蠅の唄

武江成緒

前編




 ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん……。


 ウォルトン通りを、黒い馬車が走ってゆきます。

 町の人びとが目をそむけ、あるいはにらみつけるのは、蟲の羽音のようにうなる耳ざわりな車輪のせいでも、泥をはねて突進してゆく傍若無人なありさまのせいでもなくて。

 それよりも、その馬車が、グレゴリー・フライのものだからなのでした。




 グレゴリーは、ブリチェスターの町の界隈かいわいでいちばんのほう家でした。

 この島でもっとも大きな河に洗われるセヴァーン谷の一帯に、いくつもの牧場をかまえ、羊毛や毛織物をブリストルの港から西の太洋のかなたへと売りさばいてはたっぷりもうけておりました。

 そんな財貨を一部なりとも、バークレーの教会へでも寄進するか、キャム川のおんぼろ橋を修繕するのに使っていれば、町の人々の尊敬を勝ち得ていられたことでしょう。

 けれどこの貪欲漢がたまに金をつかうのは、投資をのぞけば、ヘレフォードシャーの肉牛を買いつけたり、フランスからきた葡萄酒や菓子を漁ったりと、つまるところ食道楽くらいでした。この日もおそらく、なにか舌を満足させる舶来品はないものかとブリストルへ向かったのでしょう。


 そんなけちな悪徳のむくいはすでに彼の身へと降りかかり、人々の嫌悪の視線をますます誘っておりました。

 五フィート半のた体はずんぐり丸くふくれあがって、神が人間にお与えになった形よりも、なにかの蟲が人間ほどの大きさになって二本の脚で歩いていると、そんな有様をおもわせました。

 そんな太った体でも、のっそりゆったり動くものなら親しみも持てたことでしょう。でもグレゴリーの身ごなしたるや、その対極にあるもので、胴ににあわず細い足をちょこまか小股にうごかして、いやにこせこせ走るのです。

 商談のときですら、なにかと椅子から立ちあがり、部屋をうろうろ隅から隅へ、相手のまわりをぶんぶん歩き回っては、こわくもしゃもしゃの黒い髪をぶんぶん振るって、やたらとした目をひらき、しきりに両手をこすり合わせて、わんわんわめき散らすのです。


 善きにしろ悪きにしろ、目立つものにはあだ名が付きもの。

 ブリチェスターの人々は、彼のことを“大食いグレッググリード・グレッグ”と呼んだり、本名もじって“蠅のグレッググレッグ・ザ・フライ”などと囁いていました。


 そのあだ名の示すとおり。

 うまい匂いをかぎつければ一直線に飛んでゆき、生者にも死者のむくろにさえも、ぶんぶんタカって付きまとい、恥じる気配も見せることなく舐めつくす。




――― 昔はあいつも、あんな蠅のような輩ではなかったがなぁ。


 ふと思い出されたように、そんなことが呟かれると、皆の目つきもけんがうすれて痛ましいものに変わります。


 二十年前、このあたりにチャールズ一世の軍が攻めてきたときに、まだ髭もほとんど生えない若者だったロバート・フライは議会派の軍に志願して、そのまま帰ってこなかった。

 愛妻の忘れ形見の一人息子をボブ、ボブと呼んで、目のなかに入れても痛くないほどに溺愛していたグレッグは、すべてを忘れようとせんばかりに暴利暴食におぼれるようになったのだ、と。

 そんないきさつが、内戦、革命、クロムウェル卿の独裁をへて、つい去年に王政復古 レストレーションが成るまでの、長い乱世の象徴のように思いだされて、人々は黙りこくってふたたび歩きだすのでした。




 しかしながらこの頃では、グレッグにまつわる話はそんなまともな範疇におさまらなくなっていました。


――― ゴーツウッドの森のほうへ、グレッグの馬車が向かうのを見た。


 そんなことを誰かが言うと、町の人々はぎょっとして、信じられぬとばかりに顔を見合わせました。


 東の山のまわりに広がる暗い森は古くから、星から堕ちた魔物の巣だと恐れられ、実際、内戦のころには魔女狩人ウィッチハンターの手によって、夜な夜な森の空き地につどった連中が摘発されたこともあります。


――― キャム川のかみのほうへグレッグが向かうのを見た。あのあたりにはローマの時代よりふるい石の扉があるという噂だったが。


――― セヴァーンフォードのはずれにある古城のある丘のふもとにグレッグの馬車が停まっているのを何度か見た。あの城にゃ、悪魔憑きとか夢魔だとか、妖しい話がいくつも付きまとってるだろう。




 不吉なうわさは、人々のあいだをいくつも駆けめぐりました。

 グレッグが見かけられたのは、町の北にある “悪魔の階段デヴィルズ・ステップ” と呼ばれる不気味な岩の山。その向こうにある幽霊がでるといわれる湖。東の山奥、うろんなテンプヒルの里へとのびる細い山道。地下の牢獄に人喰い蝦蟇がまが棲んでいたと伝えられるバークレーの城のまわりをうろついている話もささやかれました。


 そんなうわさは、乱世のきずが今ものこる人々の心を冷やすに十分なものでしたが、あくる年の五月祭メイ・デイが過ぎたころ、話は一気に、文字の通りに飛躍したのです。




――― グレッグが空を飛ぶのをみた。


 町にそんな話がとどくと、人々はさすがに笑い、その後、顔を凍りつかせたものでした。

 羊の毛刈りに陽がしずんだ後までもこき使われて遅くなった帰り道、ふと不吉な気配をかんじて空を見あげると、春の夜空を、おおきな鳥、いや、巨きな巨きな蠅のように、一直線に横ぎって、グレッグが飛んでゆくのを見たというのです。

 ぶんぶんぶんぶんぶんぶんと、あの黒い馬車そっくりの、つまりは巨きな羽音にも似た不気味なうなりをあげながら。


 人々の頭に思い起こされたのは、内戦のころ、物心両面ともに荒れはてたこの地方で妖術つかいを摘発し、いばり顔で礼金たんまり取り立てた魔女狩人ウィッチハンターのたれ流したご高説 ――― 悪魔とむすんだ妖術つかいは、その地獄の恩恵によって夜空をとび、災いふりまく邪悪な力を授かるのだという話でした。




 その妖しげなお話が真実だとでもいうかのように、グロスターからブリストルへいたる一帯で、つまりグレッグが商いをしていた範囲で、わざわい話が相次ぎました。


――― グレッグの話をずっと断って土地を売らずにいたクロットンの地主のだんながいきなり死体でみつかった。なぜか豚小屋の糞だまりに沈んでて、そりゃあ酷いもんだったらしい。


――― グレッグと取引のことでめていたブリストルの貿易商が明日をも知れねえ難病だ。全身の肉が腐りただれて、生きながら蝿がわんわんたかってるありさまらしい。

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