〈エピローグ〉
それは、まるで水の中にたゆたうような不思議な感覚だった。無音の闇の中へとゆっくりと沈み込んでゆくような……暖かいと、ぼんやり頭の片隅で思う。あまりにもその温もりが心地よく、もう少しまどろんでいたかったが急激に意識は覚醒する。
「……」
軽く身じろぎをすると、やはり柔らかく温かなものが触れてきた。
薄っすらと瞳を開く。飛び込んでくる光はまるで針のように目に突き刺さり、視界は真っ白で何も見えない。
「駄目……動いちゃ駄目です……ッ」
泣き声。
ぽたりと、何かが自分の頬に降りかかった。
それが自分の手を握り締め、ぼろぼろに泣いている銀色の少女の涙であるという事を瞳が捉えるのに僅かな時間を必要とした。至近距離に少女の顔がある。
「フィー……?」
掠れた声で名を呼べば、少女は痛いほどにこちらの手を握り込みその手を自分の頬へと押し付け、声を殺して啜り泣く。
どうしたらいいのかわからず、視線を宙に彷徨わせれば生茂る木々の濃色、その隙間から伺い見える空は随分と青く高かった。
ゆっくりと身体を起こすが痛みはまるでない。大半は他人のものだろう血まみれの服はともかく、見れば傷が綺麗に消えている。
「ごめんなさい……」
微かな風にさらさらと流れる銀の髪。銀色の瞳からとめどなく流れ続ける涙。しゃくりあげながらも搾り出すようにして言葉を紡ぐそのさまは見惚れるほど綺麗で痛々しい。
おそらくセルから離れた森の中、フィーのその呟きは小鳥の囀りにさえ掻き消されてしまいそうだった。
「……傷は、お前が治したのか?」
問いに少女は頷いただけだった。身体を起こすが少女はこちらの手を離さない。目を伏せたまま謝罪の言葉だけを口にする。
力の使い方を知らないとあの『赤の神』は言っていたから、殆ど無理矢理力を使ったのだろう。泣いているせいだけではない、どこか憔悴しきったその表情。
「ころ……殺してしまったかと、思ったんです……動かなくて、恐、くて……っ」
細い肩が震えていた。
握られたままの手とは反対の手で大地に手を付ければ、何か堅い物。ちらと視線をやればそこには自分の愛刀が三振り転がっていた。
「本当は私、死ぬつもりで……あの廃村で、本当はもっと早く離れるべきだったんです。こんな、こんな事になる前に……ッ」
「もういい」
少女の言葉を遮るように意図して、アーネスト呟いた。それと共に漸くフィーが顔を上げる。銀色の瞳と視線が絡む。
こちらの手を握る少女の力が緩み、そのままそのすべらかな頬を撫で。
「もういい……もう、何も言うな」
そうして、拾い上げた小太刀を鞘から抜くとそのまま躊躇いなくフィーが握ったままでいる己の腕に刃を付き立てた。
「――ッ!」
フィーの、声ならぬ声が響く。
小太刀を引き抜く事により鮮血が噴出した。
「……どうした。腹が減ってるんだろう?」
びくりと異常なまでに反応を返してくる。それがこちらの問いを肯定していた。するりと握られていた手が離れる。いやいやと首を振ってはいるが、制止の声も弱い。
今の彼女の気はどこか獣と似ていた。腹を空かして獲物を狙っている肉食獣のような独特の、殺気じみたものが全身から溢れている。
腕を深く穿ち、痛みを感じないわけではない。いくら自分のものだとはいえ、この独特の色と臭いが平気になったわけではない。それでも何もせずにはいられなかった。
ずい、と少女の前に血が溢れる腕を突き出すと、彼女はくしゃりと顔を歪めた。流れる血液を見ないようにする為か、視線を逸らしそのまま地に縫い止めている。
「どうして……どうしてそんなに優しいんですか……」
漸く紡がれる言葉と共に嗚咽が漏れ出る。
「私は人間じゃないのに……人間を喰べなきゃ生きられないのに。今度こそ、アーネストさんを殺すかもしれないのに」
堪える事をやめたのか、嗚咽する事によって掠れていた声はだんだんとはっきりする。
「私、ずっと騙してたのに……嘘を付いてたのに。それなのにどうして……ッ!」
ぽろぽろと雫は流れ続け、少女は拳が白くなるほど握り締める。
「アーネストさんは、私が恐くないんですか……?」
脅えたように瞳を閉じた少女の口からほつりと囁きが落ちた。
「私は竜人です……皆、私の正体を知ると、私が人の血肉を糧としていると知ると恐れるのに。殺そうとするのに。アーネストさんは、私が恐いとは……ッ」
「俺は、」
叫んだまま両手で顔を覆い俯いてしまった少女の姿を見ながら、その言葉を遮り。
「……俺は竜人を許したわけじゃない。あの『赤の神』に復讐すると言うのも変わらない。旅も続ける」
