【後編】 立冬、僕を殺める


 当然のことながら、次の日私は踊り場で少年Kに件を問い詰めていた。


 

 彼のワイシャツの二の腕あたりを両手で掴み、できるだけ身動きが取れないよう力を込める。だが少年Kは物怖じ一つせず、戸惑う様子もなく、挙句頭上にはてなマークをつけたような微笑みで私を見つめ返すだけだった。



「え、私のこの変わりようを見て何も思わないの?」

「…うん、そうだね?」

「いや、前の私がどんな姿だったのかは知ってるでしょう?」

「うん、知ってるけど…そんなに驚くほど変わってないよ」

「…それはそれで傷つくんだけど」

「あはは、ごめん」



 否、きっと彼は本当に驚くほどのことではないと思っているのだろう。普段の私は、醜い姿を目の当たりにするのが苦痛で鏡をほとんど見ないのだ。髪が長くなったことに普段の自分は気が付かないが、久々に会った友人には驚かれる、それと同じことだろう。最後に鏡で見た自分の姿があまりにも震え上がるようなものだったから、もしかすると自分の中での落差が酷かっただけなのかもしれない。となれば、毎日踊り場で会っている少年Kからしたら少々肌艶が良くなったくらいにしか見えていないのであろうことも頷けるし、確かにそれに関しては周囲の反応を見てもわかることだった。



「変わってないっていうか、そもそも僕は君のことを綺麗じゃないなんて思ったことないよ」

「うーん、悪いけど、それはない。だって綺麗だと思っていたらきっと水のことも勧めていなかったでしょう?」

「あ、ほら。やっぱり気づいてんじゃん。自分の見た目が変わった理由」

「そりゃあ、私の日常で変わったことなんて水くらいだし。ていうか…」



 なぜ私に想い人がいることを知っていたのか、そしてそれが幼馴染であることをなぜ知っているのか。あの日浮かれて聞き逃した彼への疑問が突如蘇り、私は思わず口籠ってしまった。そもそも、初対面でいきなり飲みかけのペットボトルを渡した私を見ても変な顔ひとつしなかったあの時の彼の姿に、内心私は少し拍子抜けしていたのである。



「…もしかしてあなた、」



 私の言いかけた言葉に、少年Kは片眉を僅かに上げた。ほんの一瞬のことで、きっと私でなければ気がつかなかったかもしれない。












彼は、牽制していた。












−これ以上踏み込んでくるな。















 彼の瞳が、そう言っているような気がした。







 だがそんな違和感は次の瞬間には一切なくなり、女子生徒たちが歓喜するいつもの優しい顔に戻っていた。



「君は、幼馴染が振り向けばそれでいいんだよね?」

「…それ以外に何を求めるっていうの、今の私が」

「さあ?僕がわかるわけないじゃん」



 少年Kは無邪気に笑った。言葉も表情も普段と何ら変わらないが、きっと私が先刻の違和感を感じてしまったせいなのだろう、今の言葉が突き放しているように聞こえてしまっていた。




 この時の彼の笑顔は、全く綺麗ではなかった。




 だがただ一つ、これだけは言えた。私は心の中で少年Kに感謝した。意思の強い一匹狼のように見えながらも、実際の私は、ただ弱みを人に見せたくないがためになんともない振りをしている豆腐のような人間だったからだ。このように少年Kに問い詰めて吐き捨てるような態度を取ったのはただ決まりが悪かったからに過ぎず、内心私はあの日「彼」に恋愛相談をして良かったと、やまびこをするように何度も叫んでいたのである。








 踊り場で水を飲むたび、私の美貌は更新されていった。

 華奢になった体つきはひと回り小さくなり、反対に胸は大きくなった。同時に、私の中の私も変わっていった。大口を開けていた笑い方は歯を見せずに微笑むだけになり、下ばかり向いていた目線は、最後まで相手を見つめることができるようになった。母のドレッサーで化粧を見様見真似で練習するようになり、参考書以外に使い道のなかったお小遣いは、衣服とアクセサリー代に消えていった。そうして、大人たちが思春期の子供たちにこぞって言っていた「急に色めき立った」女子生徒に、私はなったのである。








