゃんだね?」

「はい! あの、言われたとおり、夜に来てみました!」


 酒場には数人の客がいて、それぞれで杯を交わしているようだった。


「それはそれは。ところで、何を注文されますか?」


 メガラは初めて酒場のカウンターに座った。


「そうね……わたくしに似合うお酒って何かしら?」


 メガラはこういうときにはそういうのだ、と以前読んだ恋愛小説に書いてあったのを思い出した。


「お酒を飲むのは?」

「お酒くらい、いつも飲んでいるわ」


 小説に登場する勝ち気なヒロインのように威勢を張ってみたが、メガラはまだ本格的に飲酒をしたことがなかった。


「それなら、そうですね。可愛い人にはこんなお酒はどうでしょう?」


 ニアはカップを取り出すと、琥珀色の液体を注いだ。


「これは一体なに?」

「蜂蜜酒、と言いまして蜂蜜から作ったお酒ですよ」


 メガラは液体をひとくち口にする。まるでフルーツのような華やかな甘みが広がった。


「とても甘くておいしいわ!」

「気に入って貰えたようで何よりです」


 いい気になってメガラは出されたものを全て飲み干した。改めてニアの顔を見る。絹のようなサラサラとした銀色の髪に、宝石のような澄んだ青い瞳。彫刻のような凜々しい顔立ちに、よく通る透き通るような美しい声。メガラの夢見ていた空想の世界の王子のような青年だった。


「そう、貴方のお名前を聞くのをすっかり忘れていました」

「僕の名前、ですか?」


 彼の声を聞くと、ふわふわとした心持ちになった。これが酒に酔うということなのかとメガラは愉快な気分になった。


「私のことはメグって呼んで」


 気を良くしてカウンターに寄りかかると、彼は微笑んで答えた。


「それじゃあ、僕のことはニアって呼んで」


 美しい青年――ニアはメガラの瞳をじっと覗き込んだ。普段であれば結い上げた美しい髪と似合いのドレスを着ているが、今日は平民の服に平民の髪型をしているためにメガラは恥ずかしくなった。それでも正体を明かすわけにはいかないので、平然としているフリをした。


「ニア、素敵な名前ね」

「メグこそ、素敵だよ」


 愛しのニアに名前を呼ばれて、ますますメガラの心は華やかな色に染まっていった。


「まあ、そんなことないわ」

「そんなに謙遜されて……貴女は十分美しいですよ」


 ニアは朱に染まるメガラの頬をそっと撫でた。


「ええ、一体何を仰っているの?」

「素敵だよ、メグ。どうやら僕は君に恋をしてしまったようだ」


 その瞬間、メガラの心臓は破けんばかりに高鳴った。


「恋、恋ですって!?」

「そうだ。メグ、また明日も来てくれるかい?」


 メガラの頭は真っ白になっていた。目の前のニアが遠くにいるような、近くにいるような不思議な感覚だった。


「はい、もちろん……!!!」


 メガラのうっとりした返事に、ニアは微笑んだ。


「それは楽しみだ、君のために特別な飲み物をプレゼントするよ」


 今日は店を閉めるから気をつけて帰るんだよ、とニアに促されてメガラは店を出た。まだ酒に酔っているのか、ふわふわと覚束ない足取りで歩く。そのまま足が地面を離れて空へ飛んでいってしまいそうだ。


「苦しい……胸が、苦しいの……」


 ニアの顔を思い浮かべるだけで、胸が締め付けられるようにせつなくなった。これが恋なのね、とメガラは大きなため息をついた。


「ああ、ニアにまた会いたい……ニア、私の名前を呼んで……?」


 その日、ふらふらになりながらメガラは家路についた。不思議と屋敷は静まりかえっていたが、メガラの胸は今にもはちきれそうなほど高鳴っていた。


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