ぼたぼたと血溜りを作るほどの出血だというのに、まるで痛みを感じない。
その言葉に少女はゆるりと顔を上げた。浮かぶ不安と恐れの入り混じった表情。見上げてくる瞳を受け止め、だけど俺は、とさらに続けて。
「――俺は、お前が人を喰って泣く姿を見たくない。……ただそれだけだ」
だから血をやる。
ぽつりと呟かれたそれは本心。
涙で濡れた銀の瞳がゆっくりと見開かれた。
「俺の血はやるから、お前が傷を治せばいい」
風に吹かれてさらりと視界を銀が覆う。
風に乱されてもフィーの長い髪は絡まる事もなくさらさらと流れるだけだ。
「……傍にいても、いいんですか……?」
おそるおそる、こちらを覗き込むかのように見上げてくる銀色の視線。呆然とこちらを見つめる少女からふいと視線をそらす事でそれを肯定して。
早く飲め、とさらに腕を突き出すと、
「はいはいすとーっぷ! そこまでーッ」
がばり、といきなり背後から首の後ろに腕を回されそのまま体重を掛けられた。
「……ッ」
「あーららー、これまたざっくりとやっちゃってまー。フィーちゃんも目、真っ赤だよ?」
かなり無理な体勢をこちらに強いたまま、べらべらと良く喋る。背後からのしかかっているのだから相手の顔も何も見えたものじゃないが、この能天気な声を聞き間違えるはずなどなく。
「何をしている……」
「あ、それからフィーちゃん、こいつの血を飲むのはいいけど傷口にじかに口付けちゃ駄目だよ? ちゃんと器に取ってからだよ? ああ、それから力の使い方なんかは俺が教えてあげるからね?」
怒気をはらんで言ってやるが、相手はまったく気にせずどこから出したのか木製の器を目の前で呆然としている少女の前に出す。
「何をしていると、聞いている……ッ」
いい加減にしろと彼の腕を振り解き、握ったままになっていた血にまみれた小太刀を突きつけてやるが彼――性悪エルフのルアードはまあ恐い、と茶化しただけだった。
「ったくさぁ……俺が身を挺してお前を護ってやったのに、俺が瓦礫の下敷きになっても薄情なお前は助けに来ないし。抜け出すの大変だったんだぜー? ホントに死ぬかと思ったんだからさー」
「……そのまま埋まってればよかったんだ」
己の苦労話を語りだすルアードに忌々しげにそう言ってやれば、
「……そういう事言いやがるかこの野郎は」
む、と顔をしかめつつ彼はいつの間に採ったのか、血の溜った椀を少女に手渡していた。
「あ、あのっ……」
半ば反射的に受け取ってしまったのだろう、呆然としていたフィーが悲鳴じみた声を上げて椀を手放そうとする。
どうして、と。
どうしてここまでしてくれるの、と。
言葉よりもよほど単純に銀の瞳が語る。
「傍にいたい、それだけじゃ理由にならない?」
にっとルアードは笑った。
「俺はともかく、こいつはフィーちゃんと離れる気なんて全然な」
そこで彼の言葉は途切れる。
――ゴッと、彼の後頭部を殴りつけたのは何も思考しての動きではない。文字通り条件反射で出たものだと思う。
「……余計な事を言うな」
頭蓋骨が陥没したのではなかろうかと言わんばかりの鈍い音を立て、ルアードはそのまま動かなくなった。……手加減をしておいた方がよかったか、拳がさすがに痛い。
「あ、あの……ルアードさんは……」
「放って置け」
おそらく自分で傷を治して来たのであろうエルフを無視して拳をさすりながら立ち上がる。エルフが持ってきたであろう荷物を纏め、森の中へと足を進め始めた自分にフィーは慌てたように声をかけてきたが自分は冷たく言い放っただけ。腕にきつく布を縛って簡単な止血をし、早くそれを飲め、と椀を握ったまま座り込んでいるフィーに投げかける。
その言葉にしばらくおろおろとしていたフィーだったが、
「んの……アーネスト! てめー俺を殺す気か!?」
いきなり立ち上がっていきり立つルアードにぎょっとする。自分はというと憤慨する彼に冷ややかな視線を送り、ぼそりと、
「害虫がそうやすやすと死ぬものか……」
「だぁれが害虫か――ッ!」
森の中にルアードの絶叫が木霊する。
その様子を見ながら、フィーはやがて微笑んだ。眼の縁に浮かんだままだった涙が、その拍子に一筋だけ零れ落ちる。
「……ありがとうございます」
フィーが微笑みと共に囁きを洩らし、立ち上がったのを確認してからアーネストはふいと少女に背を向け歩き出した。
旅はまだ始まったばかりなのだ。
〈了〉
【完結】ブランチブラッド 青柳ジュウゴ @ayame6274
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