 踊り場で水を飲むたび、私の美貌は更新されていった。

 クラスメイトの対応が優しくなりはじめた当初覚えていた「嫌悪」と「恐怖」は、いつの間にか「自尊」に変わり、以前まで煙たかった周囲からの視線をありがたく感じるようになった。私が微笑むと皆が顔に薔薇を咲かせて目を逸らす。それが以前の私が少年Kに対してしていた行動と同じことに気がつき、そんな彼らをみて自分が本当に美人になったことに思わず心が弾んだ。






 踊り場で水を飲むたび、私の美貌は更新されていった。

 男子が秘密裏に行うクラスの女子の順位付けで、私は常に上位に来るようになった。自分以外の生徒がちやほやされているような戯言が耳に入ると、その声をかき消すように水を飲んだ。綺麗、という言葉をもらわない日が一日でもあると、その一言に枯渇し浴びるように水を飲んだ。








 踊り場で水を飲むたび、私の美貌は更新されていった。

 数日に一度の頻度で剃っていたしつこい体毛は、ここ数週間生えていない。面皰ができるからと控えていたチョコレイトは、もう幾つ食べようが荒れない体質に変わり、毎時間頬張るようになっていた。いつも買っていた自販機の水は購入後すぐに流しに捨て、空になったそのペットボトルに給水機の水を入れて肌身離さず持ち歩いた。












−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−




 ある日の放課後、僕は、最近綺麗になったと言われているひとりの女子生徒を屋上に呼び出した。



 

 僕と目が合うや否や、彼女は白目を剥くような仕草をして心情を露わにし、大きくなった胸の前で腕を組んで体を向き直した。





「なあんだ」








「幼馴染じゃなくて、がっかりした?」







「うん、かなりね」






 僕の視線は彼女の腕にいった。かつて僕に飲みかけのペットボトルを渡してくれたその女子生徒の面影はもう見る影もなく、散々渋っていた給水機の水をわざわざ持ち歩くまでになっていた。






「…幼馴染と両思いになれた?」




「いや、見ればわかるでしょう。まだ告白されてないけど」


「へえ、そうだったんだ」


「ふは、知ってるくせに」






 僕たちはまたこの瞬間、自分たちの意志でしっかりと目を合わせた。初めて視線が重なった時の瞳の奥に垣間見えていた優しさは、もう微塵も感じられなかった。何かがメラメラと燃えているような、でもその炎から強さは感じられなかった。
















 ああ、僕が殺してしまったのかもしれない。













「…あの時も言ったけど、そもそも僕は前の君を綺麗じゃないなんて思ったことはないよ」



「…私はあの時言わなかったけど、それはあなた自身が綺麗だから、言えることなのよ」






「じゃあ、」









…今の君は、綺麗なの?










「周りの反応見てみなよ。十分でしょう」






 女子生徒は髪をバサッと掻い撫で、これ見よがしに整えてみせた。屋上に絶え間なく吹く素風が、向かい合っている彼女の匂いを連れて僕の顔を優しく抱きしめる。人工香料の独特な香りが纏わり付き、振り払おうと僕は顔を逸らした。





 初めて声をかけられたあの日から随分と時間が経ったことが、彼女の背中に垂れている髪の長さから分かった。











−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−








 踊り場で水を飲むたび、私の美貌は更新されていった。


 幼馴染に告白される日は、まだ来ていない。



 この言い方だとまるで女は告白されるのを待つべき、とでも言っているように感じられるだろうが、決してそんなことを言いたかったわけではないという断りをここで入れておく。これほどまでに、大多数の人間の関心を寄せるほどになってもなお、幼馴染の関心だけは寄せられていないという事実に、私は確かな焦りと苛立ちを感じ始めていた。





 そしてそんな私の心の内など知る由もない大衆はどんどん勢いを増し、幼馴染のために空けていた愛の空間に我先にと入り込もうとしていた。









 「告白」である。










 以前は取り巻きの一部に過ぎなかったそんなイベントの中心に、ついに私は立たされるようになった。初めこそ戸惑ったが、慣れて仕舞えば興味のない人間からの愛の言葉など反吐が出るほど不快だった。私という人間を大して知りもせず知ろうともせず、期待だけ押し付けたかと思えば勝手に失望し去っていく。そんな無責任を背負って近づいてくる輩が渡してくる浅はかな言葉の詰め合わせも、工場で大量生産しているかのような彼らの「おんなじ」ような照れ顔も、全てがテンプレート通りで退屈ったらありゃしなかった。







