後編
町の人々の顔には、いまや内戦のころよりも怖れと不安がさしていました。
グレッグは、もはや馬車をかって通りを走ることは少なくなっていましたが、たまにあの黒い馬車がぶんぶんうなって通りを走ることがあると、誰もがあわてて逃げすさり、十字を切るありさまでした。
馬車が港へむかうのも、もはやまともな
ことここに及んでも、教会やら役人に訴えようという話にならなかったのは、内戦から王政復古にいたるまで、軍や官憲、
そんなわけで、処刑台のある “
屋敷にちかづいた物好きが、窓にグレッグの顔をみて、
しかしこのころ、何度かささやかれていたグレッグの怪異譚もずいぶん様変わりしていました。
――― 満月の晩、セヴァーンフォードへの道で、でっかい蠅みたいな影がうなって空を飛ぶのを見た。いや、あれはうなるというより泣いている感じだったな。
――― 泣いているというのかな。ボブ、ボブと言いながら嘆いている感じだったと、そう聞いたぞ。
――― それよりも、昨日の晩、キャム川のそばであったという話だ。でかい蠅みたいな影が空を飛んだところまでは同じだが、その後を、さらにでかい、
恐怖の対象はいつしか、妖術つかって夜空をとぶ巨大な蠅のような影より、そのあとを追いかける蝦蟇のような影へと変わってゆきました。
グレッグのうわさよりも、さらに密かにささやかれるそのうわさは、バークレー城の地下牢にいた人喰いの蝦蟇の化け物だというものもあれば、地獄から呼び出された堕天使だというものもあり、キャム川の奥の遺跡のなかに潜んでいた妖魔だと古い伝承を持ち出すものもありました。
けれど、それがどうして夜空を飛びかって、蠅のような人影を追い回しているのかと、その果てに何があるのだろうかと、そこまでを口にする勇敢なものは一人としておりませんでした。
話の最後は、ひどくあっけない話でした。
冬に入ったころの満月の晩、牧場からにげた羊を夜中まで探しまわっていた男の話です。
寒風の吹きすさぶなか、冷えびえとした月をふと見上げると、細いうなりがあたりに響きわたりました。
泣くような、叫ぶような、そんなわんわんした音とともに、黒い影が、大きな月をかすめました。
と、その動きは急に、
本当に、ほんの一瞬のことでした。後ろから飛んできた、舌とも、髭とも、蛇のような何かともつかない長いながいものが、その身体に巻きついて。
ひゅっ、と、吸いこんだその主は、巨大な
その悲鳴が、自分のものであったのか、それとも喰われたあの影があげたものであったのか。それは今でもわからない、と述べました。
後のことは、ほとんど伝わってはいません。
そのまた二十年後になって、ブリストルの近くまでおよんだモンマスの乱と、そのさらに後のいわゆる “名誉革命” にまつわる騒ぎで、すべてかすれてしまったのでしょう。
グレッグの館があったという場所も、いまや平凡な住宅街になったマーシーヒルのどこかに埋もれて、よすがすらありません。
ただ、第二次世界大戦までその一角の片すみにあった公園には、やぶに埋もれて白い台のような岩があったと伝えられています。
三百年ほどの昔に、どこかの館の庭にあったものだと伝えられていて、その館の主と妻とが結婚の日にそこに立って、幸福な愛を誓ったものだと言われています。
よく見るとそこに足跡がみえる、いや、見えない、という話もあったそうですが、確実なものは、その片隅に、小さな黒いしみのような斑点があったという記録です。
その斑点は、まるでそこに蠅がたたき潰されたような形という証言がいくつか残っているそうです。
その斑点のすぐそばには、誰が刻んだものでしょう、“
蠅の唄 武江成緒 @kamorun2018
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