【#24】平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社)

■「人間は分割可能な"分人"」

 間もなく新入社員が入ってくる。社内報によれば、自社には100人超が入社するらしい。私が勤める部署への配属があるかは定かではない(おそらくないだろう……)が、まずはフレッシュなニューフェースの登場を心から祝福したいと思う。


 さて、かれらが社会人生活で一番はじめに直面する〝壁〟といえば「ミスや失敗を繰り返す」ことだろう。人によって程度の差はあるにせよ、これは部署や会社が異なっても共通する、全新入社員の「宿命」と言っても過言ではない。


 かくいう私自身、失敗を繰り返しては上司や先輩から叱られていた。叱られるその瞬間は行き場のない居心地の悪さに苛まれるのだが、当時叱られたことが現在の仕事観や行動に活きている部分も少なくないので、今となっては良い経験をしたと感じている。これこそが叱る/叱られることの効果なのだろう。


 とはいえ、なかには理不尽かつ理解に苦しむような、括弧付きの「叱り」もあったが、それは反面教師として自分自身の行動に取り入れることを意識した。「人のふり見て我がふり直せ」というわけである。

 

 この叱られるという行為は意外とクセ者で、基本的には人間の成長を後押しするスパイスなのだが、行き過ぎると人間を壊す毒にもなり得る。スパイスになるか毒になるかは、叱られる頻度や叱られる側のレジリエンス力に左右される部分が大きい。そして、叱られる側の受け止め方次第では、必要以上に自分自身を責めてしまう可能性もある。


 たしかに、ミスを繰り返さないよう反省することは大切だが、自分を卑下しすぎてモチベーションを失っては本末転倒だ。自身の不甲斐なさに情けなく感じたとき、本書の主張――「人間は分割可能な"分人"(dividual)である」という主張――が処方箋として効き目を発揮しそうである。


■分人=あらゆる個人の集合体

 分人とは何か。著者の言葉を借りて説明するなら、「人間を構成するあらゆる個人の集合体」のことだ。

 

 一般的な考え方では、人間はこれ以上分割できない「個人(individual)」として数えられる。家族や友人、仲の良い同期、恋人らと接する自分(私的な態度)と、関係性が築けていない他者、もしくは私的な態度をさらけ出すにはふさわしくない場面での自己(公的な態度)も、すべて単一の個人として扱うというわけだ。だからこそ、仕事で失敗をしたり他者から叱られるたびに、自分自身のアイデンティティーが傷つき、落ち込んだり不甲斐なさを痛感するのである。

 

 一方、著者である平野氏の解釈はこれとは180度異なる。上の例で言うと、私的な態度であれ、公的な態度であれ、それはあくまでも「自己を構成する一つの側面」に過ぎないというのが分人の考え方だ。


 つまり、両親やきょうだいと接する自分も、学生時代の後輩に慕われている自分も、仕事でミスが続き、不甲斐なさを感じている自分も、すべては自分自身の構成要素だ、というのが平野氏が言うところの「分人主義」である。


 この考え方にもとづけば、たとえ上司に叱られたとしても「職場での〝わたし〟は自分自身の一側面」と割り切ることができ、過度な自己卑下的思考に陥ることもないだろう。とはいえ、ミスや失敗を反省する態度も重要なのは言うまでもないが……。


 優れた自分も、不甲斐ない自分も、あくまでも自己を構成する一つの要素である――そう気づくことができたとき、少しは生き方が楽になると感じる。 

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