 これだけならまだしも、断りの返事をするこちらの労力といったら計り知れなかった。仮にも気持ちをもらっている身で適当な態度を取るのは流石の私でも気が引けたからだ。正直なところ、これが最も辛かった。相手にとっては一度でも、私にとってはそれが毎日、何度も繰り返されるのだ、かなりの精神を削られたというのは容易に想像ができるだろう。





 まだある。



 

過去に私に心の傷を負わせた生徒すらも、俄然顔色を変えてそのイベントに参加するようになったのである。


 私は彼らを見つけると、反射で口角を裂くように笑顔を繕った。光の粒が散らされた眼球の奥に冷徹なあの頃の闇を探す私を気遣う様子もなく、彼らは好き勝手に愛の言葉を突き刺し、好き勝手に頬を紅潮させた。その紅い頬が自分の返り血に見えた瞬間、私は耐えきれずトイレに逃げ込み、胃の中身が空っぽになるまで嘔吐した。







 踊り場で水を飲むたび、嫌でも私の美貌は更新されていった。

 癖毛は縮毛矯正でも受けたかのようにストレートヘアに生まれ変わり、窓から入ってくる風にはためくロングヘアを見た男子は揃って芸術作品を鑑賞するかのような視線を向けてきた。容姿で虐げられた過去の記憶が蘇り不眠な日々が続いたが、私の美しい顔に隈なんてものができることはなかった。嘔吐を繰り返す日々が続いても不自然に痩けることはなく、多少やつれれば哀愁漂う雰囲気が一層魅力的だと、むしろ私に想いを寄せる人間は増える一方だった。











 踊り場で水を飲むたび、嫌でも私の美貌は更新されていった。


 










 幼馴染に告白される日は、まだ来ていない。
















−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−











 グラウンドを一面淡白に染める程度の雪が降るこの日、私は一人教室の窓を開けてその景色をぼんやりと眺めていた。









 日照時間はすっかり短くなり、18時前だというのにも関わらず辺りは等間隔に設置された街灯で照らしてやっと見える程度だった。幸い校舎自体にも外付けで照明が付いているおかげで、本校の学生たちはこの時間帯でも何不自由なく部活動を行うことができる。この日は雪で室内練習に切り替えられたのだろう、野球部や外周を走る部活生は一人もおらず、制服の上に分厚いコートやマフラーを羽織ってそそくさと学校を後にする生徒のみちらほらとうかがえた。

 ここまで漏れてくる音は別校舎から漏れる吹奏楽部のそれのみで、大会が近いのだろうか、雪景色とよく調和する美しい音色が私の聴覚を気持ちいいくらいに刺激してくれた。そして今の私ならば、この風景にも違和感なく馴染むことももうわかっていた。







 数週間前のことが何ひとつ思い出せないほど目まぐるしい日々と感情の変化に、私は少々疲れていたらしい。

 




 今この瞬間、久々に自分だけの時間を作れているような気がして、私は窓際から一番近い座席に腰掛け、静かに瞳を閉じた。



 

 閉じた瞼の裏に、幼馴染が映る。


 こんな雪の日、彼は空に目一杯手を伸ばしてそのまま手を握り締め、すかさずその手を覗き込んでいた。何しているの、と聞くと決まって彼はこう言った。














−ほら、雪の結晶。早く見て、ほら!!…あーあ消えちゃったじゃん。












 

 椅子を引いて立ち上がると、私は手のひらまで覆っていたカーディガンの袖を肘近くまで捲り、開けっぱなしの窓から降り頻る雪に向かって腕を伸ばした。手のひらにひんやりと雪がのり、私の熱であっという間に水に変わる。幼馴染のやり方を何度か真似してやっと、化学のテキストに載っていた通りの雪の結晶を見ることができた。

 そうして見つめていた自分の手のひらの先に仲睦まじく歩く男女の姿を捉えると、私は冷え切った格子に手をかけて彼らに視線を落とした。











 そこには、私が想いを伝えた幼馴染と、その隣を歩く冴えない女子生徒がいた。















 彼の右手と彼女の左手には同じ黒色の手袋がはめられており、中学の頃から彼が大切に使っていた手袋であることは一眼でわかった。




 この季節の彼が貸す片方の手袋は、私のささくれた心をよく均してくれたものだった。右手が寒いよ、と言うと、俺の左手だって寒いよ、と頬を膨らませながら、帰り道にある自販機で280mlサイズの暖かいレモンティーをよく買ってくれた。彼の差し出すレモンティーを振り払って手を繋ぎたくなる衝動を抑えて、私もレモンティーを買い返したっけな。







 かつてレモンティーを握りしめていた彼の左手は彼女との間で固く結ばれており、私はたまらない気持ちになり思わず唾を飲んだ。私の右手にはキンキンに冷えた500mlの天然水のペットボトルが握りしめられ、振り払っても瞬間接着剤でも塗られたかのようにをびくともしない。先ほどまで雪を掴んでいた左手が雪以上に冷たく感じ、腕を振って慌てて袖で隠した。









−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−










「ごめん、他に好きな子ができたんだ」




 乾いた落ち葉を踏む音にも慣れてきた頃、帰り道。別れ際、彼は俯いてそう返した。


 私も食い下がるようなことはしなかった。









この返事が、全てを物語っていたからである。










−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−









 私は教室の窓から、姿が見えなくなるまで彼らを目で追っていた。幼馴染の彼女は、重たい瞼に丸い鼻、全体的にふっくらした容姿をしており、大口を開けて笑う姿は品の欠片もなかった。おでこにできた数粒の面皰を早く治したいのだろう、前髪を分けた先に大きな赤いヘアピンが、耳の上に見えた。











 お世辞にも綺麗とは言えない、否、











 「以前の私をそっくりそのまま再現したような」女子生徒が、私が長年恋焦がれていた幼馴染の隣を歩いているのであった。
















 私は窓の格子に手をかけたまま床にずるずるしゃがみ込み、俯きながら声も上げずに泣いた。











 彼女は、とても可愛かった。


















 私は、人を殺したような気分だった。














 私は天然水のボトルの蓋を開けると、窓に突き出してそのまま反時計回りに180度回転させた。回転させた勢いで中の流動物が渦を巻き、重力に逆らうことなく飲み口から勢いよく流れて出ていった。中身が空になると、ペットボトルはすっと手のひらを滑り落ちていき、軽い音をうるさく響かせて床に落ちた。当然手のひらには接着剤なんてものは付いているはずもなく、冷えて血色を失った右手が僅かに震えているだけだった。












−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






 半年ほど経ち、むせ返るような猛暑の日々が再来した。二年生になり所属する棟も変わったことで、私はあの踊り場に行くことも、少年Kに会うこともなくなった。



 あれから、私の容姿は少しずつ元に戻っていった。

 重たい瞼に丸い鼻、太らなくなっていた体質も荒れなくなった肌質も完全に元に戻り、毎日面皰と闘う生活を送っている。だが、無論全てが元に戻ったわけではない。


 

 私は、以前のように自信なさげに生きることはなくなった。人と話すときでも目線は最後まで合わせるようになり、かつてただ回収されるのを待っていたプリントも自分からクラスメイトのものを回収するようになった。そのおかげか、周囲の人間の態度もそこまで変化することはなく、給水機を利用していた頃に築いた人間関係は割とそのまま残ってくれた。






 あれから、私の容姿は少しずつ元に戻っていった。



 だが、無論全てが元に戻ったわけではない。




 幼馴染との関係が、元に戻ることはもうない。





 友人から人伝に聞いたことなので確かなことはわからないが、小耳に挟んだのでついでに話しておこう。




 私たちが生活していた一年生の棟は、新入生の生徒数増加によって春季休暇の間に改装されたらしい。外装こそ変わらないが、私たちのクラスの前にあった踊り場は教室となり、無論自動販売機も給水機も取り壊されたそうだった。







 そして私は春季休暇以降、少年Kを見ていない。

 名前を知らない私は当然、友人に彼の所在を尋ねることもできない。あれほど騒がれていた少年Kが居なくなっても、周りの人間たちは何事もなかったかのように、始めからそんな人間など居なかったかのように、生活していた。


 








 私はあの日の、屋上での去り際の、彼の泣きそうな表情が脳裏に焼きついて離れない。あの情景を思い出す度、私はもう無い踊り場の給水機に向かう衝動が抑えられない。








 私たちの学年が所属する棟には、「ただの」給水機がある。そして私は未だに、そこに通りかかる度に彼の後ろ姿を探してしまう。











 私は春季休暇以降、少年Kを見ていない。



 そして今の棟にある給水機を使っている生徒を、












 私はまだ一人しか見たことがない。












 頭ひとつ抜きんでた身長に、小太りで猫背な冴えない男子生徒だ、断じて少年Kではない。


 






                              終わり


 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少年Kの秘密 LIM @miomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